仮想戦記   作:Shigy20250620

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最後の肖像画

 部屋は静かだった。

 通りを行く馬車の音が、薄い壁越しに聞こえてくる。

 窓際には、小さな机があった。

 その上に、使い込まれた絵筆と、絵の具の皿が並んでいる。

 部屋の隅には、何枚かの風景画が立てかけられていた。

 どれも売れていない。

 若い絵描きは、椅子に座っていた。

 目の前にあるのは、白い画布だった。

 いつもなら、街を描く。

 古い建物。

 教会。

 石畳。

 窓。

 そういうものなら、いくらでも描けた。

 だが今日は違った。

 筆を取る。

 しばらく画布を見つめる。

 そして、最初の線を引いた。

 人の顔だった。

 

「これ、売れるぞ」

 友人は絵を眺めながら言った。

「売れない」

「なぜ?」

「俺の絵だから」

「だから理由になってない」

 友人は笑った。

 彼は笑うとき、少しだけ首を傾ける癖があった。

 若い絵描きは、その癖を覚えていた。

 今、描いている顔にも、その癖を残そうとしていた。

 

 絵描きは筆を動かす。

 魂の奥底からあるれ出る悲しみが。

 本能の奥底から噴き出す憤りが。

 ただたた筆を動かし続ける。

 言葉にはならない。

 絵描きは、存在しなかった、かつての平和な日々の切り取ったワンシーンをキャンパスに焼き付けていた。

 

 友人は、本当に絵を売ろうとした。

 画商を訪ねた。

 画廊を訪ねた。

 知り合いを頼った。

 何度断られても、別のところへ行った。

「お前は自分の絵を安く見すぎる」

「そうか?」

「そうだ」

「専門家でもないのに?」

「専門家じゃないから分かることもある」

 友人は絵を指で叩いた。

「芸人ってのは、理論や権威で価値が決まるのか?」

 若い絵描きは黙っていた。

「見た人の心の中で決まるものじゃないのか?」

 その言葉を、彼は覚えていた。

 覚えているつもりはなかった。

 だが、今になっても消えていなかった。

 

 筆が止まる。

 描かれた顔は、まだ途中だった。

 若い絵描きは、絵を見つめた。

 そこにいるのは、もうこの世にはいない。

 何日か前まで、生きていた。

 笑っていた。

 自分の絵を見て、売れると言い張っていた。

 そして、帰ってこなかった。

 暴動だった。

 貧しさと怒りが街を覆い、その中で、人が人を押し、殴り、倒した。

 友人は巻き込まれた。

 病院で会ったときには、もう顔色が悪かった。

「絵は?」

 最初にそう聞いた。

「まだだ」

「そうか」

 少し笑った。

「じゃあ、まだ頑張らないとな」

 それが最後だった。

 若い絵描きは、筆を持ち直した。

 眉を描く。

 目を描く。

 鼻筋を描く。

 口元に筆を置くと、しばらく動かせなかった。

 友人は、笑うと少しだけ首を傾けた。

 その顔を思い出す。

 筆先が動いた。

 

「なあ」

 友人が言った。

「なんだ」

「お前、本当に絵が好きなのか?」

「好きだ」

「だったら、描け」

「描いている」

「もっと描け」

 友人は笑った。

「いつか、誰かがお前の絵を見てくれる」

「誰も見なかったら?」

「俺が見る」

 若い絵描きは、何も言わなかった。

「俺が最初に見る」

 その言葉だけは、今も残っている。

 

 外が暗くなった。

 部屋にはランプの明かりだけが残った。

 若い絵描きは、最後の線を描いた。

 友人の顔が、そこにあった。

 生きているときより静かな顔だった。

 それでも、少しだけ笑っているように見えた。

 彼は椅子から立たなかった。

 ただ、絵を見ていた。

 画商が認めるかどうかは分からない。

 権威が価値を認めるかどうかも分からない。

 そんなことは、今はどうでもよかった。

 この絵を見る人間が、一人でもいるなら。

 この絵を見て、何かを感じる人間がいるなら。

 それでいいのかもしれない。

 友人なら、きっとそう言う。

 彼は静かに息を吐いた。

 そして、絵筆を置いた。

 その音だけが、静かな部屋に残った。

 

 

 ドイツの片田舎にある画廊には、どんな高値を付けられも売るなと代々伝わる肖像画がある。

 淡い色合いの風景に、笑顔を振りまく青年の、それでいて悲しみにあふれた、拙い肖像画。

 画家を目指し、筆をおいた一人の青年の最後の作品。

 それは今でもひっそりと、その店の壁に飾られている。

 

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