——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
この話から最終章になります。
最後までお付き合いお願いします。
第八十六話:
エイトマンは息を呑んだ。
魔女と化して暴走していた結衣を苦しめる元凶を、自身のすべてを賭して破壊し、ようやく過酷な戦いが一件落着かと思われた──まさにその矢先に現れた『黒いロボット』。
音もなく、完全な無音のまま空中に静止したそれは、不気味で圧倒的な存在感を放ちながら、確実にこちらを見下ろしているようだった。
やがて、その意思の感じられない不吉な双眸に、禍々しい光が灯る。
(……チッ、センサーの異常か……!?)
電子頭脳のバグ、あるいはサイコブレイクの余波による残像。初めはそう思いたかった。しかし、それが致命的な「現実」であると気づいた時には、すべてが遅すぎた。
不意に、身体中を強烈な『重さ』が襲う。
「っ……、が……っ!?」
エイトマンは抗う間もなく、思わずその場に頑強な四肢を預けるように叩きつけられた。手をついた瞬間、のしかかった異常な質量のせいで、アスファルトが派手に砕け飛ぶ。
身体中が内側から押し潰されるように重く、地面にただ這いつくばるしかなかった。
「ヒッキー!?」
刑事に抱えられた結衣の悲痛な声が鼓膜に届くが、今の八幡にはそれに視線を返す余裕すら残されていない。
『──警告。重力値に異常発生。現在20G……。まもなく30Gに到達します』
(……重力、操作……だと……!?)
電子頭脳の演算結果が弾き出したのは、地球の自然現象そのものを歪める、恐るべき能力の証明だった。
この身体を包む、文字通り桁違いの『重さ』の正体が、意図的に歪められた重力場であるとするならば──。激しい負荷により、内蔵原子炉と電子頭脳がいよいよ限界の警告アラートを鳴らし続ける。
不気味な黒いロボットは、その重力を嘲笑うかのように、ゆっくりと無音のまま目の前へと降り立った。
這いつくばり、指一本動かすこともできないエイトマンを冷徹に見下すその姿は、単なる機械の怪物を遥かに超えた、絶対的な威厳──まさに『魔王』としての風格すら感じさせた。
やがて、エイトマンが完全に無力化され、動けないことを確認したロボットは、その無機質な視線をゆっくりと動かし、その先へ……。
未だ震えている、由比ヶ浜結衣へと向けた。
「────ッッ!!」
やめろ、という言葉が喉まで出かかりながらも、どうしても声にならなかった。異常なまでに増幅された重力の檻が、エイトマンの自由を完全に奪い去り、スピーカーの駆動さえも力ずくで押さえつけていた。
「くっ!? な、なんだこいつは……っ!?」
結衣をその背後に庇いながら、先ほどの刑事が決死の形相で警察用の拳銃を構える。だが、黒いロボットはその抵抗をまるで一顧だにする価値もないとばかりに、機械的に、淡々と距離を詰めていく。
激しい銃声とともに、数発の銃弾が空気を切り裂いて放たれた。しかし、それらは黒いロボットの漆黒の装甲に触れた瞬間、パキンと軽い音を立てて無惨に弾き返されるばかりだった。傷一つつけることさえ叶わない。
黒いロボットが、銃を構える刑事に向けて無造作にその手を向けた。
その瞬間、先ほどのエイトマンの身に起きた悪夢が、そのまま刑事の身体を襲う。
「ぐぁっ……!?」
目に見えない巨大な質量に叩きつけられたように、刑事の身体がアスファルトへと激しく激突した。抗う術もなく、一瞬にして意識を刈り取られた刑事が崩れ落ちる。
そして、肉の壁を失った黒いロボットの無機質な両眼が、ついに剥き出しになった結衣を捉えた。
「ひっ……!?」
そのあまりにも圧倒的な死の威圧感に、結衣が引き攣った怯えの声を上げる。超能力という魔女の呪いから解放され、いまや完全に「普通の女の子」に戻った彼女には、この目の前の悪魔に対抗する手段など、もう何一つとして残されていなかった。
黒いロボットの手が、ゆっくりと、しかし確実に、逃げ場のない結衣に向かって迫っていく。
「やめろぉおおおっ!!」
その横から、裂帛の気迫を込めた絶叫が響き渡った。
内部の駆動系がみしりと音を立ててへしゃげ、電子回路から火花が噴き出す。だが、エイトマンはそんな自壊のダメージなど一切構わなかった。限界を超えた原子炉の出力を無理やり四肢に叩き込み、重力の檻を強引に食い破ったエイトマンが、横合いからその黒い巨体へと突撃した。
渾身の力で突撃したエイトマンに対し、黒いロボットはわずかにその身体を傾けただけだった。
無機質な視線が、再びエイトマンを捉える。その漆黒の両手が、迫り来るエイトマンを真っ向から掴み掛かろうとした瞬間、エイトマンもまた自らの両手を伸ばし、その強固な腕を掴み返した。
バチバチと激しい火花が散り、過負荷によって人工筋肉が悲鳴を上げる。
「ぐ……ぬ、ああああああっ!!」
冷却が追いつかず、激しい排熱の蒸気が両腕の隙間から白煙となって噴き出す。エイトマンは残された全ての出力を注ぎ込み、必死でその圧倒的な怪力に抗った。しかし──。
──グシャッ
高架上に、無慈悲で圧倒的な破壊音が響き渡った。
「……っ!?」
掴まれた両手ごと、その腕は信じがたい力で容易く圧搾されていた。エイトマンの前腕部が文字通り完全に砕かれ、そのまま容赦なく千切り捨てられる。
「ヒッキーーーーーーーーッ!!」
結衣の、裂けるような悲鳴が空気を切り裂いた。
エイトマンは激しい衝撃のノイズに視界を明滅させながら、呆然と、失われた自らの両腕があった場所を見つめた。切断面からはショートした太いケーブルやコードが、まるで千切れた血管のように激しくうねり、火花を撒き散らしている。その光景はあまりにも無惨だった。
腕を失い、バランスを崩しながらも、八幡の闘志だけは未だ消えていなかった。
残された駆動系を震わせ、泥泥とした執念だけで目の前の悪魔に向き直る。まだ、足がある。体当たりでも何でもして、結衣からこいつを遠ざける──。
だが、その執念すらも、目の前の『魔王』には通用しなかった。
黒いロボットの双眸が、一層強く光り輝いた。
次の瞬間、衝撃ともつかぬ光芒の断絶がエイトマンを襲う。
抵抗する間も、何が起きたかを認識する隙すらも与えられず、エイトマンの頑強な胴体は、まるで一枚の紙を引き裂くかのように、あっけなく真横へと両断された。
「あ……」
パチパチと切断部から火花が弾ける。
上下を分かたれたエイトマンの上半身は、重力に従って、冷たいアスファルトの上へと無惨に投げ出された。
「──いやぁあああああああああッ!!」
胸を切り裂くような結衣の悲鳴が、国道16号の冷え切った空気をどこまでも白く震わせていった。
ごろりと転がった視界の先、火花を散らす自分の肉体の向こう側で、黒い魔王の足元にへたり込む結衣の姿が見えた。超能力を失い、ただの無力な少女に戻った彼女の細い肩が、恐怖のあまり激しく震えている。
黒いロボットの無機質な機械の手が、容赦なく、ゆっくりと結衣の身体へと伸びていく。
両腕を失い、胴体を両断された八幡には、もう奴を止める術は残されていなかった。視界を埋め尽くす真っ赤なエラーログの向こう側で、大切な日常の象徴が奪われようとしている。動け、と電子頭脳がどれだけ限界を超えた信号を送ろうとも、千切れたケーブルが虚しく火花を散らすだけだった。
抗うことのできない絶対的な絶望を前に、少女はただ、狂おしいほどの叫びを響かせるしかなかった。
「逃げ、ろ……由比ヶ浜……っ」
五体をバラバラに両断され、冷たいアスファルトに転がったエイトマン──比企谷八幡の喉から漏れたのは、ひどいノイズの混じった破滅的な音声信号だった。
内蔵原子炉の出力は臨界点を超えて急低下し、視界の九割は真っ赤なエラーログで埋め尽くされていた。電子頭脳は完全な機能停止の一歩手前まで追い込まれ、まともな思考回路はすでにズタズタだった。
それでも、八幡の電子頭脳の最深部、プログラムの根幹に刻まれた『由比ヶ浜結衣を護る』というただ一筋の演算だけが、消えゆく自我を辛うじて繋ぎ止めている。動かない駆動系に何度も無駄な信号を送り、結衣の元へ必死に手を伸ばそうと、千切れた肩の関節が虚しく火花を散らした。
だが、黒い魔王の無機質な手は、無力な少女へと容赦なく、ゆっくりと伸びていく。
「いや……いやだよ、ヒッキー……!」
その時、結衣は逃げるどころか、八幡のボロボロになった上半身へと覆い被さるように、強く、強く抱きついた。その温かい涙が、熱を帯びたエイトマンの鋼鉄の胸にぽつぽつと零れ落ちる。
「もう絶対に離さない……! 置いていかないで、ヒッキー……っ!」
「馬鹿、野郎……早く、逃げ……っ」
残された僅かな音声機能で必死に拒絶を絞り出すが、結衣は八幡の首筋にきつく腕を回したまま、頑なに首を振った。その瞳には、今度こそ共に果てるという強い覚悟の光が宿っている。
二人が重なり合ったその瞬間、黒いロボットが冷酷にその右手をかざした。先ほどの超重力が発動すれば、二人の身体は一瞬にしてアスファルトごと圧搾され、肉も鋼鉄も等しく塵に還るだろう。
結衣はぎゅっと目を閉じた。
──ガキィイイイイイイイイインッッ!!!
発動の寸前、空気を切り裂いて飛来した『銀色の閃光』が、黒いロボットのボディへと真横から猛烈な勢いで激突した。金属が激突したとは思えない凄まじい衝撃波が走り、あの絶対的だった『魔王』の巨体が、高架道路の路面を派手に削りながら十数メートル先へと一瞬で弾き飛ばされた。
凄まじい衝撃音に、結衣は震える目をゆっくりと開いた。
二人の前に滑り込むようにして着地した、未知の銀色の背中が、静かに佇んでいた。
黒いロボットを瞬時に弾き飛ばした銀色の閃光は、激しい制動音とともに、地に伏せるエイトマンと結衣の前にその雄姿を現した。
全身を覆う美しい流線型のシルバーボディが、雲間から差し込んだ午前の陽光を浴びて神々しく煌めいている。その鋭くもどこか無機質な顔貌は、まさにエイトマン──比企谷八幡の鋼鉄の肉体と同様の設計思想で作られたものだった。
八幡のノイズまみれの電子頭脳に、かつて研究所のデータベースの最深部で目にした、ある開発記録の残像が蘇る。
「間に合ったな。エイトマン」
重低音の混じった、しかし聞き覚えのある理知的な声が、銀色の超人のスピーカーから響いた。
「──プロトタイプ……博士……っ」
八幡は壊れた音声回路から、かろうじてその名を絞り出した。
それはかつて、NASAの宇宙開発計画の初期段階において、かつての谷博士がその持てる技術のすべてを注ぎ込んで造り上げた、人類最初のマシナリー。
『プロトタイプ・エイトマン』
これまでの過酷な戦いを裏で支え、八幡をエイトマンへと新生させた生みの親──谷博士その人が、自ら最初に開発した伝説の機体を駆り、真の姿となってここに立っていたのだ。
「人工衛星のレーダーが高速飛行物体を感知してから、研究所を飛び出してここまで全速力で駆けてくるのは流石に骨が折れたぞ。この老体には少々堪える強行軍だ」
プロトタイプは無機質な機械音の中に、いつもの谷博士らしい微かな苦笑のニュアンスを滲ませてぼやいた。
魔女エスパーとの死闘によってエイトマンが満身創痍となり、限界を迎えていることを察知した谷博士は、エイトマンの危機を救うため、自ら前線へと急行したのだった。
「話は後だ。まずはあの脅威をどうにかしよう」
谷博士──プロトタイプ・エイトマンは冷徹に言い放つと、遠方で起き上がろうとする黒いロボットに向けて、即座に片腕の砲身を水平に照準した。
直後、眩いプラズマの閃光が空気を裂いて撃ち放たれた。エネルギーの奔流が黒いロボットの胸部に直撃し、視界が真っ白に染まるほどの激しい爆発が高架道路の上に巻き起こる。
しかし、立ち込める白煙が風に晴れると同時に、エイトマンのセンサーが信じがたい光景を捉えた。黒いロボットは何事もなかったかのように、平然とそこに立ち上がっていたのだ。漆黒の装甲には、傷はおろか煤一つつついていない。
「やはりダメか……」
その圧倒的な防御力さえも、最初から計算の範囲内だと言うような表情で、谷博士が小さく呟いた。
「博士、俺は、いいから……っ。早く由比ヶ浜を保護して、ここから、逃げて、ください……っ」
音声回路のノイズを激しく散らしながら、八幡は自身の残躯を省みずに懇願した。これ以上の戦闘は博士の身をも危険に晒す。
「いやだよ! 置いていかない! ヒッキーも一緒じゃなきゃ絶対に嫌!」
結衣は涙を流しながら、八幡の上半身をさらに強く抱きしめて激しく拒否した。
「心配するな、比企谷くん。それに由比ヶ浜くん、私一人でこの場を切り抜けるつもりもない」
プロトタイプは振り返らず、静かに二人へ告げた。
「既に手は打ってある」
博士が黒いロボットの向こう側の道路を指し示すと同時、エイトマンの聴覚センサーが、遠方から響く無数のけたたましいサイレンの音を拾い上げた。地を震わせるような重低音の群れ──それは田中課長が率いる、警視庁・公安合同による『サイボーグ犯罪対策部隊』の超大型装甲車やヘリの群れが、この国道16号を完全に包囲しつつある合図だった。
谷博士は、無音のまま佇む黒いロボットに向けて冷徹に言い放った。
「国家の戦力を相手に、今ここで派手にやり合うのは貴様にとっても不本意だろう、
そして──エイトマンの最高性能センサーすら追いきれない恐るべき超速度で、漆黒の魔王は天空の彼方へと一瞬で消え去っていった。
それは、エイトマンの命が寸前で助かった事を意味していた。
(……消えた、か)
黒い魔王が天空の彼方へと飛び去り、田中課長率いるサイボーグ犯罪対策部隊のサイレンが近づいてくる。
危機の去ったことを確信した、まさにその瞬間だった。
エイトマン──比企谷八幡の電子頭脳は、とっくにその稼働限界時間を限界を超えて突破していた。
限界を超えてなお駆動し続けていた原子炉の火が急激に細り、脳内に響き渡るノイズはいよいよその大きさを増して、視界のすべてを漆黒のエラーログで埋め尽くしていく。サイコブレイクの余波、重力操作による超重圧、そして強引な駆動──鋼鉄の肉体に蓄積されたすべての致命的な負荷が、八幡の辛うじて残っていた意識を容赦なく闇の底へと沈ませていった。
『──警告:システム異常加熱。安全確保のため、これより強制スリープモードに移行します』
視界の隅に、冷徹で無機質なシステムコードが浮かび上がる。
五感が一つ、また一つとシャットダウンされ、急速に世界が遠ざかっていく。
「ヒッキー! しっかりして、ヒッキー……!!」
自分を必死に呼び続ける結衣の、涙に濡れた悲痛な声。
それが、霞みがかった意識の中で八幡が最後に捉えていた、世界の音だった。
(泣くなよ、バカ……)
そんな彼女の泣き顔に、八幡は捻くれた笑みを浮かべながら、その意識を闇に沈めていった。
──
薄暗い雪ノ下邸の一室で、雪ノ下陽乃は静かにベッドの端に腰掛けていた。
その膝の上には、彼女の妹──雪乃が乗せられている。陽乃は、まるで壊れやすいガラス細工にでも触れるかのように、時折愛おしそうにその白い頬や黒髪をそっと撫でていた。
本来ならば、学校に通っている時間帯であるはずだった。それにもかかわらず、今の雪乃は何故か制服のまま陽乃の膝枕の上で、酷く安らかな眠りについている。されるがままの雪乃はよほど深い眠りの底に沈んでいるのか、どれだけ髪を愛撫されようとも、その意識が覚醒する兆しは一切なかった。
少なくとも現在、雪ノ下雪乃は完全に姉である陽乃の絶対的な庇護の元に置かれていた。
「外の世界は騒がしいね。雪乃ちゃん」
陽乃は静かに、底の知れない微笑みを浮かべた。だが、その美しい微笑みの裏に隠された覚悟の大きさを知る者は、この世界に誰一人としていない。
運命の歯車は、完全に動き出したのだ。
いよいよ、あの魔王をはじめとする超人類たちが率いる組織──『Genesis』が、この世界を覆い尽くす時が来た。
だが、その大破局が訪れる前に、どうにか間に合わせることはできた。
これまで、一歩引いた「観測者」として彼らの歪な動向を静観してきたが、自分もそろそろ、己の目的のために表舞台へと動き出すことにしよう。
今、この膝の上で安らかな眠りにつく妹──自分とは違う、『旧人類』に属する雪乃が、これからの過酷な新時代を生き残るために、陽乃は裏であらゆる手を講じてきた。だが、それももう限界だった。一人の人間が動かせる範疇としては、あまりにも時間が、そして力が足りなさすぎた。
だからこそ、彼……比企谷八幡……。
『エイトマン』という規格外の存在が、雪乃の永遠の隣人になってくれたことは、陽乃にとっても計り知れない『救い』だった。
あの鋼鉄の男であるならば、世界がどれほど無残に変革しようとも、自らの命に代えてでも雪乃を絶対に守り抜いてくれる。
──『新世界の指導者』となるべき、愛しい妹のために。
「雪乃ちゃんは幸せ者だね? こんなに、みんなから愛されてるんだから……」
陽乃は、壊れゆく世界に訪れる残り少ない『平穏』を慈しむように、薄暗い部屋の静寂の中で、いつまでも雪乃の身体を撫で続けていた。
──
エイトマンが完膚なきまでに敗北し、雪ノ下邸の薄暗い一室で陽乃がその心の内に秘めた目的と覚悟を確かめている、まさにその時。
誰にも知られない深い闇の底、超人類と呼ばれる選ばれた者たちが身を潜める秘密の研究室には、死のような沈黙が立ち込めていた。そこに佇む組織『Genesis』の一員である少女──ソフィアの顔色は青白く、その瞳には明らかな焦燥と、隠しようのない恐怖の色が浮かんでいた。
ソフィアの目の前に立っていたのは、かつて八幡が地域のクリスマス会で鶴見留美と共に交流したことのある少年──大江シンだった。
大江の佇まいは、至って平静そのものだった。だが、ソフィアは痛いほどによく知っていた。目の前の少年が今のように異常なまでの冷静さを保っている時こそ、その脳裏で身も凍るような冷酷かつ凄惨な「計算」を秒単位で組み立て続けているということを。
(殺される……!)
彼女の鋭敏な本能が、激しい警報となって脳内で鳴り響いていた。
魔女計画の最高傑作となるはずだった由比ヶ浜結衣──『ユイ』の完全な敗北と喪失。自分たち超人類の最高戦力である『
最後の一点に関しては、もし結衣の脳内デバイスによる超人類計画が予定通りに成功してさえいれば、いくらでも弁明の余地はあった。完璧な人造超人類の量産化が軌道に乗りさえすれば、大江も最終的な結果を見て見逃すはずだという、ソフィアなりの計算があったのだ。
だが、それもエイトマンの命懸けの介入によって全てが根底から破綻した。この致命的な失態の責任の所在が誰にあるかなど、言うまでもなかった。
ソフィアは声も出せずに立ち尽くしながら、心の中で必死に弁明と謝罪の言葉を繰り返していた。明晰な大江なら、自らの沈黙に隠された意図を全て察し、一縷の慈悲をくれるのではないか。そんな淡い望みに縋るように、必死に心の中で謝り続けた。普段の高慢な彼女からは到底想像もつかないほど、その顔は畏れによって醜く引き攣っていた。
そうして、永遠にも感じられた拷問のような沈黙の時間を破ったのは、ぽつりと、しかし少年とは思えないほどの恐るべき重苦しさを秘めた声だった。
「ソフィア」
「な、何かしら……大江くん」
引き攣った乾いた笑みを浮かべるソフィアに対し、少年は感情の欠落した瞳で──
「死ね」
──氷の死刑宣告を突きつけた。
ソフィアが弁明の口を開くよりも、彼女の全身が異常な『重さ』を感知する方が圧倒的に早かった。
「あ……っ、が……!?」
人間が辛うじて即死しない限界を見極めた、正確無比で容赦のない重圧が頭上から猛烈に降り注ぐ。床に叩きつけられたソフィアの身体は、まるで巨人の指で潰される寸前の蟻のような、無残な様相を晒していた。
口から内臓がせり上がってくるような凄まじい激痛にのたうち回るソフィア。その頭上で、重力制御という不可視の
「ソフィア。僕は君の才能と、その研究が超人類として素晴らしいものだということは認めているよ。だけどね……その短慮で無計画な行動を評価することは、僕にはできないな」
大江は手元のコンソールを淡々と操作し、さらに重力値を引き上げていく。骨のきしむ嫌な音とソフィアの苦悶の絶叫が部屋に響き渡るが、大江はそんなものは最初から聞こえていないかのように、表情一つ変えずに言葉を続けた。
「君の研究が綺麗に結実するなら、同じ仲間としてある程度は目を瞑ってやれたんだけどね。わかっているのかい? 君が提唱したエスパーは完全に失われ、僕が『友人になりたい』と感じていたエイトマンは、これからは僕たちの計画の前に敵として立ち塞がることになる」
大江は、比企谷八幡に対して明確な好意を感じていた。およそ超人らしからぬ凡庸な感性の中に秘められた独特の空気と、自分と同じく他者を観察し、その感情に良くも悪くも振り回される様は奇妙な親近感を抱くほどだった。
良き友人になれるかもしれない機会を失った怒りは、相当なものだった。
「……本当に残念だよ。君は優秀な科学者だというのに、超人類としては『不適格』だなんてね」
大江の冷徹な死刑宣告が、真っ赤に染まるソフィアの思考を絶望で埋め尽くした。
「──せめて死んで、その大きな責任を取ってくれ」
ソフィアの肉体が限界を迎え、肉塊へと変わり果てようとしたその瞬間──ソフィアを中心とした重力波を打ち消すように、外部から強力な別の重力波が荒々しく衝突した。
空間が激しく歪み、互いに相殺し合う重力場の断絶。超重力から突然解放されたソフィアは、激しく咳き込みながら床に這いつくばり、荒い息を吐き出した。
「……っ、はぁ、はぁっ……!」
「大江くん……そう怒るなよ。エルケーニヒをあの場に出したのは、僕の決定なんだからさ」
研究室の奥の闇から、もう一人の少年──エルケーニヒを直接従える『アルフ』が、やれやれと首を振りながら、皮肉げな笑みを浮かべて姿を現した。
「アルフ。君もソフィアと一緒になって、くだらない遊びに興じている場合ではないとは思わなかったのかい?」
じろりと、獲物を射抜くような鋭い視線を向ける大江。だが、アルフはその冷徹な圧力を器用にかわしながら、地面にへばりついて息も絶え絶えになっているソフィアの身を起こした。
「そう言うなよ。実際、彼女の研究は成功したも同然だったんだぜ? それにさ、君のご執心のエイトマンだって、僕のエルケーニヒの前では手も足も出ずにバラバラに壊れちゃったじゃないか」
「自惚れるなよ、アルフ。君のエルケーニヒは、僕の開発した『重力制御装置』があって初めて性能を発揮するということを忘れるな」
尚も温度のない冷徹な視線を向ける大江に対し、アルフはふう、と肩をすくめてため息を吐いた。
「わかってるって。君あっての超人類、君あっての『Genesis』だってことも、僕とソフィアは充分すぎるほど承知してるよ。だからさ、もうこれくらいで許してやってくれよ。彼女、もうたっぷり反省したみたいだしさ」
よっこいしょ、とソフィアを背負いながら、奥の闇へと歩いていくアルフ。
その後ろ姿を冷ややかに見送りながら、大江は椅子の背もたれに深く身体を預け、重いため息を吐き出した。
(……わかっていないんだ。君も、ソフィアも……)
自分たちは、自分たちが思い込んでいるほど強くもなければ、賢くもない。だからこそ、徹底した計画の進行を至上命題として、これまで全てをコントロールしてきたのだ。旧世界を完全に一新する大業において、たとえ微小な失敗であろうと許されないという現実を、あの二人はまるで理解していない。
──だからこそ、よりにもよって『彼』が完全に自分たちの敵に回るような事態になったことは、大江にとっても極めて頭の痛い案件だった。
「エイトマン……比企谷さん」
目元を細い指先で押さえ、痛みを堪えるようにしながら、大江は再び深い思考の海へと沈んでいった。
「あなたとは……できれば、戦いたくはなかったのですけどね」
その言葉を言う大江の顔は、先ほどの冷徹さは微塵も存在せず、年相応の少年のものに戻っていた。
今日はここまでとします
感想、評価をお願いします!