夜の音が戻ってきた。
波の音。遠くの道路を走る車の音。街灯のジリジリという微かな電気音。神の圧力が消え、世界がまた世界として動き始める。
俺はまだ地面に手をついていた。膝をついた姿勢のまま、顔を上げられずにいた。掌の下でコンクリートの冷たさが、やけに鮮明に感じられた。生きている。冷たいと感じる。それだけのことが、今は妙にありがたかった。
「結城くん」
つる子先輩がしゃがみ込んだ。彼女の小さな手が、俺の左手を取った。冷たい指先が俺の手のひらを確かめるように触れる。
「傷が…浅い。骨も、折れていませんね。脈もちゃんと打っています」
医者のような口ぶりだった。だがその声は微かに震えていた。彼女は俺の手を両手で包み込むように握った。その温もりが、やけに遠くから届く。
「先輩、手、冷たいですよ」
「あなたの手が冷たいのです。私のせいではありません」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。笑おうとしているのが分かった。無理をしているのも分かった。それでも、その笑みがありがたかった。
青年が、動いた。
弾かれた手を静かに下ろし、俺たちを見下ろしていた。その瞳からは先ほどの動揺が消えていた。代わりにあるのは、深い観察の色。エルと同じ種類の視線。だが、エルよりももっと人間に近い温度があった。
「結城」
青年が、初めて俺の名前を呼んだ。声は低く静かだった。
「君は、光でも闇でもない」
その言葉は、宣告のようだった。だが断罪ではなかった。ただ、事実を確認するような響き。
「私は、君を光へ戻すことも闇へ還すこともできない。君の中の二つの力は、既に互いを根として絡み合っている。無理に引き剥がせば、君ごと壊れる」
青年は、一歩後退した。
「だが、放置もできない。君はどちらの側から見ても、異物だ。光の進化の道からも闇の守護の道からも、外れている」
彼は、俺の目をじっと見た。
「監視を続ける。君がどこへ向かうのか、見届けさせてもらう」
俺は、地面に手をついたまま、その言葉を受け止めた。
監視。見張られること。エルにされたのと同じだ。観察され、記録され、辞書化される。自分の戦いが誰かのデータになる。その感覚が、腹の底で冷たく渦巻いた。
だが、以前とは違った。以前なら、その視線に恐怖し逃げたくなっただろう。今は、少しだけ違う。
「…分かりました」
俺は、顔を上げた。青年の目を、まっすぐに見た。
「監視でも、何でもいいです。でも俺はもう、誰かに決められるのは嫌です」
声は、掠れていた。だが、途切れなかった。
「俺が何になるかは、分かりません。人間に戻れるのか別の何かになるのか、それすらも。でも」
俺は、つる子先輩に握られた手に、ゆっくりと力を込めた。
「誰を守るかは、決められます。何になるかは選べなくても誰のために戦うかは、選べるはずです」
青年の眉が、微かに動いた。それは驚きだったのか、興味だったのかそれとも。
「誰を、守るか」
青年は、復唱するように呟いた。
「君は、その選択を、力に委ねないと言うのか」
「委ねません。委ねたら、また感情が消えるからです」
俺は、膝をついたまま、ゆっくりと立ち上がった。足が笑っている。腰が重い。全身が悲鳴を上げている。それでも、自分の足で立った。
「守りたいから戦う。その気持ちがなくなったら、俺はもう俺じゃない。だから守る相手は、自分で選びます」
青年は、しばらく俺を見つめていた。やがて微かに口元を緩めた。笑みというには、あまりに淡い。だが悪意ではない何かだった。
「記録しておこう。君は、そういう人間だと」
青年は、背を向けた。夜の闇へ音もなく歩き出す。
「また、会うことになる」
その言葉だけを残して青年は闇に溶けていった。街灯の光が、彼の輪郭を最後まで照らすことはなかった。
静寂が、戻った。
いや、静寂ではない。波の音と風の音と、つる子先輩の呼吸の音。それらが世界の輪郭を再び形づくっていく。
「立てたな」
不意に低い声が、背後から聞こえた。
振り返ると、木野薫が立っていた。黒いコート。長い黒髪。片手をポケットに入れ、もう一方の手はだらりと下げている。その顔には、いつもの無表情。だがその瞳の奥に、微かな苛立ちが揺れていた。
自分の手が届かなかったことへの苛立ち。あの青年を止められなかったことへの苛立ち。そして、俺が自力で立ったことへの複雑な感情。
「お前の力は、まだ不安定だ。使い方次第で自分を壊す」
木野は、それだけ言った。そして背を向けようとした。
「木野さん」
俺は、呼び止めた。木野は足を止めた。振り返りはしなかった。
「あなたの力、戻す方法、一緒に探します」
木野の背中が、微かに揺れた。肩がほんの少しだけ強張った。
「…何のために」
「あなたが、アギトの力を取り戻したいなら。俺はそれを手伝います。あなたが、また誰かを守れるように」
木野は、長い沈黙の後小さく息を吐いた。それは、笑ったのか呆れたのか、分からなかった。
「お前は甘いな」
「そうかもしれません」
「その甘さで、何度も傷つくだろう」
「はい。でも、それで誰かが守れるなら」
木野は、振り返らなかった。だがその背中が、少しだけ軽くなった気がした。
「…勝手にしろ」
そう言って、木野薫は夜の闇へ消えていった。足音もなく、影のように。
俺は、つる子先輩の方へ向き直った。彼女は、まだ俺の手を握っていた。いや今は、俺が彼女の手を握り返していた。
「先輩」
「何ですか」
「俺、決めました」
つる子先輩は眼鏡の奥の瞳を、少しだけ見開いた。
「何になるかは、分かりません。でも誰を守るかは決めます。木野さんの力も、取り戻す手伝いをする。津上さんも芦原さんも、氷川さんも。みんなが人間として帰れる場所を、守ります」
つる子先輩は、しばらく黙っていた。そしてゆっくりと、俺の手を離した。
「分かりました」
彼女は、いつもの調子に戻っていた。少しだけお節介で、少しだけ真面目すぎる、いつものつる子先輩。
「でしたら、まずはその擦り傷の手当てをしましょう。放っておいたら、化膿しますよ」
「…はい」
俺は素直に頷いた。夜風がもう一度吹き抜けた。冷たい。だが悪くない。
俺はまだ人間だ。その実感が擦りむいた掌の痛みと共に、確かにあった。