その日の創夜は、術師には見えなかった少なくとも、母親の隣を歩いている間は。
安倍家の屋敷から少し離れた道を、創夜は母と手を繋いで歩いていた。母が歩調を緩めれば創夜も緩め、母が立ち止まれば創夜も止まる。
菓子屋の前で、母が色鮮やかな飴を指差した。
「創夜、あれ見て」
創夜は飴を見つめた。
「食べたい?」
「……少し」
「一つなら?」
「はい」
母が笑う創夜は少しだけ目を逸らしたその様子を、道の向こうから見ている少年がいた。
禪院直哉だった。
直哉は、安倍家にいるという“安倍晴明の再来”を見に来ていた。
噂では、幼くして呪力を自在に操り、術式への理解も異常に早い。特に結界術の才は、年齢という尺度では測れないらしい。
直哉は、その噂を信じていたわけではないむしろ、気に食わなかった。
安倍晴明。
その名は、呪術師なら誰でも知っている。
歴史の中で膨れ上がり、もはや一人の術師というより、伝説そのものになった名前だ。そんな名を、まだ何も成していない子供へ簡単に重ねる。
直哉には、周囲がその子供を持ち上げているようにしか思えなかった。
だから、確かめに来た。大層な噂に見合うだけの神童なのか。
それとも、安倍家が作り上げた虚像なのか。直哉が想像していたのは、澄ました顔で術式書を読み、大人の術師を従え、自分の才能を当然のように受け入れている子供だった。
だが、実際に見つけた“安倍晴明の再来”は、母親と手を繋ぎ、飴を選んでいた。直哉は、しばらく言葉を失った。
(……こいつが?)
創夜は、母にどの飴がいいか尋ねられ、本気で迷っているその顔には、傲慢さも、周囲を見下す気配もない。ただの子供だった。
直哉の中で、最初の評価が崩れた。
期待外れ。
そう判断しかけた。
噂ほどの神童なら、せめてもう少し、それらしくしていればいいものを直哉は歩み寄った。創夜が顔を上げる。
目が合っても、怯えない。警戒はしている。だが、直哉を特別な相手として扱う様子はなかった。
「君が安倍創夜?」
「はい」
「ふぅん」
直哉は、創夜を上から下まで眺めた。顔立ち。姿勢。手の位置。呪力の流れ何か異常がないか探す。
しかし、目に映るのは母親の手を握った小さな子供だけだった。
「もっとこう、いかにも凄そうなガキや思てたわ」
「凄そう?」
「せや。君、“安倍晴明の再来”とか呼ばれとるんやろ?」
「そうなんですか?」
あまりにも淡々としていた。直哉は眉を寄せた。
普通なら、誇るか、嫌がるか、少なくとも何かしらの反応を見せるはずだ。だが創夜は、噂を自分とは関係のない話のように受け止めている。
「嬉しないん?」
「何がですか」
「晴明の再来や言われとるんやで。もっと喜ぶもんやと思てたわ」
創夜は母の手を握ったまま答えた。
「安倍晴明様は、私ではありません」
直哉の笑みが止まった創夜は続ける。
「私は創夜です」
得意げでもない謙遜でもない。ただ、自分の名前を言っただけだった。直哉は、そこで初めて創夜を少し長く見た。
(……こいつ、噂を知らんのか)
直哉が投げた言葉を、必要な分だけ受け取り、それ以上は返さない。それが妙に癪に障った。
「せやけど、君が大したことなかったら、その名前で持ち上げられるんも迷惑やろ?」
「そうかもしれません」
「なんや、腹立たへんのかいな?」
「誰にですか?」
直哉は黙った挑発が、空振りした創夜は鈍いわけではない。直哉の声色も、言葉の意図も理解している。ただ、反応する必要がないと判断している。その無関心さが、直哉には腹立たしかった。
「ほんまに強いん?」
「分かりません」
「はぁ? 分からへんて、お前、自分のことやろ」
「私より強い人は、たくさんいます」
「そら今は子供やからやろ。これから強うなるんは、君やないんか?」
「直哉様も子供では?」
母が口元を隠した。直哉の眉が跳ね上がる悪意がない。だからこそ、余計に腹が立つ。
「俺の名前、知っとるやん」
「父様から禪院家のお話を聞いています」
「俺のことも聞いとるん?」
「はい」
「ほな、何て聞いとる?」
創夜は少し考えた。
「禪院家の、次代を担う可能性が高い方だと」
直哉の機嫌が、わずかに戻った。
「なんや、ちゃんと分かっとるやん」
だが、創夜はそれ以上何も言わない直哉は、また苛立った褒めたつもりだった。少なくとも、創夜が自分をどう見ているのかを引き出すつもりだったしかし創夜は、直哉の評価にも興味を示さない。
その時、直哉はふと思ったこの子供は、本当に何にも執着しないのか。
それとも執着しているものが、別にあるのか直哉の視線が、創夜の握る手へ落ちた。
母親の手。
創夜は、さっきから一度も離していない直哉は一歩近づいた。母の指に、わずかに力が入る創夜の目が動いた。
ほんの一瞬だが、直哉は見逃さなかった創夜の視線が、直哉の足元へ落ちる。次に、母の手へそして、直哉の肩へ。
(……見とる)
さっきまでの子供らしい無防備さが消えていた創夜は、直哉の呪力の流れを見ている足の運び体重の移動距離母親の反応。それらを、まるで術式の一部を読むように観察している。
直哉の苛立ちが、初めて興味へ変わった。
(こいつ、俺を見とるんやない)
(俺が何をするかを見とる)
直哉は、わざともう一歩近づいた創夜の表情が変わる恐怖ではない敵意でもない。
ただ、判断している顔だった。その顔を見て、直哉は決めた。
(ほな、ちょいと試したろか)
肩に触れるだけ本気で傷つけるつもりはないだが、これで反応できへんのやったら、噂もその程度や。
直哉は手を伸ばした指先が創夜の肩へ近づくその瞬間直哉の指が、止まった。
「……なんや?」
止められた感触はない壁にぶつかったわけでもないただ、進まない。
直哉は腕に力を込めた指先は動くだが、異様に遅い。
数センチさらに数センチ進むほど、速度が落ちていく直哉の眉間に皺が寄った。
(なんや、これ)
もう一度、力を込める呪力を足へ流し、身体ごと踏み込む。
一歩目は普通に進んだ。
二歩目で、わずかに重くなる。
三歩目で、明確に遅くなる。
四歩目。
身体が空間に縫い留められたように、動きが鈍った創夜の肩まで、あと僅かそれなのに、届かない。
直哉の苛立ちが、今度は明確な驚きへ変わった。
「……なんや、これ。どないなっとんねん」
創夜は動いていない母の手を握ったまま、ただ立っている。
直哉は、そこで初めて創夜を正面から見たさっきまでの評価は、もう消えていた。
期待外れの子供でも噂に踊らされた神童でもない。
目の前にいるのは、直哉が触れようとした瞬間に、何かを発動した術師だった。
「結界か?」
「はい」
「こんなん、安倍家の術式にあったか?」
「ありません」
「……ほな、お前が作ったんか?」
「はい」
直哉は、伸ばした腕を見たまだ届かない創夜は、直哉の腕を見ながら説明する。
「父様から、五条家のお話を聞きました」
「五条?」
「近づこうとすると、近づくほど動きが遅くなって、最後には触れられなくなる術式があると」
直哉の目が細くなる無下限呪術五条家相伝。
その名を、直哉も知っている。
「まさか、無下限使っとるんちゃうやろな」
「使えません」
創夜は首を振った。
「私は五条家ではありませんから」
「ほな、これは何や。無下限の真似事か?」
創夜は少し考えた。
「……真似です」
直哉は、思わず創夜を見直した。
真似。
その言葉だけなら、子供の遊びに聞こえるだが、直哉の腕は届いていないしかも、創夜は無下限呪術の仕組みを知らないと言う。
知っているのは、現象だけ近づくほど遅くなる触れられなくなるそれだけを聞いて。
別系統の結界術で、似た結果を作った直哉の中で、評価が変わる。
これは、術式を真似たのではない現象を観察し、分解し、自分の扱える理屈へ置き換えたのだ直哉は、初めて創夜を“子供”ではなく、“術師”として見た。
「普通の結界は、境界を一枚作ります」
創夜が言う。
「入れないようにするなら、壁を強くします」
直哉は黙って聞いていたさっきまでなら、説明など聞かずに茶化していただが今は違う創夜の言葉の一つ一つを、術式の構造として追っている。
「でも、壁にしたら、壁があると分かります」
創夜の周囲には、何も見えない。
「だから、一枚にしませんでした」
直哉の目がわずかに見開かれた創夜と母を中心に、薄い結界層が幾重にも重なっている。
一枚一枚の強度は高くないしかし、対象が一層を越えるたび、次の層が干渉する。
物理的な運動量を削る呪力の流入を削る速度を削る加速度を削る。
さらに中心へ近づくほど、層の間隔が狭くなる外側では十センチ進めば一枚。
内側では五センチ。
二センチ。
一センチ。
数ミリ。
近づけば近づくほど、突破すべき境界の数が増えるだから、届かない無限ではない空間そのものを操作しているわけでもない。
それでも、結果だけは無下限呪術に酷似している直哉は、そこでようやく理解したこの結界は、強い壁ではない。
相手に“止められた”と感じさせる前に、相手の動きを少しずつ奪っている。
気づいた時には、もう進めない。
(……厄介や)
直哉の苛立ちは、もはや単なる不快感ではなかった自分の動きを、子供に読まれた。
触れるつもりで伸ばした腕を、触れられないまま止められたしかも、その仕組みを作った本人は、勝ち誇ることもない。
ただ、母親を守るために使っている。
「なんで二人分なんや」
直哉が訊いた。
「母様と一緒だからです」
あまりにも簡単な答えだった直哉は、結界の構造とその答えの落差に、妙な苛立ちを覚えた結界は異常なほど複雑なのに。
動機だけは、ひどく単純だ。
「自分だけ守ればええやろ」
「母様に何かあったら困ります」
「自分は?」
創夜は少し考えた。
「私も困ります」
直哉は、思わず黙った。
その返事は、術師のものではなかった子供のものだっただが、その子供が。
母親を守るためだけに、誰にも教わっていない結界を作っている直哉は、そこで初めて“安倍晴明の再来”という言葉を完全には笑えなくなった。
晴明に似ているかどうかは、まだ分からないだが少なくともこの子供は、噂を受け売りにしているだけではない。
自分で見て自分で考え自分で術を組み立てている。
「物理だけ?」
「いいえ。呪力もです」
「……両方?」
「はい」
直哉は、結界の内側を見ようとした見えないだが、呪力を流せば分かる。
物理層。
呪力層。
術式干渉を乱す層。
それらが交互に重なっている最外層は柔らかく、攻撃を受け入れる内側へ進むほど抵抗が増す攻撃した側が防御に気づいた時には、すでに速度を奪われている。
直哉は腕を引いた今度は、無理に突破しようとはしなかった目の前の結界を、術師として評価するために。
「それ、誰に教わった」
「誰にも」
「嘘つけ。こんなん、誰にも教わらんと作れるわけないやろ」
「嘘ではありません」
創夜は母の手を握ったまま答えた。
「父様から、五条家にはそういう術式があると聞きました」
「それだけ?」
「はい」
直哉は言葉を失った原理ではなく、結果だけそれを別の術式体系へ落とし込み、似た現象を作った。
直哉は、そこでようやく認めたこの子供は、少なくとも自分が見に来た価値のある存在だ。
そして同時に自分が思っていたより、ずっと面倒な相手だ。
「なんで親父に見せてへんの」
創夜の表情が、わずかに変わった。
「……まだ完成していません」
「十分使えとるやん。これでまだ未完成や言うんか?」
「まだです」
「何が足りへんねん」
創夜は答えなかった直哉は、その沈黙を隠し玉の存在だと受け取った。
「なんや、隠し玉いうわけか」
「……違います」
「ほな、何や。言えへんだけか?」
母が口を挟む。
「創夜が話したくないなら、それでいいでしょう?」
直哉が母へ視線を向けたその瞬間結界の密度が変わった母側だけが、わずかに厚くなる。
直哉は気づいた敵意を向けたわけではない。ただ、母親へ視線を移しただけだそれだけで、創夜は結界を調整した。
(……分かりやすっ)
直哉は、呆れと苛立ちを同時に覚えた結界は異常に複雑なのに。守ろうとする相手が絡んだ途端、反応だけは露骨だった。
「お前、ほんまに晴明の再来なん?」
「私は創夜です」
また同じ答え直哉は、今度は笑った。
「そこだけは絶対譲らへんねんな」
「名前が違いますから」
「せやから、そういう意味で言うてへんっちゅうねん」
直哉は、もう一度だけ結界へ指先を近づけたやはり届かない。
「……むかつくな、これ」
創夜が心配そうに尋ねる。
「痛いですか?」
直哉は固まった。
「ちゃうわ! 痛いんやったら、こんな悠長に立っとらんやろ!」
母が笑う。
創夜は、本当に分かっていない顔をしている直哉は額に青筋を浮かべた。
この結界がどこまで耐えるのか創夜がどこまで考えているのか。
母は笑いながら創夜の頭を撫でる。
「今日はもう帰りましょうか」
「はい」
二人は歩き始めた創夜は当然のように、また母の手を握る直哉は、その後ろ姿を見送った。
最初に見た時、直哉は創夜を期待外れだと思った。
噂に聞く神童には見えなかった母親と手を繋ぎ、飴を選び、挑発にも乗らないただの子供にしか見えなかった。
だが。
触れようとした瞬間、創夜は変わった直哉の動きを読み母親への接近を察知し誰にも見せていない結界を展開した。
しかもそれは、五条家相伝の現象を、別の術式で再構成したものだった。
直哉が評価を改めた転換点は、結界に止められた瞬間ではない。
その直前。
創夜が、直哉の足運びと母親の反応を同時に見ていた瞬間だったあの時、直哉は理解した。
創夜は無邪気に立っていたのではない母親の隣でだけ、無邪気でいられたのだ。
それ以外のすべてを創夜は見ていたそして、必要になった瞬間だけ術師として動いた。
直哉は、安倍晴明の再来という呼び名を、まだ認めたわけではない。
だが少なくとも、笑って帰るつもりはなくなっていた。
(……おもろ)
半信半疑で来た大げさな噂なら、適当に茶化して終わるつもりだった。
しかし実物は、噂より派手ではない自慢もしない威圧もしないそれなのに。
直哉が想像していたより、ずっと理解しづらく、ずっと厄介だった。
そして何よりあれほど異常な結界を作った本人が何事もなかったように母親と手を繋ぎ。
買ってもらった飴を舐めながら帰っていった直哉にとって、それが一番腹立たしかった。
その後母はしばらく歩いてから、創夜へ尋ねた。
「創夜」
「はい」
「さっきの結界、本当に誰にも見せていないの?」
創夜は頷いた。
「はい」
「父様にも?」
少しだけ間が空く。
「……はい」
母は、それ以上追及しなかった。
「そう」
創夜が母を見る。
「怒らないのですか?」
「どうして?」
「父様には、術を隠すなと言われています」
母は立ち止まった繋いだ手を離さない。
「創夜は、どうして隠したの?」
創夜はすぐに答えられなかったしばらく考える。
「……分かりません」
「うん」
「でも」
創夜は母の手を、少し強く握った。
「まだ、父様に見せたくなかったです」
母は創夜を見つめた。
「なら、今はそれでいいわ」
創夜が目を瞬く。
「いいのですか?」
「あなたが自分で作ったものなのでしょう?」
「はい」
「なら、いつ見せるかも、まずは創夜が考えていい」
創夜は黙った父なら言わない言葉だったお前の術は安倍家のものだ。
才能は家のために使えそう言われると思っていたでも母はあなたが作ったものそう言った創夜は、もう一度母の手を握り直した。
「母様」
「なあに?」
「この結界は」
一度迷うそれから、小さな声で言った。
「母様を守れるように作りました」
母の足が止まった創夜は気づかず続ける。
「私だけなら、普通の結界でもいいです。でも母様は術師ではない時もありますし、急に攻撃されたら――」
そこで、母に抱きしめられた。
「母様?」
「……ありがとう」
創夜は困ったように腕を下げていたが、やがて自分から母の背中へ腕を回した。
その結界に、まだ名はない父も知らない安倍家の記録にも存在しない五条家の無下限呪術でもない。
ただ、父から聞いた一つの情報を、幼い創夜が自分にできる術理へ分解し、積み重ね、作り直したものだ。
そして何よりその術が初めて人前で使われた理由は安倍家の威信でも術師としての勝利でも自分の才能を証明するためでもなかった。
――母に触れさせたくなかったただ、それだけだった。
無下限呪術とは原理から異なるにもかかわらず、外部から観測される現象だけは酷似した防御機構。
だが、この日最初にそれを真正面から受けた禪院直哉だけはもっと簡単な言葉で記憶することになる。
安倍創夜に触ろうとしたら、触れへんかったそして母親の方へ寄ったら、露骨に壁が厚なった。
それでも直哉は、創夜をただの子供とは思わなくなっていた腹立たしい理解しづらいその二つが、直哉の中で初めて同じ場所に並んでいた。