半天狗が幻想入り   作:ろんぐそーど

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第二十五話

 

「……湖にはまだ着かないのか」

 

 地上に到着し、歩き始めて数十分。積怒の押し殺した声が霧と混じり合い、消えていく。

 それは単なる自然現象というだけではない、どこか冷ややかで妖力が混じり合った人為的な霧にも感じられ、歩を進めるごとに木々の輪郭は曖昧になり、見えない巨大な口の中に自ら進んで呑まれていくかのような錯覚に陥る。

 

「もうすぐだよ。この森を抜けたら、見えてくるからさ」

 

 お燐はランタンを前方に掲げ、霧を払いながら軽快に歩を進める。その足取りには、この不気味な濃霧に対する恐怖など全くもってなかった。

 しかし、積怒にとってはそうはいかない。進めば進むほど肌にまとわりつく湿気が重くなり、そこに混じる異質な妖力の残滓が、神経を不快に逆撫でしてくる。

 

「ああ鬱陶しい……!何なんだ、この霧は!」

 

 積怒は苛立ちのままに錫杖を地面へ突き立てた。バチバチと電が爆ぜ、周囲の霧を電圧で強引に弾き飛ばしたが、それも束の間。払われた霧は何事もなかったかのように再び元の濃密な白さへと戻っていく。

 

「ヒィ……!何かに監視されておる、視線を感じる……! 恐ろしい、恐ろしい……!!」

 

 異質な霧の不気味さに拍車をかけられた半天狗が、積怒の髪の毛を毟らんばかりの勢いで掴み、情けない悲鳴をあげる。その細い指先は恐怖に震え、積怒の首筋に冷たい汗となって伝わっていた。

 

「野良の妖怪じゃない?霧の湖は魔法の森とも近い位置にあるから、夜になると色んな連中が徘徊してるんだよ。襲ってこないのは、アタイたちとの力の差を感じ取ってるからかもね」

 

 お燐は事もなげに言いながら、猫耳を器用にピクピクと動かして周囲の音を拾っている。そのあまりに警戒心の薄い態度が、常に敵の気配に神経を尖らせていた積怒にはどうにも我慢ならなかった。

 

「緊張感の欠片もない……このような見通しの悪い場所、奇襲を仕掛けてくれと言っているようなものだ」

「大丈夫だって。そこらの妖怪なんか旦那たちの相手にならないよ……っと、ほらついた」

 

 全く意に介さない様子でケラケラと笑うお燐の言葉通り、踏みしめる足裏の感触が乾いた土から湿り気を帯びた草地へと変わったと思った瞬間、唐突に視界が開けた。

 深い木々を抜けた先に広がっていたのは、どこまでも平坦な鏡面。夜空の星々と、妖しく輝く満月を水面に完璧に映し出した「霧の湖」である。

 

「やっぱりいつ見てもド迫力だねえ」

 

 お燐は感嘆混じりの声を漏らしながら、二股の尻尾を振るう。

 

「……」

 

 だが、積怒が目を向けたのは眼前の湖ではなく、湖畔のさらに奥で周囲の霧を従えるようにしてそびえ立っている巨大な真紅の洋館――紅魔館だ。

 天を突き刺すような尖塔と中世ヨーロッパを思わせる石造りの壁面は、幻想郷の和の風景とは明らかに異なっており、まるでそこだけが別の場所から切り取られて配置されたかのような自己主張をしていた。

 

「あそこが目的地だよ。あの大きな門のところに、門番がいるはずだから」

 

 お燐が指さす巨大な影を見据えながら、積怒は無意識のうちに己の牙を噛み合わせていた。

 

「見るからに歪で傲慢で、アレの主とやらの性格が透けて見えてくるほどに悪趣味な館じゃ……反吐が出る」

「ヒィィ! 禍々しい、禍々しい館じゃあ! あんな所へ入れば、生きたまま皮を剥がれて、吸血鬼の餌にされてしまうのではないか!?やっぱり地底に帰ろう……!!はよう、はよう!!」

 

 積怒の髪の隙間から、半天狗が涙と涎で顔を濡らしながら這い出てくる。恐怖のあまり、頭皮から血が滲むほどに積怒の髪を引っ張っては、地底へ引き返そうと醜くのたうち回る。

 

「喚くな見苦しい!ここまで来ておいて、今更退けるか!日光の克服は良いのか!?」

 

 有無を言わせぬ怒声で一喝され、半天狗の動きがピタリと止まった。どうやら「日光の克服」と「恐怖」を天秤に掛けた結果、前者の重みが勝ったらしい。

 ガタガタと歯の根を鳴らしながらも、半天狗は再び積怒の髪の奥へと身を隠す。

 

「お爺ちゃんも旦那も、そんなにビクビクしなくて良いって。さとり様がちゃんと話を通してくれてるし、紅魔館の面子だっていきなり取って食う人なんかいないからさ。一名を除けば」

 

 お燐はあっけらかんと言って湖畔の道を進んでいくが、能天気な彼女の言葉も、積怒の不快感を欠片も軽くすることはなかった。むしろ、その「一名」とやらが自分たちを脅かしかねない危険因子であることを暴露されたに等しい。

 お燐の言う例外が誰を指しているのかは知らないが、こちらに牙を剥くというのならその時はその時。掛かる火の粉は払うのみだと、積怒は胸中に渦巻く殺意をさらに研ぎ澄ませてお燐の後に続いた。

 

 紅魔館の正面へと至る道を進むにつれ、館を囲む鉄柵と共に重厚な正門が姿を現す。門前には、鮮やかな緑色のチャイナドレスに身を包んだ長身の女性が一人立っていた。

 

「あれは……起きてるのかな」

 

 ランタンを少し高く掲げ、お燐が不審そうに目を細める。

 門番であろう女性は、門柱に背中を預けたまま微動だにしない。深く被った帽子の先からは紅い髪が夜風に揺れ、腕を組んで頭を垂れている姿は遠目から見ても完全に眠りこけているように見えた。

 

「あー寝てるね。おーい、もしもーし。美鈴ってばー」

 

 お燐が門の手前で声を張るが、美鈴と呼ばれた門番は呼吸の音を響かせるだけで、一向に目覚める気配がない。

 

「困ったなぁ……どうしよっか。美鈴が起きないと、門を開けてもらえないんだよねえ」

 

 溜め息を漏らすお燐の横で、積怒の額には青筋がビキビキと浮かび上がる。

 一刻も早く吸血鬼の秘密を暴きたい。その一心で、不本意ながらにさとりの話に乗り、忌々しいパルスィの言葉をも呑み込んでここまで足を運んできたのだ。それを門番の「居眠り」などというくだらなさを極めた障害で足止めされるなど、彼が許すはずもなかった。

 

「起きろッ!!」

 

 積怒が声を上げたと同時。地に一突きされた錫杖より放たれた一発の雷が、美鈴の目の前へと容赦なく炸裂した。

 鼓膜を穿つ爆音と閃光が轟き、激しい衝撃波が周囲の空気を振動させる。

 

「ひゃああっ!?な、何……襲撃!?」

 

 美鈴は文字通り飛び上がった。武術の構えを反射的に取ったものの、その目はまだ寝起き特有の戸惑いに泳いでいるようで、寝ぼけ眼を必死に開こうとしながら彼女はキョロキョロと周囲を見回す。

 

 焦げ茶色の地面からうっすらと立ち上る黒煙と、バチバチと音を立てて消えゆく不穏な青い火花。そして目の前には、困ったような笑顔を浮かべているお燐と、般若の如き形相で立っている見慣れぬ「鬼」の姿がある。

 

「あ、あれ? あなたはお燐さんと、そちらの強面の方は……」

 

 ようやく状況に頭が追いついたのか、美鈴はホッとした表情を浮かべて、構えていた拳を緩めて頭を掻いた。

 

「あ、ああ!地霊殿からの……もう、驚かせないでくださいよ。心臓が止まるかと思いましーー」

 

 ズドォンッ!!っと、ヘラヘラと振る舞う美鈴に対し、今度は直撃を狙った雷が落とされる。

 

「うぇっ!?」

 

 美鈴は間一髪持ち前の反射神経で錫杖の雷を回避したが、それは先の叩き起こすための一撃とは違う、明確に彼女を破壊せんとする殺意が込められた「攻撃」だった。

 

「な、何するんですか!今、完全に当てに来てましたよね!? 死んじゃったらどうするんですか!!」

「死ねば良い物を……門前で惰眠を貪る無様な門番など、死に損ねたところで何の不都合がある!」

「ちょっお燐さん、この人沸点低すぎませんか!? 私、ちゃんと起きましたから! ほら、この通り目もバッチリ冴えてますって!」

 

 積怒の激昂に共鳴し、錫杖が青白い電脈を迸らせるのを目の当たりにした美鈴は、必死に両手を前に出して弁明する。

 しかし、そんな彼女の訴えも、積怒にとっては火に油を注ぐだけの戯言に過ぎなかった。

 

「旦那が短気なのはその通りなんだけど、流石に門番が居眠りするのはアタイもどうかと思うなあ……」

 

 お燐の至極真っ当な指摘に美鈴は言葉を詰まらせながら、なおも錫杖を構える積怒からじりじりと距離を取りつつ冷や汗を流す。

 

「そこまでにして頂けますか?」

 

 不意に響いたその声は、積怒と美鈴の間に滑り落ちるように割り込んできた。

 突如として目の前に現れた少女に積怒の動きが止まり、美鈴の背筋も瞬時にピンッと伸びる。

 

「さ、咲夜さん……!」

 

 現れたのは、美しい銀髪を細いリボンで編み込み、洗練された仕立てのエプロンドレスを身に纏ったメイドーー十六夜咲夜だ。

 彼女は門前の状況を見て事の成り行きを察したのか、短く呼吸を切ったあと、横目で美鈴を睨みつけた。

 

「また居眠りしていたのね、美鈴。今夜に関しては地底からの使者が来ると事前に伝えておいたにも関わらず……情けない。毎回お嬢様に報告する私の身にもなって頂戴」

「う、うぅ……申し訳ありません。でも本当に一瞬、目を瞑っていただけですよ?」

「言い訳は結構。あなたの分の紅茶の葉は、明日から全て雑草の根に変えておきます」

「酷いっ!?」

 

 咲夜からの宣告に、美鈴はあからさまなショックを受けて崩れ落ちる。

 

「躾の話など後回しにしろ!わしはお前たちの茶番に付き合うためにここまで来たのではない!」

 

 こちらを無視して繰り広げられている身内ノリのやり取りに腹を立てた積怒は、錫杖を鳴らして二人の意識を強引に集める。

 悟られないよう強気に振る舞ってはいるが、彼の内心には怒りとは別の警戒心が警鐘を鳴らしていた。

 

(この銀髪の女、いつの間に入り込んできた……?)

 

 咲夜が現れた瞬間、積怒の五感はその予兆を一切捉えることができなかった。気配の移動も、風の揺らぎも、衣擦れの音さえもなかった。まるで空間そのものを切り貼りしたかのように、唐突に姿を現したのだ。

 

「せ、積怒 。この娘、普通ではないぞ……!!」

 

 同様に咲夜の異様さを感じ取った半天狗が肩を震わせ、小刻みに歯の根を鳴らしながら小さく積怒へ耳打ちする。もう分かってはいたことだが、幻想郷を元の世界の常識に当て嵌めることなど、到底できはしない。

 奥歯を噛み締める積怒からの敵意を向けられた咲夜だったが、彼女は眉一つ動かすこともなく、優雅な所作で頭を下げた。

 

「失礼いたしました。門番が粗相を働き、不快な思いをさせたことをお詫びいたします」

 

 深々と、しかし背筋を一切崩さない完璧な角度の一礼。その仕草には一切の乱れがなく、メイドとして磨き抜かれた美しさと同時に、間合いに入れば命を刈り取られかねない凄みが同居している。

 

「私は当館のメイド長を務めております、十六夜咲夜と申します。地霊殿の主より、使者としてお荷物をお預かりしていると伺っています。そちらの箱が、そのお品物でしょうか?」

 

 顔を上げた彼女の視線が、積怒が右脇に抱えている箱へと向けられる。

 

「……」

 

 しかし積怒は咲夜の問い掛けには無反応なまま、じっと彼女を見据えていた。

 

(隙がない……)

 

 どれほど本体の半天狗が臆病であっても、その分け身である喜怒哀楽の鬼は実戦の塊だ。数百年、数多の鬼狩りと柱たちを見てきた直感が、目の前のメイドを「ただの給仕係」と侮ることを全力で拒絶していた。

 

「どうかなさいましたか?」

 

 小首を傾げた咲夜が、心配する素振りをみせながら太ももの側面に片手をそっと滑らせる。

 夜の闇の中。ランタンが照らし出すぼんやりとした灯りの中であっても、彼女の指先で一瞬だけ揺らめいたナイフの輝きを、積怒の眼は見逃さなかった。

 

「貴様……!今なにをーー」

「あー鉱石だね、鉱石!ほら旦那、それ渡さなきゃ!ね?」

 

 積怒の言葉を遮るようにすかさず彼の前に押し入ったお燐が、積怒が抱える箱をパシパシと叩いた。

 

「もう 旦那ったら、挨拶もなしに威嚇してばっかりなんだから。ごめんね、この人幻想郷に来たばっかりで、色々とまだ分かってないことが多くてさ。はいこれ、さとり様から頼まれた物はちゃんと持ってきてるよ!」

 

 お燐は積怒の右腕から強引に箱を引き抜くと、それを恭しく咲夜の前へと差し出す。

 

「確かに、お預かりいたしました」

 

 咲夜はお燐から手際よく箱を受け取り、その重みを確かめると柔らかく微笑んだ。再び積怒へ向けられた視線は、先ほどの物々しい雰囲気が嘘であったかのように穏やかなものになっている。

 

「パチュリー様の所へご案内する前に、お嬢様がそちらの鬼の方とお話がしたいとのことです。少々お時間をお借りしてもよろしいでしょうか?」

「……さっさと案内しろ」

 

 元より紅魔館へ赴いた真の目的は吸血鬼から「知恵」を毟り取ることに他ならない。くだらない建前よりも本命を優先して貰えるのならば、話が早くて済む。

 その場の怒りは一旦置いておくことにしたようで、積怒は大人しく従う態度を見せた。

 

「美鈴、あなたは罰として朝までそこに立っていなさい。もしまた居眠りをしていたら……分かってるでしょうね?」

「ひゃいっ!」

 

 美鈴が涙目で直立不動の姿勢をとるのを尻目に、咲夜は鉄門を開いて奥へと歩き出す。お燐が「ほら、行こう!」と積怒の背中を押すと、一行はついに吸血鬼が支配する領域へと足を踏み入れた。

 

 

 美鈴の恨めしげな視線を背中に浴びながら前庭を抜け紅魔館の館内へ入ると、地霊殿で見てきた物とはまた違う景色が視界にとび込んできた。

 

 赤を基調とした大きなホールの真ん中を走るカーペットに、高い天井から吊り下げられた豪奢なシャンデリア。特に目を引いたのは、ホールの奥で二手に分かれた二階へと続く大階段、中央の壁面に掲げられた絵画に描かれている、幼い青髪の少女だ。

 頭にはナイトキャップを被り、白いフリルドレスを纏う背中には悪魔のそれと思しき蝙蝠の翼。瞳は血のように赤く、見る者を釘付けにする存在感を放っている。

 

「……」

 

 積怒は歩みを止め、絵画の中の少女を睨みつけた。

 ただの肖像画だというのに、本人がそこにいて見下してきているかのような不快感と、幼い容姿に似合わない尊大で傲慢な気配。それが彼の胸の内を憤怒で焼け焦がす。

 

「美しいでしょう?」

 

 掛けられた声にハッとした積怒が視線を横に向けると、同じく絵画を見上げている咲夜が、僅かに口元を綻ばせていた。

 

「そちらに描かれている方が、当館の主であらせられるお嬢様。レミリア・スカーレットです。運命を操る、誇り高き吸血鬼……その威光の一端でも、絵画を通して感じ取っていただけたなら幸いです」

「この面を見てわしが感銘を受けていると思ったなら、お前の目はとんだ節穴か、他人の顔に刻まれた感情の文字すら読めぬほどに盲目かのどちらかだ!」

 

 積怒は喉の奥から這い出るような低い声で、容赦なく言葉の刃を突き返す。

 

「節穴に盲目、ですか。それは誠に遺憾ですね」

 

 悪意が乗せられた積怒の挑発を前にしても、やはり咲夜は顔色一つ変えない。それどころか、冷めた瞳で彼を真っ直ぐに見据え、その声色から一切の感情を排してみせた。

 

「お嬢様の前でそのような不敬な発言はなさらないようお願いします。お嬢様は寛大なお方ですが、主の品位を汚す無礼者には、使いの方と言えど私も容赦はいたしませんので」

 

 その言葉と同時に、咲夜の周囲の空気がピキリと張り詰めた。威圧というよりも、物理的に肌を刺すような鋭い殺気が一瞬だけその場を支配する。

 

「わしを脅しているのか!」

「脅しではありません。ただの忠告です」

 

 咲夜は怒声をしなやかに受け流し、エプロンの裾を軽く整えた。その指先はナイフに触れてはいなかったが、それこそ一瞬で積怒の首筋に刃を当てられるだけの間合いを保っている。

 

「……ッチ、気に食わん。どいつもこいつも」

 

 ここで感情のままに暴れるのは悪手だと、積怒は突き立てようとしていた錫杖の手元を引っ込め、咲夜から顔を背けた。

 その後ろで胸を撫で下ろしたお燐の溜息によって、爆発一歩手前の空気が辛うじて霧散する。

 

「ごめんね。旦那にも悪気がある訳じゃないっていうか……常に怒ってるのが標準仕様みたいなものだから、誰に対しても基本こんな感じなんだ」

「いえ、見かけによらず物分かりが良い方のようで助かります。さあ、どうぞこちらへ」

 

 言い訳じみたお燐のフォローすら、積怒にとっては自分の格を下げられているようで不愉快極まりなかったが、それ以上に咲夜の「底の知れなさ」が彼の行動を縛っていた。

 先ほどの正門前での神出鬼没な出現といい、殺気の扱い方といい、この銀髪のメイドは確実に「何か」を隠している。しかしそのカラクリが分からない以上、無闇に間合いを詰めるのも愚策だ。

 

「……ヒィィ、あの女の目、あれは人殺しの目じゃ……! はよう用事を済ませて帰りたい……!!」

 

 髪の奥で、半天狗が積怒の頭皮に爪を立てながらガリガリと引っ掻いている。臆病者の彼であっても、彼女の危険性だけは正確に察知しているようだった。

 

「爪を立てるな腹立たしいッ!大人しくしていろ!」

 

 積怒は半天狗へ吐き捨てると、先を進む咲夜とお燐を追い始める。

 階段床に敷かれた厚手の絨毯が苛立ちを吸い込むように足音を殺すのが、また彼を苛立たせた。

 

 そうして階段を登りきっては廊下を黙々と進み、両開きの重厚な扉の前へと行き着くと、咲夜が一呼吸置いたあとに扉を三度ノックする。

 

「お嬢様、地霊殿からの使者をお連れいたしました」

「入りなさい」

 

 中から返ってきたのは高く可憐でありながら、退屈さと冷徹さを孕んだ少女の声。咲夜がそっと扉を押し開けると、そこは月明かりが床を青白く照らし出す、広々とした応接室だった。

 部屋の最奥にはテラスへと続くガラス張りの大窓。そこから差し込む月光を背に受けて、一人の幼い少女が豪奢な背もたれの椅子に腰を下ろしている。

 

 肖像画で見た姿そのままの、しかし絵の具などでは到底再現しきれない圧倒的な「存在感」を放つ吸血鬼ーーレミリア・スカーレットがそこにいた。

 

 ティーカップを傾け、紅い液体を口に含んでいた彼女が視線をこちらへ向ける。

 

「あなたが霊夢に拾われたっていう、外の世界からきた異界の鬼ね。ようこそ、紅魔館へ」

 

 鈴を転がすような愛らしい声。だが、その響きには積怒たちを対等な客人としてではなく、自らの庭に迷い込んできた小動物を眺めるような余裕が満ち満ちていた。

 

「そっちの火車も、こうして話をするのは初めてかしら?」

「ご丁寧にどうも。言葉を交わせて光栄だよ、吸血鬼のお嬢様。今日はそっちの魔法使いの頼みで、さとり様から『灼熱の地底石』を届けにきたんだ」

 

 お燐は慣れた様子で頭を下げると、咲夜の手元にある箱を視線で示しながら愛想の良い笑みを浮かべた。場に漂う重圧を、その天性の図太さで器用に受け流している。

 

「そうみたいね。パチェが首を長くして待っていたもの。咲夜、それは後で大図書館へ運んでおいて」

「かしこまりました、お嬢様」

 

 咲夜は一礼するとレミリアの斜め後ろへと進み、待機の姿勢を取る。その一連の動作の最中も、積怒に対する警戒の糸は一分たりとも緩められていない。

 

「……さて」

 

 レミリアはソーサーにティーカップを静かに戻すと、椅子の背もたれに深く身体を預け、顎を僅かに上げた。

 その紅い瞳がまっすぐに積怒を、そして彼の髪の奥で気配を殺している半天狗の存在を射抜く。

 

「用件がそれだけなら、咲夜に依頼の品を渡して終わりでも良かったのだけど……わざわざあなたたちをここに招き入れた理由、分かるかしら?」

「くだらない前置きなどどうでも良い、さっさと本題に入れ!」

 

 積怒は一歩踏み出し、床へ乱暴に錫杖を突き立てた。

 遊環の高い音が響き、錫杖からは雷の火花がバチバチと撒き散らされる。地底の有象無象、パルスィの侮蔑、そしてこの館の門番とメイドの不遜。

 積み重なった不快感が、目の前の傲慢な幼女の態度によって臨界点に達しようとしていた。

 

「ちょ、ちょっと旦那!」

「良いわよ別に。……随分と威勢が良いのね」

 

 積怒の物言いに焦るお燐を制止したレミリアは、憤慨するどころか、むしろ楽しげに目を細めクスリと笑った。

 

「私と共通の弱点を持つ異界の鬼。魔理沙に話を聞いた時から、ずっとあなたに興味があったのよ」

「お前の興味の有無など知ったことか。吸血鬼、単刀直入に一つ問う……答えろ」

 

 自分たちをまるで「見世物」か「珍獣」のように値踏みしているレミリアを前に、怒りを無理矢理押し殺した積怒が忌々しげに彼女を睨み付けた。

 

「おまえは、太陽の下を歩く術を持っているのか」

 

 その問いが発せられた瞬間、積怒の髪の奥から二つの赤い瞳がぬっと覗く。半天狗だ。

 

「太陽! 日光じゃ! お前は日傘一本で日の下を歩いていると猫娘から聞いたぞ! 塵にならぬ身体……その秘密を教えろ! わしに教えんかぁッ!!」

 

 恐怖よりも「渇望」が上回った半天狗が、積怒の肩から身を乗り出し、唾を飛ばしながらレミリアへ向かって指をさす。ただ太陽から逃げ惑い、他者を欺き生きてきた醜悪な鬼の、底なしの飢餓感。

 だが、浅ましいまでの叫びを浴びせられたレミリアは、驚くことも不快感を示すこともなく、ただ退屈そうに口を開いた。

 

「話を急かされるのは好きではないわ。せっかくこうして顔を合わせたんだもの、もう少しお喋りを楽しみましょうよ」

「なぜわしがお前の退屈凌ぎに付き合わねばならんのだ!」

「付き合わねばならない……ではなく、付き合いなさいと言っているのよ」

 

 彼女の声は依然として高く可憐であったが、そこには反論を許さない積怒への命令にも似た重みが乗せられている。

 

「あなたの質問に先に答えてあげるなら、回答はイエス。でも、それを教える立場にいるのは私で、教えて貰うのはあなた。知恵を貸すかどうかは私の裁量で決まることで、あなたに『教えろ』だんて命令される筋合いはないの。分かる?」

「……ッ」

 

 レミリアの言葉に積怒は押し黙った。確かに、相手が知恵を握っている以上、力ずくで奪うか、あるいはその条件に従うほかない。

 情報を吐き出させるという前者の選択肢は積怒が最も望むところだったが、それを選ぶにはあまりに不確定要素が多すぎる。故に、後者を選択せざるを得ないのが現状だった。

 

「どうしたの? 威勢が良いのは口先だけ? さっきのあの電撃で、私を黒焦げにでもしてみたらどうかしら」

 

 瞳をさらに細めたレミリアは、格好の玩具を見つけたかのように愉悦の表情を深く刻む。彼女の言葉は、積怒の癪に最も触るであろうあからさまな挑発だった。

 しかし、積怒は必死に己の怒りを噛み殺して抑える。向こうも分かっててやっているのだ。見え透いた挑発に一々突っ掛かっていては、話が進まない。

 

「……まあ良いわ。口先の威勢の良さだけでも、今は買ってあげる。そうね、こちらの提示する条件を呑むなら、あなたが知りたがってることを教えてあげても良いわよ?」

「条件?」

 

 積怒から疑心の目を向けられながら、レミリアはソーサーの上のティーカップに指先を滑らせ、トン、と小さく音を立てる。

 

「そ、条件よ。と言っても、そう難しい話じゃないの」

 

 レミリアは椅子の背もたれから上体を起こし、積怒の目の前までゆっくりと歩み寄ってきた。

 絨毯を踏む足音は一切しない。ただ、彼女が近付くにつれて、積怒は強者の気配を至近距離で捉え、全身に悪寒が走るのを感じていた。

 

「そんなに怯えなくて良いわ。私が欲しいのはあなたの血でも、命でもないもの。……条件は、一週間の間だけここに滞在なさい」

「……は?」

 

 想定外の言葉に、積怒は困惑の声を漏らした。

 条件と聞いて、旧都の連中のような不快な使い走りを要求されるか、あるいはそれ以上に過酷な肉体的対価を求められると身構えていたのだ。それが、ただ「一週間ここに滞在しろ」とは、一体何の企みか。

 

「嫌じゃ!嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃッ!!誰がこんな怪物共の巣窟なんぞに身を置くものかッ!!積怒、断れェ……!!」

 

 半天狗が積怒の耳元で狂ったように頭を振り、拒絶の悲鳴を上げる。

 

「お嬢様、それはどういう……。地霊殿の使者である彼らを、紅魔館に留め置くというのですか?」

 

 咲夜が僅かに眉をひそめ、主の真意を測りかねたように問いかけた。お燐もまた、驚きに猫耳を立ててレミリアを注視している。

 だが、彼女はそんな周囲の動揺などお構いなしに、積怒の目の前で小さく傲慢な笑みを深めてみせた。

 

「言葉通りの意味よ。一週間、紅魔館の『客人』としてあなたを迎えてあげる。その間、私はあなたという生態を観察させてもらうわ。外の世界の鬼がどれほどの力を持っていて、どのようにその力を形にし、どんな風に思考するのか、興味があるの」

 

 レミリアは自身の小さな顎に指を添え、積怒の顔を至近距離から覗き込む。

 瞳の奥に宿る好奇心は、まさに子供のそれでありながら、蜘蛛の巣に獲物を絡め取ろうとする捕食者の獰猛さを秘めていた。

 

「そして一週間後、あなたが私の退屈を十分に紛らわせることができたなら、その時は約束通り、私が日傘一本で太陽の下を歩けている理由……その知恵を分けてあげる。どう? 悪い話じゃないでしょう?」

「ちょちょ、待って待って!勝手に話を進めないでよ!」

 

 一方的に条件を突きつけ、楽しげに話をまとめようとするレミリアの前に、お燐が両手を広げて強引に割り込んできた。その猫耳は完全に伏せられ、いつもの能天気な笑顔は消えている。

 

「流石にそれは困るよ! お爺ちゃんのことは霊夢に頼まれて地底が預かってる身なんだから、拉致されたなんてことになったらこっちの管理問題になっちゃうじゃん!」

「あら、私は拉致するなんて言っていないわ。ただ『条件』を提示しただけ。それを呑むかどうかは彼の自由よ?帰りたければ今すぐその扉から出て行っても誰も止めはしないから、好きにしなさい」

 

「こいつ……!」

 

 眼前で尊大に言い放つ幼き吸血鬼の顔を、積怒は憎悪を煮詰めた眼差しで見据えていた。

 

 何が自由だ。そんなものは言葉だけの欺瞞に過ぎないことを、この場にいる全員が理解している。

 どうでも良いことは強制させる癖に、餌のぶら下がった話は敢えて選択肢を与えてくるのだからタチが悪い。それも、こっちが下手に踏み込めない状況であることを分かった上でだ。完全に弄ばれている。

 

「こればっかりは旦那の判断で決めて良いことじゃないんだってば!せめてさとり様に話を通してからにして!」

「覚妖怪が私の決定に口を挟むと思う?彼女のことだもの、こうして彼を寄越した時点で、こうなる可能性も読んだ上で送り出しているに決まっているじゃない」

「それは……」

 

 お燐は返す言葉に詰まり、猫耳を不本意そうにピクつかせた。確かにさとりの手回しの良さを考えれば、この展開すら想定の範囲内である可能性は否定できない。

 むしろ、口にされるとそうとしか思えなくなる負の信頼のようなものが、積怒にはあったのだ。

 

「ねえ旦那、帰ろう?この様子じゃ言う通りにしたって、本当に約束を守るかどうか怪しいよ……」

 

 お燐に袖の袂を引かれながら、積怒はじっと、自分の掌をみつめていた。

 

 ーー……帰る?

 

 脳裏に去来するのは、己を顎で使った旧都の有象無象の顔、そして大橋の上で「使い走りに落ちぶれた犬」と自分を嘲笑ったパルスィの、あの歪な愉悦の笑みだ。

 もし今、ここで何も得ずに地霊殿へ戻れば、待っているのはさらなる停滞と屈辱の繰り返し。それこそが、パルスィの言った「現実」の証明になってしまう。

 

「そんなこと、認められるか!」

「旦那……?」

 

 喉奥から絞り出された声は、地鳴りのように低く、そして昏い拒絶に満ちていた。

 振り払われたお燐の手が、弾かれたように着物の袖から離れる。

 

「一週間だな?」

「え!?」

「積怒ぉ! 正気か!? 騙されておる、絶対に騙されておるぞぉ!!」

 

 お燐の驚愕の顔と、半天狗の狂乱した悲鳴が応接室に虚しく響き渡った。

 

 分かっている。こんなものは対等な取引などではなく、この吸血鬼の気まぐれに付き合わされているだけだ。目の前の小娘は、自分たちをいたぶって愉しむための檻を、欺瞞で飾り立てて提示しているに過ぎない。だが、これを取りこぼせば次がないのも事実だ。

 

「ただし、約束を違えれば、その時はお前を塵にして土に還してやる……いいなッ!」

「決まりね。咲夜、パチェに鉱石を届けるついでに、彼に館内を案内してあげなさい。それから部屋も用意してあげて」

「かしこまりました、お嬢様」

 

 咲夜は前へ出ると、驚愕に目を見開いているお燐の横をすり抜け、積怒の前に立った。

 その顔に、先ほどまでの主の決定に対する疑問は欠片もない。ただ、完璧に手調えされた「従者」としての無機質な微笑だけが湛えられていた。

 

「では、私に付いてきていただけますか? まずはパチュリー様のいらっしゃる大図書館へ、それから客室へとご案内いたします」

「旦那、本当に良いの?」

 

 お燐が未だに信じられないといった様子で積怒へ視線を向ける。

 ただの「おつかい」のはずが、同行者が地上に居座るというイレギュラーな展開に、さすがの彼女も動揺を隠せないようだった。

 

「しつこいぞ、猫娘。わしはあの小娘の条件を呑んだ。それだけだ。お前はさっさと地底へ帰り、あの忌々しい読心妖怪に『戻ったら覚えていろ』とだけ伝えておけ!」

「うーん……そこまで言うならアタイはもう止めないけど……。でも、本当に無茶だけはしないでよね。仕事の途中に近くを通ることがあったら、様子を見にくるからさ」

 

 お燐は深い溜め息を吐き出すと、レミリアへ一瞥をくれ、諦めたように肩をすくめて応接室の扉へと向かった。彼女の気配が遠ざかり、扉が閉まる重い音が響く。

 

「置いていかれた! 孤立無援じゃ!こんな血生臭い化け物の巣に置き去りにされるなんて、わしはもうおしまいじゃあああッ!」

 

 半天狗が積怒の耳元で、涙と鼻水に塗れた醜い悲鳴をあげる。細い指が積怒の頭皮をガリガリと掻きむしるが、積怒はそれを咎めることもせず、ただ応接室の奥で優雅にティーカップを揺らしているレミリアを、眼光だけで呪い殺さんばかりに睨みつけていた。

 

「行くぞ、銀髪」

「ええ、どうぞこちらへ」

 

 咲夜の先導により、再び紅魔館の長い廊下へと足を進める。

 厚い絨毯は相変わらず彼らの足音を容赦なく吸い込み、館の静寂をより一層際立たせていた。

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