「私だって別に、働く事が人生の全てだなんて思っちゃいないわよ」

高校卒業後、大学生活の為に一人暮らしを開始した優子。
サークル活動、友人との交友、母校OBとしての振る舞い……やりたい事は数多かれど、それもこれも全ては先立つものがあっての話。
そんな現実を直視する優子はまた、目前に控える大きい出費に頭を悩ませていて――

・「響け! ユーフォニアム」二次創作小説。吉川優子を主役とした短編。
・原作小説および映画『リズと青い鳥』での設定をベースとしております。また性質上、これら作品のネタバレを内包しております。
・本作は2024年に「反乱電源開発」様より刊行された合同誌「ミーンワイル」に寄稿しました同名短編のディレクターズカット版、即ちオリジナル尺の作品となっております。

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 大学生は自由だ。近頃優子(ゆうこ)はそう考える機会が増えた。だって、高校生までであれば何をするにもいちいち親にお伺いを立てなければならなかったから。どこへ行く、あれを選ぶ、それを目指す、こういう事をする。例えば少しお高い買い物をする為に預金していたお年玉をおろすのでさえ、親の許可無しには満足に事を運べない。子供とはなんて無力な生き物なのだろう。自身の存在理由ごと、大人に全てを握られている。

 でも今にして思えばそれも仕方の無い話ではあった。経済力にせよ社会的責任にせよ、子供の内は何でも大人に支えて貰わなければ成り立たない。その代わり、子供は大人が用意してくれた境界の内側で、世の中の色んな物事から護られながら暮らしていく事を許される。大人の庇護下にあるとはつまり、そういう事なのだ。

 大学生になった今ですら、こうして一人暮らし出来ているのは親の仕送りがあってこそなのだけれど、それ以外の食事や遊興といった大部分の物事に掛かる出費は今や優子自身の裁量に委ねられている。それは一つまた一つと歳を重ね大人になっていく過程で、やがて来たる親離れの時に備えてちょっとずつ予行練習をしているようなものなのだと思う。自己の成長に伴い薄れゆく親の影響と、これに反比例して増えゆく権限。でもそれは、決して楽で都合の良い事ばかりじゃない。

「えーっと、今月の家賃に水道代電気代でしょ。サークルの会費と活動費、次のステージ用の衣装代、それにスマホの請求がっと……うげ、結構掛かってる。こないだの旅行でもだいぶ使っちゃったし、こりゃ当面は緊縮財政かな」

 ミニテーブルの上に並べた大量の請求書、そこにしたためられた額面を憂鬱な面持ちで眺めながら、優子はスマホの電卓アプリをパチパチと片手ではじく。この手の計算は吹部の部長を務めていた高校時代にも散々やっていたし、さして苦手な部類でも無い。恐らくその気になりさえすれば某か経理関係の資格ぐらいは簡単に取れてしまう事だろう。だがあの当時と今とでは、やっている事が同じでもその意義と主たる対象が全然違う。……ひと通りの計算を終え、その結果を記したメモ帳を両手で掲げながら、優子は唸り声を上げた。

「うあー、やっぱ掛かるものは掛かっちゃうなぁ。自活するってマジしんどい」

 そのままゴロンと二人掛けソファに寝っ転がり、改めてまじまじとメモ帳を至近に見つめ直す。仕送り込みの総収入に対し、今月の支出は完璧に赤字。とは言っても赤の値そのものは大した事ないし、学費については親持ちなので算定の対象外なのだけれど、それでもマイナスはマイナスだ。急な出費に備えてなるべくコツコツと貯蓄を積み立てたい優子にとって、取り崩しが発生するだなんて事態は手放しに容認できるものでは無いのである。

「……まあ、先月今月はしょうがないか。免許合宿に母校差し入れにみぞれの大学のコンサート、学祭にライブイベントに旅行にと、立て続けに出費のかさむ状況だったワケだし。でもこれが続くと流石にマズいって」

 ハアー、と嘆息を洩らして、次に優子はメモ帳の代わりにスマホを手にする。今月予定していたイベントはあらかた消化済みだが、来月は末頃に一つ遠出の予定が入っていた。

 十月第四週日曜日、名古屋行き。

 カレンダーアプリに記されたその用事は優子達の母校・北宇治高校の吹奏楽部が全国大会のステージに立つ、その晴れの日だ。先輩達や自分の代で果たせなかった悲願を後輩達が成し遂げてくれる、その瞬間を現地で見届けたい。こう思った優子が、激高な競争率をものともせずにコンクール全国大会の入場チケットを入手したのがつい先日の事。となれば次はそれに向けた予算の捻出をしなければならない――訳なのだが、これが現在の優子には頭の痛い問題なのだった。

「免許はあるけど、名古屋までだと車で行くのもちょっと怖いでしょ。前泊なんてしてる余裕無いし、かと言って当日出発して途中で渋滞に巻き込まれでもしたらアウトだし……ってなるとやっぱ新幹線だよね。往復の料金は、っと……」

 スマホの液晶上に立ち上げた検索アプリで調べれば調べるほど、万単位の出費が避けられないという事実が確定的になってくる。無論、それ単体であれば一括で支払う事など、今の優子には造作もない。だがそうやって後先考えずに使った分のツケは他に回ってくるものだし、金欠だからと喘いだところで都合よくお金が降って湧く事もありはしない。赤字状況を避けつつ極力やりたい事との両立を図るのであれば、犠牲対象たる最たるものは食費だ。だがそうは言っても周りの同級生達が冗談交じりで語るように、白米と焼肉のタレだけで向こう数週間を乗り切るなどという極貧生活に突入するのも出来れば避けたいところである。

 いっそ、寸胴鍋いっぱいにカレーでもこしらえて当面を凌ごうかしらん。……なんて思ってみたところで、この部屋には寸胴鍋どころか大きめの深鍋すら碌に揃っていないのだけど。そんな事を考えつつ立ち上がり、キッチンに向かった優子は冷蔵庫の扉を開けてほうじ茶のポットを取り出す。洗いかごのグラスを一つ取ってポットの中身を注ぎ入れると、透き通った赤褐色がグラスの内側を満たす。表では派手に振る舞ってみせているが、優子の生活模様は驚くほど質素だ。こだわりはこだわりとして堅持しつつ無駄は徹底的に省く。そういう合理的な生き方は、昔からきらいじゃない。

「――ん、」

 キッチンシンクの前に立ってほうじ茶をぐびりと呷ったその時、手にしていたスマホが音を立てて震え出した。画面を開いてみると、SNSのトーク機能に着信アリのお知らせがついている。加部(かべ)友恵(ともえ)。通話相手の名は高校時代の旧友のものだった。表示されている受話器マークのフキダシをタップして、優子はスマホを耳に宛がう。

「友恵?」

『ばんわー優子。今なにしてた?』

「何も。お風呂上がりにお茶飲んでゆっくりしてただけ」

 片手にスマホを持って会話を継続しつつ、もう片手にグラスを抱えてリビングに戻る。二人掛けのこのソファは優子が一人暮らしを始めてほどなく自費で購入したもので、アイボリーカラーを基調とするファブリック地にところどころ差し色として挟まれたパステルイエローが実に可愛らしい一品である。高校在学中に量販店の家具コーナーでこれを見て一目惚れして以来、新生活には絶対これを買って部屋に置くと心に決めていた。そのお気に入りのソファへと再び座り、優子は正面のミニテーブル上に散らばる書類を前腕でどけて作ったスペースにこつんとグラスを置く。

「で、どうしたの?」

『それがさー。例のチケット、私もしのぶも抽選ハズれちゃって』

「あれま」

 例のチケット、とは言うまでもなく、コンクール全国大会の入場チケットの事だ。今回の北宇治全国出場に際して優子達の世代では会場入りしての応援を希望する声が多く、それには前半の部・後半の部それぞれで一人につき二枚までしか申し込めない入場チケットの争奪戦という難関を潜り抜ける必要がある。出場校の関係者やOB・OGのみならず、全国の吹奏楽ファンが大挙して押し寄せる本番の会場。優子は運良くその席を得る事が叶ったが、友恵と森田(もりた)しのぶはあえなく抽選に洩れてしまったという訳だ。

「そりゃあ残念。でも行きの足は先に押さえたって言ってたし、二人ともとりあえず名古屋には行くんでしょ?」

『モチ。(ゆめ)ちゃんからも絶対応援来て欲しいって言われちゃったからねー。ここは一つデキる先輩として、可愛い後輩の頼みにゃバッチリ応えられるってトコを見せてあげませんと』

「なのに会場には入れないんだ?」

『それを言わないでよ、もうー。優子ってば性格悪い』

 等とは言いつつも、電話口の向こうで友恵はからからと笑っている。こういう後腐れのしないところが彼女のいいところだ。

『んで、優子は?』

「私? 勿論二枚分ゲット。元部長ですからトーゼンでしょ」

『マジかぁ、さっすが優子。でももう一枚はやっぱ夏紀のなんでしょ?』

「まあね。あれでも一応元副部長なんだし、他の同期が行くっつってんのにアイツ一人だけ置いてく訳にもいかないしさ」

『あはは。まあそういう事にしといたげるよ』

「何なのよ、しといたげるって」

 電話口に向かって優子は毒づく。夏紀も今回チケットの申し込みをしてはいたのだが、結果は友恵やしのぶと同様落選。もっとも会場の座席数と当選率の低さから言って、誰もがチケットを取れずに全滅する可能性もある事は覚悟していた。だから全員が二枚ずつ申し込み、優子が取れたら夏紀と、夏紀が取れたら優子と、といったように相互にシェアする構えで臨んでいたのである。

『とにかくそんなワケで、私としのぶは会場の外で待ってるから。優子達はホールで聴けるんだし、私達の分まで北宇治のみんなにパワー送っといてよ?』

「何ソレ。私達が念じようが何しようが、本番の演奏の良し悪しなんて結局は当人達のがんばり次第でしょ」

 なんて恰好つけた事を言いながらもきっと、いざホールに入って北宇治が出番を迎えたその瞬間、私はあの子達が最高の演奏をして最高の栄誉をその手に掴む事、ただそれだけを念じて必死に祈りを送るのだろう。そんな風に優子は思う。

『んで本番終わったら帰りまでちょっとは時間あるだろうし、せっかくなら名古屋観光していこうよ。OBの皆でさ』

「相変わらず抜け目ないんだから友恵は。オッケー、それも一応夏紀に伝えとく」

『ヨロシクぅ。ところで、ソッチから名古屋に行くのは優子達だけ? 鎧塚(よろいづか)さんとか希美(のぞみ)は?』

「あの二人はパスだってさ。みぞれは大学のサークルとレッスンが忙しいからって話で、それ聞いた希美もじゃあ行かない、ってなって」

『そうなんだ、そりゃあ残念がる子らも多いだろうね。けっこう人気あったし、あのふたり』

「かもね」

 手持ち無沙汰な気分を己の横髪を弄る事で誤魔化しながら、優子はフスリと憤懣めいた鼻息を撒く。みぞれはともかく希美には色々と言ってやりたい事が無くもないのだが、言ったところできっとどうしようもない。それに有り体に言って、無理やり名古屋まで連れ出す事が希美の為になるとも思えなかった。こっちから力づくで干渉しなくたっていい。もしも希美がその気になったら、あの子は自分の足で行く。

「そんな事より友恵の方こそ、しくじって当日来れないなんて事の無いようにしなさいよね」

『せいぜい気を付けまーす。そんじゃ夜ももう遅いし、私そろそろ寝るわ。あーっとそうそう、当日は朝のうちに名古屋着いてれば間に合うよね?』

「出番は三番目って言ってたから、まあ大丈夫じゃない? って言っても大会自体は九時開演だから、現地入りする時間によっちゃ微妙かもだけど」

 例えば地元・京都に暮らす優子達の場合、朝イチ出発と言っておいていざ起床したのが八時過ぎなんてことにでもなったら、急いで家を出たところで北宇治の出番には到底間に合わない。或いは不慣れな土地だと乗り換えや駅から会場までの移動に想定外の時間を食う恐れだってある。その猶予を先んじて見越しておかなければ、いざ当日となって生じたほんのちょっとのタイムロスに泣かされる事にもなりかねないのである。

『その辺は心配無用だよー、私だけじゃなくてしのぶもいるし。そっちこそ、夏紀と一緒だからって道中はしゃいだりしてウッカリ遅刻しないように気を付けなよ?』

「ハァ? するワケないでしょ、そんなマヌケな事」

『どうだかなぁ。まっ、余計な心配ってヤツか。ほんじゃ次は名古屋でね』

「はいはい、しのぶにもよろしく伝えといて。じゃあ私もそろそろ寝るから、おやすみ友恵」

『おやすー』

 ペコン。間の抜けた電子音と共に通話画面は閉じられた。しかし友恵によもやあんな事を言われるだなんて、私も随分とまあ馬鹿にされたものだ。すっかりぬるくなったグラスのほうじ茶を溜飲と共に一気飲みし、んー、と優子はソファの上で仰け反った。

「あと一ヵ月、かあ」

 その日まで、時間はあるようで残り少ない。やらねばならない事は他にもあるし、他にやりたい事だってたくさんある。それらをどこまで拾い尽くせるかは自分次第だ。とは言え考えるばかりでは物事はちっとも進展しないのが世の常。あまり頭を悩ませてばかりいないで、やれる事を粛々とやっていこう。次に向けて心を決めた優子はソファを立ちベッドに入って布団をかぶり、おやすみ、と照明のリモコンスイッチをオフにした。

 

 

「夏紀ー、六番からオーダー。マルゲリータ一つとパーティプレートのリッチ一つ、それとやげん揚げ二つで」

「はいよー」

 タッチパネルに表示された品目を読み上げると、奥の厨房にいる夏紀がいつもの調子で返事を寄越す。注文内容がしたためられた伝票を空色のプラスチックホルダーに挟み、優子は一つ息を吐いた。当初の頃に比べればお互い随分と手慣れたものだ。厨房を盛んに動き回る夏紀の精悍な働きぶりを横目に見ながら、勤め始めたばかりの頃を思い出してひとり感慨に耽る。店内にはBGMとしてスピーカーから大音量で流されている最近流行の曲の他に、方々の客室から漏れ聞こえる絶叫にも似た歌声が飛び交っていた。

 大学生になり、優子も夏紀もバイトを始めた。優子の場合は半ば生活上の必然もあっての事だったが、それでも毎日一生懸命働けばそれに応じた額の給金が自分の口座に振り込まれる。バイトはいい。費やした時間と労苦の分だけ、その見返りが確かな成果として己の懐に入ってくるのだから。 

「六番オーダー出来上がりっと。んじゃコレ運んでくるわ」

「待ちなさいよ。ホラ伝票」

「おっと。サンキュ」

 優子の差し出したホルダーを夏紀がひったくり、注文の料理を並べたワゴンの端に載せてガラガラとお届けに向かう。執事の装いにも似たお店の制服に身を包む夏紀のその後姿を眺めながら、ところでどうしてこうなったんだっけ、と優子は今さらのようにその時の事を思い返していた。

『ふーん、優子もバイト探すんだ? アンタでも長続きするいい仕事が見つかるといいんですケド』

 春。入学してほどなく学生課のバイト紹介コーナーを探り回っていた優子にそんな揶揄の言葉を、夏紀は浴びせてきた。コンニャロ、と意地になった優子は片っ端から求人情報を漁って勤務地や拘束時間、それと給与待遇等を諸々勘案した結果、下宿先であるアパートからほど近い大通りの一角にあるカラオケ店の求人情報に目を留めた。これならばアイツも文句を言えないだろう。かくなる上はしっかり働いてたくさん稼いで絶対に見返してやる。そういう思いで臨んだ面接当日、当該の店舗前で、優子は夏紀とばったり鉢合わせしたのだった。

 聞けば夏紀もこのバイトに目をつけていたそうで、今日はその採用面接の為に訪れたのだと言う。そんな筈は無い、アンタ私の後を追っかけてここに決めたんでしょ。それはこっちのセリフ。……とまあこんな具合でいつもの如く罵り合いを始めてしまったものの、そうやって店の軒先でギャアギャア騒ぐ優子と夏紀の様子をはたで見ていた店長がいたく気に入ったらしく、面接会場となったスタッフルームには二人同時に呼ばれ、店長とは大した問答も経ぬままに二人とも即採用。そして今に至る、という訳である。

「何が『という訳』よ。大学やサークルまでならまだしもバイト先まで一緒とか、マジ意味不明なんですけど」

 この顛末を二人共通の親友である希美に報告した際、彼女もまた似たような事を感想として述べながら、しかし笑顔と共にこう返してきた。それでこそアンタ達らしい、と。果たしてその言を承服しかねる優子ではあったがしかし、互いの個人的感情を差っ引いても、ここは二人にとって実に理想的な労働環境だと言えた。

『割とシフトの自由利くし深夜に入ればガッツリ働けて時給もおいしいし、何なら仕事上がりにそのまま部屋借りてギターの練習も出来るしさ。最高じゃない?』

 そうした夏紀の見解は、自分がこのバイトに応募した動機と全く一緒だった。加えて店長は何を思ったのやら、優子がシフトに入る時には必ずと言って良いほど夏紀もセット。これもニコイチ感が否めなくて複雑さこそあったものの、互いに勝手知ったる夏紀とコンビを組めたお陰なのか、二人は初めて取り組む仕事であるにも拘わらず物凄い速さで業務に習熟していったのである。

「優子ー、ちょっとアレ取って」

「ん」

「夏紀ー、ソレこっち持ってきて」

「はいドーゾ」

 高校の吹部で部長副部長タッグを組んでいた頃からこんなやり取りを重ねてきた事が、まさか労働の場面でも活きる日が来るとは。『阿吽の呼吸』だなんてモノをそうそう容易く認めたくはないが、少なくとも自分と夏紀との間でそれが確かに成立している事実を、この頃優子は認識せずにはおれない。

 さっきの注文伝票のやり取りだってそう。本当は注文を受けると同時に厨房担当のスタッフへ伝票を渡す決まりとなっているのだが、あえてその手間を省いているのは相手が夏紀だからこそだ。アイツはこの程度でヘマなんかしない。これは立場が逆の場合もまた然り。そうした信頼にも似た何かがこういうルール度外視な段取りの運び方を可能にしているという側面がある事は、客観的にも否定のし難い事実だろう。

 あるいは店長もそれを見抜いた上で自分達をセットで採用し、二人揃って同じシフトに入れているのだろうか? ――なんて、そんな事あるワケないか。苦笑の面持ちで優子が首を振った時、ガー、と鈍い駆動音を立ててエントランスの自動ドアが開く。

「いらっしゃいませー」

「すいませーん、四名なんですけど」

「四名様ですね」

 今度のお客は自分達とそう年頃の変わらない女子ばかりのグループだった。この辺りには他に大学も複数あるし、客の八割以上が同年代なのも今に始まった事じゃない。会員カードはございますかー、と優子が接客上お決まりの質問をしていた時、厨房からひょっこり出てきた夏紀を見て「あれ?」と客の一人が声を上げた。

「えー夏紀じゃん、ウッソぉ」

「ん? おー久しぶり。何、今日は友達と歌いにきたの?」

「そうー、同じ部活の子達と。それにしてもこんなトコで会うなんてビックリー、夏紀ってばここでバイトしてたんだ」

「まーね」

 この親しげな様子、ひょっとして夏紀の知り合い? そんな風に怪訝な顔をしていた優子に気付いた夏紀が、件の女子を親指で差す。

「高校の時、私やみぞれと同じクラスだった子。ウチらとは違う大学だけど、こっからも割合近くのトコでさ。ね?」

 夏紀に問われた女子が「うん」と首肯する。別のクラスだったその女子に面識はほぼ無かったものの、付近の大学、というだけでそれがどこの事なのかは優子にも思い当たるフシがある。もしもこの推察が当たっているのだとすれば、この子の通うその大学も「流石は進学クラス出身」と呼べる程度のランクであった筈だ。

「そうそう。私いま大学のサークルで、コレとバンド組んでんだけどさ」

 コレって言うな、と優子はすかさず夏紀に牙を剥く。

「で、年末サークル主催でクリスマスライブやるんで、良かったら見に来なよ。今度日にちとか会場の場所送るから」

「マジでー? 行く行く。夏紀と吉川さんがバンドやってるトコ見たーい」

 彼女のその一言に、おや? と優子は疑問を抱く。こっちは相手の事をまるで知らなかったというのに、向こうはどうやらこっちの事を知っている様子だ。

「知ってるよー。吉川さん吹奏楽部の部長だったでしょ? 文化祭とか校内行事のあちこちで見かける機会あったしさ。それに休み時間とか放課後前ってなると、しょっちゅう夏紀や鎧塚さんのところに来て色々話し込んだりもしてたし」

「うぐ。そう言えばそっか」

「って言っても、夏紀に会うまでは確信持てなかったんだけどね。やっぱ夏紀とセットだとピンと来るって言うかさー」

 ここでもニコイチ扱いか。複雑な思いに囚われた優子の眉根がひとりでに歪む。――とその直後、「ホラご案内ご案内」と急に夏紀がカウンターへ割り込んできて、優子の代わりに受付のタッチパネルを操作し始めた。

「ではお部屋は二階の十一番ルームになります。お飲み物や食べ物の注文等ございましたらお部屋内のリモコンまたは内線にてお願いいたします。十九時までは平日フリータイム割でご利用いただけますので、それまでごゆっくりどうぞー」

 マニュアル通りの文言を流暢に述べつつ、ドリンクバー用のカップを夏紀がカラカラと人数分並べる。それをめいめい受け取った四人が階段を上がっていくのを二人して営業スマイルで見送った後、秒で真顔に戻った優子は「ちょっと、」と夏紀を肘でつついた。

「なんで急に割り込んで来るのよ。今は私がレジ周り担当だってのに」

「そりゃどーも失礼しました。あんま長い事お客さん待たせるのもどうかと思ってさ」

「待たせてはなかったでしょ、残りの入力なんてすぐ終わらせられたし」

「ハイハイ分かった分かった。ところでさっき四番の会計してたみたいだけど、部屋片付けに行かなくていいの? うかうかしてると次のお客さん来るかもよ」

「今行こうと思ってたの!」

 せっつく夏紀に怒気を返しつつ、優子は手早く用具をまとめる。平日のこの時間帯はまだ客入りがピークでない事もあって、種々の店内業務をこの二人きりで回し切らなければならない。一応二人がシフトに入る際には決まって店長も奥のスタッフルームに常駐してくれてはいるのだが、それはあくまで二人の手に負えないような重大インシデントに備えての事。雑務程度で手抜かりの尻拭いをしてもらえるような新人扱いの期間はとっくに過ぎ去った。今は立派にお店の戦力として数えられている以上、果たすべき責務は果たさないと対価を得るだけの資格が無い。

「そーゆー事。てなワケで本日もキリキリ働きましょうねー、優子サン」

「ったく、覚えてなさいよ。いつかアンタがミスしたらその時は盛大にバカにしてやるんだから」

 去り際に吐いた優子の捨て台詞に、へいへい、と夏紀は手のひらを振るばかり。ほぞを噛みながら夏紀に背を向け廊下を踏みしめるうちに、けれども優子の抱いた憤怒の念は、呆気ないほどスルスルとほどけてゆく。

 ……本当は分かっていた。あろう事かお客様の前で不機嫌な態度を覗かせそうになった自分を庇う為に、夏紀はわざとあそこで割り込んできたのだと。けれどその事を素直に認めるのも癪だ。アイツのフォローに助けられた事は今までに何度もあったけれど、だからと言ってそれに甘えて杜撰な生き方を容認する自分ではありたくない。こうした思いに依って立とうと考えるのもまた、紛れもない優子自身の本音なのだ。

 奇しくも気持ちのチャンネルに合わせたみたいに、店のスピーカーからは二人のお気に入りバンド・アントワープブルーの最新曲が流れてきていた。――先に惚れた方が負けだと言うなら、とっくに僕は君に負けている――なんて、誰の事を歌ってるんだか。かぶりを振って、優子は四番ルームのドアを開く。昔からずっとトレードマークにしている頭上のリボン。高校時代よりも一回り小さくなったそれが、持ち主の動きに合わせてひらひらと小気味よく揺れた。

 

 

「あ~、つっかれたぁ~」

 間延びした声と共に夏紀が大きく伸びをする。その隣を歩きながら、優子は仕事上がりに近くの自販機で買ったホットココアをちまちまとすすっていた。

「今日もキッチリ六時間労働。こうやって仕事上がりを迎えるたんびに口座にお金が貯まってく音がするみたいで、たまりませんなー」

「前から思ってたけど、夏紀って割とゲンキンだよね、そういうトコ」

「そう? 優子だって似たような事考えてんじゃない?」

「アンタと違って私はそこまで下品じゃないですから」

 なんて言ってはみせたものの、優子だって今やお金のありがたみを重々理解してはいる。週三日勤務。うち一日は週末の深夜シフトで手当も加算。月に十日あまりも働けば、日々の生活費に加えて自分達のやりたい事もおおよそ賄える額に到達する。拘束され磨り減る時間に惜しさはあれど、背に腹は代えられない。言わばこれは、義務と権利のトレードオフというものなのだ。

 だとしたら社会は実にうまく出来ている。だって人間に欲求がある限り、権利の為に義務を果たし、果たした義務の分だけ得られた権利を行使し、行使した権利の分だけまた義務を果たす、そういう終わりなきサイクルに誰もが組み込まれてゆくようになっているのだから。

「夏紀はそうは思わない?」

「んー、どうなんかねぇ。私はそんな小難しい理屈なんて考えた事無いけどなー」

 手にしていた炭酸水のボトルをグイと大きく傾け、喉を潤した夏紀が続きを述べる。

「大体もっとシンプルなもんじゃないの、お金の意義なんて。例えばウチらの働いてるカラオケ屋で言ったら、一人当たり千円の予算じゃフリータイムにドリンクバーが関の山。だけどこれが一万円もあったら夜通し居座れて、フードメニューだって頼み放題っしょ」

「『放題』っていうほどアレもコレもは無理でしょうが。まあでも確かに、それだけ予算があったら食べたいものを食べるのに躊躇しないぐらいではあるかな」

 一度の滞在でそれだけの額を費やすというのは、現在の自分達にしてみればかなりの豪遊っぷりだ。果たして店の全品を注文するとしたら一体どれほどの料金になるものか、と優子は脳内でこっそり暗算を試みる。

「さっきの話も要はソレと同じでさ。お金があればあるだけ出来る事は増えてくし、桁が大きいほど出来ることの規模も大きくなってく。実際高校の頃までだったら、みんなで一泊二日のドライブ旅行してあれ食べてこれ買ってー、なんて想像もつかなかったワケじゃん?」

「そりゃまあ確かにね。昔は何をするにもおこづかい頼みだった訳だし」

「だったら稼いだお金を好きに使える分だけ、今のウチらはあの頃よりも自由だって事でしょ。権利だか義務だか知らんけど、好きな事やる為にお金ってのはあるワケで、お金に振り回されたらその為に人生があるっていう本末転倒な考え方になってっちゃう気がするけどな、私は」

 夏紀の言いたい事だって勿論分かる。そう思いながら優子は手元のココアの缶をじっと見つめた。あそこの自販機はどうも気忙しい人物が管理しているらしく、冬の訪れはまだ当面先だというのにホットココアの温度が異常なほど高い。おかげで夏紀がボトルの中身の八割方を飲み終えているのに対し、こちらはまだ半分にも手が届かないといった有り様だ。

「私だって別に、働く事だけが人生の全てだなんて思っちゃいないわよ。けどさ、こうやって汗水垂らして稼いだ中から毎月毎月払うもん払って、手元に残った分で何が出来るかってやりくりを考えるようになるとどうしても、お金って使いたい事だけに使えるもんじゃないって現実を直視させられるよなあってだけ。社会人になったら家賃の他に税金とかも、全部自分で払わなくちゃいけなくなるんだし」

「ま、私もまだ実家暮らしだしなぁ。その辺の話になってくると、優子ほど先を見据えた事は言えないわ」

「そこまで大げさな事は言ってないつもりだけど」

 利口ぶってると取られたみたいで、何となく気恥ずかしいような、居心地が悪いような。ココアをもう一服してから優子は中秋の夜空を見上げる。今宵は曇り優勢なのか、漆黒の闇の向こうには星の瞬き一つすら見えやしない。大学生になってからこっち、サークル活動だバイトだと夜遅くに出歩く機会は以前よりも増えたのに、宙に光る星々の綺麗さが眼と心に留まる回数はずっと減ったような気さえする。ひょっとして閑静な地元と夜も賑やかな京都市中との違いもあるだろうか。それが果たして良い事なのかどうか、考え始めると複雑な思いに囚われてしまう。

 地上が明るければ明るいほど、その眩しさに夜空の微かな煌きはかき消される。ならばいっそ真っ暗な方がいいか、と訊かれると即答はしがたい。街の灯りは人の営みの証。これを現代人がいきなり全て捨て去って、今さら原始時代のような生活に戻れるだろうか? 少なくとも優子にその自信は無い。いかに現代社会がルールや仕組みで雁字搦めに縛られたものであろうが地に足つけて暮らしてゆく、それこそが今を生きる自分に取れる精一杯の選択なのだ。

「それより例のチケット、後で私にもちょうだい。代金ちゃんと払うから」

「ん? ああ忘れてた。じゃあ明日大学に持って行くからそこで受け渡し、って事で」

「ハイヨ。代わりに新幹線の方は私が予約しとくわ」

「それは良いけど、くれぐれも時間、間違えないでよ。八時二十分開場、九時開演なんだからね」

「やだなあ優子サン。この私がそんなヘボいミス、するワケないじゃないですかぁ」

「どうだか。チケット取れたら問題が無いか、必ず私がこの目でチェックするから」

「ドーゾご自由に。そっちこそ当日浮かれてあちこちほっつき回ったりして、肝心の応援に遅れないよう注意しなよ」

「そんなコト絶対あり得ませんー。ったく何なのよ、どいつもこいつも」

 私を何だと思ってるんだ。そんな風にむくれる優子を夏紀がケタケタと笑い飛ばす。高校卒業と同時に吹部部長という肩書きを失った事で、夏紀はともかくそれ以外の周囲からも幾分舐めた目で見られている感がどうにも否めない。ここは一つ元部長として、往時の威光が未だ少しも翳っていない事を皆に知らしめておくべきか。……そんな事を考えながら練り歩く夜道に吹くほんの少し肌寒い微風が、今日は不思議と心地よい。

「ねえ、夏紀」

「おん?」

 振り向いた夏紀に、優子は思い切って胸の内を明かす。それは先々を見据えて打ち立てたというよりは、ほとんど思いつきによる提案だった。

「クリスマスのライブ終わったらさ、年末年始も旅行行かない? また希美達も誘って」

「おっ、いいじゃん。夏が海だったから今度は山?」

「それもいいかもね。スキーとか温泉とか、次は二泊ぐらいで」

「だったら私はスノボでもやろっかなー。せっかくのチャンスだし」

「私もやるならスキーよりもスノボがいいかも。私達がやるって言ったら、希美とみぞれもスノボやる気になるかな」

「あの二人はどうだろ。でもみぞれは案外どっちでもスルっとやれそうな気がする」

「そうかも。何たってみぞれは私自慢の子だし」

「別にアンタの子供じゃないでしょーが」

「うっさいな、気持ちは我が子同然なの」

 クイと缶を傾けて、それから優子はいつの間にかココアを飲み切っていた事実に気が付く。ちょうど通りがかった自販機脇のごみ箱に空き缶を捻じ込んだその時、隣側のペットボトル用ごみ箱にはちょうど夏紀が空きボトルを突っ込んでいた。ガコリ、と二つの箱の中で同時に鳴る落下音。それが優子の気分を爽快に塗り替える。

「それより雪山旅行、行き帰りの移動はどうする? またレンタカー借りて車で行く?」

「良いんじゃね? ノロノロ運転で行けば雪道も何とかなるっしょ」

「だったら今度は私に運転させてよ。私だって免許取ったんだし、たまにはハンドル握りたい」

「えー、雪道で優子の運転かぁ。滑ってガードレールにガツンと行かなきゃいいんだけどなー」

「だーかーらぁ、何でアンタ達はいっつも私がヘマする前提なの! そんくらい楽勝なんだからっ」

「だぁって優子ってば、教習の時もさぁー」

「ムギィー!」

 ――などといつもの調子で喚き散らしながらも、優子は改めて実感していた。先々に楽しげな予定を置くとやはり心浮き立つものがある。と同時に、それを励みに頑張ろうと思える気持ちも湧いてくる。これからもっともっと年月を重ねて大人らしい大人になったとしても、こういう気持ちをいつまでも持ち続ける事が何より大事なのだろう。そんな想いを共有できる友人達との繋がりも、一緒くたにして。

 この気持ちはきっとトレードオフになんかならない。片方を積めば積むほどもう片方も同じだけ増えてゆく。それって最高じゃない? 優子の胸の内は今、そんな思いでいっぱいだ。

「んじゃま、その分もキッチリ働いて予算作っとかないとだね。次のシフトいつだっけ?」

「今週は確か、土曜の深夜ね」

「深夜シフトは稼ぎ時だな。よーし、来月の名古屋行きと年越しパーティーを心置きなく楽しむ為にも、いっちょ頑張りますかぁ」

 楽しい未来に、と夏紀が乾杯の仕草をする。本当ゲンキンなんだから、と呆れたつもりの優子の唇は、その端々が滑らかにつり上がっていた。

 これからの事に備えて週にもう一日ずつくらい、バイトの日程を増やしてもいいかも知れない。その場合も、夏紀はやはり自分と同じシフトに入れられる事になるのだろうか? ――まあ、だったらだったで悪くないか。今の優子にはそれもまた、密やかな楽しみの一つに思えて仕方ないのだった。


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