原作4巻まで読了後推奨。
ベレリアント戦争一年目の冬、オルクセン軍に随行する観戦武官は、故郷の風習を果たそうとしていた。グスタフ王は彼の奇行に異常なほど興味を持つ。
オルクセン王国によるエルフィンド王国侵攻、その一年目が終わった。星歴八七六年の最後の太陽は、十時間ほど前に地平線へ没した。
間もなく八七七年、その最初の明け方であると、男の懐中時計が教えている。
男は、人間である。
ここベレリアント半島は元来、エルフ族の領地で、人間は滅多に立ち入らない。ましてオルクセン軍が攻め入り、戦争中のいま、半島内に人間は十人といないであろう。皆、人間諸国から派遣され、オルクセン軍に従軍している観戦武官だ。男は、その一人。武官団の中でも最も遠方、道洋と呼ばれる地域からやってきた。他の武官たちとは、人間族の中でも種族が異なり、彼だけは黄色い肌と黒い瞳をしている。
当然習俗も違うから、このように一人で行動することも、ままある。それを奇矯、野蛮と思われぬよう、男は気を遣わねばならない。皆が寝入っている暁闇のうちに起き、密かに宿舎を抜けてきた。オルクセン第一軍が設けた広大な野営地の一隅で、密かに火を焚こうとしているのだ。
残された時間は、そう長くない。準備を急がねばならない――が、暗い。そして寒い。厚手の手袋をはめていても、手がかじかんで、思うように動かない。
腰をかがめ、火打石を何度も打ち合わす。ようやく小さな火種を作ったが、すぐ寒風に吹き消された。薪を囲む石を積み増してから、もう一度。それでも上手くいかない。
――やっぱり、やめるか。こんなこと。他の武官たちに嗤われて、国の恥になっては……。
そう大袈裟に、しかし至って真面目に考え始めたとき、彼の手元が明かりに照らされた。
「ご精が出ますな」
驚いて顔だけで振り返ると、すぐ後ろに巨漢が立っている。背丈といい、胴の厚みといい、故国の関取のようだ。だが、彼が観戦する異種族の軍隊には珍しくない。口元にある牙、体毛のない肌。かつて野蛮と言われたオークの体躯を青黒い軍服で覆い、その上に厚手の外套を羽織っている。
「あっ、これは」
男は驚いて立ち上がり、威儀を正した。直ちに敬礼する。相手は尋常のオークではなかった。
「グスタフ・ファルケンハイン陛下……!」
約八十万の大軍を親率するオークの国王は、丁寧な答礼を返した。言葉も穏やかで、丁重ですらある。
「すまない。邪魔をする気はなかったのです。照らしておりますから、さあ、続きを」
男は動転せざるを得ない。彼は封建の遺風を色濃く残す社会の生まれで、それも騎士階級の出である。異国、異種族とはいえ、国王を目前にしては、直立不動であらねば、かえって居心地が悪いというものだった。
しかし、魔種族の王は、いたって気さくに促した。
「貴官が、いや貴国の皆さんが礼儀正しいのは存じております。しかし、急いだほうがよいのではありませんか。差し出がましいが、信仰に関することなのでしょう」
「はっ、それは……」
彼の行動は、すっかり見通されているらしかった。奇妙なことではある。
オーク、コボルト、ドワーフ、大鷲に巨狼という、オルクセンの主要五種族の信仰対象は土である。厳格な教義を持たず、素朴に作物の実りに感謝するという点では、男の信仰と共通したところがないではない。
それでも真冬の明け方、まして戦陣にあって起き出すような魔種族はいない。見張り以外は、誰もが寝静まっている。目の前の国王と、その後ろに影のように従っている護衛の闇エルフだけが、その僅かな例外であろう。
「さあ、御遠慮なく」
「で、では……恐れながら」
全身で恐縮を示しつつ、男は作業を再開した。ようやく火種は焚きつけへ、そして薪へと移った。
闇の中に生じた小さな火に、ほっと一息をついた。火が育つのを、しばらく待たねばならない。
その時、王は再び話しかけてきた。
「アキヤマ殿」
――とは、男の名である。男は直ちに振り返り、直立不動の姿勢を取った。
「いや、雑談です。お楽に」と断ったくせに、王の質問は真面目そのものであった。「昨年の戦ぶりをご覧になって、貴官はどう思われましたか。率直なところを伺いたい」というのである。
アキヤマは言葉を選びつつ、すらすらと答えた。
「感服し、そして驚嘆しております。近代戦争とは、それを戦い得る軍隊とは、このようなものであったかと、蒙を啓かれました……」
男の率直な感想であった。オルクセン軍の壮大緻密な軍事行動は、彼だけではなく、あらゆる観戦武官の想像を超えていた。彼がかつて留学したグロワールの武官も、デュートネ戦争以来の自信がぐらぐらと揺らいだようであった。
「……貴国に比べれば、我が国と軍などは赤子のようなものだと思いました」
彼の祖国は、この数十年というもの、軍隊を含む社会全体の改革に邁進している。ほとんど狂奔しているといっていい。変わるか、しからずんば滅ぶかという瀬戸際意識が、急速な変革を可能にした。それでも道半ば、否、半ばにも達せられていないと、この戦争で思い知らされた。
「お褒め頂き、光栄だ」
王は満足げに言ったが、さほどの感銘は感じられなかった。どころか、その顔は常になく不安げで、心細そうに見えた。
そのような立場にはないと知りながら、男は思わず、王を勇気づけるかのように言葉を重ねた。
「貴国の戦勝、疑いなしと確信しております。貴国将兵の有能、勇敢さもさることながら、全ては百年以上に渡る陛下のご指導の賜物と拝察します」
「痛み入る……嬉しいですな。貴官にそう言って頂けると」
男は身に余る光栄を感じ、かえって言葉に困ってしまった。
この王は、どの国の観戦武官にも慇懃なほどの態度で接する。しかし、その中でも、階級的には一番の軽輩で、出身国の国力でも酷く見劣りする彼が、まるで高名な将軍であるかのように扱ってくれるのだ。
恐らくは、意図的なものだろう。グスタフ王は外交上手で知られている。最も軽く扱ってよい者にも礼を示して、オルクセンが公正な文明国だという評判を高めたいに違いない。
(しかし、それにしても……)と、男は疑う。
過剰なほど丁寧な態度は、外交上の策略かもしれない。
そうだとすると、この王の心細そうな、まるで自信がないかのような態度は、何か。軍事強国という風評を裏切るような、不安げな姿。
(あるいは、王の孤独というものか)と、内心で密かに思う。
彼は大尉の身に過ぎないが、数百人の兵の命を預かるだけでも、大変な重責である。まして千万の民を指導し、八十万将兵を率いて戦争を行う王が背負う重圧は、想像を絶するものがある。
少々うがち過ぎた、不遜な見方のようにも思えたが――彼は、少しでも王の励ましか、気のまぎらいになれればいい、と思った。
ちょうどよく、火が盛んになってきた。
彼は声を明るくし、王に説明した。
「では、素人の手並みながら、進めていきます」
そう言って、用意の行李から材料を取り出す。下ごしらえは極寒の屋外では不可能だから、室内で済ませてきてある。後は煮るだけである。
「アキヤマ殿、質問をよろしいか」
「何なりと」
「煮汁……というか、スープの下味には、どのようなものを?」
グスタフ王は学者であり、またオークらしい美食家でもあるという。男は解説した。
「ええ、ここではダシ……ああ、何というか。魚介の煮汁が手に入らないので、ただの水でやっております」
彼の郷里では、干した小魚や海草でだしをとるのだが――とまでは、言わなかった。あまりに細かい話であり過ぎると思えた。
王は頷いた。先ほどの説明で分かったらしい。
「いや、不便をおかけする。しかし、それも、また味わいかもしれません。このような時には」
そう言ってオークの王は笑みを見せた。儀礼的なものではなく、心から楽しんでいるように、アキヤマには見えた。
「もう一つ、お尋ねするが……」
「何でしょうか、陛下」
「貴官の行李に……秋津洲からお持ちになった調味料など、入っておりませんかな。お国に独特の、そう、大豆という珍しい食物から作った」
アキヤマは、王が高名な農学者でもあることを思い出して納得した。異国の食物に興味を持つはずである。
「ございます。こちらですな」
アキヤマは陶器の小瓶を差し出した。
「ショーユと申しまして、味付けに使います。大豆にご興味がおありですか?」
「ううん、まことに興味深いが……」
王は身を乗り出し、行李の中身を遠慮がちに覗き込んでいる。
「ほ、他にはありませんか。本で読んだのですが、同じ材料から作られた、ジャムのようなものがあるとか」
この王様、本当に学者だな――と、元来は教師志望であった騎兵大尉は感じ入った。下問に応じ、いそいそと行李をまさぐる。やがて、見つけた。
「こちらです。大豆を発酵させたもので、ミソと申します。地方ごとに色々な種類があるのですが、私の故郷のものは色が薄い種類です。白ミソと申します」
「おお……おお……」
渡された二束三文の小壺を至高の芸術品のように掲げ、オーク王は嘆声を漏らし続けた。ただの壺、ただの味噌だが、星欧の農学者には珍しいのであろう。
オーク王は意を決したように言った。
「アキヤマ殿。ひとつお願いがある」
「何でございましょう」
「貴国の、いや貴官の故郷の文化を卑しめるものでは、決してないのだが……」
「……はい?」
「いまお作りになっているスープ、それを二つに分けて頂けないか。私も賞味したい」
「お口にあいますかどうか。このようなもので宜しければ」
「そして私の分には、この白ミソを入れて頂きたい」
「は……ミソをですか」
アキヤマはこうべを巡らせた。彼の郷里の常識では、これにミソを入れるなど考えたこともなかった。しかし、なるほど他の地方では、そのような味付けもあると聞いたことがある。まして、ダシの手に入らぬ当地での料理なら、悪くない思案かもしれない。
「御意のままに。しばし、お待ちください。ミソは最後の味付けに用いますので」
解説を加えつつ、調理を開始する。水を張っておいた鍋を火にかけた。
「まず、材料は菜です。それに魚のペーストを焼いたものや、香草を加えるのですが、当地では手に入りません。そこで、有り合わせの葉野菜と芋をいれます。小さ目のものを選びました」
「うん、うん……」
王は極めて熱心に聞き入り、見入っている。
「そして」
アキヤマはニヤリと笑い、とっておきの具材を取り出した。野菜などは不在や代用で済ませても、これだけは、そうはいかない。
捧げるように王に見せた男の手の平に、白いカタマリが乗っている。
「我が秋津洲の主食、コメの一種から作ったケーキです」
誇らしげに示すと、王は感動を露わにした。
「おお……こ、これは。丸い。丸いですな!」
アキヤマは拍子抜けした。道洋でも穀物からケーキを作るという、そのことに驚いてほしかったのだ。しかし王は、どうしたことか、その形状に妙な感銘を受けているらしい。そして問うてきた。
「これをどうやって秋津洲から?」
それは納得の質問である。オルクセン軍は兵站補給に酷く熱心で、冷蔵用の魔術板まで使っているのだ。あいにく、秋津洲にそのような便利なものはない。
加工状態ではあまり日持ちしないので、穀物の状態で船で送らせた。それを昨日のうちに蒸し、衝いて加工したのだと、秋山は解説した。
そして本題に入る。
「これをですな、焼いてから汁に入れる法もありますが、我が郷里では、このように」
丸く白い秋津洲ケーキを、汁の中にそっと入れた。
「弱火で、じっくりと煮て、柔らかくするのです。崩れぬ程度に」
やがて程よく煮えると、鍋の半ばを椀にあけた。残り半分は王に献じるためとして、御下命に従ってミソを溶き入れる。
独特の香りがベレリアントの空気に香った。ほんの、ひと煮立ちだけさせて、さっと火からあげる。ミソの香りを生かし、白い宝玉の形が崩れぬ、程よい頃合いである。
我ながら良くできたと思いつつ、椀にあける。スプーンを差し入れて、両手で王に献じた。
「戦陣の粗餐でございますが」
「かたじけない……まことに、かたじけない」
彼に劣らぬ厳かな態度で受け取った王は、意外にもスプーンを使わず、まずは直接に椀をすすった。アキヤマが出国前に受けた教育で、星欧の風習では酷く下品だから絶対にやらぬようにと注意された、汁物をすする音が聞こえた。
椀を口から離す王の手は、震えているように見えた。夜明け前であるから、オークも寒いのであろう。
「有難い……有難い……」
オークの大きな手で人間用のスプーンを握り、柔らかく煮えた白い宝珠を口に運びはじめる。星欧の者で、これを食べるのは、オーク王が初めてなのではあるまいか。
それを横目にしつつ、アキヤマも遠慮がちに自分の椀を味わった。材料は代用で、ダシの味もない。故郷の味の再現には至らずとも、遠い異国の地で味わう一椀には、他に得難い温かさがあった。星欧に派遣されてから数カ月、異国の武官たちに見劣りせぬようにと、ずっと緊張していた心が溶けていく。
「うっ……」
内心にこみ上げるものがある。郷里の風景が目に浮かぶ。あの古い町並み。あの山々。
彼は騎士階級の長子に生まれた。物心ついたとき、家は俸禄を失っていた。一家を養うため、彼は武の道を――職業軍人を志した。
となれば、郷里を離れねばならない。封土を守っていればいい騎士と、国家を守る軍人は違うのだ。首都に出て訓練を受け、その後も全国を転々とした。郷里に帰るのは、たまの休暇の折だけ。年々老いていく両親や親族、年々大きくなる弟や妹の顔を見た回数は、指折り数えられるほどだ。
先年、父が死んだ。ひとりきりになった母を郷里から都へ呼び寄せ、邸宅を買い、ともに暮らしている。
自然、故郷への足は遠のいた。もう何年も帰っていない。
それでも異国にあって思い出す家は、苦心して買い求めた都の新居ではなく、故郷の古屋敷であった。隙間風の吹く囲炉裏端で、兄弟身を寄せ合って啜った汁椀の、なんと旨かったことか。
「…………」
溢れ出た不覚の涙は、ベレリアントの寒風を受け、すぐに凍り付いてしまった。あわてて瞼をぬぐう。睫毛が凍っては危ない。何より、異国で泣き顔を見られるなど、男子の恥であるどころか、国家の恥辱である。
気づかれてはいないかと、そっと王の方を伺う。
そして驚いた。
牙のある口元を食いしばり、声を立てず、オーク王は、はらはらと泣き、その涙を袖で拭っていた。
アキヤマは慌てて目を逸らし、自分の椀に集中した。
内心に不思議な温かさがこみ上げている。何故だか分からないが、王もまた自分と同じく、故郷を思い出し――そして、儚く思っているに違いないと、秋山は理由のない確信を持った。異形の王の中にある、ひどく人間的な気持ちを感じ取った気がした。
しかし、何故――と考えて、思い出した。王はオルクセン北部の出身だが、若年の頃の戦乱で、生まれの村落を失ったという噂だ。きっと、この仁君は、故郷を懐かしむ異邦人の気持ちに共感して、自分の故郷を思っているのではないか。もはや帰り得ない故郷を。
アキヤマはやりきれぬ気持になった。彼は軍人になって以来、故郷を離れ、いまは千万里も彼方の外国にいる。それでも、その気になりさえすれば、休暇の折にいつでも帰れると思っている。老年になって軍を退役したら田舎に戻り、また教師でもやろうかと、気楽に構えていられる。
そんな者が、もはや故郷に帰り得ない王に、何を言えるものでもない。自分にできるのはただ、こうして隣に座り、一汁を喫することだけ――と、そう思った。
間違いである。もう一つだけあった。
彼は、それを指さした。
「ご覧あれ、陛下。地平が白んでおります。新年の太陽が昇りますぞ」
オークの国王と人間の大尉は汁物を喫し終えると、ふたりして立ち、ゆっくりと登る日の出を見た。
アキヤマは朝日に手を合わせた。故国の信仰の仕方に従い、手を叩いて礼拝する。
彼が手を合わせて瞑目している間に、大きな手を打つ音がした。なんと、オークの王が同じ仕草をしているらしい。どこまでも丁重な王である。いま見たままに、人間の観戦武官の仕草を真似て、異国の習俗へ敬意を示してくれているのであろう。
やがて、ふたりして礼拝を終えると、オークの王は言った。
「ありがとう、アキヤマどの。おかげで力が湧いたような気がする」
「もったいなきお言葉」
朝の陽光が、人間とオークの顔を照らしている。その明るさだけで、心からは寒気が払われるような心地がする。
アキヤマは、腹の底から力が湧いてくるのを感じた。ああ、何を弱気になることがある。前途遼遠、大いに結構じゃないか。俺は騎兵。長駆するのは商売の一つだ。どんなに遠くとも、進み、辿り着いてやる。オルクセンを手本に、追いつけ、追い越せだ。
心なしか、グスタフ王も、すっきりとした表情であった。
「今年も、良い年にしよう」と、王は言った。実に月並みな――まるで、秋津洲の市井の人のような言葉だった。
「貴国には勝利の年となりましょう」
「ああ、勝利を。そして平和を。今日、この朝のような平和が、誰にも等しく訪れる国のために」
そう言って、グスタフ・ファルケンハインは莞爾と笑ってみせた。その姿は平素の威厳を取り戻し、すっかり魔種族の王だった。
『故郷の味』
おわり
Thank you for your reading!