恋の時価総額は計れない   作:深紫Sιn姉

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第十話:白銀圭は始めたい

祭りの後には、世界から色が抜けたような特有の静寂がある。

 

秀知院学園、奉心祭。昼間のあの狂乱のような喧騒が嘘のように、中等部の校舎は深い青に沈んでいた。廊下を走り回る生徒たちの足音も、賑やかな客引きの声も、もうない。

 

カフェの片付けが終わった頃には、窓の外はすっかり夜の帳が下りていた。

手伝ってくれたクラスメイトたちは「会長、副会長、お疲れ様でしたー!」と充実した顔で手を振って帰っていき、最後まで残っていた萌葉も「私は千花姉ぇと合流してキャンプファイヤーの火の粉を浴びてくるから! ごゆっくりねー!」と、ウインクを残して嵐のように去っていった。

 

残されたのは、私と宝月くんだけ。

 

生徒会室——いや、今はまだ机や椅子が端に寄せられたままの、祭りの残骸が漂う部屋に、二人だけの静寂が戻ってきた。

 

「……ふぅ」

 

私はメイド服のエプロンを外しながら、一つ大きく息を吐いた。チラリと、視線を彼に向ける。

 

彼は燕尾服のジャケットを椅子の背にかけ、シャツの袖をまくったまま、洗い終わった最後のティーカップを丁寧にクロスで拭いている。整えられていた髪は汗で少し乱れ、額に張りついている。普段の、涼しい顔でキーボードを叩いている「完璧な副会長」とは、まるで別人みたいだ。でも、その不器用で、泥臭くて、一生懸命な姿が、なんだかとても人間らしくて——胸の奥が、きゅっとなる。

 

(……今、言うべき?)

 

勢いで「後夜祭、時間ある? 話したいことがあるの」なんて啖呵を切ってしまった。あの時はアドレナリンが出ていたから言えたけど、実際にこうして二人きりになると、急に足がすくむ。

 

「……会長」

 

彼が急に背後から声をかけてきて、私は「ひゃっ⁉︎」と変な声を上げて飛び上がった。

 

「な、なに⁉︎」

「……いえ、驚かせてすみません」

 

彼は拭き終わったカップを棚に戻しながら、いつもの落ち着いた声で言った。

 

「……着替え終わりましたか? 後夜祭、一緒に行きましょうね」

 

その言葉に、私の思考回路が急速に回転を始めた。

 

(待って。……もしかして、宝月くんも緊張してる?)

 

普段なら「効率的に移動しましょう」とか言い出しそうな彼が、私の準備をじっと待っていた。そして、「話したいこと」の内容を、敢えて聞いてこない。これは……気づいている? 私が何を言おうとしているのか、彼は察しているのかもしれない。

 

(だとしたら……これはチャンス? それとも罠?)

 

私は頭の中で高速でシミュレーションを始めた。

彼は私の言葉を「告白の前触れ」と捉えて、待ち構えているのかもしれない。あるいは、財閥の御曹司らしく、私から言わせるように誘導しているのやもしれない。私の中のエンジェルが、脳内で警報のホイッスルを鳴らしている。

 

「会長?」

「……うん、行こう。でも、ちょっと待って。着替えてくるから」

 

私は逃げるように更衣室代わりの準備室へ駆け込み、制服に着替えた。フリルのついたメイド服を脱ぎ捨て、いつものブレザーに袖を通すと、物理的な重さは消えたのに、心の重圧は倍増した。鏡の中の自分を見る。顔が赤い。深呼吸を三回繰り返して、私はドアを開けた。

 

「お待たせ」

 

外に出ると、彼はもうジャケットを羽織って待っていた。燕尾服から制服に戻った彼は、いつもの副会長の姿だ。でも、今日の彼はやっぱり違う。皿洗いをしてくれた荒れた手、汗だくの横顔、私を信じて背中を押してくれた言葉——全部が、頭から離れない。

 

「行きましょう」

 

彼が先に歩き出し、私は半歩後ろをついていった。廊下はまだ祭りの余韻と熱気が残っていて、遠くからフィナーレの花火の準備アナウンスが聞こえてくる。

 

グラウンドに出ると、予想通りの人混みだった。

 

レジャーシートを広げたグループ、最後の売り尽くしをする屋台の列、ステージのライトアップ。後夜祭らしい、少し切なくて賑やかな空気。

 

キャンプファイヤーの炎が揺らめく。

夜空を焦がすように燃え盛っている。

 

「……人が多いですね」

「そうだね。……これじゃ、落ち着いて話せないかも」

 

私がそう呟くと、彼は少し考え込み、そして歩き出した。

 

「こちらへ」

 

彼が向かったのは、人混みを避けたグラウンドの端——銀杏並木の近くにある、古い木製のベンチだった。そこは街灯の光が届きにくくて、少し暗い。メイン会場からは離れているけれど、キャンプファイヤーも、これから上がる花火もよく見える隠れ特等席だ。

 

「ここで、いいですか?」

「……うん」

 

私は座って、膝を抑えた。

彼も、少し間を開けて隣に座る。

 

距離は、五十センチくらい。

 

今日のカフェで、トラブル対応のために肩を寄せ合っていた時よりずっと離れているのに、なぜか今の方が息が詰まるほど近く感じる。

 

沈黙が続いた。遠くの歓声が、まるで水の中にいるようにこもって聞こえる。

 

(……どう切り出そう)

 

私は頭の中で必死に台本を組み立てる。『今日はありがとう。副会長として、いつも助かってる』……これは弱すぎる。『私、悠くんのこと見直したよ』……これじゃ上から目線すぎる。『ねえ、私のことどう思ってる?』……これじゃ誘導尋問だ。

 

言おうとすると、喉が詰まる。

 

もし私が口火を切って、彼が「えっ、そういうつもりじゃ」なんて反応したら、私のプライドは粉々になる。きっと宇宙の塵となって消えてしまうだろう。

 

(う、うーん……)

 

チラリと横目で彼を見る。

彼は、無言で空を眺めている。

 

(ええいままよ!)

 

いつまで経ってもこれじゃあ埒が明かない。

私は意を決して、口を開いた。

 

「あのさ、宝月くん」

「会長」

 

声が重なった。同時だった。

 

私たちは顔を見合わせて、ぴたりと止まった。

気まずい沈黙が流れる。

 

「……どうぞ、会長から」

「……ううん、宝月くんからでいいよ」

 

お互い譲り合う。

プライドの塊同士の、静かな戦争。

 

「…………」

「…………」

 

(いやいや、だからこれじゃあダメなんだって!)

 

私はコホン、と咳払いをして仕切り直した。

 

「……今日、本当に助かったよ。プランBとか、整理券とか……全部、宝月くんのアイデアだったでしょ? やっぱり、すごいんだね」

「いえ。システムを作ったのは俺ですが、現場を回したのは会長です。……会長の笑顔がなければ、お客様は満足しませんでした」

「そんな……私なんて、パニックになってただけで」

「それがいいんです。……俺は、会長のそういう、等身大で一生懸命なところを……ずっと」

 

彼が言葉を詰まらせた。

私の心臓が跳ね上がる。来る。これは、来る。

 

「……ずっと、評価していました」

 

ズコーッ。私は心の中で盛大に転んだ。

 

「その、数値化できない魅力と言いますか……」

 

彼は慌てて言い繕うとしている。その姿を見て、私は確信した。この男、完全にテンパっている。どう伝えていいか分からなくて、ロジックの迷路に迷い込んでいるんだ。

 

(……もう。じれったいなぁ)

 

そんな不器用なところが、どうしようもなく——彼らしい。私は少しだけ意地悪な気持ちになって、その顔を覗き込んだ。

 

「ねえ、宝月くん。私の『話』ってなんだと思う?」

「えっ……それは、その……次期生徒会の方針についてとか、あるいは……」

「違うよ」

 

私は首を振った。

墓穴を掘った。

でも、もう隠す必要なんてない気がした。

 

「……ズルいよ、宝月くん」

「え?」

「こんな状況でも……余裕ぶってさ」

 

私は頬を膨らませて、彼を睨んだ。

でも、彼は真剣な顔で首を横に振った。

 

「余裕なんて、ありませんよ」

「え?」

「余裕があったら……こんなに手が震えはしません」

 

彼は自分の膝の上で握りしめられた拳を見つめた。

 

——ああ、そうか。

彼も私と『同じ』だったんだ。

 

その瞬間、私の中の小さな拘りがどうでもよくなる。

 

「……バカだなぁ」

 

私は呟いた。

 

「……会長?」

「宝月くん。……私の方を見て」

 

彼はゆっくりと顔を上げた。

その瞳が、私を映している。

 

街灯の薄い光と、遠くのキャンプファイヤーの炎が、彼の顔をぼんやりと照らしていた。

いつもはクールで、数字やロジックで武装している瞳なのに、今はただ、私だけを見ている。揺れている。震えている。それが何だか嬉しくて。

 

「……ふふっ」

 

私は微笑みを漏らした。

自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。

 

「……ふう」

 

彼は一度目を伏せて、ゆっくりと息を吐いていた。

その時、彼の方から、

 

「会長……。いえ、『圭さん』」

 

ふと名前で呼ばれて、じわりと胸が熱くなる。

こんなところで、こんなタイミングで。ずるい。

 

「今日も、ありがとうございました。……俺は、会長の下で副会長をやって、本当に」

 

言葉を探すように、少し間を置いた。

 

「楽しかったです。最初は、ただの興味だったのに。いつの間にか、会長の隣にいるのが、当たり前になって。会長が笑うと、こちらまで嬉しくなる。会長が困ってる顔を見ると、なんとかしてあげたくなる。……それが、いつからか、ただの生徒会のことじゃなくなって」

 

私は、息を止めて聞いていた。

心臓が、うるさいくらいに鳴っている。

 

「……俺、圭さんのことが」

 

言いかけた言葉を、私は無意識に重ねてしまった。

 

「……待って! 私も」

 

彼が、ぱっと顔を上げた。

 

「……え?」

「……私も、宝月く……いや。『悠くん』のことが」

 

言葉が、勝手に出てきた。

もう、止まらなかった。

 

「いつも助けてくれて、ありがとう。生徒会の仕事も、奉心祭のピンチも……全部、悠くんがいてくれたから、私、頑張れた。頭いいし、仕事できるし、ちょっとポンコツなところもあるけど」

「はは、それはその……」

 

彼が苦笑いした。

でも、目が優しく笑ってる。

 

「……それが悠くんらしくて。理屈っぽくて、時々生意気で……そして、だから私は」

 

最後の言葉は、ほとんど吐息みたいになった。

彼の瞳が、大きく見開かれた。

 

「……圭さん」

「……悠くん」

 

その瞬間——。

 

ドーン、という大きな音がした。

夜空に、最初の花火が上がった。

金色の光が、大きく広がる。

 

私たちは、同時に顔を上げた。

そして、また同時に、口を開いた。

 

「「好きです」」

 

——重なる。

 

花火の光が、私たちの顔を照らす。

 

私は、ぽかんとして彼を見た。

彼も、同じように私を見ていた。

 

花火が、次々と上がる。

赤、青、緑、金。夜空が、光で埋め尽くされていく。

 

「綺麗……だね」

「ええ。とても綺麗だ……」

 

花火が、クライマックスを迎える。

夜空が、全部、光で染まる。

 

私は、彼の肩に、そっと頭を預けた。

 

「——幸せ」

 

小さな呟きは、花火の音に消えたけど。彼が、私の手を、ぎゅっと握り返してくれたから、ちゃんと伝わった。その手の温もりは、確かに身体に、心の中に染み渡っていく。

 

花火が終わって、拍手が響く中。

私たちは、手を繋いだまま、夜空を見上げていた。

 

ああ、それはきっと。

互いを結び合うように。

ながく、長く、永く。

 

その温もりに、二人の未来を重ねながら——。

 

 

本日の勝敗:両者勝ち

理由:それが、『二人』の本当の始まりだったため

 

—END—




完結! 最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

庶民派の圭ちゃんと、金銭感覚バグり御曹司の宝月くん。凹凸な二人の恋の行方が、皆様にとって少しでも「プライスレス(計算できない価値)」な時間として届いたのならば、作者としてこれ以上の喜びはありません。

偉大なる原作と、ここまで見守ってくださった全ての読者様に感謝を込めて。
またいつかの物語でお会いしましょう。それでは、また。
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