犬とお姫様   作:DICEK

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番外
番外1 少し前のバレンタインにあったこと


 

 男の戦場。全ての男がギラギラとした気配を放つその日にも、比企谷八幡は平常運転だった。

 

 内面が色々な意味でアレだけれど、美人でスタイルが良く料理も得意な彼女がいるから、という事実もその余裕の一因ではあったが、中学を卒業して以降、自分なんぞに構う人間などいるはずがない……という悟りを開いたのも大きかった。

 

 期待をするから幻滅するのだ。最初からそんな都合の良いことはないと割り切っていれば、成果が0であったとしてもダメージは少ない。冷静に考えてみればそれは負け犬の理論であったのだけれども、高校最初のバレンタインデーを迎えるまでに彼女ができた八幡は、幸か不幸かその理論を高校で実践することはなかった。

 

 さて、その八幡が登校した二月十四日。世の中の男女の第一次決戦のその日、登校した彼が下駄箱を開けると、その中にはファンシーな手紙が一通納められていた。それを見た八幡が最初に考えたのは『こういう時にどういう顔をすれば良いのだろう』ということだった。

 

 これが中学生の時ならば、見た瞬間に挙動不審になっていたことだろう。確実に悪戯だと理性が告げていても、奇跡を信じずにはいられず、放課後まで淡い期待を抱きながら、結局はすっぽかされたことにさらに絶望し、とぼとぼと帰路についたに違いない。

 

 中学生の時の可能性を幻視しながら、手紙を取って裏返してみる。その辺りの店で売っていそうな、如何にも女子が使いそうな封筒だ。差出人の名前はない。外周を指でなぞってみるが、古典的なカミソリ攻撃というのでもなさそうだ。日に透かして見ても、固形物は入っていないように見えた。虫の死骸というケースも、これで消えたことになる。

 

 指で丁寧に封印を解き、中から便せんを取り出す。封筒と同じくこれまた女子らしい見た目の便箋には、しかしあまり女子らしくない綺麗な字でこう書かれていた。

 

『放課後、待ってる』

 

 どこで、という文言はない。それは自分で考えてその場所を見つけ出し、女王様が飽きてご帰宅される前に辿り着くべし、という勅命に他ならなかった。文面の意図を理解した八幡の口の端が挙がる。目つきの悪い八幡がやるとその邪悪さも一入であるが、幸いにも八幡に視線を向ける人間はいなかった。

 

 手紙を懐に仕舞い、教室に向かう。どこに向かうか。犬にとってそんなものは、考えるまでもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後。適当に授業を受けた八幡は、今日は遅くなるという連絡をした後、最寄の駅に寄った。

 

 こういう時のためにカバンの中には着替えが用意されていた。トイレの中で着替えて、鏡の前で髪型を整える。制服を脱いだだけで印象はそれなりに変わるが、高校生よりも上の年代に見えるかは微妙なところだ。

 

 無駄に背伸びをしているような気がする。八幡はこの手の変装があまり好きではなかったが、制服でいると余計なトラブルに巻き込まれることもある、という陽乃の主張に折れる形で、着替えを常備するようになった。制服でいようと私服でいようと陽乃の性格であれば巻き込まれる時は巻き込まれるのだが、それは気にしないことにした。その程度のトラブルなど、陽乃と付き合ってからこっち、驚くには値しない。

 

 私服に着替え、自分の不景気な顔に気合を入れた八幡は、電車に乗って目的地まで移動した。

 

 あの時は人気もなく静かだった公園は、バレンタインデーということもあって、男女の人通りが多くあった。それなりに近隣において定番のデートスポットなのだろう。リア充爆発しろ、とやはり定番のことを思いながら、陽乃の姿を探す。

 

 絶対にここだ、という確信が手紙を見た瞬間からあっての行動だったが、もしいなかったらどうしようという不安は、犬になって一年以上経っても消えなかった。

 

 これで間違いだったら大目玉だ。バレンタインにすっぽかしたとなれば、陽乃のことだ。どんな報復をしてくるか解ったものではない。

 

 日も暮れて外灯が灯る頃。思い出のベンチに座っている陽乃の姿を見て、八幡は小さく安堵の溜息を漏らした。自分の感性が間違っていなかったことに、少しだけ嬉くなる。

 

 陽乃に声をかけずに、八幡はベンチの端に腰を下ろした。長い足を組んだ陽乃は、八幡とは逆の端に静かに腰掛けている。

 

 無言の時間がしばらく続いた。煙草でもあれば絵になるのだろうが、未成年である、という以前に陽乃からは絶対に吸うなと釘を刺されている八幡である。キスが煙草臭くなるのに耐えられそうにない、とのことだ。女王様にしてはかわいい理由もあったものだが、恋人に言われては仕方がない。多少の憧れはあったものの、陽乃と一緒にいる限りは一生涯吸わないと心に決めたのも記憶に新しい。

 

「合格」

 

 少し離れた陽乃が、小さく呟いた。拳一つ分くらいの距離を、そっと詰めてくる。

 

「良くここだって解ったね。ヒントは何も出さなかったのに」

「こういう日くらいは、陽乃も雰囲気とかロマンとか、そういうのを求めるかと思いまして」

 

 苦笑を浮かべた八幡は辺りを見回した。ここは陽乃に告白され、付き合うことに決めた場所である。他にも思い出の場所は色々あるが、校外で、今日中に無理なく行ける場所となれば、ここしかないと八幡は思ったのだ。それでも心配になったのはご愛嬌だが、目の前に陽乃がいるのだから、何も問題はない。

 

「一応、私も女の子だからね。それに高校最後のバレンタインだし? 少しはこういうこともしてみたいなと思ったの」

 

 はいこれ、と陽乃が包みを差し出してくる。一目で陽乃がラッピングしたものだと八幡には解った。こういう性格でも陽乃は全ての家事に万能だ。主夫を目指すと自称した身としては、その完璧さに頭の下がる思いである。

 

「ありがたくいただきます」

「おかえしは無理しなくても良いからね。心さえ込めてくれれば、私は何にも気にしたりしないから」

 

 それが一番難しいのだ、ということを解った上で、陽乃はそういうことを言う。初めての彼女、しかも相手が陽乃ということもあって去年のホワイトデーには散々悩んだものだ。今年もそうなるのかと思うと気分も重いが、今年は幾分、その重さを楽しめるようになっていた。陽乃に毒されているなと思う瞬間である。

 

 言葉の間に、陽乃は少しずつ距離をつめてきていた。離れていた距離は、既に腕を伸ばせば届くくらいの距離になっている。外灯の薄暗い光の中、陽乃のはっとする程白い項が見えた。陽乃にしては控えめな態度に、八幡は彼女が何を要求しているのかを理解した。自分から行動する陽乃にしては珍しい欲求であるが、これもバレンタインだから、と言ってしまえばそれまでだった。

 

 八幡のような性格をしている人間にとって、それは羞恥プレイに等しかったが、陽乃がこういう要求をしてくることなど、いつものことだ。そう割り切れば大抵のことはできる……はずなのだが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。

 

 笑みを堪えながら押し黙っている陽乃の肩にそっと手を置く。僅かに離れた距離で八幡を見上げる陽乃の顔には、やはり笑みが浮かんだままだった。言ってやりたいことは山ほどだったが、それら全てを押し込んで、八幡はそっと目を閉じ――陽乃もそうしているだろう、ということを確信しながら、顔を寄せる。

 

 ごちん。

 

 決して小さくない音がした。痛みを堪えつつ目を開くと、すぐ近くに陽乃の顔があった。楽しそうに笑う陽乃の顔を見て、自然と八幡の頭に浮かんできたのは、ただ一言。

 

「陽乃」

「もっと呼んで」

「陽乃」

「…………八幡の声にも味が出てきたね。もう一回」

「陽乃」

「私も雰囲気に流されてるのかも。何だかとても良い気分。次で最後。ちゃんとバレンタインらしい大好きを込めて」

「…………陽乃」

「うん、良く出来ました」

 

 満面の笑みを浮かべた陽乃は、ポケットから取り出したチョコを自分の口に放り込むと、そのまま唇を重ねた。甘ったるい味が口の中に広がると同時に、陽乃の舌も侵入してくる。逃げようと思った時には、もう遅かった。がっしりと頭を掴まれていた八幡は、陽乃の気が済むまで蹂躙される……

 

 唇を離すと、唾液の糸に外灯の薄明かりが反射していた。真っ赤になっているだろう自分の顔を自覚しながら、適度に頬を染めている陽乃の肩を押す。気持ちが落ち着かない。普通逆だろうと思いながらも顔を逸らそうとする八幡に、楽しそうに笑う陽乃は無遠慮に身体を寄せてくる。

 

「あ、八幡のくせに照れてる。かわいー」

「男にかわいいとか言わないでくれませんか。俺でもたまには、傷つくことがあるもので」

「たまには良いじゃない? 年に一度なんだから」

 

 満足そうに、よしよしと頭を撫でる陽乃の顔を見ながら、八幡は来月のお返しは何にしようと頭を巡らせていた。あっと驚く仕掛けができれば良い。一月もあれば何か、良いアイデアが浮かびそうな気さえしていた。来月はこれで勝てる。自分の未来に根拠のない展望を抱いた八幡は、内心でにやりと邪悪に笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな八幡の顔を見ただけで、陽乃は自分の恋人が何を考えているのか一瞬で理解した。

 

 裏をかけると思っているのならば思い上がりも甚だしいが、努力をしようという姿勢が嬉しくもある。それに、普段はあまり見せることのない八幡の真剣な表情は、決して多くはない陽乃の乙女心を大いに刺激していた。

 

 これはもう、悪戯をするより他はない。

 

 考えに没頭するなど、女王の前では大きな隙だった。そもそも、ポケットの中のチョコが一つだけだと決めてかかっている辺り、眼前のワンコはまだまだ詰めが甘い。

 

 にやり、と邪悪に笑った陽乃はそっと口の中にチョコを放り込んだ。

 

「八幡?」

 

 振り返った八幡の無防備な顔に、陽乃は勢いよく唇を重ねた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




去年はセングラでしたが今年は青春ラブコメ。
日付が変わってから考えて書いたものですが、どうにか間に合いました……

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