ダンテの赤い背中がオフィスの喧騒へと消えていった後、廊下には再び重苦しい静寂が戻ってきた。岸辺は壁に背を預けたまま、ポケットから取り出した銀色のフラスコを弄ぶ。微かに漏れ出るウイスキーの安っぽい、しかし強烈な酒精の香りが、冬の冷えた空気の中で濁っていた。
岸辺の視線は、ダンテが立ち去った後の虚空をじっと見つめている。
長年、数多の怪物と戦い、それ以上に多くの同僚の死体を積み上げてきた老兵の勘が、背筋に冷たい警笛を鳴らしていた。ダンテという男。あれは、マキマが連れてきたどの悪魔よりも、どの魔人よりも、はるかに「正体不明」だ。
「……。ふん。……まともな味覚、か。……よく言う」
岸辺は独り言を吐き捨て、フラスコを口に運んだ。喉を焼く液体の熱さが、麻痺しきった感覚を無理やり引き戻す。
彼が先ほどダンテに問いかけた「何を飲んできたか」という質問。それは単なる雑談ではない。デビルハンターとして長く生きるコツは、自分の中に「人間としての錨」を下ろし続けることだ。酒の味、煙草の煙、女の体――何でもいい。それらが「美味い」と感じられるうちは、まだ地獄の側に完全には引きずり込まれていない証拠だ。
だが、ダンテはどうだ。
あの男は、地獄の業火をそのまま形にしたような剣を背負いながら、コーヒーの苦味を、まるで実の兄との思い出のように慈しんで語った。
その精神の強靭さ。あるいは、狂気。
岸辺は、自分よりもはるかに深い深淵を覗きながら、なおも軽口を叩いて笑えるあの男の底知れなさに、薄ら寒いものを感じていた。
「……。早川を焦らせるな、と言ったところで……無駄だろうな。……。あいつも、あいつも。……。死にたがりを止める方法は、この世に一つしかない」
それは、死よりも重い絶望を教えるか、あるいは、死ぬ暇もないほどの圧倒的な『生』の地獄に叩き落とすかだ。
ダンテがアキに施そうとしている修行。それがどちらになるのかは、岸辺にも読めない。だが、ダンテの瞳の奥に一瞬だけ見えた、戦場を生き残った者特有の「冷たさ」を思い出し、岸辺はフラスコを握る手に力を込めた。
岸辺は再び歩き出し、喫煙所へと向かう。
すれ違う若手のデビルハンターたちが、彼の纏う圧倒的な殺気に気圧され、道を開ける。
岸辺は彼らの顔を見ない。見ても、どうせ数ヶ月後には名前を忘れることになるからだ。
だが、早川家という歪な共同体だけは、今の特異課において、あまりにも鮮烈な色彩を放ちすぎている。
「……。マキマ……。お前が飼い始めたその野良犬は、首輪を食い破るぞ。……。それが、俺たちにとっての救いになるか、引導になるかは……神のみぞ知る、といったところか」
岸辺はフラスコに残った最後の一滴を煽り、空になったそれをポケットに沈めた。
窓の外、冷たい冬の陽光が、灰色のコンクリートの建物を無機質に照らしている。
岸辺は一つ、深く、重い息を吐き出した。その吐息は、酒精の匂いを孕んだまま、冬の空気に溶けて消えた。
最強の老兵の背中は、いつになく小さく、そして何よりも頑強な孤独を背負っているように見えた。