紅霧異変も終わり、幽閉された吸血鬼の一件も収束した紅魔館
だが、まだ一人過去に囚われたままの人間がいた。
その人間は完璧な従者として館に存在するが、彼女の心の中は嵐のように乱れていた。
そんな中、その原因となった巫女が紅魔館にまた訪れる。
そこで彼女もまた、主のような変化を迎える。

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読切

銀色の懐中時計が、刻み慣れたリズムで午後の静寂を刻んでいる。

紅魔館の廊下には、陽光を遮る厚いカーテンの隙間から、わずかな光の粒子が躍っていた。昼、吸血鬼の主たちは深い眠りの底に沈んでいる時間。本来なら静謐が支配するはずのその空間に、場違いな湯気と、甘ったるい焼き菓子の匂いが混じる。

 

「……また、来たのですか。博麗の巫女」

紅茶を淹れる指先が、微かに冷える。

目の前で、紅白の布地を無造作に揺らしながら、博麗霊夢がソファに深く沈み込んでいた。その態度は、ここが異形の棲処であることを完全に忘却しているかのようで、完璧な従者として立ち振る舞う十六夜咲夜の神経を逆撫でする。

「いいじゃない、別に。お茶くらい。そっちの門番もいいって言ったわよ」

霊夢は湯呑みではなく、咲夜が用意した最高級のティーカップを当然のように手にとり、香りを愉しむ素振りも見せずに茶を啜る。その横では、紅美鈴が「あはは、いいじゃないですか咲夜さん」と、締まりのない笑みを浮かべていた。

咲夜の胸の奥で、小さな、だが鋭い棘が刺さるような感覚が走る。

主であるレミリアも、そして妹様のフランも、いつの間にかこの巫女を「霊夢」と呼ぶようになっていた。それは、かつての弾幕ごっこの果てに得られた、強者への敬意。あるいは、種族の壁を超えた、ある種の愛着。

だが、咲夜にとってそれは、自分だけの聖域に土足で踏み込まれたような、言いようのない不快感の源泉だった。

「美鈴。あなたの職務は侵入者を防ぐことでしょう。なぜ、当然のように招き入れているの」

「咲夜さん、硬いこと言わないでくださいよぉ。霊夢さん、お土産にお煎餅持ってきてくれたんですよ?」

 

「……博麗の、巫女、よ」

わざわざ呼び方を訂正する。

自分だけは、彼女を名前で呼ばない。それは咲夜が自身に課した最後の防波堤だった。主たちが彼女に惹かれ、その奔放な魂を許容していく中で、自分だけは「完璧な従者」という役割を維持し、彼女を「排除すべき、あるいは管理すべき対象」として定義し続けなければならない。

そうしなければ、主たちの心が自分から離れ、あの紅白の巫女に染め上げられてしまうような——そんな、ひどく子供じみた独占欲が、喉の奥を熱くさせた。

「あ、これ美味しいわね。咲夜の分ももらっちゃっていい?」

霊夢の指が、咲夜のために用意されていたクッキーへ伸びる。

「ちょっと、まっ…」

それは、咲夜が自分への僅かな報酬として、あるいは業務の区切りとして、丁寧に焼き上げたものだった。

サクッ、という、乾いた、それでいて暴力的な音が静かな部屋に響く。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「……っ」

視界の端で、霊夢が口の周りに食べかすをつけたまま、幸せそうに咀嚼している。

美鈴はそれを見て、「あ、それ咲夜さんが自分用に取っておいた特製ですよ」と呑気に茶を差した。

その瞬間、咲夜の中で何かが弾けた。

時計の針が止まるような静寂ではなく、むしろ加速するような、熱い衝動。

「完璧な従者」という仮面の下で、抑え込んできた感情が、制御を離れて溢れ出す。

 

「……いい加減になさい、霊夢!」

叫びは、自分でも驚くほど鋭く、そして剥き出しだった。

部屋の空気が一変する。美鈴が目を丸くし、霊夢が咀嚼を止めて、ゆっくりと顔を上げた。

——呼んでしまった。

禁じていたはずの、その名前を。

名前を呼ぶということは、彼女を「概念的な装置」ではなく、一人の「対等な存在」として認めることと同義だった。

心臓の鼓動が、耳の奥でうるさいほどに鳴っている。掌が、自身の失態への羞恥と、吐き出した感情の余熱で湿っていた。

だが。

 

「……何よ、急に。それよりおかわり。これ、紅茶によく合うわね」

霊夢は、驚く風でも、茶化す風でもなく、ただ空になったカップを差し出した。

その瞳には、咲夜が抱いていた執着も、嫉妬も、こだわりも、何一つ映っていない。

彼女にあるのは、ただ「今、ここに美味しい茶がある」という、乾いた、それでいて圧倒的な肯定感だけだった。

「……」

咲夜は、毒気を抜かれたように立ち尽くした。

一人で勝手に壁を作り、一人で勝手に嫉妬し、一人で勝手に「博麗の巫女」という記号に閉じ込めていた。そんな自分のこだわりが、どれほど矮小で、無意味なものだったか。

お嬢様たちが、なぜこの巫女を「霊夢」と呼ぶのか。

それは、彼女の強さゆえではない。その、あまりにも人間らしく、そしてあまりにも突き抜けた「個」に、魅了されたからなのだ。

役割に縛られ、象徴として固定されることが美徳とされる幻想郷で、この巫女だけは、ただの「霊夢」としてそこに存在している。

 

「……そう。そんなに気に入ったのなら、あとで包んで差し上げるわ。……霊夢」

二度目は、滑らかに口をついた。

喉の奥の痛みは、いつの間にか消えていた。

代わりに、少しだけ冷めた紅茶のような、さっぱりとした諦念が胸に広がる。

「やった。美鈴、あんたの分も奪ってあげるから感謝しなさいよ」

「えぇー! ひどいですよ霊夢さん!」

 

騒がしくなったテーブルを見つめながら、咲夜は再びポットを手に取る。

ベルガモットの香りが、午後の柔らかな光に溶けていく。

主たちが目覚めるまで、もう少しだけ時間がある。

完璧な従者は、少しだけ乱れたエプロンを整え、口角を微かに上げた。

次回の買い出しのリストに、あの巫女が好む茶葉を加えるべきか。

そんな思考を、彼女は「職務の一環」という便利な言葉で、そっと胸の奥に仕舞い込んだ。


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