犬とお姫様   作:DICEK

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いつの日にも、一色いろはは反抗する

 

 

 

 一色の乱と後に呼ばれる混乱を経て、ようやく文化祭実行委員会は一つに纏まりまともに動きだした。サボり組は今までサボっていた気まずさを紛らわそうと、馬車馬のように働いている。

 

 それを指揮するのは一色いろはだ。一年で委員長というだけでもレアなのに、いろはは躊躇なくサボり組の二年生たちに指示を与えていた。そうでなければ組織が立ち行かないと腹を括った故の行動だが、それが他の委員にはとても頼もしく映った。雪ノ下陽乃に憧れて生徒会入りし、今度の会長戦でも立候補を模索しているという情報もいつの間にか(・・・・・・)委員に知れ渡っている。それを応援しようという雰囲気さえ、委員会の中には既にできあがっていた。

 

 まさに委員会発足前にいろはが望んだ状況ができあがっていた。後は無難に文化祭を成功させることができれば注文通りである。不満はない。そのはずなのだが……出来過ぎた今の流れにいろはは静かに不満を覚えていた。

 

 注文をつけられるような立場ではないことは解っている。依頼という形を取っているとは言え、いろはは八幡たち奉仕部にめぐりを仲介に立ててまでお願いをしている立場だ。その依頼に対して八幡たちはいろはの期待以上の働きをし、絵空事だった『一年時でも会長』の椅子を手に届く所まで持ってきてくれた。

 

 勝負にさえならなかったはずのものを、勝ちが見える状態にまでしてくれたのだ。いくら感謝してもしたりないはずというのはよく解っている。この成功は自分以外の力が大部分を占めているということも理解しているし納得もしている。自分一人では勝てないと判断したからこそ、いろははめぐりを頼って奉仕部に依頼をした。この結果に不満があるはずもない。

 

 だが、激動する諸々にいろはの感情が追い付かなかった。それは自分の力が雪ノ下陽乃に遠く及ばないという実感であり怒りだ。本来自分の中で消化して昇華すべきそれらは、燻って比企谷八幡に向かっていた。

 

 いろはの視点から一言で言うならば、比企谷八幡はいろはのことを舐めていた。

 

 それは勿論八幡からすれば正当な評価ではあった。八幡のデキる人間の基準は雪ノ下陽乃であり、それは絶対的な価値観として八幡の中に君臨している。それ以外の基準は自分とほぼ唯一の友達であるところの城廻めぐりだ。

 

 その二人は現在、総武高校においてはデキる人間の双璧として知られている。才能という点では陽乃に及ばないものの、その陽乃に容赦なく仕事を振られて鍛えられた二人が積んだ経験値は、そんじょそこらの高校生では追いつけない程になっていた。

 

 加えて八幡は三年であり、いろはは一年である。経験の密度が同程度であっても、八幡の方が二年分有利なのに加えて『経験の密度』はいろはとは比較にならない。

 

 そういった事情を考慮すれば、八幡のいろはの評価は決して悪いものではない。一緒に仕事した時間は少ないが奉仕部のデキる三人に次ぐくらいにいろはのことを信用できると思っていた。加えてあの愛敬は奉仕部の四人にもないもので、いろはの才能と言っても良い。

 

 あくまで陽乃を目指すというのであれば『大分劣化した雪ノ下陽乃』という評価を脱せないだろうが、誰が何処を目指すなど八幡には関係ないし正直どうでも良い。他人からの評価など言ってしまえばただの数字だ。いくら絶世の美女が恋人であっても八幡の非リア充気質は健在だ。他人とは極力関わらず静かに平和に生きたいというのが八幡本来の願望である。

 

 ビジネスライクにいろはに接し、要望を叶えるために行動する。相手になるべく利益をもたらすことがコミュ障でも人間関係を上手くいかせるコツだと八幡は認識していたが、それら八幡の態度が一々いろはの癇に障っていたのだった。

 

 今回の件もそうだ。スポンサー周りはサボり組が大絶賛サボリ中だった時もいろはが率先して行っていた仕事の一つである。文化祭用として予算は組まれており学校からもまとまった額が支給されるが、より大きなことをやりたいとなるとより多くの金が必要になる。

 

 スポンサーというのはそのために存在する。パンフレットなどに広告を載せることを対価として、近隣の会社商店あるいは個人から小口の寄付を募るのだ。普段であればこれは予算への足しになる程度のものだが、陽乃が委員長として活動した年は学校から支給される予算をスポンサーの寄付が抜いた。単純計算でその前年の予算の倍に近い予算を突っ込むことができたのだ。

 

 好き放題できたのも当然と言える。それに比べると今年の予算の集まりは当然良くはないのだが、去年あるいは一昨年と比べさえしなければスポンサー献金は平均を大きく上回っていた。一昨年のことが陽乃の功績と言うのであれば、今年のこれはいろはの功績と言えるだろう。

 

 陽乃には及ばなくても、自分でもこれだけできるのだ。サボり組に足を引っ張られながらもこれだけのことをしてたんですよ! とこれはいろはの自慢の種の一つであったのだが、当日発行の臨時パンフレットに載せるという名目で、更に追加のスポンサー周りをする段になって急に八幡が着いてくると言いだしたのだ。

 

 一人では何もできないと思われているようで、はっきり言って気分は良くなかったが、自分のデキる女アピールを間近で受けさせると思えば、いろはの溜飲も下がった。そんな訳で学校を出る時は意気揚々としていたいろはだったが、二歩三歩と足を進めた後に、それが難しいことに早くも気づいてしまった。

 

 この段階まで後回しにされているということは現時点でスポンサー契約を結んでいないということで、かつ過去のいろは自身に感触が良くないと判断されていたということでもあった。残っているのは揃いも揃って難物だ。過去文化祭に寄付をしてくれた所ばかりだが、他のスポンサーが過去何度もやってくれているのに対し、残っているスポンサーはほとんどが一回、多くても三回程度である。

 

 それを説得できるような力強い材料はいろはにはない。足を運んでお願いをする。ただそれだけのことだが、このままではおそらく空振りが続くだろう、最悪、一件も寄付を貰えないという可能性もある。デキる女アピールをするのにこれでは逆効果だ。デキない女だと思われたらどうしよう。内心で焦っていたいろはを見透かしたように、八幡は鞄からクリアアフィルを取りだした。

 

 今日回るスポンサー候補の資料だ。それをぱらぱらとめくりながら、八幡はこともなげに言う。

 

「一番近いところから効率的に行くか。今日全部回るつもりなら少し急がないとな」

「何で先輩が決めてるんですか」

「経験者だからな」

 

 陽乃がスポンサーを開拓した時は八幡も同行したのである。美人は得だというのは良く言われることだが、その上弁が立つと手が付けられないのだなということが良く理解できた時間だった。

 

「経験者って……交渉には全く参加しなかったんですよね?」

「そうなるな。だがまぁ、何とかなるだろ」

 

 実に軽い口調で八幡は答える。総武高校において彼がデキる部類に入ることはいろはにも疑いがないが、人前に出ての交渉事というのは見た目インテリヤクザの彼が最も苦手とするところである。陽乃やいろはならば問題なくできる『人前で愛想よく微笑む』という作業を、彼は最も苦手としているのだ。その彼が何とかなると言っているのである。実際に何とかする算段があるのだろう。

 

 私の仕事を取って……いろはも心中穏やかではなかったが、今日まで残っているスポンサー候補は間違いなく難物である。立っている者は親でも使えというのがいろはの流儀だ。それが比企谷八幡であるならば、使うことに抵抗などあるはずもない。

 

 それに、笑顔の苦手な八幡がどんな交渉をするのか単純に興味もあった。先輩こんなだったんだよー、と脚色して話してやれば『犬の犬』さんは悔しがるかもしれない。奉仕部の面々ともそれなりに交流が深まったいろはが、何だかんだで一番仲良くしているのが沙希である。

 

 話が合うのは結衣なのだが、彼女は奉仕部以外のグループにも所属しているためにあまり時間が取れないのだ。残った三人の中で一番『疲れない』のが沙希だったという話である。雪乃は精神的に鉄壁であるし姫菜は表面上こそ普通だが腹芸しかしてこない難物だ。

 

 その難物が八幡には懐いているようなのだから、得体が知れない。めぐり情報では雪ノ下陽乃は『あんなもの』ではないらしいが、そんな化け物と恋人になれる八幡は一体どれだけ精神的なドMなのだろう。

 

 想像して、ぞくりと背筋が震えた。この人を足蹴にできたら一体どんなにか。きっとこの人は何をしても受け止めてくれるだろう。それが全く大したことがないとでも言うように。それに相応しい相手でさえあればという条件が付くのだろうが、一色いろはにはそれが圧倒的に足りていない。

 

 どうも最近貯まったストレスが良くない方向に加速している。横恋慕など趣味ではない。確かに比企谷八幡というのは悪くないが、相手が雪ノ下陽乃では流石に分が悪い。精々観賞用として眺めるだけに留めて、ストレスとは上手く付き合っていくことにしよう。

 

 まずはインテリヤクザがどういう交渉をするのか。一色いろはという美少女を連れているとは言え、あそこまで自信ありげに断言したのだから、それを使うということはしないだろう。八幡個人でやるのであれば強面という見た目のしかも男子という要素は、交渉事では不利に働くようにも思う。

 

 八幡は奉仕部の中で最も弁が立つがそれはいろはや奉仕部の面々に受け入れる態勢ができているということも大きい。見た目から忌避するような相手にはその力を十分に発揮することができない。個人商店のおじさんなどはその最たるものだと思うのだが。

 

 期待と不安を胸に、最初の商店に足を踏み入れる。

 

「こんにちはー。総武高校から来ましたー」

 

 最初に声をかけるのはいろはだ。今日時間を作ってほしいということは、伝えられる場所には伝えてある。この商店は伝えてある側であり、電話をした段階ではあまり感触が良くなかった場所でもあった。それでも会うと言ってくれたあたり、マシではあるのだろう。来るなと言われることもままあると、めぐりからは聞いている。

 

 店主のおじさんは五十代後半の、如何にも堅物という風だった。いろはの経験でこの世代の男性は、いろはを見てめじりを下げるか拒否感を示すかのオールオアナッシングである。前者であれば話は早かったのだが、いろはを見たおじさんの反応は明らかに後者だった。

 

 これは不味い。デキない女と思われるよりも早く、いろはは一歩退いて八幡に場所を譲った。お手並み拝見といった風を装っての、後ろ向きなバトンタッチである。意図の透けて見える場所移動に八幡も嫌そうな顔をするが、出先であることを思い出し、彼にしては余所行きの愛想の良い表情を浮かべた。

 

 それだけでいろはにとっては爆笑ものだったのだが、店主のおじさんは八幡の顔を見て怪訝そうな表情をするばかりだ。見覚えはあるのだが誰だか思いだせない、そんな顔である。

 

「ご無沙汰してます。二年ぶりですか」

 

 二年ぶり。八幡の言葉に、おじさんはようやく合点がいった、という顔をした。

 

「雪ノ下さんと一緒にいた彼か!」

 

 相好を崩したおじさんは八幡に近づいて手を握ると、肩をばしばし叩く。この年代にありがちな感情表現に八幡も密かに苦笑を浮かべていたが、おじさんはそれに気づかない程に上機嫌である。

 

「そうです。お元気そうで何より」

「まだまだ若いもんには負けんよ。君も三年か。受験生だろう? 文化祭の仕事なんてやってて良いのか?」

「まずは推薦狙いなんで。まぁ、内申稼ぎと思っていただければ……」

「黒いねぇ。流石雪ノ下さんの彼氏だ。ところで君が来たってことはあれか? 今年は…………」

「去年は参加するだけでしたけどね、今年は委員会の方にも顔出してますよ。去年程じゃありませんがステージもやるらしいんで、良ければ来てください」

「そうか……それならいくらか出さないと悪いな」

「ありがとうございます」

 

 交渉も何もなく、向こうの方から金を出すと言ってきた。ははは、と男二人で笑いあっている内に自然と八幡の方から話を打ち切り、商店を後にした。必要な話は全てまとまっており、必要なものがあれば後日取りにくるということだ。

 

「過去にパンフに載せたことがある所は、前回に同じって手法も使えるからな。ここはおそらくそうなるだろう。二年前ならまだゲラ版が残ってるはずだから、今日行く所は全部用意しておいた方が良いな」

「もしかして全部こんな調子でまとめる自信があったりします?」

「全部はどうだろうな。ただ、今日行く所は全部、陽乃がいた時にはスポンサーをやってくれたところで、俺も陽乃と一緒に足を運んだことがある所ばかりだ。一色一人で交渉するよりはやりやすいだろ」

 

 交渉材料として陽乃を使えるのも大きい。実行委員会に顔を出しているとは言うが、彼女が現役だった時程あれこれ口を出している訳ではない。既にサボり組のサボりはどうにか帳消しにできそうな雰囲気であるが、規模で言えば一昨年の文化祭とは比べるべくもないだろう。

 

 それでも一昨年の文化祭を知っている人間には、陽乃が参加しているというだけでアピール材料になるのだから現役のいろはとしてはたまったものではない。言葉とは違いそれなりに自信があったらしい八幡は行く先々で陽乃の名前をさりげなく出してはおじさんおばさんたちの注意を引き、スポンサー候補全てをスポンサーにしていった。

 

 六限の授業が終わってからすぐに学校を出た訳だが、候補全てがスポンサーになった頃には陽もとっぷりと暮れていた。できれば委員会の進捗状況を直接確認したいが、これから学校に戻るのは微妙な時間である。進行はこのままいけばとりあえず問題ないレベルまで改善された。学校に残してきた委員やめぐりからも、問題が発生したというメールは来ていない。つまるところ何も問題はないということなのだが、一仕事終えた八幡の前でそれじゃあ帰りましょうか、というのは激しく負けな気がしてならなかった。

 

「私はこれから学校に戻ります」

 

 明らかに直帰する風だった八幡は、いろはの言葉に眉根を寄せる。

 

「何か問題があったのか?」

「いえ、そういう訳では。ただ進捗状況を確認しておきたくなりまして……」

「別に明日でも良いと思うがね」

 

 八幡からすれば時間の無駄、ということなのだろう。彼の性格ならば特に用事がなければ学校には近づきたくないのかもしれない。その気持ちはよく解るが、八幡は戻らないというのならば猶更、いろはの選択肢は戻る一択だった。

 

「一応委員長ですからね」

「そうか。ちゃんと人通りの多い道を歩いていけよ」

 

 じゃあな、と八幡はさっさと踵を返して歩きだした。彼の今日の仕事はスポンサー周りだけであるため、学校に戻ってまでしなければならないことは何もない。推薦狙いとはいえ受験生なのだからここまで協力してくれただけでも大助かりなのは事実なのだが、暗くなりつつある道を女子高生一人で歩かせるのはいかがなものだろうか。

 

 それでも人通りの多い道を歩いていけと言ってくれただけ、八幡的には優しくしているのかもしれない。完全な塩対応に比べれば幾分マシだろう。完全に溜飲が下がった訳ではないが、少しだけ気分を良くしたいろはは忠告をまるっきり無視して学校への近道を歩きだした。

 

 人通りがない訳ではないが、八幡の意図した道とは違う道である。薄暗く、人通りが少ない。穿った見方をするのであれば何かありそうな道であるが、危険なことなど早々あるはずもない。いかにも危ない目に合う直前の人間の思考で、軽い気持ちで歩みを進めていたいろはの腕を、やはりと言うか何と言うか、いきなり誰かが引いた。

 

 え、という声を上げる間もあればこそ。いろはの腕を引いた男はずんずんと人のいない方へと進んでいく。大声でもあげるべきなのだと解っていても、思考が追い付かずに行動することができない。されるがまま路地裏に連れていかれると、待っていたのはいかにも柄の悪い男がもう一人。いろはの手を引いてきた男も含めて、あまりお友達にはなりたくないタイプだったが、美少女一人を薄暗い場所に連れ込んで何をするのかと思えば、彼らの顔にあるのは困惑だった。

 

「で、これからどうするんだ?」

「そりゃあ、あれだろ……エロいことすんじゃねえの?」

「後腐れねーならそうだろうけどさ、無理じゃね?」

 

 人を連れ去ってから相談とかしないでほしいものである。既に腕も離されていて、男たちはいろはを放って――一応逃げられないように気にはしながら、あーでもないこーでもないと言いあっている。

 

 冷静になってみればとても計画的とは思えない行動だ。薄暗い人通りのない場所とはいえ大声を出せば人に聞こえる距離である。いかがわしいことをするような場所ではないし、そもそも二人は積極的に行動したようにも見えない。誰かがノリで提案し、それを誰も否定できなかったから実行に移した風である。

 

 相手にされたいろはからすれば迷惑極まりないが、一先ず自分の純潔が散らされるような事態にはならなそうだと小さく安堵の溜息を漏らした。

 

 とは言え事態は全く改善されていない。どこの誰とも知れない男に、暗がりに連れ込まれたという事実は何も変わりない。当面の身の安全は保証されているようだが、それがいつまで続くという保証もない。

 

 一刻も早くこの場から逃げなければならない。

 

 幸い後ろには誰もいないので、退路は確保できている。踵を返し走ればすぐに人がいる所までたどり着けるはずだ。途中で大声でもあげればこの連中も諦めるだろうし、それが成功する確率は高いように思える。男たちは今いろはに注意を払っていない。やるなら今だ、といろはの理性的な部分が告げているが、心情的な部分が行動を躊躇わせていた。

 

「つーかさ、そういうことやるとしてその後どうすんのよ。俺ら普通に捕まらね?」

「漫画とかだととりあえずその場逃げ切って後で殺されたりするんだよな……どうしてんだべなあれ」

「解る。俺ら犯人はお前だ! って所までには死んでそうだもんな」

 

 どうしてこの場でそれに気づける知恵があって、こういうことを実行しようと判断するに至ったのか。不良二人の思考回路に理解しがたいものを感じるいろはだったが、やはり足は動かない。不毛で不安な時間がいろはにとってはじりじりと過ぎていく。その間にも続いていた不良たちの話しあいは、僅かな時間の後に一応の結論に達した。

 

「とりあえずカラオケにでも行くか」

 

 不良二人の視線がいろはに向く。無論のこと、いろはの答えはNOだった。今日あったばかりの全く好みではない男子二人と一緒にカラオケに行って何を歌えば良いというのだろうか。楽しい時間は過ごせそうにもないしできれば遠慮したいが、やはり声が出てこない。

 

 肝の太い方だと自分では思っていたことは、どうやら思い過ごしであったらしい。こんなことなら言われた通りに人通りの多い所を通っていれば良かったと心中で後悔しても遅かった。どうにかしてこの危機を乗り越えなければ。声を出せない身体が動かないまでも、諦めるということだけはせず頭を働かせ続ける。

 

 いろはが無言でいることを、勝手に同意と取ったのだろう。不良二人が無遠慮に近寄ってくる。手を取られそうになった時、いろはは思わず目を閉じてしまった。

 

「人の言うこと聞かないから、こういうことになるんだよ」

 

 耳元に、愛情が欠片も感じられない冷たい声が届いた。目を向ける。やぶにらみの悪党面がそこにあった。いろはを挟んで不良が二人。彼の姿を見て距離を取る。

 

「無事だな?」

 

 八幡の問いに、いろははこくこくと頷いた。言いたいことは沢山あるのに、まだ声がでない。本当は涙が出そうなほどに嬉しかったが、それを示すこともできなかった。やっぱり自分は雪ノ下陽乃にはなれないな……と心中で落ちこんでいるいろはと不良の間に、八幡が割って入る。彼の背中ごしに見る不良二人は、突然現れた男の顔を見てそれが誰なのかに即座に思い至ったらしい。

 

「総武の制服に悪党面……お前、『女王の犬』か!?」

「うちで他にそう呼ばれるような奴はいないだろうから、まぁそうだろうな」

 

 不良に犬と呼ばれ八幡は一瞬だけ嫌そうな表情を浮かべた。自分で名乗ったり陽乃をご主人様と呼んだりするのに勝手な話である。反射的に突っ込みたくなるいろはだが、それを寸前で堪えた。せっかく助けに来てくれたのだ。今は一刻も早くこの状況を脱したかった。

 

「その名前で呼ぶなら俺のご主人様が何処の誰なのか良く解ってるだろ? こいつは今度の文化祭の実行委員長でな。その進行具合について、うちのご主人が大変憂慮されておられるのだ。これ以上進行が遅れてみろ。あの人の逆鱗に触れるぞ?」

 

 それは不良たちに対する脅しのつもりだったのだろうが、言葉を重ねるごとに八幡の顔色は悪くなっていく。誰よりも陽乃に近しい場所にいる八幡だ。そういう人間が見せる顕著な反応に、不良たちは一歩、二歩と後退っていく。

 

「それからもう一つ言っておく。お前たちは色々陽乃の噂を聞いてると思うが、それは全部間違いだ」

 

 一瞬、不良たちの間に安堵による気の緩みが見られたが、それを見計らったように、八幡は言葉を続けた。

 

「噂はどれも物凄く控えめに語られている。あの人はやると決めたら必ずやるし、途中で手を止めたりは絶対にしない。報復される可能性が見込めるなら、手を引いておいた方が良い。俺が言うんだから間違いないぞ。いや、もうお前らのために言ってるようなもんだが、悪いことは言わない。興味本位であの人に絡むとロクなことにならないからなマジで」

「…………今なら何もなかったことにしてもらえるのか?」

「当たり前だろう。俺だって面倒ごとに巻きこまれたくない。俺は何も見なかったし聞かなかった。お前たちもそうだ。お互い安心安全な放課後を送るんだ。それで何か問題あるか?」

「いや、何もない。悪いな、その、気を使ってもらって…………」

「そもそもここでのことはなかったことになるんだ。気にするも何もないだろ。良いからさっさと行け」

 

 八幡に促され、不良たちはそそくさと去っていった。陽乃が生徒会長だった頃はまさに、近隣の高校生たちの女王として君臨していた。良い子も悪い子も普通の子も、大小はあれど雪ノ下陽乃の影響を受けており、特に悪い子の集団は陽乃の影響下にあった。

 

 総武高校の周辺を陽乃の縄張りと認識し、その内部及び周辺では自主的に問題を起こさないようにしていた程だと言えば、その影響力も理解できるだろう。陽乃と同学年であった連中は陽乃と同様卒業しているが、不良は不良で縦社会である。どういう事情であれ、自分たちがそれなりに敬意を払っていた人間に後輩が粗相をしたとなれば彼らにとっては大問題だ。尻尾を巻いて逃げるのはむしろ、当然の判断であると言える。

 

「その……お手数おかけしました。ごめんなさい」

「さっきの連中にも言ったが、ここでのことはなかったことになったから気にするな。解ってると思うが他言無用だぞ」

 

 他校の不良に絡まれたなど公開してもいろはに良いことは何もない。他言無用というのはむしろいろはの方から願い出なければならないことだ。八幡の方からそう言ってくれるのであれば否やはなかったが、いろはが言いたいのは別のことだった。

 

「言いつけを守って人通りの多い所を歩いていればそもそもこんなことには……」

「だろうな。だがまぁ、起こっちまったもんは仕方ない。次から気を付ければ良い」

 

 八幡の反応は軽い。それはいろはの期待したものではなかった。二つ年上で、学校では実績もある人から言われたことを、自分の都合を優先して無視した上にトラブルに巻きこまれ、しかもそのトラブルを解決してもらった。そのまま家に帰っているはずの八幡が、どういう事情かはともかく後をついてきてくれたのだ。

 

 どちらかと言わなくとも、非はいろはの方にある。一方的に手間をかけてしまったのだ。せめてその相殺くらいはしないと、八幡の方に割に合わない。何より借りを作ったままにしておくのは、いろはとしてもしっくりとこない。どうせ水に流してくれるのならば、ここで一つ怒ってもらった方が良かったのだが、八幡はあくまでなかったこととして処理しようとしていた。

 

「不満そうだな」

 

 それを良く思っていないことが、顔に出ていたらしい。指摘されたいろはは慌てて顔を背けるが、時は既に遅い。そんな後輩を八幡は八幡で居心地悪そうに眺めていたが、やがて小さく溜息を吐くと、がりがりと頭をかきながら嫌そうに話し始めた。

 

「お前の気持ちは解らんでもない。俺も二年前はそうだった」

「二年前と言えば、先輩は素敵な彼女さんができた時期じゃありませんでしたっけ?」

 

 八幡と陽乃の馴れ初めは、総武高校の学生の間では有名な話である。今だにどちらから告白したのかという話には決着がついていないものの、八幡か陽乃、そのどちらかを知っていれば文化祭の時期に付き合い始めたという話は知っているはずである。

 

「……そう言えばちょうど今の時期だったな、文化祭の時には付き合ってたが……まぁそれは良い。俺が言いたいのは人が褒めてくれることを期待するなってことだ」

 

 どんな的はずれな話をするのかと思っていたら、結構的を得てきた。ささくれた気持ちを誤魔化すためにどんな話でも茶化すつもりでいたのだが、黙って聞いてみることにした。

 

「自分が会心のできだと思ったことでも、相手にとっては大したことのないことだったりする。想定を下回ってたりもする。そうなれば、相手にとっては褒めないのが当然のことだ。それに値しないんだからな。だが、こっちにとってはそうじゃない。それが不満になりストレスになり、間が悪いと胃に穴が開くらしいんだが、幸いにも俺はそこまでになったことはない。体調を崩したことくらいなら何度もあるが……」

 

 そこで、八幡は自分の胸に手をやる。それまで集団の外にいた人間が、いきなり陽乃の子分になってこき使われるようになるのは相当なストレスだっただろうことは、生まれてからずっとリア充側にいたいろはにさえ理解できる。非リア充のぼっちと自分で言うだけあって、強面な見た目ではあるものの、八幡は決して健康的な風貌ではない。何度もあるというのは、本当に本当のことなのだろう。

 

「それくらいの気は使ってしかるべきとも思うだろう。だが大抵の場合、相手はそこまで暇じゃない。なら、ただそれだけでストレスを溜めるのもバカらしいだろ? 他人は褒めてくれないものだ。何よりやるべきことをやってれば良い。そうすればまぁ、たまには誰かが褒めてもらった時にはそこはかとなく嬉しいもんだ」

「それは経験談ですか?」

 

 いろはの顔に小さく笑みが浮かぶ。ここまで言われると、八幡なりに励ましているのだといろはにも理解できた。珍しいことだ。今を逃したらもう一生ないかもしれない。そう思うと、いろはの心にも熱が戻ってくる。気づけばいつもあろうとしている『かわいくあざとい後輩』の一色いろはに戻っていた。

 

「…………コメントは控える」

「二つも下の女子にそんな赤裸々な告白をするなんて……ちょっと先輩のイメージが変わりました」

「血も涙もないインテリヤクザとでも思ってたか?」

「実はその通りです」

 

 ふぅと、二人揃って大きな溜息を吐く。色々考えていたことがバカらしくなってきた。先ほどまでのことがなかったことになったのなら、気持ち的に仕切りなおしても良いだろう。比企谷八幡という人間に対して、いろははもう少し――いや、もっと、遥かに、図々しく行ってやろうと思った。

 

「物は相談なんですけど先輩」

「学校までついてこいってんだろう? いいよ、さっさと行こう」

「何だか先輩、傷心の後輩のために少しだけ優しくなってません?」

「…………行かないなら帰るぞ俺は」

「冗談ですよ。頼りにしてます、先輩」

 

 


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