暗闇の中を無言で歩いた。
映画みたいに劇的に、あの日の記憶がフラッシュバックして動けなくなるなんてこともなかった。
そう、ただ実感だけがやってくる。
長い間閉めきられた、ホコリっぽくてカビっぽい閉所は──取りつくろうことさえできずに、あの日の傷痕がくっきりと残されていた。
自然と口数が少なくなった。
「リョウマ」
「……ああ、大丈夫だ。突然、走り出したりはしねぇよ」
「ならいいけど」
幼馴染みの呼び掛けに、リョウマはぶっきらぼうにそう答えた。
先頭を歩いているのはリョウマだが、実際のところ前と後ろに気を配っているのはベルカだった。
手渡された三人分のライトが前方を照らし出す。
崩落事故の直後から封鎖されていたせいか、文化劇場の廊下に障害物は何もなかった。
電源のブレーカーまで遮断されているせいで、明かりらしい明かりが何もないとはいえ──壁の存在さえわかっていれば、転びようもなかった。
「ホシノさんは大丈夫?」
「あ、はい……」
「調子よくない?」
「い、いえ……ちょっとぼーっとしただけです」
振り返る。
心なしかミツキの顔色は優れなかった。夜の真っ暗闇を塗り固めたような、月明かりさえ差さない黒色の中──少女の肌はぼうっと浮かび上がりそうなほどに白い。
絵になる美人ってやつである。
こんな風に思考していると、心を読む少女にはすべてが筒抜けかもしれなかったが。
「…………」
「……あれ?」
ミツキが自分をからかってくることはなかった。
心なしか視線が虚ろだったし、目の焦点が合っていないように見える。
おかしいな、と思う。
あるいはすべてを思い出せない自分よりもよっぽど、感受性が強いミツキの方が──あの日の忌まわしい記憶に影響されているのかもしれなかった。
ともあれ心配になった。
「ホシノさん、大丈夫か?」
「…………」
呼び掛けに反応がなかった。
心配になってミツキの方を振り返る。
その瞬間、ベルカ・テンレンが動いた。まるで獣のような
リョウマが反応する暇もなかった。
人間の神経の伝達速度は〇・二秒前後であると言われている。トップアスリートなど肉体的に優れた個人であっても、〇・一秒に届くかどうかである。
そしてベルカの肉体は明らかに、そういう前提を超越した速度で駆動していた。
当然、凡人のリョウマがそれに抗う術はない。
がっしりと胴体を掴まれ、抱え込まれるようにして跳躍──凄まじい勢いでミツキから引き離された。
「なっ!?」
「リョウマ、見るな。先手を打たれた」
ベルカは冷然とそう呟くと、動揺する少年のことなどお構いなしに真っ暗な廊下を駆け抜けた。
突き当たりのドアが蹴破られる。
それが文化劇場の主たる構造体──広々とした観客席と舞台から成り立つ、劇場そのものだと理解するのに五秒かかった。
ありえないことだと思った。
かつてこの地では天井の崩落事故が起きて、大勢の市民が犠牲になった。二次被害の可能性を考慮して、救助作業が終了してすぐに現場は封鎖された。それゆえに一年近くの間、建物には電力供給もされてはいない。
つまり理屈の上では暗闇が続いているはずなのだ。
なのに。
──煌びやかな劇場がそこにあった。
──観客席にはぎっしりと人々が座っている。
──真っ正面の舞台の上には、スポットライトで照らされた今日の主役がいた。
──ホシノ・ミツキが、そこにいる。
たった今、リョウマとベルカが暗い廊下に置き去りにしたはずの少女は──うっすらと微笑みを浮かべて、万雷の拍手とともに劇場に立っている。
先回りされている。意味がわからなかった。
物理的な距離や三次元的な位置座標から考えて、どう考えてもそうなるはずがない。
呆気に取られたリョウマは、首を傾げてうめいた。
「なっ」
「……そうか、つまり
ベルカ・テンレンはリョウマを地面に降ろした。腰が抜けそうなほど現実感がとぼしく、何が起きているかさっぱりわからない彼を横目に──幼馴染みはうっすらと悔恨をにじませて呟いた。
「リョウマ、わたしのミスだ。ホシノ・ミツキと敵の繋がりは──単なる触媒や親子じゃなかった。この二つはたぶん、同一の概念の別側面だ」
「待てよベルカ、意味がわからねぇ!」
混乱するリョウマが喚いた瞬間、文化劇場にぎっしりと詰まっている観客席の人影が動きを止めた。
一斉に、それ自体がひとつの生き物であるかのごとく。
何百席とあるメインホールの観客すべてが、操り人形のように動きを止めた。あるいは質の悪いショート動画の撮影でもしているのかと思うぐらいに、それは一挙一足に至るまで同じ動きだった。
まったく同じスクリプトで動く、3DゲームのNPCみたいな現実感のなさ。
気圧されてリョウマは息を呑む。
彼の恐怖は──途方もない化け物の腹の中にいるのだという、本質的な実感に根ざしていた。
「ホシノ・ミツキの話を思いだして。あの子は自分の父親のことが何もわからないと言っていた。それでそのことから、自分の出自を疑っていたよね? 正直ね、わたしもこう思っていた──ホシノ・ミツキは人間と化け物の血を混ぜた落とし子で、その存在を触媒にして、一年前の惨劇は起きたんじゃないかってね」
「おま、お前……今さらそんなことを……」
「リョウマ、落ち着いて。でもこの推測は間違っていた。たしかに彼女は人間であるホシノ・アマネと、この世ならざる存在が交わって生まれた
「ホシノさんは、ホシノさんだろ。化け物がどうかかわっていようと……」
「キミのヒューマニズムは最高だよ。でもわたしたちの目の前の現実はこうだ──ホシノ・ミツキは
リョウマはベルカに対して何かを反論しようとした。そもそも事態が急転直下すぎて理解が追いついていなかったし、いきなりベルカ・テンレンが、ミツキのことを見捨てるような真似をしたのも受け入れがたかった。
だが、どうやら鈍い彼の中にある、とびきり冷静な理性はこう告げていた。
──ベルカはこう言ってるじゃないか。ホシノ・ミツキもまた被害者だったなんて甘い見積もりで、無自覚な黒幕の手先だったんだ。
そんな馬鹿な話があるかよ、とキレそうだった。
しかし誰に対して怒ればいい。
見積もりが甘かったことを認めているベルカに対してか。それともメインホール正面の舞台の上で、優雅に微笑んでいるホシノ・ミツキに対してか。
混乱ばかりが増していく。
「リョウマ、わたしから離れないで」
「……この状況で逃げ出す勇気はねぇよ」
毒づきながら、あえぐように息をして正面を見据えた。
その瞬間、ぴたりと静止していたメインホールの中で──ホシノ・ミツキがこちらに手を振ってきた。
少女は相変わらずのストリート・ファッションで身を固めていて、長い黒髪が綺麗なお姫様然とした見た目のわりに、
鈴を転がすような声が、天井の崩落事故などなかったかのようなピカピカの劇場に響き渡る。
素晴らしい音響設備が、少女の声を増幅していた。
『──流石ですね、ベルカさん! 名推理でした。はい、どうかこの娘を憎まないであげてください。この一五年間、何もわからず、何も知らされず、何も教えられず──ただの人間として育てられたちっぽけな肉の塊なのですから』
それはミツキではなかった。
ホシノ・ミツキの声を借りていて、その芝居がかった丁寧な喋り方まで
直線距離にしておおよそ三〇メートルないぐらいの距離だった。
観客席の最後尾近くにあるメインホールの入り口から、舞台の上のミツキまでの距離はたったそれだけだ。
なのに今のリョウマには、ミツキの姿がひどく恐ろしいものに見えていた。
『怖がることはありません。ああ、今風に表現しましょう。この娘の肉体は今まで
ニコニコと笑って、ホシノ・ミツキの姿をしたものは流ちょうに言葉を重ねていく。
その不気味さにリョウマが声を失っているのと対照的に──自分自身のことを他人事のようにさえずる少女のかたちは、とても楽しそうに身振りかぶりを交えている。
不愉快そうに眉根を潜めて、ベルカが
「──人間の女を魅了して、子供を産ませて、その身体を乗っ取ることをアップデートっていうのは自由すぎるね。
『ええ、ええ、定義の違いですね! そうですね、今風の流行りに乗っかって定義しましょう。ほら、Vチューバーって流行ってますよね? アバターを作ってもらうのに、ちょっとだけ時間をかけた感じです。あたしたちの時間感覚では、一五年はとっても短いですから──ベルカさん、ですから
刹那、暴風が爆ぜた。
観客席に座っていた無数の人影を刺し貫き、凶暴すぎる何かが解き放たれた。それはどす黒い金属色をしていて、直径一五センチメートルほどの茨の形をしていた。
耳をつんざくような爆音。衝撃波が吹き荒れる。
そして進路上に存在した座席も人体も粉々に吹き飛ばして、超音速の刺突が叩き込まれた。
破壊。
リョウマの有する目と耳では、何が起きたかもわからなかった。たった今、ベルカが発生させた破壊──容易く数十の人体を貫通する運動エネルギーの刺撃──を知覚するのはほぼ不可能だった。
ゆえに彼が知ったのはその痕跡だった。
宙を舞う人体の破片、砕け散った座席の構成部品。
そして。
──ミツキに直撃することなく、大きく逸れた刺突。
メインホールの壁には大穴が空いていた。
たった今まき散らされた数十の人体は、如何なる体液もまき散らすことなく、パラパラとその手足を床面に降り注がせている。
マネキン人形のような人型だった。
それはおそらく、屍肉のような質感の人体ならざる何かで編まれた肉細工。
びたん、とリョウマの足下に腕が転がり落ちてくる。びくびくと
ホシノ・ミツキの姿をしたものは、小首をかしげて自分の後ろを振り返ったあと、大げさにびっくりしてみせた。
『わあ、怖いですね! ベルカさんは物理現象に介入するタイプでしたか──かつて存在したアカシャゼロ、
おどけて笑う少女は無邪気そのものだった。
ミツキではない何かが、彼女の肉体と人格のガワだけ被って喋っていた。
まるでアニメ絵のVチューバーが、3Dのアバターを身にまとうみたいに──少女の背後には、次元が異なるものが宿っている。
自分のことをVチューバーになぞらえた存在は、おそらくこの世のものではない。アバターモデルがどれほど空想じみたキャラクターの姿をしていようと、実際には生身の人間が喋っているように──この文化劇場を支配している何かは、ミツキを操り人形にしている。
得体のしれない光景を前にして、リョウマはただ呟くことしかできなかった。
「……ちくしょう。なんだよ、なんでこんな悪趣味なこと、する必要があった!?」
彼の嘆きは、当然、無視されるものだと思っていた。
なのに。
正真正銘、人ならざるものが──その瞬間、確かに笑ったのがわかった。
『いい質問ですね、イヌイ・リョウマくん! 答えてあげましょう、だってあたしは──
らんらんと煌めく深紅の瞳が、リョウマのことを見つめていた。
パパが娘ボディでバ美肉(最悪)。
主人公がモテモテなのでラブコメの定義にギリギリ収まっていると思われる。