1973年、6月1週。
春のGⅠ戦線もいよいよ大詰め。
そんな慌ただしくも少し落ち着きを見せてきた雰囲気のなか、グランプリ・宝塚記念のファン投票結果が発表された。
トレーナー室に届いたそのリストを見て、俺と由衣さんは顔を見合わせた。
「……壮観ですね。ベスト5のうち4枠を、うちのチームが占めています」
由衣さんが読み上げる結果は、チーム・ルミナスの快進撃をそのまま反映したものだった。
1位:オペラローリン(297,225票)
2位:キョウエイグリーン(269,000票)
4位:ナスノチグサ(160,336票)
5位:オーナーズタイフウ(153,650票)
「ありがたいことだ。だが……全員が出走するわけにはいかない」
俺はスケジュール帳を開き、それぞれの予定を確認していった。
◆休息と専門分野
「まず、4位のチグサですけど」
「はい。彼女はオークスの後、すぐにナスノの実家へ帰省させました」
二冠を達成したチグサは現在、長期休養に入っている。
2400mという過酷なレースを走りきった疲労を抜くため、そして秋の三冠目に万全の状態で挑むためだ。
静かなナスノの別荘で、姉のカオリさんと共に羽根を休めていることだろう。
「次に5位のタイフウ」
「興味ねえよ」
ソファで脚を組んでいたタイフウが、即座に吐き捨てた。
「あたしの主戦場は砂だ。芝の祭りなんざ、お上品な連中でやってな」
彼女の視線はブレない。
人気投票で選ばれたこと自体は「まあ、悪くねえ気分だがな」と満更でもなさそうだが、自分の土俵以外で戦うつもりはないようだ。
◆真珠と風の約束
残るは1位と2位の二人。
「えーっ! アタシ2位じゃん! すごくない!?」
グリーンが順位表を見て飛び跳ねた。
ハイセイコーブームの中で、明るいキャラクターと圧倒的なスピードでファンを魅了した結果だ。
「出たい! ……って言いたいとこだけど」
彼女はチラリとカレンダーを見た。
そこには、今週末の『安田記念』に赤丸がついている。
「アタシはこっち。約束したもんね、『スプリントとマイルは独占する』って」
「ああ。宝塚記念は2200mだ。お前の領域じゃない」
「だよねー。残念だけど、グランプリはローリン先輩に任せる! アタシは府中でマイルのテッペン獲ってくる!」
グリーンは潔く辞退を選んだ。彼女にとっての王道は、あくまで短距離・マイルなのだ。
そして。
トレーナー室の窓辺で静かに紅茶を飲んでいたオペラローリンが、カップを置いた。
「……決まりのようですね」
彼女は立ち上がり、投票結果の1位の欄を指でなぞった。
「チームを代表して、私がグランプリへ参ります。……297,225票の期待、全て私が背負いましょう」
大阪杯の勝者であり、中距離の王者。
彼女の言葉には、一点の曇りもない自信と責任感が宿っていた。
「頼むぞ、ローリン。……そしてグリーン、お前は今週だ。準備はいいな?」
「もちのろん!」
チーム・ルミナスは、それぞれの戦場へと散開する。
まずは今週、キョウエイグリーンの安田記念。
そして月末、オペラローリンの宝塚記念。
春の締めくくりに向け、最強の布陣が動き出した。
◆黄金の杯
宝塚記念のファン投票に関する作戦会議を終え、ほっと一息ついたところだった。
トレーナー室の電話が、けたたましく鳴り響いた。
「……はい、こちらチーム・ルミナスです。……えっ? はい、局長。……今すぐ、ですか?」
受話器を取った由衣さんの表情が、みるみるうちに強張っていく。
彼女は電話を切ると、困惑と緊張が入り混じった顔で俺を見た。
「あすかさん、事務局からです。……事務局長が、今すぐ執務室へ来るようにと」
「……あの人が、か」
俺の背筋に、嫌な汗が伝う。
あの執務室に呼ばれる時は、ろくなことがない。
かつて、「毒杯」と言ってオーナーズタイフウを押し付けられた日の記憶が蘇る。
「へっ。どうせまた、あたしん時みたいに厄介なのを押し付けられるんじゃねえか?」
ソファで脚を組んでいたタイフウが、ニヤニヤと楽しそうに茶化してきた。
俺は「縁起でもないことを言うな」と軽口を叩き返しつつ、重い足取りで部屋を出た。
◆
管理棟の奥にある執務室。
ノックをして入ると、事務局長は以前と同じように、湯呑みの茶をすすりながら書類に目を通していた。
俺の姿を認めると、目尻だけで笑い、手招きをした。
「神楽坂くん。……オークス、見たよ」
その声は穏やかだが、瞳の奥だけは相変わらず冷たく凪いでいる。
「これで、二年連続のクラシック制覇か。……昨年はキョウエイグリーンで桜花賞と秋華賞を獲り、今年はナスノチグサで桜花賞とオークスの二冠。ここ最近のティアラ路線のタイトルは、ほとんど君のチームが独占しているようなものだ」
局長は感嘆したように息を吐いた。
「『暴れウマ』のみならず、名家の令嬢まで完璧に御してみせる。……上層部も君のその手腕には舌を巻いているよ」
「……光栄です」
「だからね。君にひとつ、相談があるんだ」
局長は湯呑みをコトリと置くと、手元の書類を一枚、俺の前にすっと滑らせた。
乾いた音がして、紙が止まる。
そこには『オギフシグループ』のロゴが刻印されていた。
「オギフシ……日高の名門中の名門じゃないですか」
「ああ。そのオギフシが、一人のウマ娘を栗東に送り込んできてね。……彼らにとっての『至宝』とも呼べる、とびきりの逸材だ」
局長は身を乗り出し、声を潜めた。
「彼らの要望はただ一つ。『ティアラ三冠を獲れるトレーナーに預けたい』。……今のトレセン学園で、その条件を一番満たすのは誰だと思う?」
俺は息を呑んだ。
これは、ただの依頼ではない。
2年連続で結果を出した俺だからこそ、名指しで来たのだ。
「断れるかい? もちろん、規定上はね。……だが、オギフシの『期待』を袖にすればどうなるか。……君なら分かるね?」
局長は笑った。
以前、タイフウを預けた時と同じ顔だ。
だが、今回突きつけられたのは、泥臭い毒杯ではない。
目が眩むほど美しく、それゆえに少しでも扱いを間違えれば、俺ごとき簡単に押し潰してしまう黄金の杯だ。
「失敗は許されないよ。彼女の背後には、オギフシという巨大な山がある。……もし傷一つでもつければ、君のトレーナー生命はおろか、このトレセン学園での立場もなくなるだろうね」
「……随分と、高い授業料になりそうですね」
「それだけの器だと見込んだからこそだよ。……どうする?」
逃げ道はない。
俺は覚悟を決めて、その書類を手に取った。
指先が微かに震えるほどの重圧。だが、不思議と高揚感もあった。
「……頂きます。その杯」
「結構」
事務局長は満足げに頷き、茶を一口飲んだ。
「彼女の名は、イットー。……このウマ娘が本物か否か、君の手で証明してみせたまえ」
俺は手元の書類に目を落とした。
添付された写真には、まだあどけないが、宝石のような瞳をした少女が写っていた。
チーム・ルミナス、5人目のメンバー。
それは後に、その華々しい活躍から『華麗なる一族』と呼ばれることになる、偉大な家系の祖。
あまりにも重く、高貴な期待を背負った少女だった。
しばらく更新をお休みします。
詳しくは活動報告で書いています。