犬とお姫様   作:DICEK
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どこに行っても、雪ノ下陽乃は女王である

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠すぎず近すぎずということで陽乃が選んだのは、群馬県は草津町にあるとある旅館だった。温泉街として全国的に有名な観光地だが、共に十代のカップルが出かけるには地味な場所だ。とは言え、二人にとって重要なのは他人に干渉されないところで二人きりでゆっくりすることである。地味なことはむしろ望むところだった。

 

 ちなみに関東近郊にはいくつか雪ノ下の別荘が存在する。軽井沢の別荘はその一つで、近場で言えば他に那須塩原にもある。群馬から見て那須塩原は隣県であるが、近場というには聊か遠い。別荘が近くにないから雪ノ下の目はないというのは早計であるものの、人を使って尾行されているという可能性もないではない。疑い出したらキリがないのだ。ここには実家の目がないと思うことにして、陽乃は旅行を楽しむことにした。

 

 からころというのはキャリーケースの音である。それが男の役割とばかりに、荷物は全て八幡が運んでいた。無駄なことは好まない陽乃だが、自分の容姿を磨くことに余念がないのは他の女子と一緒である。他の女子に比べればそれでも少ないのだろうが、キャリーケースは八幡の鞄の倍くらいの重さがあった。

 

 特に何をするでもない旅行で、何故これほどの荷物が必要になるのだろう。陽乃に限らずこれは小町にも見られる特徴だが、未だに理解できない要素の一つである。理解も共感もできないが、八幡にとっては担ぐ転がす荷物が重いというだけの話である。それで陽乃が小町が楽をできるならば、文句などあるはずもない。

 

 八幡の三歩先を歩いている陽乃は、相変わらずめぐりのコスプレを続けている。すぐに飽きると思っていたが、予想が外れた形である。地味な装いでも陽乃の容姿が優れていることは変わらない。三つ編み眼鏡の美人が通り過ぎる度、老若男女全てが振り返り、陽乃を見つめる。

 

 地味な装いをしているのにいつもより目立っているのは皮肉な話である。いつもの――例えば大学に向かう時にしている恰好はめぐりのコスプレよりも幾分華やかなものだが、ここまで人目を引くものではない。その理由を聞けば陽乃は喜々として、主に八幡をからかって遊ぶためと答えるのだが、そんな未来が見えていた八幡は敢えて何も質問しなかった。

 

 今の陽乃は誰が見ても『私幸せです』という顔をしている。笑う門には福来るだ。機嫌の良い美女はただそこに存在するだけで、周囲を幸福にして人目を引くのである。例え内心が魔王であっても、眺めるだけの人間には理解できまい。

 

「八幡の意見とかほとんど聞かないで滞在先も予定も決めちゃったけど、良かった?」

 

 現地に着いてから改めて言うのも陽乃らしい。気にするくらいならば事前に聞けば良いのに、自分で決めたいことは必ず自分で決める。雪ノ下陽乃はそういう女性だ。八幡は苦笑を浮かべながら、それでも他人が見れば随分と嬉しそうに答えた。

 

「全てお心のままに。文句は有っても申し上げません」

「いい子いい子。そのご褒美にいつもよりほんの少しだけ優しくしてあげるから楽しみにしてて」

「感激で涙が出そうですよ。泣いたりはしませんが」

「そうだね。男の涙なんて見てて楽しいものでもないし」

「女の涙なら見てみたいと?」

「見たいのは雪乃ちゃんくらいかな。かわいいんだよ、本当に。背筋が凄くぞくぞくするの」

 

 それはそれでどうかとも思うが、その気持ちも解る気がした。友人知人の中で、一番泣かせてみたいのは誰かと問われれば、熟慮の末に八幡も雪乃と答えるだろう。ツンと済ました態度でいる女子というのは、男子にとっていくつになってもからかいの対象なのである。それは陽乃に出会うまで友達などいなかった八幡にとっても変わることはない。

 

 陽乃の報復が怖いので実行に移すことは永久にないだろうが、この姉ならば一緒に泣かすくらいのことは娯楽として処理してくれるかもという期待と不安はある。陽乃ならばある日突然、『一緒に雪乃ちゃんを泣かせてみない?』と持ちかけてきても不思議ではない。やはり自分の恋人はどこかおかしいと、八幡は改めて感じていた。 

 

「……貴女の性癖が歪んでいると改めて知れて安心しました」

「えー? 八幡もぞくぞくしない? 雪乃ちゃんがこう、悔しさを顔に滲ませてぷるぷる震えてるところとか、もう世界一可愛くて思わず抱きしめたくなったちゃうんだけど」

「そこで抱きしめたりはしないんでしょう?」

「当然。一番楽しいのは『それを我慢してる時』だもの。待てのできない人間に幸せは来ないよ」

 

 涙目の雪乃が陽乃にとっては大好物というのは疑いを差し挟む余地もない。普通、大好物を前にすれば人間我慢できないものだが、我慢できると言っているのだから、陽乃は我慢できるのだろう。自制心の強い人間だ、というのが他人が陽乃を評する時にたまに聞く言葉であるが、八幡の意見は違っていた。

 

 その評は事実を捕らえてはいるのだろうが、陽乃の我慢強さはある種の性癖の副産物に過ぎない。『我慢すること』それそのものが、陽乃にとってはご褒美なのだ。陽乃の性質は純善たるドSであるが、同時に自己に対しての嗜虐的な性質も持ち合わせている。

 

 ドS部分に比べれば極々微量なものであるが、その僅かな性質こそ、不特定多数の人間をコントロールする陽乃の手腕に大きく寄与していた。この適度な同居具合が、陽乃を完全で完璧な人間へと押し上げているのだ。

 

 逆に妹の雪乃は多面的に物事を考えるということが苦手である。自分の理想と現実にギャップがある時、雪乃はとりあえずその場で行動を起こすような節があった。それは正義感が強いと言いかえることもできる。対処方法を考えつつもまず行動するというその性質は、八幡をしても好ましいと思ったが、良いこと、良い人が必ずしも物事を解決に導くとは限らないというのも事実である。

 

 同じような問題に直面した時、陽乃は序盤をのらりくらりとかわす。即断即決で行動することもあるが、陽乃はまず物事の観察に時間を費やす。物事の急所、弱点が見えてくるとそこからは社交力が物を言う。自分で行ったりあるいは人を使ったりと様々だが、関係各位に根回しをし必勝の手が完成してから、一気呵成に攻めかける。

 

 雪ノ下陽乃が攻撃を始めることと、彼女が勝利することはほとんどイコールで結ばれている。それが陽乃の評価を盤石な物にし、物事を解決することで人間の好悪は別にして信頼を勝ち取っていく。陽乃を嫌いな人間も彼女の在学中には一定数がいたが、そんな連中でも陽乃がデキる人間であるということは認めていたくらいである。

 

 雪乃のやり方が、八幡は嫌いではない。潔癖とさえ言える正義感は好ましくさえあるが、雪乃と陽乃のどちらの方がより問題を解決できるかと問われれば、陽乃の方だと答えるしかない。

 

 雪乃も資質において陽乃に大きく劣っている訳ではないが、陽乃に比べて酷く不器用だ。それが雪乃の人間的魅力に繋がっている訳だが、その評価には何より雪乃本人が納得できないだろう。雪乃にとって陽乃とは理想であり壁であり倒すべき敵でもある。姉妹仲は決して悪くはないのだが。ある意味、雪乃から一方的に仕掛けられているこの戦いは、雪乃の中で精神的な折り合いが着くまで続いていく。

 

 陽乃ならば、雪乃の心に区切りをつけることもできるはずだが、陽乃はそれをしようともしない。雪乃がそうである限り、自分から視線を逸らすことはない。羨望であり嫉妬であり敵意であり、色々な感情が入り混じった雪乃からの視線が、陽乃は溜らなく気持ち良いのだ。

 

 これを姉妹愛と言えるのであれば、雪ノ下姉妹は世界で一番仲の良い姉妹と言えるだろうが……言えば陽乃は喜んでも、雪乃は嫌な顔をするに違いない。家庭の事情に首を突っ込む気はないが、一応妹がいる身としてはもう少し普通に仲良くできないのかと思う。

 

「――その点、八幡は待てが上手だね。私が見てきた中では一番かも」

「先生が良かったんでしょう。貴女はご存じないかもしれませんが、俺の先生はもう相当な無茶ぶりをする方でしてね。何度このまま死ぬんじゃないかと思ったか知れません」

「ほんと、良い先生を見つけたねー八幡は」

 

 当の先生は、我関せずとばかりのおかしそうに笑う。少しだけ薄情な気もしたが、他人の不幸など関係ないという態度の方が陽乃らしい気もする。

 

 そうして他愛のない話をしながら道を行くと、陽乃が予約した旅館に着いた。夏休み。旅行シーズンである。どこもかしこも予約で一杯というイメージが八幡の脳裏にはあったが、旅館のロビーは閑散としたとは言わないまでも空いていた。

 

 混雑しているよりは、していない方が良い。全ての旅館が混雑している訳ではないのだろうと納得した八幡は、陽乃を見た。チェックインなどの余計な手続きは自分の役目だと思ったからだが、陽乃は小さく首を横に振って先に立って歩き出した。

 

 自分でやるということなのだろう。旅行の行き先を決めるのとは異なり、チェックインは誰がやっても変わらない。陽乃が拘ることもないはずだが、と思った八幡だったが受付の女性への開口一番の言葉でその理由が知れた。

 

「二名で予約しました比企谷です」

「承っております」

 

 あまりに堂々と比企谷と名乗ったことに、八幡は小さく溜息を吐いた。雪ノ下も比企谷も珍しい名前だが、雪ノ下の家を警戒しているなら、名乗るべきは比企谷である。偽名を使ってチェックインというのは身分を偽りたい時の定番の手であるが、宿帳に偽名を記入するのは犯罪だ。

 

 比企谷で予約したのなら、宿帳に書く名前は雪ノ下陽乃ではなく比企谷八幡とするべきだろう。宿帳の記載をと差し出されたペンを八幡が受け取り、必要事項を記入していく。その間も、陽乃と受付の女性の会話は続いていた。

 

「何でも婚前のご旅行だとか?」

「ええ。ようやく彼がプロポーズしてくれて……ですので、予約の名前は彼の名前ですけど、私はまだ違う姓のままです。早く旧姓って言えると良いんですけど……」

 

 言って、陽乃と共に受付の女性が視線を向けてくる。特に睨まれている訳でもないのに『この甲斐性なし』と言われているような気がして背筋が悪い意味でぞくぞくする。いつの間にかプロポーズをしたことになっている比企谷八幡の立場はここにきて急激に悪くなってしまった。居心地悪そうに視線を逸らすと、陽乃が苦笑を浮かべてフォローする。

 

「ごめんなさい。彼ったら普段は奥手なんです。でも、いざという時には頼りになるんですよ? プロポーズをしてくれた時も、普段からは想像もできないくらい頑張ってくれて……」

 

 ありもしないその時を思い出しているかのように、陽乃は頬を朱に染めた。そうしているとまるで可憐な乙女のようであるが、その実が大魔王であることを八幡は良く知っている。めぐりモードのままなのは、この方が八幡の羞恥心を煽ることができるからだ。陽乃のままでも破壊力はあったのだろうが、今のこれはめぐりに秘密を暴露されているようでとても気分が良くない。

 

「まぁまぁ。男性はいざという時にこそ頼りになる方が頼もしいとも申します。良い旦那様を見つけられたようで羨ましいです」

 

 より正確にはいざという時に『だけ』頼りになってほしい、というのが女性の言い分であるらしい……と八幡は小町から聞いたことがあった。普段男を尻に敷いている方が、状況をコントロールできるかららしいのだが、お兄ちゃんには関係ないね! とも同時に言われている。女王と犬のどちらに主導権があるのかなど、犬の妹の目には明らかだった。

 

 しかし、普通の女性でないところの陽乃の要求はこの真逆を行った上に更に要件を追加したものだ。普段頼りにならないようでは話にならないが、いざという時にも使えないのは勿論困る。基本能力の高い陽乃は大抵のことは自分で何とかしてしまうが、より高い成果を挙げるには周囲の人間を使うことが必要不可欠である。優秀であるというのは、最低限必須の条件なのだ。配偶者であるならば猶更である。その上で男をコントロールするつもりなのだから、陽乃の女性としての能力の高さが伺える。

 

 そんな中、受付の女性の視線が陽乃の指に向いた。そうして、婚約しているならあるべきはずの物がないのを目ざとく見つけてしまう。他人の事情に首を突っ込むとロクなことにならないというのは世の常であるが、人里離れた場所にある旅館の従業員であれば、その認識も一入である。

 

 やってきた男女のカップルが実は表ざたにできない関係であるなど、旅館やホテルでは良く聞く話だ。受付の女性はプロである。相手の言っていることが嘘と解った所で追及したりなどしないが、役柄になりきっている陽乃はそういう片手落ちを許さない。婚約したカップルという設定を通すと決めたら、彼女は意地でも通す。それくらいの疑問は想定していた陽乃はネックレスを軽く持ち上げて見せた。

 

「彼がプレゼントしてくれたんです。日差しの強い時に指輪をしてると、白くなるのが気になって」

「まぁ」

 

 陽乃はネックレスを持ち上げただけで、その先にあるものは見せない。無論、その先に指輪などついていないのだが、その行動だけで受付の女性は『全て納得した』という風になった。内心でどう思っているかは伺う術もないが、現状は表面上そうなってさえいれば十分である。

 

 全て丸く収まったところで、従業員の案内を受けて部屋に案内される。二人で泊まるには広い部屋だが、ゆっくりするにはこれくらいは必要だろう。八幡は部屋の隅に荷物を置くと、窓際で景色を見ながら伸びをしている陽乃に声をかけた。

 

「指輪なんて付けてたんですね」

「付けてないよ。ああ言いながらああすれば、勝手に勘違いしてくれるでしょ?」

 

 陽乃は小さく微笑んで、臆面もなくそう言って見せた。確かに受付の女性は見事に勘違いしていたし、それに陽乃は一言も嘘は言っていない。日差しの強い時に指輪をしたら日焼け後が気になると陽乃が言っていたのは事実だし、ネックレスは去年八幡が贈ったものだ。

 

 形としては相手が勝手に勘違いをしたということになるのだろう。陽乃はそれを指摘しなかっただけだ。

 

「いつかほんとにプレゼントしてね」

「相応しくなれるように頑張ります」

 

 穏やかな雰囲気が流れたのもつかの間。陽乃は自らそれを壊すように『それにしても』と続ける。

 

「知らないところで二人で過ごすのって、新鮮だね」

「軽井沢に行った時は、平塚先生も一緒でしたからね」

 

 八幡の声も感慨深い。最初に軽井沢に行った時だけでなく、その翌年も静は同行した。陽乃にとってだけでなく八幡にとっても彼女は年の離れた友人という感覚で、一緒に旅行することに否やはないのだが……カップルに一人恋人のいない女性がついてくるというのは、傍からみてどうなのだろう。実はついてくるのが苦痛なのではと気にしたこともあったが、静本人に気にした様子はなかった。

 

 考え過ぎだろうとは思いつつも、そろそろ本腰を入れて婚活をした方が良いんじゃないかと、友人兼生徒としては思うばかりである。

 

「ところで八幡、何かしたいことはある?」

「貴女と一緒にいられるなら、他には特に……あぁ、少しは受験勉強をしたいですね。貴女はご存じないかもしれませんが、俺は一応受験生なもので」

「推薦は安全圏なんでしょ?」

「平塚先生の話ではそうですね。学校側も俺を陽乃と同じ大学に送り出したいみたいで、何かと便宜を図ろうとしているようです」

「打算的なんだ」

 

 否定的な言葉を吐きつつも、陽乃の顔は嬉しそうだ。学校側は地元の有力者である雪ノ下と陽乃に恩を売っておきたい。八幡を同じ学校に送り出すことに協力するのは、雪ノ下の家にとってはどうでも良いことかもしれないが、順当に行けば陽乃は親の地盤か会社のどちらか、あるいはその両方を引き継ぐだろうし、一般論を言うならば子供と親、先にくたばるのは親の方である。

 

 元々八幡の成績も内申も悪いものではなかった。陽乃とつるむようになってから急激に成績が伸びはじめ、二年一学期の中間テストで普通科首位を取ってから、一度もその座から陥落していない。二年中盤の全国模試では、ついに国際教養科の生徒を抜いて全学科の生徒の中でも首位に立った。

 

 三年になれば模試も頻繁に行われる。国際教養科の面々も、普通科に負けたままではと勉強に打ち込んだようだが、最新の全国模試でも首位は八幡のままである。そのせいで地味に国際教養科の面々から目の敵にされているのだが、それはまた別の話だ。

 

 ともかくデキの悪い人間を押し上げるならば角も立つだろうが、学校が手を貸しているのは元々とても高い確率を更に盤石なものにしているだけだ。修正される個所がそれほどあるとも思えないが、仮にあったとしてもそれは誤差のようなものである。客観的に見て便宜を図っているような証拠が出てくるようなことはまずないだろう。

 

 このまま油断しなければ、推薦入試で合格するだろう。仮に一般試験で行くにしても、既にA判定と安全圏に位置している。比企谷八幡は問題なく合格する。それは本人と学校、それに陽乃と静まで加えた全員の共通認識ではあるのだが、当人の気持ちまでその通りに行く訳ではない。

 

 陽乃の犬になる前より大分肝は太くなったと自分でも思うが、明らかに天賦の才に恵まれている陽乃と異なり、八幡はあくまで自分を秀才の域を出ない人間だと認識している。ある程度の結果を出せているのは、それ相応の努力をしているだけだ。同じだけの努力ができれば、他の人間だって同じような結果を出すだろう。

 

 八幡がそんな自己認識をしていることを、陽乃も把握している。何より八幡にとてつもない追い込みをかけて勉強や他のことをさせたのは彼女自身だし、旅行に行こうと提案し、計画したのも彼女だ。八幡が勉強をしないことで焦燥感にかられているのだとしたら、それは自分にも責任があるというのは道理であるが、そも王権というのは道理や常識を超えた所にあるものだと、陽乃は認識している。

 

 実際に辞書にどう書かれているのかは知らない。だが少なくとも、八幡との間においては絶対にそうでなければならないと陽乃は強く思っていたし、それは八幡にとっても同様だった。陽乃が主であり、八幡が従。この関係は、ある特定の場面を除いて、覆ることは絶対にない。

 

 てい、と軽い声で陽乃は八幡に足払いをかけた。完全に虚を突いた攻撃に、八幡は背中から畳に落ちる――が、それを陽乃の腕が掴み、思い切り引き上げる。それで助けるのかと八幡が思った刹那、陽乃は引き上げた八幡を抱きしめ、そのまま座布団にダイブした。

 

 座布団に人間二人をカバーするだけの面積はない。背中を強打しないようにすれば陽乃が怪我をするかもしれない。僅かな逡巡の後、八幡は自分の身を守ることの一切を放棄した。陽乃を抱え、そのまま畳に倒れ込む。衝撃。一瞬呼吸が止まったが、それだけだった。怪我はしてないし、陽乃も怪我をしている様子はない。

 

 一応確認をしようと陽乃を見て――目の前に陽乃の顔があることに気づいた。許可を取らず、目もつぶらず、陽乃は強引に唇を重ねてきた。驚きで身体が一瞬硬直するが、すぐに八幡は力を抜いた。陽乃が唐突に行動を起こすなど、いつものことだったからだ。

 

 こういう時、八幡は自発的に行動せず逃げの一手を選択する。攻めても上手くいかないのは目に見えているし、だからと言って何もしないと陽乃に怒られるからだ。逃げるというのもそれはそれで不味いではと思ったのも最初の内だけ。逃げる相手を追い詰める方が、陽乃の性癖的にはアリであるらしい。逃げる八幡と追う陽乃。この構図は陽乃が満足するまで終わることはない。

 

 好き放題にされたのは、五分くらいだろうか。

 

「ごちそうさま」

 

 二人の間には唾液の糸が繋がっている。僅かに頬を染めた陽乃に手を引かれ、八幡は起き上がった。微妙に腰が抜けている。陽乃の方は足取りもしっかりしていた。男として立場がない。悔しい。そういう感情はなるべく顔に出さないよう常日頃から意識しているつもりだったが、それが陽乃に見抜かれなかったことはなかった。

 

 八幡が陽乃を観測し、内面を予測することに関して類稀な感性を持っているように、陽乃もまた八幡を観測することにかけては小町に次ぐ感性を持っている。元より陽乃は感情の化け物。人間を観察し、不特定多数を操ることに関しては天才的な手腕を発揮する。そんな化け物に犬になるまでぼっちだった八幡が対抗できるはずもない。

 

 何より、そういう自分を隠そうとする八幡の内面を暴いてやることが、陽乃は大好きだった。屈辱に震える八幡の頬を無駄に突くと、八幡はぷいと視線を逸らした。母親に絡まれる男子中学生がやるような仕草である。女王に対して行って良い行動ではないし、普段であれば八幡もこういうことはしない。主従の関係を誰より意識しているのは八幡だ。それが「二人きりの旅行」という開放感が、勢いで彼にそういう行動をさせていた。

 

 犬として見た場合、八幡はとても優秀と言えたが、デキが良すぎるというのは時に物足りなくなることもある。八幡の小さな反逆は、陽乃の嗜虐心を大いに煽った。

 

「もう、八幡かわいい!」

 

 少女がお気に入りのぬいぐるみを抱きしめるように、陽乃は八幡を抱きしめる。柔らかな感触に決して幸福感を抱かない訳ではないのだが、かわいい、という表現はやはり男の自尊心を傷つけるのだった。かわいいかわいい連呼される度に、八幡の自尊心はガリガリと削られていく。

 

 そうして削りきられる直前を見計らって、陽乃は八幡から離れた。人の限界を見極めるのも、彼女の得意技である。

 

「さ、いちゃつくのはこのくらいにして。現役大学生の私が、少しくらいは勉強見てあげるよ」

「結局その辺りに行きつくんですね」

「最近は一緒にいるとずっと不健全で退廃的なことしてるからね。たまには建設的で健康的なこともしないと」

 

 勉強は建設的な行動ではあるのだろう。受験生にとっては、勉強をする行為そのものが精神的な安寧をもたらす効果があるのも事実である。現役の大学生が勉強に付き合ってくれるならこの上ないが、それはあくまで付き合うのであって、二人で時間を共有しているとは言い難い。

 

 陽乃の提案は八幡にとっては望むところではあったが、陽乃の側に立ってみればそれ程旨味がないように思えた。それだけ自分のことを大切に思ってくれていると感動するのは陽乃初心者だ。何かあると勘付いて中級者。上級者である犬になると、期待や幸福感の代わりにじんわりとした快感を伴った悪寒を憶える。

 

 言葉の裏にあるものを八幡がしっかりと感じ取っていると確信した陽乃は、めぐりの真似をしたままにやりと嗜虐的な笑みを浮かべた。にこにこと、何も知らない男性が見たら素敵な笑顔を思うのだろうが、八幡からすると狩猟者の笑顔だ。獲物をどうやって追い詰めるか。こういう笑顔をしている時の陽乃が考えているのは、その一点である。

 

「健康的なことばっかりでもつまらないだろうから、ご褒美でもあげようかな。私が出す課題を満点でクリアできたら、八幡のしてほしいことを『何でも』してあげる」

 

 にこにこと微笑みながら陽乃は提案してくる。からかう時の常套手段だ。この言葉そのものに嘘はない。一度やるといったら陽乃はやるし、要望を曲解したりもしない。課題をクリアしさえすれば、どんな要望でも陽乃は必ず叶えてくれる。

 

 だが、それに報復をしないとは言っていない。過去に悪ノリと不幸な行き違いから陽乃にとある羞恥プレイを強要するハメになったのだが、陽乃は持前の矜持でもってそれを完遂した。話題に出すことも禁じられたようなものだから、陽乃にとっては相当な黒歴史なのだろう。

 

 無論、陽乃はその羞恥プレイをやりきった後、感じた羞恥の十倍以上の報復を八幡に行った。言葉や行動には責任が伴うのだと、あれほど実感した日はない。

 

「今回は特別。報復は必ず今晩中に終わらせてあげる。外に持ち出したりはしない」

 

 意訳すれば、お願いは対価が今晩中に相殺できるものであるべし、という限定条件だ。要望は出すばかりである陽乃にしては大盤振る舞いである。してほしいことは山ほどあるが、それを口にすることは難しい、元々社交的な陽乃と異なり、他人にお願いをするということに、八幡は慣れていない。恋人である陽乃であっても、それは変わらなかった。

 

 陽乃にとっても、お願いを叶えることはそれ程重要なことではない。自分であれば叶えられるという確信があるからこその強きだが、目的は八幡にお願いをさせることである。精神的な成長のためという建前もあるが、一番見たいのは羞恥に耐えながら要望を口にする恋人の姿だ。

 

 雪乃や八幡など社交的でないタイプの人間が羞恥心に耐えながらも何かをする姿を眺めるのは、陽乃にとっては至福の一時なのである。

 

 





お久しぶりです。
八月前半は漢字で書いてもひらがなで書いても一文字の、命には全く関わらない病気に悩まされて椅子に座ることが難しい状況でしたが、どうにか快方に向かい始めたため一話完成の運びとなりました。

予定では後二話か三話、旅行の話は続きます。







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