アビドス対策委員会(IN梔子ユメ)、夏の大騒動!   作:気弱

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境界の夜に降る、陽だまりの願い

朝、目を覚ました瞬間から、胸の奥に薄い膜のような違和感が張り付いていた。

 

枕元に置かれたクジラのキーホルダーが、差し込む陽光を反射して静かに輝いている。窓の外には、あまりにも平和で、あまりにも残酷なほどに美しい蒼の世界が広がっていた。ついこの間まで、私は死に物狂いで銃火器を手にし、砂塵を舞わせながらこの島の境界線を守っていた。なのに、今はまるで最初から争いなどなかったかのように、「夏休み」という眩い記号が世界を塗り潰している。

 

「……うーん。平和だねぇ、本当。おじさん、ちょっと怖いくらいだよ」

 

その予感は案の定、数分後に乱暴にこじ開けられた扉の衝撃音と共に、賑やかな現実となって押し寄せてきた。

 

「ホシノ先輩、起きてくださーーい!! 太陽はもうあんなに高いですよ!」

 

扉の向こうからなだれ込んできた、対策委員会のメンバーたちの顔ぶれ。それを見た瞬間、私は全てを悟った。セリカの気合の入った表情、ノノミが抱える大きなビーチバッグ、シロコの揺れる耳、アヤネの完璧なスケジュール表。

 

(あ、これ……今日、本当に私を休ませてくれないやつだ)

 

その予想は、一日を通して寸分違わず的中することになった。

ノノミの手によって次々と最新の水着を(ほぼ強制的に)着せ替えられ、シロコからは「遊びもトレーニング」と称して果てしない勝負を挑まれ、寄り道をするたびにセリカに叱られ、アヤネの徹底した水分補給と健康管理の監視下に置かれる……。

 

「……私、これでも一応は療養中というか、要介護なおじさんなんだけどなぁ」

 

口ではぼやきつつも、その手を振り払う気は更々なかった。後輩たちがこんなにも楽しそうに、そして必死に私を「日常」へと繋ぎ止めようとしてくれている。それだけで、胸の奥に沈んでいた重い澱が、少しだけ、本当に少しだけ軽くなる気がしたから。

 

しかし、夕方にようやく解放された時には、身体よりも先に精神的な気力が尽き果てていた。

だからこそ、私は完全に油断していたのだ。この輝くリゾートの島に、まだ光の届かない「夜」が残っていることに。

 

「肝試しです♪ 先生が特別にコースを用意してくれたんですよ!」

 

夕闇に溶けそうなセリカの宣言に、私の背筋を巨大な氷の塊がなぞった。コースに選ばれたのは、島の外れに建つ、不気味な静寂を湛えた旧宿泊棟。

 

「ま、待って! 1人は嫌だから! ユメ先輩、一緒にお願い! ずっと隣にいて! 離れないで、絶対だよ!?」

 

入り口に立った瞬間、私はなりふり構わず、隣に立つユメ先輩の腕に縋り付いた。かつて経験した、あの心臓が凍りつくような孤独。独りで砂漠を歩き、冷たいコンテナの中で震えながら明日が来ないことを願った夜の記憶が、目の前の暗闇とリンクして心臓を締め付ける。「おじさん」という強がりの皮が剥がれ落ち、中から怯えた子供のような本音が、涙と共に漏れ出していた。

 

最初は、みんなが仕掛けた他愛のない驚かしだと思っていた。けれど、廊下の角を一つ曲がり、奥へと足を踏み入れた瞬間、劇的に「空気」が変わった。

 

肌にまとわりつくような、重く湿った死の冷気。

コツ、コツと響く自分たちの足音に混じって、明らかに「一つ多い」足音が背後に響く。

 

月明かりが差し込む窓際。古びたカーテンが揺れるその下に、それはいた。

白く濁った、形をなさない人影。床に影が落ちておらず、重力から切り離されたように空中に頼りなく浮いている。それが、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 

「――――――――っ!!!」

 

声にならない悲鳴。視界が激しく歪み、ダムが決壊したように止めていた涙がどっと溢れ出した。銃も、盾も、これまで培ってきたどんな戦闘技術も意味をなさない異質の存在を前に、私はただ、情けなく泣きじゃくりながらユメ先輩の胸に顔を埋めることしかできなかった。

 

ーーーーーーーーーーーー

 

「大丈夫、ホシノちゃん。大丈夫だよ。私がついてるからね」

 

私の腕にしがみつき、小刻みに、けれど激しく震えるホシノちゃんを、私は即座に強く抱き寄せた。

今の彼女には、いつも纏っている余裕なんてどこにもなくて、ただ、暗闇を怖がる一人の小さな女の子だった。その細い肩を抱きしめる手に力を込める。

 

「見ないで。目をつぶって……走ろう! 一気に駆け抜けるよ!」

 

彼女の視界を遮るようにその頭を抱え込み、私たちはカビの匂いが漂う暗い廊下を必死に駆け抜けた。その、出口の光が見えかけた時だった。

 

空間が陽炎のようにぐにゃりと歪み、廊下の突き当たりに、一人の少女が立っていた。

 

「……え?」

 

そこにいたのは、私だった。

けれど、今の私とは少し違う。色褪せた、どこか見覚えのあるアビドスの制服。私よりも少しだけ背が高くて、その瞳には、海よりも深い数えきれないほどの後悔と、そして気が遠くなるほどの慈愛が宿っている。

 

彼女は、私の腕の中で泣きじゃくるホシノちゃんを、それはそれは愛おしそうに見つめていた。

その視線が、今の私と重なる。頭の中に、直接、温かく染み渡るような透明な声が響いた。

 

『――こっちの世界のホシノちゃんと、仲良くね♪今度こそ、幸せにしてあげて!』

 

その声には、血を吐くような切実な「願い」と、託された「祈り」が混じっていた。

 

(あれは……昔、ホシノちゃんがポツリと話してくれた、私が砂漠で死んじゃった世界の「私」なんだ……)

 

あっちの世界の私は、ずっと後悔していたのだ。一人残してしまった彼女を、ずっと見守っていたのだ。だから、境界線が揺らぐこの夜に、伝えに来てくれた。

自分が守れなかった「ホシノの笑顔」を、今の私に守ってほしい。そのバトンを渡すために。

 

「……もう……やだ……かえる……おうち、かえるぅ……」

 

腕の中のホシノちゃんが、恐怖と安堵の混ざり合った感情に押し潰され、力なく崩れ落ちる。

気がつくと、あっちの私は消えていた。彼女が去った後には、なぜか冷たいはずの廊下に、陽だまりのような懐かしく温かな匂いだけが残っていた。

 

「……うん。帰ろうね、ホシノちゃん。大丈夫、私はここにいるよ。ずっと、そばにいるから」

 

遠くから、心配そうにこちらを呼ぶ、聞き慣れた仲間たちの足音が近づいてくる。

暗闇の向こうから、アヤネちゃんの持つ懐中電灯の光が筋となって見えたとき、ホシノちゃんはビクッと身体を強張らせて、さらに私の胸に深く顔を埋めた。

 

「ホシノ先輩! ユメ先輩! 大丈夫ですか!? 今、凄まじい叫び声が……!」

 

「あ、アヤネちゃん……。ごめんね、ホシノちゃんがちょっと……腰を抜かしちゃって」

 

駆けつけたセリカとノノミは、ボロボロになって私の服を握りしめ、嗚咽を漏らしているホシノちゃんを見て、顔面を蒼白にさせた。

 

「えっ……嘘、ホシノ先輩!? そこまで本気で怖がってたの!? 冗談のつもりだったのに……!」

 

「ごめんなさい……本当にごめんなさい、ホシノ先輩……! 悪ノリしすぎちゃいました!」

 

ノノミが泣きそうな顔で駆け寄り、震えるホシノちゃんの背中を必死にさする。

いつもなら「おじさんをそんなに労わらないでよ~、照れるじゃない」なんて軽口を叩いて場を和ませるはずの彼女は、今は震える指先で私のシャツを握りしめたまま、言葉にならない声を漏らすことしかできないでいた。

 

私たちは寄り添うようにして、不気味な静寂に包まれた旧宿泊棟を後にした。

リゾートの管理センターに戻ると、そこにはオレンジ色の暖かい灯りが、私たちを待っていた。

 

「ん、おかえり…。遅かった」

 

ロビーのソファで待っていたのは、冷たい飲み物とタオルを用意していたシロコちゃんだった。彼女は、私の肩を借りて足元もおぼつかない、完全に魂が抜けたようなホシノちゃんの姿を見て、驚きに目を見開いた。

 

「……ホシノ先輩、どうしたの? 怪我? それとも、敵?」

 

「ううん、怪我じゃないの。ただ……少し、とっても怖いものを見ちゃって。ね、ホシノちゃん」

 

アヤネちゃんが手早く温かいタオルを持ってきて、ホシノちゃんの涙と汗で汚れた顔を、母親のような手つきで優しく拭う。セリカはお詫びだと言って、厨房からとっておきの高級なココアを持ってきて、丁寧に淹れ始めた。

 

「……私、格好悪いね……。最強の盾が、お化け一匹に負けるなんて……」

 

温かいココアの湯気を吸い込み、少しだけ人心地ついたのか、ホシノちゃんが消え入りそうな震え声で呟いた。その目は真っ赤に腫れて、今はただ、弱々しく潤っている。

 

「格好悪くないですよ! そもそも私たちが無理に誘ったのが、万死に値するミスだったんですから!」

 

セリカが必死に、そして必死すぎて若干声が裏返りながらフォローを入れる中、シロコちゃんがホシノちゃんの隣に静かに座り、無言でその小さな手を力強く握った。

 

「ん。先輩が怖いときは、私たちが代わりに見張ってる。どんな幽霊でも、私が射抜く。だから、安心して寝て」

 

その言葉に、ホシノちゃんは少しだけ、本当にわずかだけ口角を上げた。

みんながホシノちゃんを囲んで、代わる代わる謝ったり、ブランケットをかけたり、励ましたりしている。

その光景は、どこまでも温かくて、眩しくて。

 

さっき暗闇の中で見た「あっちの私」が、喉から手が出るほど欲しかったはずの、奇跡のような幸福な時間だった。

 

宿に戻り、ようやくホシノちゃんが深い眠りについた頃。

静まり返ったリビングの窓際で、夜風に吹かれている人影があった。クロコちゃんだった。

 

「……クロコちゃん。まだ起きてたの? 身体、冷えちゃうよ」

 

彼女はゆっくりと振り返った。その瞳が、月光を受けてわずかに揺れる。

 

「……あ、ユメ先輩。……ホシノ先輩は? 落ち着いた?」

 

「さっき、ようやく寝たよ。よっぽど怖かったみたい。うなされながら、私の手を離してくれなかった」

 

「ん……。それなら、良かった。……先輩には、静かな眠りが必要」

 

クロコちゃんは再び、旧宿泊棟が建つ暗い森の方へ視線を戻した。そして、夜風に消えてしまいそうなほど小さな声で、ぽつりと呟いた。

 

「……さっき、あそこに誰かいた。……不確かな、けれど確かな存在」

 

心臓が跳ねた。色彩の地獄を越え、時間の彼方からこの世界に辿り着いた彼女には、やはり見えていたのだ。

 

「……気づいてたんだね。クロコちゃんにも」

 

「……優しい匂いがした。……砂漠の砂と、少しだけ、干した布団のような……陽だまりの匂い。私の知っている『彼女』の匂い……」

 

クロコちゃんの瞳が、銀色の涙で潤んで見える。あっちの世界の喪失と、その後に続いた長い孤独を知っているからこそ、彼女の言葉の重みが痛いほど伝わってきた。

 

「クロコちゃん、あれはね――」

 

「ん、言わなくて大丈夫。……全部分かってるから。……ただ、会いに来たんだね」

 

クロコちゃんは少しだけ寂しそうに、でもどこか救われたような、穏やかな笑みを浮かべた。

 

「……『私』も、いつかみんなに『また』会えたらいいな。……あんな風に、笑っているみんなに。……ん。この世界に、来てよかった」

 

クロコちゃんは最後に一度だけ、旧宿泊棟の方へ向けて、感謝を込めるように静かに会釈をした。

 

「……ユメ先輩。……今のホシノ先輩を、改めてよろしく。……あんな顔で泣かせるのは、あっちの世界だけで十分だから。この世界では、その役目は私が、私たちが引き受ける」

 

「うん。約束するよ。何があっても、もう離さないから」

 

この世界には、私がいる。生きている私。

ホシノちゃんがいる。そして、クロコちゃんや、シロコちゃん、セリカ、ノノミ、アヤネ……みんながいる。

 

翌朝、真っ青な顔で「二度とお化け屋敷も肝試しも、ホラー映画もしないからね!」と、半泣きで宣言するホシノちゃんを見て、私たちはみんなで顔を見合わせて苦笑いし、心から反省した。

 

「先輩、本当に、本当にすみませんでした……。朝ごはんは先輩の好きなもの、何でも作りますから!」

 

セリカが平謝りする横で、クロコちゃんが「……次は、もう少し心拍数に配慮したコースを設計する」と、少しだけ、本当に少しだけ悪戯っぽく口角を上げた。

 

「次なんて万死に値するよーーー!! おじさんのメンタルはもうボロボロなんだからねーーー!!」

 

叫ぶホシノちゃんの声が、雲一つない、晴れ渡った蒼い空に響き渡る。

怖かったし、泣かせちゃったし、肝を冷やした散々な夜だったけれど。

 

あの「私」が残してくれた温かな名残と、託された切実な願い。

そして、それを共に背負い、笑い合ってくれる仲間たちの確かな絆。

それがあるから、この夏休みは、きっと私たちにとって生涯忘れられない、最高に温かで、最高に騒がしい宝物になった。

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