嗚呼、私はどうかしている。
◇◇ ◇◇ ◇◇
武家の娘がしてよい笑みではない。
裂けたような口角と、恥ずかしげもなく見せる口内。はしたないと叱られてしまうだろうか。否。もうそのような相手は居なかった。
初めて握る柄は濡れていた。ベッタリとついた赤黒く鼻につくソレが何か、私は当然知っている。
知っていながら、笑っていたのだ。
澄ました先に聞こえた音。父上が病に倒れ、母上と私が交代で様子を見てた部屋。獣が貪るような咀嚼音が縁側まで響く。
今、その部屋からは死者の匂いが漂っていた。
「兄様」
「——————!?」
暫く見なかった兄様が振り返る。
——ああ、やはり。
と、何処か納得した私が居た。
武家の次男である彼は実直で、頭の固い、父上によく似た人だった。それ故長男とは度々言い合いとなり、そして最後には切り殺した。
罪人は罪を認め明日の明け方に処刑される、はずだった。
父上も母上も、もう居ない者として扱った。その罰が来たのか、と思ったがどうやら事は天の導きではないらしい。
「兄、様?」
「……っっ!!…!」
声にならない声。喉から出ない言葉が赤く染まった兄様より溢れた。
尋常でない。人の世のものと思えぬ形相に、私はたじろぐ。
「ドウ、ジテ…」
「え」
掠れた、鳴き声に混ざって聞き取りにくいが確かな兄様の声が届く。
「ミテ、ホジィ…私ハ、タダ…」
「ただ…、なんと?」
「正シク、アリタカッタ」
聞こえたのは恨み節でない。人の子から出た答えだった。
我が家に仕える者を惨殺し、親殺しまでした殺戮者の答えがコレだ。訳の分からない。困惑に満ちた私を他所に、兄様は虚な目で射抜く。
慈愛に満ちた、母上によく似た眼差しは無い。人殺しの目だ。
「アア、アアッ!!」
「………」
唸り、叫び、嘆き。もうそこには知った兄様は居なかった。
「ガアアアアアア!!」
人の子は、もうそこには居なかった。
「お赦し下さい。私は貴方を、切ります」
振った重みが肩に乗る。初めての一振りが見事に胴に入る。血が布地をつたり畳へと滴り落ちた。
「愛しています。兄様」
続く二撃が両足を捉える。浅い、しかし体勢は崩れる。日に焼けた首筋がガラ空きとなる。
「どうか安らかに」
一閃。渾身の振りが落ちる。吸い込まれるように入る刃は肉を裂き、骨を断つ。しかし私は女だ。その首落とすには力が足りずに終わる。
——ならば。
切り残した肉を即座に断ち切るしかない。
「はぁああ!!」
——とった。
確かな手応え。落ちる首の音。崩れる胴体。
敬愛する兄様の亡骸が確かにそこにはあった。
兄様を、殺した。その事実に腰が抜ける。
覚悟などしている暇などなかった。親殺しをした兄様が相手と言え、兄妹を殺したのは誠の事実。泣いて済む、などとは思わない。しかしどう贖えば良いなど知る由もなし。
そして、茫然とする私は気付かなかった。その首がまだ生を手放してなどない事に。
「…え」
飢えに染る眼球が私を再び血生臭い現実へと引き摺り戻す。
「……兄、さ」
言い切る前に、私の左足は血を噴き上げた。
そこに居たのはかつて愛した兄様の顔。虚な瞳も無くなり、知的な瞳が蘇っていた。
咀嚼する顎の下見える蠢くソレは、鍛え太くなった彼の指先。頭だけとなった兄様の体は、両手首のみで自立していた。
どくどく、と血の流れた断面は塞がり、肉が蠢いた。一つは傷を塞ぎ、もう一つは失った手足を生やした。
——信じられない、あり得るものか。
兄様は蜥蜴の子だったのか。否。同じ母より生まれ、血を分けた兄妹だ。それなのに、彼は今、私の常識を否定して立ち上がろうとしている。
「いやっ!」
落とした刀を握り直して払う。しかし刃は生えたばかりの手に阻まれた。
そのまま兄様は残る手を噛みついた足にしっかりと握りしめ、再び鋭い歯を私の足へと食い込ませた。
——や、やめて兄様。
声はもう届かなかった。再度浴びた妹の血に兄様の顔は下品な笑みを浮かべている。そんな顔をする人ではないのに、その顔は紛う事なく私の兄のもの。別人のはずもない。見間違うはずがない。この悪鬼こそが私の兄様なのだと、否が応でも認めるしかなかった。
もう、私は身を委ねるように力を抜いた。やがて身体は宙吊りに持ち上げられた。兄様の身体がようやく生え揃った、らしい。
大量の出血により意識が朦朧とする私には、ただ後悔することしか許されなかった。上の2人の仲を取り持つよう割って入ることも、父上に兄様の苦悩について相談することも、私なら出来たはず。なのに、なぜ。
——なぜ私は動かず見ていた?
家族を愛している。その筈だった。その結果はこの有り様。私の怠慢がこの悲劇を生んだ。歯車が食い違わなければ、家族は明日を共に迎えれた筈だった。
——なぜ私は…。
見ていた。知っていた。聞いていた。不和の音を、崩壊の兆しを、その予兆を。
——愉んでしまった。
◇◇ ◇◇ ◇◇
目を覚ますと、そこには何かの隊服に全身を包んだ者たちが居た。目元のみが辛うじて見える相手に私は自ずと身の危険を感じ、逃げていた。
後に知った時、それはとんだ思い違いで、彼らは恩人であった。だが、私はこの時酷く動揺していた。家族を亡くし、死に瀕し、そして良からぬ感情に己を自失していた。
ただ何も知りたくない。誰にも醜い私を知られたくない一心で、田んぼ道を駆ける。転び、左半身を幾度も打ち付けようと走り続けた。
私の左脚の肉が抉れていると知ったのは、明日のことである。
日の出と共に行き着いた先は見知った屋敷。藤の家紋を掲げる名家。母上の実家であった。
叩いた音に遅れて開く門。そこから見えた顔が知人であったことは、その日最大の幸運だった。
迎え入れられた途端に気を失った私は安堵と不安の板挟みに合い、酷い夢を見た気がした。恐らく家族の夢だろう。幸福だった頃のものか、それとも止められなかった者を叱咤するような、私の望む夢なのか。目覚めた時には記憶からは消えてしまったため定かではない。
二度目の目覚め。その時あの隊服は目に映らなかった。ほっと胸を撫で下ろすと、襖の奥から声が聞こえた。
人の声だった。温かみの感じるそれに私は荒れていた心を癒やされた気がして、たまらず涙した。束の間でもあの光景が遠いものになった瞬間に心が救われた。どうしようもない不安から解放された。
もっとその声を聞きたいと、そう思い襖を開く。そして
——え?
隊服。そう、隊服だ。目の前に隊服がある。否。居る。居る筈ない隊服が、不安の解放と共に昨晩の恐怖を持ってきた。
私はみっともなく泡を吹いた倒れた。