部屋は静かだった。
通りを行く馬車の音が、薄い壁越しに聞こえてくる。
窓際には、小さな机があった。
その上に、使い込まれた絵筆と、絵の具の皿が並んでいる。
部屋の隅には、何枚かの風景画が立てかけられていた。
どれも売れていない。
若い絵描きは、椅子に座っていた。
目の前にあるのは、白い画布だった。
いつもなら、街を描く。
古い建物。
教会。
石畳。
窓。
そういうものなら、いくらでも描けた。
だが今日は違った。
筆を取る。
しばらく画布を見つめる。
そして、最初の線を引いた。
人の顔だった。
「これ、売れるぞ」
友人は絵を眺めながら言った。
「売れない」
「なぜ?」
「俺の絵だから」
「だから理由になってない」
友人は笑った。
彼は笑うとき、少しだけ首を傾ける癖があった。
若い絵描きは、その癖を覚えていた。
今、描いている顔にも、その癖を残そうとしていた。
絵描きは筆を動かす。
魂の奥底からあるれ出る悲しみが。
本能の奥底から噴き出す憤りが。
ただたた筆を動かし続ける。
言葉にはならない。
絵描きは、存在しなかった、かつての平和な日々の切り取ったワンシーンをキャンパスに焼き付けていた。
友人は、本当に絵を売ろうとした。
画商を訪ねた。
画廊を訪ねた。
知り合いを頼った。
何度断られても、別のところへ行った。
「お前は自分の絵を安く見すぎる」
「そうか?」
「そうだ」
「専門家でもないのに?」
「専門家じゃないから分かることもある」
友人は絵を指で叩いた。
「芸人ってのは、理論や権威で価値が決まるのか?」
若い絵描きは黙っていた。
「見た人の心の中で決まるものじゃないのか?」
その言葉を、彼は覚えていた。
覚えているつもりはなかった。
だが、今になっても消えていなかった。
筆が止まる。
描かれた顔は、まだ途中だった。
若い絵描きは、絵を見つめた。
そこにいるのは、もうこの世にはいない。
何日か前まで、生きていた。
笑っていた。
自分の絵を見て、売れると言い張っていた。
そして、帰ってこなかった。
暴動だった。
貧しさと怒りが街を覆い、その中で、人が人を押し、殴り、倒した。
友人は巻き込まれた。
病院で会ったときには、もう顔色が悪かった。
「絵は?」
最初にそう聞いた。
「まだだ」
「そうか」
少し笑った。
「じゃあ、まだ頑張らないとな」
それが最後だった。
若い絵描きは、筆を持ち直した。
眉を描く。
目を描く。
鼻筋を描く。
口元に筆を置くと、しばらく動かせなかった。
友人は、笑うと少しだけ首を傾けた。
その顔を思い出す。
筆先が動いた。
「なあ」
友人が言った。
「なんだ」
「お前、本当に絵が好きなのか?」
「好きだ」
「だったら、描け」
「描いている」
「もっと描け」
友人は笑った。
「いつか、誰かがお前の絵を見てくれる」
「誰も見なかったら?」
「俺が見る」
若い絵描きは、何も言わなかった。
「俺が最初に見る」
その言葉だけは、今も残っている。
外が暗くなった。
部屋にはランプの明かりだけが残った。
若い絵描きは、最後の線を描いた。
友人の顔が、そこにあった。
生きているときより静かな顔だった。
それでも、少しだけ笑っているように見えた。
彼は椅子から立たなかった。
ただ、絵を見ていた。
画商が認めるかどうかは分からない。
権威が価値を認めるかどうかも分からない。
そんなことは、今はどうでもよかった。
この絵を見る人間が、一人でもいるなら。
この絵を見て、何かを感じる人間がいるなら。
それでいいのかもしれない。
友人なら、きっとそう言う。
彼は静かに息を吐いた。
そして、絵筆を置いた。
その音だけが、静かな部屋に残った。
ドイツの片田舎にある画廊には、どんな高値を付けられも売るなと代々伝わる肖像画がある。
淡い色合いの風景に、笑顔を振りまく青年の、それでいて悲しみにあふれた、拙い肖像画。
画家を目指し、筆をおいた一人の青年の最後の作品。
それは今でもひっそりと、その店の壁に飾られている。