あなたを生かす、呪いになれたら   作:端取合

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第六章 春はかえる

「おはよう」

 

 朝を告げる声は穏やかだった。

 微睡(まどろ)みを溶かしていく響きがあまりにも心地良かったものだから、どこから聞こえてきたのかが知りたくて、悠里は鈍く重たい瞼を開けた。

 

「なあ、起きた?」

 

 桃色珊瑚(さんご)の柔らかな質感の髪。(はしばみ)に煌めく瞳。

 どこまでも晴れやかな、曇りなき笑みの浮かんだ(かんばせ)

 

 ――嗚呼、春が来た。

 

 目覚めたばかりの薄ぼんやりした意識で、そう思った。

 久方ぶりに穏やかな目覚めだった。

 祖父が故人となって、同時期に悠仁が上京して、それからは広い自宅でひとり過ごしていた。近所の人が気にかけてくれようが、同級生や教師が気にかけてくれようが、悠里の迎える朝は孤独だった。自分以外誰もいない家屋に住んでいるのだ、当然ではあるが人の気配はないし、どんなに声を上げたってもちろん返事もない。 

 

 ――朝を迎えて、絶望する。

 ――傍に家族がいないのを。

 

 世界の裏側に飛び込んだ悠仁を見送ったあとの生活はひどく静かで、動くのも億劫になるほど冷たかった。

 手を引いてくれた子がいないのに、けれど当の本人は悠里を巻き込まないようにと願ってくれていたのに。何だかんだと巻き込まれ、結局のところ、知っていた悠里は何もできないままに、あれほど遠ざけていてくれた渦中にいた。

 そうして、今。

 

「おはよう、悠里」

 

 名前と共に繰り返される言葉を噛みしめて、飲み込んで。

 返事にしては随分と溜めて、口元を緩めて「おはよう、悠仁」と見慣れた顔を見合わせた。ひとしきり二人して笑い合うと、どちらからともなく布団から起き上がって、肩を並べてベッドサイドに腰掛ける。

 

「ねえ、悠仁」

「ん?」

「ちゃんと話さなきゃいけないね」

「うん」

 

 離れていた距離を縮めるように。

 空いた時間を埋めるように。

 伝えたいことは溢れてきて、時系列なんておおよそのままに――呪いのことも。見えていたことも。両面宿儺のことも。同級生のことも。呪術師のことも。秘匿死刑のことも。執行猶予のことも。先生のことも。高専のことも。祖父のことも。任務のことも。考えていることも。……――そうやって取り留めもなく言葉を交わしては、お互いの存在を確かめていく。

 

「悠里が高専にいるの、まだちょっと慣れねえかも」

 

 正しくは()()()()()()()()ことだけど。

 言外に含んだ意味を察して、悠里は苦笑するしかなかった。

 なにせ寝たきり状態の時間も短くはなかったのだ。迷惑以上に心配をかけた自覚がある。

 

「私もまさかこんなことになるなんて夢にも見なかった」

「ま、そうだよな。俺もさ、分かってるけど夢じゃないかって思うときあるし」

「そっかあ」

「今でさえ悠里の目が覚めたのも夢かもしれない、なんて少しだけ疑ってる」

「……いるよ、ここに」

 

 悠仁の指に、自らのそれを絡めた。

 大きな掌。節くれ立って、力強くて。

 決して悠里を傷付けることのない、優しい手。

 

「大丈夫」

 

 まだ、と舌の先でこっそり転がして。

 とりあえず、と胸の内で呟いて。

 繋いだ手のうえから、もう片方の手を重ねた。そのまま(うやうや)しく持ち上げて、戸惑いながらも身を任せてくる懐こい体温に額を押し当てる。

 

(ああ、かえってきた)

 

 こんなにも残酷な世界の裏側で。

 心は傷付いただろうけど。考え方も変わっただろうけど。

 命の温もりはそのままに、こうして生きてかえってきてくれた。

 

「大丈夫だからね」

 

 繰り返した言葉は。

 もしかしたら。他の誰でもなく自分のためのものだったのかもしれなかった。大丈夫であってほしいという、悠里の願望。地獄への道を歩む悠仁にはこんな希望的観測さえ重荷になるかもしれなかったけれど、この重さが生きる理由のひとつになるのであれば、いくらだって言葉にして伝えよう。行動にして示していこう。

 まだ傍にいられますように、と祈るように視界を閉じた。

 

 

 

 

 麗らかな午後。客人をもてなす一室。

 悠里はソファに腰掛け、テーブルを挟んで夜蛾と対面していた。

 

「さて、君はどこまで現状を把握している?」

 

 切り込んできたのは夜蛾だった。

 

「ああ、そんなに緊張しなくていいんだよ。簡単な事情聴取だと思ってくれたらかまわない。それに君は病み上がりなんだ。体調が少しでも優れないと感じたらすぐに言うこと」

 

 その隣に座った家入が、問い掛けを補うように口を挟む。

家入が同席しているのは一般女性が見知らぬ異性、それも年上と同席することを考慮されたからであるのだろうか。はたまた夜蛾一人では手に余ると判断されたからであるのだろうか。

 

(一難去ってまた一難)

 

 ぶっちゃけ有り得ない、なんて歌ったのは誰だったか。

気遣いにせよ監視にせよ、二人の背後には壁にもたれ掛かった五条が控えている。流石の悠里もこの状況で逃亡するつもりはないが、なんだか逃げ道を叩き潰されたようで大変居心地が悪い。

圧迫面接とばかりに目に見えない圧をひしひしと感じながらの現実逃避に意味はなく、時間だけが進んでいく。

 

(どんなふうに説明しようか考えている、って受け取ってくれてればいいんだけど)

 

 口ごもる悠里の脳内は情報処理に追われていた。

 

(楽巖寺学長に啖呵を切ったあと、それから……)

 

 無理が(たた)ったのか悠里は眠るように気絶したらしい。

 らしい、というのは意識が落ちた瞬間を覚えていないからだ。

 原因は分からず仕舞いだが、真人による無為転変は完全な発動には至らなかった。とは言え特級呪霊の術式を受け、さらには直接的な暴力を受けた。長らく臥床していたこともあり、奇跡のような目覚めであったとしても、蓄積されたダメージが短時間で回復するはずもない。見事ベッドに逆戻りというわけだ。

 そして再び目覚めたと思えば体調を確認され、ぎりぎりで吐き出した「大丈夫です」の返答に、この部屋に通された。

 

(原作で悠仁が連れられたのが道場のような場所だったことを考えれば、ここに案内された時点で体調には気遣ってもらえてる、はず。……たぶん)

 

 なら先程まで横になっていたベッドのある部屋でも良かったのではないか。疑問が浮かび、しかし病人を診察する場所であるのなら利用者がいるだろうことは予想がつく。

 

(……つまり、誰かに聞かれたくないということ?)

 

第三者の介入を許したくないとするなら、確かに出入りが限られる場所に移動するのが得策だ。

 

「……現状、ですか」

 

 問いを復唱し、小さく首を傾げた。どうとでも受け取れる質問だが、この場合の「どこまで把握しているのか」は「何をどこまで理解しているのか」と同義である。

 

――両面宿儺の器である虎杖悠仁、その縁者である虎杖悠里。

 

 望まずとも手に入れた肩書きは、一般人が抱えるにはあまりに大それたものだ。敵の手に渡るのは論外。味方とて一枚岩ではない。どの派閥が手中に収めるにしても面倒事は避けて通れない。

 厄介な立場であるのだから、教師陣からすれば虎杖姉弟の立ち位置を説明するためにも、悠里の理解度を確認することは当然の話だった。

 

 

 

 

 

 さて、どこから話したものか。

 

「……随分と前から〝呪い〟というものが見えていました」

 

 思いの濁流。想いの渦。

 消化できなかった情の成れ果て。

 

 いつも何かしらの感情に震えている、不可視のはずの存在。

 

 この世界に産まれた悠里を絶望の底に落とした一因であるそれらが知識としてありながら、対外的には〝怪異〟であると認識した。

 

「周りの子どもより、ほんのちょっとだけ賢かったんでしょうね。不確かながらに普通なら見えないものだと認識していましたから、ずっと見えないふりをしてたんです」

 

 本当は、見えないふりだけじゃあなかったけれど。

 詳細を明かすつもりはなかった。前世云々(うんぬん)など口が裂けても言えないし、何より悠里が見捨てた命たちと距離が近かった相手だ。今さら伝えても変に話が(こじ)れるだけだ。余計な確執を生んでしまっては意味がない。

 今はまだ、誰にも言えず、重ねた罪を胸に秘めたままで過ごしていく。

 

「私ひとりが蚊帳の外、誰にも見えない世界の裏側が見えている」

 

 肉体に見合わない精神と、相応しくない知識を抱えた悠里は、普通の子どもであるように振る舞うことがそれなりに上手だった。

 

「こわかった」

 

 怖かったから瞼を閉じた。

 口を噤んで、耳を塞いだ。

 

 何も知らないと装った悠里は、自らがどうしようもなく虚無であることを知っていた。共有のできない記憶を抱えたことは孤独でしかなくて、ぽっかりと空いた埋まることのない穴にも似ていた。

 途方もない感情は、まるで厳冬の真夜中みたいだった。

月も、星もない闇夜。どんな音をも飲み込む積雪に、身体の芯から凍えるような冷たさ。どこまでも空っぽな世界に、ただひとりだけ取り残されたような心地。

 けれど。

 

「……悠仁だけが」

 

 ――何者にもなれなかった悠里を。

 

「名前で呼んでくれた」

 

 ――ふらふらと迷子にならないように。

 

「手を握ってくれた」

 

 ――ここにいてもいいと言ってくれるかのように。

 

「抱きしめてくれた」

 

 世界の裏側さえも鮮烈に色付いたようだった。温かな日差しと、溢れんばかりに舞い散る花びらを、泣きたくなるほどの現実とともに幻視した。

 

 見えない悠仁と、見える悠里。

 普通な悠仁と、普通じゃない悠里。

 

 そんな不可視の高い壁を物ともせずに飛び越えて、悠仁は春を引き連れやって来たのだ。

 それだけで良かった。それだけがすべてだった。虎杖悠里という人間として生きようと、机上の物語だった世界で産まれてはじめて思えたのだ。

 だからこそ。

 

「ほら、あの通り優しい子でしょう? だからね、絶対に守ってあげたかった」

 

 悠里が怖がれば、悠仁は知ろうとする。知れば、助けようとしてくれる。きっと自分の危険すらも(かえり)みずに。

 

 自己犠牲にも似た善性の、その片鱗(へんりん)に。

 救われた悠里だからこそ気付いていた。

 

 この純然な優しさが、いつか悠仁を地獄へと導くのだ。可能性のひとつとしての未来で、いっそ優しさなど捨てたほうが楽になれるだろう残酷な世界を生きていかなければならなくなる。

そんなことに、なるというのなら。

 

「世界の裏側なんて知らないままでいてほしかった。怖いことからも、危ないことからも、そんなものからは遠く離れた世界の表側を堂々と歩いてほしかった」

 

 ささやかでいて、ひどく強欲な願いが叶うことはなったけれど。

 

「巻き込みたくないから、たくさん考えたんです

「私が見えているものはなんなのか。どうすれば、この不可視の存在をなんとかできるのか。

「怖かった。逃げたかった。でも、……悠仁が危険な目に遭うのはもっと嫌だった」

 

 原作知識を片手に地道に積み重ねてきた小細工。策略にも満たない小手先だけの行動。

 手に届く範囲の備えは十全で、吉野の生存を見るからに無駄にはならなかったのだろう、しかし悠仁はかつての物語のように「正しい死」を求めて戦うことになってしまった。

 

「だけど、……」

 

 夜色を纏った男が自宅を訪ねてきたときから。

 東京の学校に行くと言ったときから。

 真夜中の学校へと駆けていったときから。

 古めかしい小箱を拾ったときから。

 

――望みもしなかった記憶が目覚めてしまったときから。

 

「分かってたんです。この子は危険のなかに飛び込んで行くんだな、って」

 

 せめてもの抵抗は言葉と態度。

 宿儺の器となった悠仁のために訪れた五条に対して不審者扱いしたことは失礼だったと思うが、どうしたって納得はできなかったから。

 同時に、どうしようもないことも理解していた。記憶があればこそ、悠仁の思いを()めばこそ、待遇を飲み込まざるを得なかった。

 

「だから悠仁が渦中にいることは理解してます」

 

 関係者から受けた正しい説明を振り返って、宙の文字を読み上げるように「吉野君と家入さんから、簡単にではありますが教えていただきました」と、慌ただしかった場を思い出しながら答える。

 

(それから)

 

 これまでの体験。

 あと、いつかの日の遠い知識による予想。――こればかりは胸に仕舞い込んだままにしておくしかなかったが。

 

「そのくらいでしょうか。なにぶん無知なものですみません」

 

 前世で心躍らせた物語のことは秘密にしたまま、悠里は把握していてもおかしくない程度の現状について言葉にした。

 

 

 

 

 

「すまない、守ってやれなくて。虎杖悠仁が巻き込まれた……、違うな。これは言い訳でしかない。――君たちを巻き込んだのはこちらの落ち度だ」

 

 膝の上で拳を握った夜蛾が、深く頭を下げた。

 続く言葉は後悔に沈んでいるようにも聞こえたし、(そし)りを待つようにも聞こえた。

 

(大人だなあ)

 

 こんな子どもに対しても礼を尽くすのか。

 真摯であろうとする夜蛾の行動に、悠里は目を細めた。

 責任の所在は夜蛾にない。確かに高専は呪術師への任務斡旋の役割を担っており、夜蛾は東京校の学長であるのだから、責任者の一人として一般人であった悠仁を巻き込んだことに思うところはあるだろう。しかし人間である以上絶対の保証はないし、任務の結果がすべて圧(の)し掛かるというわけでもない。あずかり知らぬところで片付けられる案件もあるはずで、一概に断ずべきことではないはずだ。

 謝罪を口にするのが完全にお門違いな話ではなくとも、そもそもの原因は「人間に害を及ぼす両面宿儺の指が現存している」ことである。

 

(それに、……たぶん避けられない)

 

 この世界に生きる限り悠仁が巻き込まれるのは決定事項だ。

 だって記憶のなかにある物語は、悠仁が呪いの王を身に宿して廻りはじめるのだ。

 

 たとえ高専が宿儺の指を回収するのに伏黒を先行させるのではなく、五条を向かわせたとて流れは変わらなかった、――否、変えられなかったに違いない。他の誰とも共有できる感覚でなかろうと、悠里はそう考えている。

 

(しかもここまで大人らしく配慮されたら逆に何も言えなくなる)

 

 薄ぼんやりとした不当性を理解してないはずがないにも関わらず、こうした夜蛾の態度があるのは、悠里が子どもであるからに他ならなかった。

 

 一般人。

 非術師。

 

 対外的に見れば悠仁も悠里も、突然()()から離れた世界に引きずり込まれた子どもでしかない。常識も価値観も異なる場所に落とされた精神的負担は計り知れず、けれど(わめ)き立てることもないのである。

 溜め込んだままでは破裂してしまう。

 もしかしたら壊れてしまうかもしれない。もしかしたら取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。

 

(かつての教え子のように、かなあ)

 

 少なくとも夜蛾にとっての夏油傑は後悔だろう。

 疑いもしない信頼と、染みひとつ許せない潔癖さと、甘さを抜いた真面目さ故に、彼らは道を違えたのだ。主張が異なっていただけなら、腹を割って話せていたのなら、それで解決したかもしれなかったのに、意図せずして言葉と行動を尽くすことを怠った結果が()()()()()()()()()()()()()男の現在だ。

 

 後悔を教訓に活かし、教訓を行動に移す。

 

 感情を消化できるような場を設けてくれたのは、そういうことだろうと思う。

 誰かのせいにすれば、多少なりとも諦めはつくから。やり場のない感情を自分から逸らすことができれば、少なからず楽にはなれるから。

ただ配慮を受け取った悠里は大人の部分を持ち、反則技のように過去の出来事を知っているのである。

 

「……いいえ」

 むしろ謝られてしまっては、悠仁の現状に納得できない感情がまた新たに悲鳴を上げそうになる。

 

――何を今さら言うのだ。

 

 そんなふうに(ののし)って、(なじ)って、責めたてて、――それでも、地獄のような現実が覆ることはない。残るのは何もできなかった自分を呪う無力さだけだ。

 分かっているから、抑えつけて仕舞い込むしかない。

 

「ひとはずではあるが君の身柄はここ、高専で預かることとなる」

「私が、ですか?」

「そうだ。君はすでに知ってしまっただろう、もう引き返すことなどできんよ。預かる、と言っても保護の意味合いも兼ねている」

 

 誰の手に渡っても火種となるのであれば、業火となって燃え上がる前に酸素の供給を止めてしまえばいい。最小限の労力で最大限の妥協案だった。

 

「監視、とも言うけどね」

「悟!」

「黙っててどうなるのさ? 本当のことだろ」

「それにしても言い方がある」

「ふーん?」

 

 隠れた目元から何の感情も(うかがえ)えない代わりに、弧に歪んだ口元と、含みを持たせた声音は(あざけ)るようだった。

 

「悠仁には説明したのに、この子に同じようにしないのはフェアじゃないでしょ」

「それはそうだが……、順番があるだろうが」

「でもさあ、結果は一緒じゃん。行き着く先は地獄だよ」

 

 一瞬の沈黙。

 五条はいとも簡単に静寂を薙ぎ払って、口を開く。

 

「虎杖悠里、君は未来の可能性を語ったね」

「……聞いてらしたんですか」

「悠仁も君も重要参考人だよ? あんな場所でたった二人置いておけるわけないじゃん。あれだけ自分で言ったんだから分かってんでしょ」

「そう、ですね」

「自分たちのことなのに随分と淡白なんだ」

「何を言ったところで変わらないので。あとは、事態を上手く飲み込めてないのもあると思います」

 

 自分で言葉にして、ひどくしっくりときた思いだった。

 現実に生きているのだと理解して(なお)も、まだ悠里の心はこんな世界は認めがたいと叫んでいる。今にも溢れてしまいそうな、この衝動。激情に任せて行動できないのは、冷静であるというよりも、存在しないはずの知識と精神があるからだ。

 無駄に浅く広い知識が割り出した可能性は、しかし身を以って体験したことではない。

 あくまでも予想でしかないのだ。

平坦な未来ではないことを予想はしていても、幸運なことに現実での仕打ちとしては受けていない。口にするのも悍ましい脅威が想像を絶することだと予測はできても、実感ではない。

 どれだけしてもし足りない覚悟をしてさえ、重みが足りなかった。

 

 

 

 

 

「そっか、そっか」

 

 ま、と五条は続ける。

 

「君が言ったことはおおむね間違ってない。呪術師はイカレてるし、呪術界は腐ってる。何も知らないってわけじゃないだろうけど、今のままだったら赤子の手を捻るように殺されるよ」

 

 最低で。

 卑劣で。

 最悪で。

 下劣で。

 卑怯で。

 姑息で。

 

 建前ばかりが立派で、実態はどこまでも淀んでいる。清水に魚住めずとは言うものの、濁りに濁った泥沼は生きるのに適した場所ではなく、(まが)うことなく魔窟だ。

 時代錯誤(古き悪しき)を体現した伏魔殿は、

 

「口で言うほど易しいものじゃないよ」

 

 教え子の言葉を借りるのであれば「不平等な現実のみが平等に与えられている」のだ。

 才能も、性別も、年齢も、血筋も、歴史も、どれもが生まれたときから決まっており、ほぼ十割の確率で反転することはない。

 落伍者(らくごしゃ)の扱いは手酷いものであるが、かと言って生まれながらの勝者であることも決して幸福とは言い難かった。衣食住は保証されども待ち受けるのは厳しい教育だ。家の方針によっては虐待同然の教育をされることもある。

 そういう環境で育てば同色に染まっていくのは自明の理だ。

 地獄に生まれ、地獄で育ち、そうして新たに地獄を生み出していく。より深く、より暗く、より頑なに。積み重なった負の連鎖を断ち切るのは容易ではなく、高潔な意志を持った者も、やがては根が腐り、取り返しのつかない深淵へと堕ちていくのだ。

 

 堕ちるのが当人だけであるのなら、別にかまわなかった。

 己が選んだ道だ。どのような結末を辿ろうと自業自得である。同情の余地があろうとも、自らが選択し、行動したという事実は変わりようがない。

 

 しかし腹立たしいことに、根が腐った人間はしばしば我欲に他者を巻き込むのである。

 保身のために未来見据えられず、私利のために目先のことに囚われる。自分たちの私欲を満たすことに心を注ぎ過ぎて、呪術界の現状に疑問すら持たず、力と権力を誇示して現状維持に努めている。

 弱者が圧制されるのを見てきた。善人が食い物にされるのを見てきた。家名を背負った五条にもある程度の(しがらみ)は付いて回る。嫌なことは嫌だと圧倒的な力で()じ伏せてきたつもりだけれど、それだけでは駄目なのだ。

 

(だって何も変わらない)

 

 取り(こぼ)してきたものを思うと、記憶の底がじくじくと痛む。

 青い春は五条に掛け替えのないものを与えたが、その頃に、もう少し自分に考えがあればと振り返ることがある。世の中には「知らなかったから」で済まされない現実があり、本来であれば五条のような立場(世界の裏側を引率する)の人間こそが学び守るべき道理を、若かりし五条は知ろうともしなかった。

 

(ポジショントークが嫌いだった)

 

 正論は説教のようで、自由に生きていたかった五条には堅苦しかった。

 親友である夏油は事あるごとに正しさを()き、お互いに反発しながらも、世間と歩み寄れている気がしていたのに。

 五条が正論をなんとか飲み込めたのは夏油が離反したときだった。

 積み重なった違和感が疑念となって、抱えきれなくなった疑念が限界を迎えて、大義となった決意に心を燃やすことになった五条の友は決定的に道を違えた。正しさを求めたが故の行動だったのだろう。穏やかに振る舞うことが得意でも、根底にある自我は強く、自らの主張を譲らぬ精神を持った男であったから。

 その実力と高潔さが、呪術師だけが報われる世界を作ることを決めてしまったのだ。

 世界の裏表をひっくり返すなんて傲慢にもほどがある。だが、夏油にはそれをしてしまえるだけの才覚()があるのを、他ならぬ五条は知っていた。

 

――生き方は決めた。

 

 そう言って雑踏に溶けていった後ろ姿を、生涯忘れることはない。

 追えなかった五条を、夜蛾は責めなかった。諭すどころか謝って、そのときにこそ五条は気付いたのだ。

 人は、人にしか救えない。

 

(でも、厄介なことに……――)

 

 救われる準備のある人間しか救えない。

 

「だからこそ選択肢なんてないに等しい世界を生きていくために君たちは知るべきだ。正しく学ぶべきだ」

 

 学び舎での青い春が五条を人間として育んだように、自ら考え、流されることのない意思を持ち、思い描く未来を手繰り寄せるための素地を身に着ける必要がある。

 

「虎杖悠里、君に地獄を歩く覚悟はある?」

 

 修羅の道を往く若人たちを導くために、五条たちはこの場に()る。

 

 

 

 

 

 地獄を生き抜き、そして正しい道を築こうと行動している五条の言葉は、静かに燃えていた。

 いつの間にだろうか、凪いだ水面の瞳が露わにされていた。

 

 爛々と輝く碧眼が。

 燦然と煌めく六眼が。

 

 じっ、と射貫くかたちで向けられている。

 注がれる視線は冷たく、こちらを見定めるためのものだった。奥底を暴く支配者の無言の詰問が、きりきりと心臓を絞めあげていく重たさは、自分の浅はかさを浮き彫りにするようだったけれど。

 想像以上の現実に弱音を吐くこともあるかもしれない。物語以上の苦難に自暴自棄になることだってあるかもしれない。

 納得も理解も追いつかないが故の冷静さが、崩れるときが訪れるかもしれない。

 でも。

 それでも。

 

「はい」

 

 悠里は決めたのだ。

 

 ――たとえ何が起ころうとも、家族を生かすということを。

 

 この世界で生きていくことを選ばせた、たったひとりの優しいひとが。誰よりも正しく在ろうとする、私の家族が。

 

 ――幸せな未来を歩むために、どんなにちっぽけでも足掻くことを決めたのだ。

 

 

 

 

「悠里」

 

 高専預かりとなった経緯。回想に沈んだ意識を、悠仁の呼び声が引っ張り上げた。

 

「まだ本調子じゃない? 疲れた?」

「平気。ちょっとぼーっとしてただけ。ただ、……」

「ただ?」

「幸せだなあ、って」

 

 未来が、明るいだけのものでないことを悠里は知っていて。知っているからこそ、穏やかなこの瞬間が、何物にも代え難いものであると実感していた。

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