烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 短冊が、願いを託す人々の手から若木へ結ばれていく。そんな穏やかな祭りの始まりに、ヒアンシーはイカルンと最初の一枚を高い枝へ運んだ。
 けれど、紙を置いた小さな翼は、紐を結ぶことを忘れてしまう。落ちかけた願いを救ったのは、誰にも知られぬファイノンの風だった。小さな失敗と、名もなき助け合いを胸に、ヒアンシーは次の願いを迎える。


103 光あふれる民の夢

 受付へ戻ろうと身体を向けたところで、わたしはもう一度だけ若木を振り返りました。

 最初の短冊は、朝の光に白く霞んだ空へ向かって揺れて。薄い翡翠色の葉と葉のあいだに、一枚だけ異なる色が混ざっています。ファイノンさまの風が残した少し不格好な結び目も、今では枝に馴染んで見え、紙が風を受けるたび、紐の端だけが葉より一拍遅れて小さく跳ねました。

 あのご老人が何を書いたのか、わたしは知りません。受付で受け取った時も裏返して持ちましたし、今いる場所からでは、たとえ紙面がこちらを向いたとしても文字まで読み取れないでしょう。

 けれど、なぜでしょう。遠くから揺れる墨の線を見ているだけなのに、書かれた文字がずいぶん力強いような気がしました。

 もちろん、本当に筆圧が強かったかどうかは分かりません。紙を手渡してくださった指には年齢を重ねた方らしい細さがありましたし、墨の跡も、勢いよく筆を走らせたものなのか、震える手で時間をかけて書かれたものなのかまでは確かめていません。

 

 それでも、あの一枚が枝にあるだけで、若木の見え方まで少し変わっていました。

 昨日までなら、これから願いを結んでもらうための木でした。今はもう、誰かが自分の先を思い描き、そのために文字を書き、自分の手から離して空へ預けた木です。

 その違いを考えているうちに、胸の奥へじわりと温かいものが広がり、わたしは抱えていた短冊の束へ指を添えました。

 

「希望は、こうやって繋がっていくんですね……」

 

 小さく呟いた声は、すぐに葉擦れへ混ざっていきました。もし、ここが以前のオンパロスだったなら――そう考えかけた時、記憶の中には、どうしても暗い色が差します。

 空を見上げることすら恐れた日々。暗黒の潮がどこまで迫っているのか、次にどの土地が飲み込まれるのか、明日も同じ場所で目を覚ませるのかさえ誰にも分からなかった時間。大人だから耐えられたわけでもなく、子どもだから何も知らずに済んだわけでもありません。

 昏光の庭へ来る子どもたちの中にも、身体の傷より先に、物音へ肩を震わせる子がいました。

 眠っている間に何か起きるのが怖いから眠りたくない、と目を擦りながら起き続けようとする子。父さまは帰ってきますか、母さまは治りますか、とこちらが簡単には答えられない問いを、何度も確かめる子。食べ物を出しても一度に口へ入れず、明日の分に取っておこうとする小さな手もありました。

 そういう子たちへ、将来何になりたいですか、などと聞くことはできませんでした――聞けなかった、という方が正しいのでしょう。明日が来ることを前提にしなければ、未来の夢は語れません。大きくなったら。いつか。そのうち。来年。また今度。

 どれも、時間が続いていくことを信じて初めて使える言葉です。あの頃のオンパロスでは、それらは願いというより、ともすれば祈りに近いものでした。叶えたいことを自由に選ぶのではなく、どうか明日まで命がありますように、と最初の一段を願わなくてはいけなかったのです。

 けれど、そんな記憶へ沈みかけた耳に、硬い石床を叩く軽い足音が飛び込んできました。

 

「ヒアンシーさまー!」

「わっ」

 

 呼ばれて顔を上げます。

 遠くから、何人もの子どもたちがこちらへ走ってきていました。年齢も背丈もばらばらです。少し大きな子が先頭を走り、その後ろを小さな子が必死についてきています。一人は短冊を頭の上へ掲げ、別の子は両手で胸へ抱え込み、また別の子は走るたびに紐をひらひら後ろへ靡かせていました。

 その光景を見て喜ぶより先に、医療従事者としての癖が出ました。

 

「わ、わあっ、皆さん、ゆっくりです! 石床で転んだら痛いですよ〜!」

 

 わたしが慌てて片手を上げると、先頭の少年が急に足を緩め、それにつられて後ろの子たちも次々に速度を落としました。

 危うく前の子へぶつかりかけた女の子が両腕を広げて踏ん張り、そのさらに後ろにいた子が「わっ」と声を上げながら横へ避けます。誰も転ばなかったことを確認して、わたしは胸を撫で下ろしました。

 

「もう。願い事は逃げませんから、慌てなくても大丈夫ですよ」

「だって、早く結びたい!」

「僕も書いた!」

「あたしも!」

「見て見て!」

「はいはい、順番に見ますからね。でも、見てほしくない願いは隠したままで大丈夫ですから」

 

 そう伝えると、勢いよく短冊を差し出しかけた子の一人が、ぱっと紙面を自分の胸へ戻しました。

 

「これはだめ!」

「ふふ。では、見ません」

「ぜったい?」

「ぜったいです」

 

 人差し指を立てて約束すると、その子はしばらくわたしの顔を見つめたあと、満足したように大きく頷きました。

 それだけでも、なんだか嬉しくなります。内容を秘密にしたい、と言える願い。誰かに答え合わせをしてもらわなくても、自分だけで大切にしておきたい未来――それがどんなものなのか、わたしには分かりません。でも、分からなくていいのでしょう。

 医療では、知らなければ手当てのできないことがあります。けれど願いは、治療しなければいけないものではありません。

 

「ねえねえ、これどうやって結ぶの?」

 

 一人の少年が若木を見上げました。

 

「自分で届くところなら、ご自分で結んでもいいんですよ。高いところがよければ、イカルンたちにお願いできます」

 

「イカルン!」

 

 その名前を聞いた途端、子どもたちの視線が一斉に空へ向きます。少し離れたところを飛んでいた白い仔ペガソースも、あまりにも揃った声に気づいたのでしょうか。黒曜の瞳をこちらへ向け、ぱたぱたと高度を下げてきました。

 

「ぷるる?」

「イカルン結んで~!」

 

 真っ先に手を伸ばした女の子が、短冊をぶんぶんと振ります。

 

「あっ、そんなに振ると紐が絡まっちゃいますよ」

「これ! いちばん高いとこ!」

「一番上は葉が混み合っていますから、イカルンが安全に近づけるところにしましょうね」

「じゃあ、イカルンが好きなとこ!」

「それなら大丈夫です」

 

 わたしが受け取ろうと手を差し出すより早く、女の子は少し背伸びをして短冊を掲げました。イカルンが鼻先を近づけます。

 

「ぷるっ」

 

 先ほどの一件を思い出したのかは分かりませんが、今度のイカルンはすぐに飛び出さず、短冊へ鼻先を寄せてから、わたしの方へ視線を向けました。

 

「あら」

 

 わたしも思わず姿勢を正しました。

 

「そうですね。今度は最後まで、です」

「ぷるるっ」

 

 女の子から短冊を受け取り、紐が絡まっていないことを確かめてから、紙の端をイカルンへ渡します。

 

「急がなくて大丈夫ですよ。枝まで運んで、紙を置いたら――」

 

 両手で結び目を作る真似をします。

 

「くるっとして、きゅっ、です」

「くるっとして、きゅっ!」

 

 なぜか隣にいた子どもまで復唱しました。

 

「そうです。くるっとして、きゅっ、ですよ」

「イカルン、くるっとしてきゅっ!」

「がんばれー!」

「ぷるるっ!」

 

 すっかり応援団ができてしまいました。イカルンは子どもたちの声援を受け、今度は落ち着いて白い翼を広げました。

 一度大きく羽ばたいて身体を持ち上げたあと、短冊が風へ馴染むのを待つように速度を整えます。支柱の近くへ寄りすぎることもなく、自分で確認した右側の広い経路から若木へ回り込みました。

 わたしは子どもたちと一緒に、その白い背中を追います。

 

「そこです。ゆっくり……」

「イカルン、あそこー!」

「大声でびっくりさせないようにしましょうね」

「はーい」

 

 小さくなった返事の向こうで、イカルンが枝へ近づきます。

 短冊を枝へ掛けたあとも、すぐには離れませんでした。枝の周囲を一度回り、垂れた紐の先へ鼻を寄せます。

 

「そうです……」

 

 わたしの指先にも、知らず力が入りました。イカルンは紐の端を軽くくわえて枝の向こうへ渡しましたが、反対側へ回ったところで、紐の先が葉へ引っかかりました。

 

「あっ」

「がんばれ!」

「イカルン!」

 

 小さな翼が一度大きく動き、葉に引っかかっていた紐が外れました。イカルンはそのまま鼻先で枝の下へ押し込み、垂れた先をもう一度くわえます。紐が輪になりました。

 

(くるっとして……)

 

 わたしまで心の中で復唱します。

 イカルンが首を引くと、紐の先が輪を通りました。そして――わたしが小さく呟いたのとほとんど同時に、イカルンが身体を後ろへ引きました。

 結び目が締まり、短冊は風に揺れながらも枝にしっかり残りました。

 

「できました……!」

 

 一瞬遅れて、子どもたちの声が爆発しました。

 

「できたー!」

「イカルンすごい!」

「もう一枚やって!」

「ぼくのも!」

「ぷるるるっ!」

 

 白い仔ペガソースが空中で一度大きく身体を反らせました。胸を張ったようにも見え、少なくとも、さっきより羽ばたきが弾んでいることだけは確かです。わたしも両手を胸元で合わせました。

 

「今度は全部、自分でできましたね。とっても上手でしたよ、イカルン!」

「ぷるっ!」

 

 その声を聞きながら、ほんの少しだけ若木の向こうを見ます。

 ファイノンさまはまだ幹のそばにいました。こちらを見ていたのかどうかまでは分かりません。ただ、目が合った時、彼の口元が柔らかく緩んだように見えました。

 今度は風の助けを借りず、イカルンは自分の力で短冊を結び終えました。そのことが嬉しくて、わたしは思わず笑みを浮かべます。けれど、喜びを伝えに行くより先に、わたしの周囲では次の問題が起こり始めていました。

 

「あたしファイノン様がいい!」

「あたくしもファイノン様がいいですわ!」

「えっ?」

 

 声のした方を向くと、二人の女の子がそれぞれ短冊を抱え、揃ってファイノンさまを指差しています。突然名前を呼ばれた本人も気づいたらしく、若木のそばで一度瞬きをしてから、自分の胸へ指を向けました。

 

「僕?」

「うん!」

「ファイノン様に結んでほしい!」

「あたくしもです!」

 

 少女の一人は勢いよく頷き、もう一人は小さな身体で妙に丁寧なお辞儀をしました。ファイノンさまは二人を見比べたあと、困った様子もなく笑って、幹から手を離しました。

 

「もちろん。じゃあ、二人とも順番に預かるよ。どの辺りがいい?」

「高いところ!」

「あたくしは、こちらがよろしいですわ!」

「分かった。どっちも落ちないように結んでおくよ」

 

 すぐに少女たちが駆け寄っていきます。

 

「走らないでくださいねー!」

「はーい!」

 

 返事だけはたいへん良いのですが、足取りがさほど遅くなっていません。思わず苦笑していると、今度は袖を引かれました。

 

「僕、ヒアンシーさまがいい!」

「わたしですか?」

「うん!」

 

 少年が両手で短冊を差し出します。

 思わず自分を指差してしまいました。

 

「イカルンじゃなくて?」

「ヒアンシーさま!」

「ファイノンさまでもなく?」

「ヒアンシーさま!」

「ふふ。そんなにまっすぐ言われると、照れちゃいますね」

 

 願い事が見えないように受け取って、わたしは少年と一緒に若木の手が届く枝へ移動しました。

 

「ここならどうでしょう?」

「もっとこっち!」

「はい。では、この枝ですね」

 

 紐を回して解けないよう二度確かめると、横で見ていた少年の表情がぱっと明るくなりました。

 

「できましたよ」

「やった!」

 

 弾んだ声が耳のすぐ近くで響き、そのまま少年は友達の方へ走ろうとします。何度目になるか分からない注意を慌てて背中へ声を飛ばしているうちに、別の方向からも呼び声が上がりました。

 

「アグライアさまー!」

 

 振り返れば、今度は短冊を持った子どもがアグライア様のところへ駆けています。金糸の意匠が朝日を受け、彼女が子どもの高さへ少し身体を傾けるのが見えました。

 

「あら、私でよろしいのですか?」

「うん! これお願いします!」

「ええ。お預かりしましょう」

 

 アグライア様は差し出された紙を両手で受け取ると、短冊そのものより先に紐の状態を指で確かめました。

 

「せっかく託してくださったのですもの。風にほどけてしまわぬよう、きちんと結びましょう」

「高いとこ! あっ……がいいです!」

「承知しました。ですが、無理に高ければよいというものでもありませんよ。あなたが見上げた時によく見える場所を、一緒に選びましょうか」

「うん!」

 

 なんともアグライア様らしい答えです。思わず笑みを深めていると、子どもたちの指名はまだ終わっていませんでした。

 

「王様ー!」

 

 よく通る声が、大講義場へ響きました。その呼び名に、二人が振り返りました。少し離れた場所にいたモーディスさまと、ケリュドラさまです。

 

「……」

「……」

 

 わたしも、短冊を抱えたまま一度瞬きをしました。

 どちらを呼んだのでしょう。モーディスさまはクレムノスの王位継承者です。王として君臨された回帰もあったそうです。そして、ケリュドラさまは、その姿から何を言われようと、ご本人が揺るぎなくオクヘイマの王として立っていらっしゃいます。

 呼んだ子どもも、二人が同時に振り向くとは思っていなかったのでしょう。短冊を握ったまま、目をぱちぱちさせています。

 やがて、小さな指が伸びました。

 

「ちっちゃい方の王様!」

 

 大講義場の空気が、一瞬だけ止まったような気がしました。

 

(わ、わあ……)

 

 わたしの視線は反射的にケリュドラさまへ向かいます。彼女の歩幅も、身体の大きさも、わたしたちはもちろん知っています。けれど、それを理由に子ども扱いすればよい方ではありません。

 王冠を戴いた氷青の髪の下で、ケリュドラさまの青緑の瞳がほんの少し細まりました。王笏を握った指にも、一瞬だけ力が入ったように見えます。

 隣にいるモーディスさまは、自分ではなかったと分かると、子どもからケリュドラさまへ視線を移しました。彼の口元がわずかに動いたようにも見えましたけれど、何も言いません。

 ケリュドラさまは、すぐには答えず、ほんの一呼吸だけ間を置いてから、王として言葉を選ぶように顎をわずかに上げました。

 

「……ふん。市民の戯れに付き合ってやるのもまた、王の務めか」

 

 声はいつも通りでした。

 尊大で、澄んでいて、小さな身体よりずっと遠くへ届く声。

 

「よかろう。僕の前に整列するがいい。このケリュドラが、貴様らの願いを結んでやろう」

「やったー!」

「僕も王様!」

「あたしも!」

「順番だ」

 

 喜んだ子どもたちが一斉に駆け寄ろうとすると、ケリュドラさまの王笏がすっと横へ向けられました。

 

「列を乱すな。先着順を認めれば、遅れた者が不利益を被る。受付を済ませた順に並べ。願いの大小による優先順位も設けぬ」

「はーい!」

「分かった!」

「それから走るな。転倒によって短冊を損じれば、貴様自身が後悔するだろう」

「王様、ヒアンシーさまと同じこと言ってる!」

「当然だ。合理的な規則は誰が述べようと同一の結論へ至る」

 

 わたしは口元へ手を添えました。笑ってはいけない、というより。可愛らしいと言ってはいけないような気がしたのです。

 ケリュドラさまは間違いなく本気です。子どもたちの小さな催しだからと適当に扱わず、願いの短冊を受け取ることさえ一つの統治のように整えている。その真剣さが分かるからこそ、彼女の前へ短冊を抱えてきちんと一列に並び始める子どもたちの姿が、なんとも微笑ましく見えました。

 モーディスさまは、結局何も言わないままその様子を見ています。その足元へ、列から外れた一人の男の子が寄っていきました。

 

「大きい方の王様もやる?」

「……俺は、今は王ではない」

「じゃあ王子様?」

「……それなら否定はせん」

「じゃあお願い!」

 

 差し出された短冊を前に、モーディスさまは一度黙りました。けれど追い返すことはなく、大きな手で紙の端を摘まみます。

 

「どこだ」

「あそこ!」

「分かった」

 

 たったそれだけのやり取りで、男の子は嬉しそうについていきました。

 あちらではファイノンさまの周囲に二人。別の枝ではアグライア様と一人。ケリュドラさまの前には、いつの間にか本当に小さな列ができています。モーディスさまの隣にも、さらに一人増えました。

 そしてわたしの頭上では、一枚を自力で結べたイカルンが、次の短冊を受け取るのを待つように低く旋回しています。

 

「ヒアンシーさまー! 次これ!」

「はい。今行きますよ〜!」

 

 呼ばれて、わたしも短冊を抱え直しました。

 少し前まで静かだった大講義場は、いつの間にか声でいっぱいです。筆が紙を擦る音。短冊を選ぶ人たちの相談。子どもたちの笑い声。ペガソースの羽音。誰に結んでもらうのかを巡って起こる小さな言い争い。自分で結べたと喜ぶ声。枝の場所を譲り合う声。

 誰も泣きながら地面へ膝をついてはいません。誰も「どうか今日だけは生き延びられますように」と、恐怖に声を震わせてはいません。

 もちろん、今ここにいる方々が、何の痛みも不安も抱えていないとは思いません。未来ができたからといって、過去に失ったものまで消えるわけでもありません。身体の傷も、心に残った恐怖も、帰ってこなかった人の空席も、簡単に埋まるものではないでしょう。

 けれど、傷を抱えていることと、未来を願えないことは同じではありません。痛みや悲しい記憶を抱えたままでも、亡くした人を忘れずにいても、わたしたちは新しい楽しみを増やし、自分の未来を選んでいいのです。

 そのことを、今ここにいる人たちは、わたしが説明するよりずっと鮮やかに見せてくれていました。

 

「イカルン、こっちー!」

「ぷるるっ!」

「くるっとしてきゅっ、だよ!」

「ぷるっ!」

「あはは!」

 

 笑い声が弾けました。

 イカルンが短冊をくわえて舞い上がり、子どもたちが揃って空を見上げ、わたしも同じように顔を上げます。

 最初は一枚だけだった若木に、いくつもの色が増え始めていました。まだ枝を覆い尽くすほどではありませんが、その一枚一枚は、誰かが紙を選び、筆を取り、未来へ願いを託してここへ持ってきた証――それが、ほんの少し前まで、どれほど難しかったことなのかを、わたしは知っています。

 だから、若木が急に大きくなったわけでもないのに、枝がずいぶん豊かになったように見えました。

 空を見上げると、先ほどイカルンが自分で結んだ短冊が揺れていました。少し不器用な結び目ですが、今度は風に助けてもらわず、しっかり枝に残っています。

 その隣では、ご老人から預かった最初の一枚も揺れていました。誰かに支えられて結ばれた一枚と、失敗を踏まえて自分の力で結ばれた一枚。どちらも同じ若木に並んでいます。

 

(ああ……)

 

 胸の奥が、また温かくなりました。

 今度は前より少し大きく、息を吸うと胸の内側がいつもより広がるようです。涙がこぼれるほどではありませんが、抱えている短冊の束を落とさないよう、腕へ少しだけ力を入れました。

 七夕を教えてくれたのは、グレーたんです。叶えたい願いや希望を紙へ書いて、高いところへ結ぶ催しだと聞いた時から素敵だと思い、新しいオンパロスでやってみたいと思いました。

 企画や準備を進める間、皆さんが本当に願いを書いてくださるのか、未来を考えること自体がまだ苦しいのではないか、わたしが希望を急かす催しにしてしまうのではないかという不安もありました。そんな七夕にするくらいなら、開く意味はありません。

 この光景を前に、もう、その心配はもう必要ありませんでした。

 

「次、わたし!」

「僕もまだ結んでない!」

「ケリュドラさま、ここがいい!」

「王への指示とは良い度胸だ。だが位置の希望は受理する。そこへ結ぼう」

 

「ファイノン様、もっと高いところ!」

「この辺かな? あまり上だと見えなくなるよ」

「見えるとこ!」

「はは。じゃあ、ここにしよう」

 

「イカルンもー!」

「ぷるるるっ!」

 

 声が重なります。

 誰も、願いを持つことを教えられてはいません。わたしが一つずつ「未来を考えてください」とお願いして回ったわけでもありません。

 皆さんは自分で短冊を選び、自分で筆を持ち、自分でここまで歩いてきました。

 

 その事実が、何よりの答えでした。

 

 願えるようになったのです。わたしたちは。自分で明日の形を考えていいところまで、本当に来られたのです。また、ひとつ。若木の枝へ色が増えて、その下を、子どもたちが笑いながら走っていきます。

 

「走りすぎないでくださいね〜!」

 

「はーい!」

 

 やっぱり足はあまり遅くなりません。わたしは困ったように笑いながら、それでも追いかけて止めるほどではないと判断して、次に差し出された短冊を受け取りました。

 朝の光を受けた紙は軽く、指先にはほんの少し、書いた人の手の温度が残っています。その向こうで、イカルンの羽音がして。誰かが笑って。また別の誰かが、どの枝にしようかと悩んでいます。

 こういう場面に立ち会っていると、雲のあとから虹が差し掛かった時のように、胸の内側まで光が届く気がしました。

 わたしは短冊を抱え直し、賑やかになっていく若木を見上げました。――企画してよかった。準備してよかった。今日まで来られて、本当によかった。

 そう思えることそのものが、きっと、わたし自身がこの祭りでもらった最初の贈り物なのでしょう。まだ正式な開会さえ迎えていないのに、そんなことを考えてしまうくらいには、わたしは目の前を駆け回る笑顔を見ているのが嬉しかったのです。




 覚えていますか、玻璃の小噺に登場した女の子を……。かわい~って思いながら筆ならぬタイピングを進める今日この頃です。
 黄金裔に結んでもらうのいいな~って思います。健やかに幸せに生きろくださいってしたためた短冊を用意し、みんなに結んでほしい気もあります。
 ところで、ケリュドラ様の小ネタ――ケリュドラ様の王冠より首を垂れてはならぬ《僕の王冠より頭が上にある者は、僕の王冠よりも頭を下げるな》的なアレがあるんですがつまり、怪我をして膝をつくことを禁ずる、致命傷を負って倒れることを禁ずる、的なすなわち「沈むな(死ぬな)」と言ってくれてるって認識で受け取ってるので全力で震えてます好きです。
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