変身が解けた時、木野さんの足が止まった。
それは本当に突然のことだった。一歩を踏み出し、次の一歩が地面に着く前に膝が折れた。アナザーアギトの装甲が音もなく消滅し、黒いタートルネックの姿が露わになる。木野さんの身体が前へ傾いた。
俺が駆け寄るのと芦原さんが身体を支えるのが同時だった。
「木野さん!」
芦原さんの腕が木野さんの背中と腰を支えていた。力を取り戻したばかりの腕だ。だが木野さんの身体はその腕に預けられたまま、立ち上がろうとしなかった。
「大丈夫だ。少し、息が切れているだけだ」
木野さんの声は、確かに切れていた。一語ごとに呼吸が途切れる。変身中には隠れていた負傷の重さが、装甲が消えた今、隠す場所を失って表に出ている。
腹の傷だった。タートルネックの下に滲む暗い染みが、夕暮れの光の中で黒く浮かび上がっている。手術の前に負った傷ではない。もっと前の。アナザーアギトとして戦い続けた時から蓄積された傷が、力を失った今になって身体を支えきれなくなっているのだ。
力の回復と傷の回復は別だ。
その事実が、目の前の木野さんの身体から痛いほど伝わってきた。
「救急車を呼びます。氷川さんに連絡して搬送の手配を」
俺は携帯を取り出した。指が震えていた。震えているが動いた。氷川さんの番号を呼び出し、短く状況を伝える。氷川さんはすぐに手配すると答えた。現場対応に戻っている津上さんと真魚さんのことも氷川さんが引き受けてくれると言った。
俺は携帯を握りしめたまま、木野さんのそばに戻った。
芦原さんが木野さんを壁際へ運んでいた。廃工場の脇にある低いコンクリートの壁。そこに木野さんが腰を下ろす。芦原さんはその隣にしゃがみ込み、木野さんの背中を壁に預けた。
「木野さん、救急車が来ます。だから」
「結城」
木野さんが俺の名を呼んだ。声は低く、だがはっきりとしていた。
「お前がしなければならないのは、ここに座ることではない。芦原と真島に頼め」
真島さん。俺が呼び忘れていた。木野さんのそばに、真島浩二が立っていた。いつ来たのか気づかなかった。だが真島さんは静かにそこにいて、木野さんの顔を見下ろしていた。その表情は、何かを待っているようだった。返事を待っているようだった。
「浩二」
木野さんが呼んだ。真島さんが一歩近づいた。
「コーヒーを頼めるか」
真島さんは、少しだけ目を見開いた。そして頷いた。何も聞かずに、踵を返して歩き出した。その背中が、微かに震えていたのを俺は見た。
真島さんが動いていく間、芦原さんが木野さんの隣に座った。二人の間に言葉はなかった。だが芦原さんの手が、木野さんの肩に置かれていた。力を入れない、ただそこにあるだけの手。
俺は少し離れた場所に立った。救急車の音はまだ遠い。木野さんの呼吸だけが、静かな場所に途切れ途切れに響いていた。
「芦原」
木野さんが芦原さんの方を見た。
「お前はまだ歩けるか」
「ああ。歩ける」
「なら、翔一を頼む」
「分かってる」
短いやりとりだった。だがその短さの中に、俺には見えないものが詰まっているように感じた。木野さんが芦原さんに託したのは、津上さんを守ることだけではないのだろう。もっと以前から、二人の間にあった何かを、芦原さんに渡そうとしているように見えた。
芦原さんは何も言わなかった。ただ、木野さんの肩から手を離さなかった。
真島さんが戻ってきた。紙コップを二つ持っている。一つを木野さんに、もう一つを芦原さんに渡した。真島さん自身は何も持っていなかった。ただ木野さんの前に立ち、また待っていた。
木野さんが紙コップに口をつけた。一口だけ。それだけで、コーヒーは半分以上残った。
「悪いな」
木野さんが言った。真島さんに向けたのか、芦原さんに向けたのか、それとも両方なのか。分からなかった。
真島さんが初めて声を出した。
「何がですか」
「いろいろだ」
木野さんは微かに笑った。笑ったというよりは、口元を少しだけ緩めた。それだけだった。
「おれは弟を救えなかった。それ以来、一人も諦めないと決めた。だが結局、救えなかったのはおれ自身だったのかもしれない」
芦原さんの手が、木野さんの肩を少しだけ強く握った。
「木野さん」
「いいんだ。おれは、やりたかったことをやった。津上を救った。それで十分だ」
十分だ。その言葉が、重く沈んだ。
木野さんの呼吸が、ゆっくりと浅くなっていく。紙コップが手から滑り落ち、コンクリートの上に倒れた。残ったコーヒーが地面に広がり、夕暮れの光を吸い込んで黒く染まっていく。
芦原さんが、木野さんの肩を掴んだまま動かなかった。真島さんが、木野さんの前に立ったまま動かなかった。
俺も、動かなかった。
木野薫の呼吸が止まったのは、その数分後だった。静かだった。音もなく。ただ呼吸の間隔が伸びていき、やがて途切れて、戻ってこなかった。
芦原さんが、木野さんの肩から手を離した。その手が、自分の膝の上で握りしめられている。指の関節が白くなるほど強く。
真島さんが、木野さんの前に膝をついた。そして木野の目を閉じてやった。指先が、木野さんの瞼に触れ、ゆっくりと下ろされた。
俺は、何も言わなかった。
励ましの言葉をかけようとして、止まった。意味づけの言葉をかけようとして、止まった。今この場にふさわしい言葉を、俺は持っていなかった。
救急車の音が近づいてくる。だがもう、間に合わない。
俺がすべきことは、言葉をかけることではない。救護の手配を済ませた。残された二人のそばにいること。それが今の俺にできることだ。
救急車が到着した。救急隊員が駆け寄ってくる。俺は立ち上がり、彼らを案内した。事務的な手続きが始まる。救急隊員が木野さんの身体を確認し、静かに首を振った。
芦原さんが立ち上がった。ふらついたが、自分の足で立った。真島さんも立ち上がった。二人の間に言葉はなかった。
俺は津上さんたちのところへ戻った。津上さんはベッドの上で目を開けていた。俺が部屋に入った時、津上さんは俺の顔を見て、何かを察したようだった。
「木野さんは」
「亡くなられました」
津上さんは目を閉じた。真魚さんが津上さんの手を握りしめた。
俺はそれ以上何も言わなかった。津上さんの目が閉じたまま動かなかった。真魚さんの手が震えていた。
救護の手配と現場の整理が一段落した後、俺は手術道具が散らばった部屋に戻った。真島さんが一人で道具をまとめていた。俺は何も言わずに手伝った。メスをケースに戻す。糸を巻き取る。消毒液の瓶を並べる。真島さんの手は正確だった。だがその動きの合間に、時々止まる瞬間があった。
俺も手を止めずに続けた。言葉はいらなかった。ただ道具をまとめる。それが今できることだった。
全ての道具がケースに収まった時、真島さんが口を開いた。
「結城くん」
「はい」
「ありがとうございます」
それだけだった。俺は頷いた。
部屋を出る時、俺の手が無意識に腹部へ伸びた。ベルトの感触を確かめる動作。だが指先が腹に触れる前に、俺は手を下ろした。
ベルトに触れても、答えは出ない。力についての答えを、まだ俺は持っていない。エクリプスを使えば救えたのか。使わなくて正しかったのか。力を持つ自分が、その力とどう向き合うべきなのか。どれも結論づけられない。
だが答えが出ないままでも、隣にいる人を支えることはできる。
俺は真島さんから道具のケースを受け取った。重くなかった。だが真島さんの表情が少しだけ軽くなったのを見た。
芦原さんが外で待っていた。壁に寄りかかり、空を見上げている。力を取り戻した身体。だがその横顔には、力が戻った喜びなど浮かんでいなかった。
「芦原さん、戻りましょう」
「ああ」
芦原さんが壁から背を離した。俺はケースを持ち、芦原さんの隣を歩いた。
夕暮れが終わり、夜が始まろうとしていた。空の端に最初の星が見える。
俺はベルトに触れかけた手を、もう一度下ろした。代わりにケースを持ち直した。
力についての答えは、まだない。
だが今ここで、隣を歩く人の荷物を持つことはできる。
それだけで十分かどうかは分からない。だが今は、それをすることにした。