朝、目が覚めた時身体が軽かった。
以前なら布団から起き上がるまでに数秒の間があった。腹の奥に残った鈍い痛みと、関節の軋みを確かめてからでないと動けなかった。だが、今朝は違った。意識が覚醒すると同時に身体が自然に起き上がる。窓から差し込む朝日が、埃の浮かぶ空気を照らしていた。
俺は自分の手を見た。擦り傷も包帯もない。ただの人間の手だ。
あれから一か月が経った。
木野薫が亡くなって一か月。アンノウンによる事件は途絶え、青年――オーヴァーロードの気配も消えていた。俺は変身していない。ベルトを呼び出すこともなく、アビスフォームの青い光もエクリプスの漆黒も、この一か月間一度も纏っていない。
だが、力は戻っている。腹の奥にアギトの種とアマダムの欠片が、静かに脈打っているのを感じる。あの日オーヴァーロードから返ってきたアギトの種は、以前と同じ場所に以前と同じように、しかし以前よりも穏やかに俺の中にあった。
大学の階段を上る。三階の研究室まで、休まずに辿り着いた。以前なら途中で一度立ち止まり、息を整える必要があった。エクリプスフォームの反動で、身体の芯が常に疲れていたからだ。今は違う。足取りが軽い。呼吸も乱れない。
「結城くん、おはようございます」
研究室のドアを開けるとつる子先輩がいた。机の上にはいつものように資料の山とノートパソコン。だが、その横に見慣れない書類が置かれている。卒業論文の草稿だった。
「おはようございます、先輩。それ、卒論ですか」
「ええ。少しずつですが、形になってきました」
つる子先輩は眼鏡のブリッジを押し上げた。その指先にも、以前のような疲労の色はない。木野さんの死後、彼女もまた自分の中で何かを整理したのだろう。表情が穏やかだった。
「手伝いましょうか」
「では、この資料の整理をお願いできますか。私、第二章の構成に手間取っていまして」
俺は椅子を引き資料の山へ手を伸ばした。分類し、番号を振り付箋を貼る。単純な作業だ。以前なら一時間もすると集中力が途切れ、手が止まった。エクリプスの影響で、感情の平坦化が完全には戻っていなかったからだ。だが、今は違う。作業の一つ一つに意味を感じる。紙の匂い。インクの滲み。先輩が時折呟く独り言。それらが、以前よりも鮮明に俺の中へ入ってくる。
「結城くん」
つる子先輩が、不意に手を止めた。
「私、来年三月で卒業なんです」
その言葉は、知っていたはずなのに妙に重く響いた。
「卒業したら、どうするんですか」
「大学院へ進むつもりです。文化人類学の研究を続けたくて。それに――」
彼女は少しだけ言い淀んだ。
「あかつき号のことも、まだ調べたいのです。沢木さんが語った超古代の系譜。光と闇の力。それらが現代にどう繋がっているのか。知りたいことが、まだ山ほどありますから」
「じゃあ、東京には残るんですね」
「ええ。ですが、今のように毎日会えるとは限りません。研究が忙しくなりますし、あなたもこれからどうするか」
つる子先輩は、そこで言葉を切った。俺の答えを待っている。
卒業後のこと。これからの暮らし。戦いが終わったわけではない。オーヴァーロードはまだいる。アンノウンが完全に消えたわけでもない。だが、その「戦い」だけを軸に生きるわけにはいかない。俺は、まだ大学生だ。そしてこれからどう生きるかを、選ばなければならない。
「俺は――」
言いかけて、止まった。戦いを理由に曖昧な返事をしそうになった。だが、それは違う。まず自分がどうしたいのか。
「俺は、まだ大学に残ります。卒業まで、あと三年ありますから」
「では、しばらくは同じキャンパスにいますね」
「はい。それと、先輩」
俺は、資料の山から手を離した。
「卒業までに、もう一度、一緒にあかつき号の資料を調べませんか。俺も、自分の力のことをもっと知りたいんです」
つる子先輩は少しだけ目を見開いた。そして、微笑んだ。
「ええ。お受けします。博覧強記の力、見せて差し上げます」
それが、俺たちの最初の約束だった。
午後、俺は街へ出た。氷川さんに会うためだ。
待ち合わせたのは、いつもの喫茶店。氷川さんは既に席に着いていた。G3-Xの訓練を終えた後のようで、ジャケットの下にユニフォームの襟が見えている。
「結城くん、お久しぶりです」
「お久しぶりです、氷川さん」
俺は向かいに座った。氷川さんはコーヒーを一口飲み、静かに言った。
「あれから、アンノウンの出現は確認されていません。オーヴァーロードの気配もありませんし、警察としてはひとまずの平穏です」
「そうですか」
「ですが、完全に終わったわけではありません。あの黒い4号――」
氷川さんが、そこで言葉を止めた。俺を見る目に、探るような色がある。
「結城くん。あの姿は、君だったのですか」
「はい」
俺は隠さなかった。もう隠す必要はないと思った。氷川さんは、俺の正体を知っているわけではない。だが、あの場にいた。俺が変身する姿を見た。そして、俺が「黒い4号」と呼ばれる姿で戦ったことも。
「あの姿は、俺の中のアマダムの力が表に出たものです。エクリプスフォームとは違います。でも、まだ完全に制御できているとは言えません」
「制御と回復は別か」
「はい。身体は回復しています。一か月、変身していないので副作用も薄れている。でも、エクリプスを完全に制御できるかどうかは、別の問題です」
氷川さんは頷いた。それ以上は聞かなかった。彼は警察官としての立場と俺たちを見守る立場の間で、うまく線を引いている。それが、今の俺にはありがたかった。
「津上さんはどうしていますか」
「元気です。美杉家でいつも通り料理を作っています。真魚さんも落ち着いていますし、芦原さんもリハビリを続けています」
「そうですか」
津上さんは力を手放した後、一度だけ戻ってきた。俺がオーヴァーロードからアギトの種を取り戻した時、津上さんの身体にも力が戻った。だが、津上さんはそれを「使わない」と決めた。あの日、真魚さんを守るために戦った後、津上さんは自分の道を選んだ。力を持つことと使うことは別だと。
俺はその選択を尊重する。だが、俺自身はまだ力を使う道を選んでいる。その違いをどう言葉にすればいいのかは、まだ分からない。
喫茶店を出た後、俺はつる子先輩のアパートへ向かった。夕方、約束していた資料の整理の続きをするためだ。
部屋に着くと先輩は既に机を整えて待っていた。今日は、あかつき号の乗員名簿の再確認と、沢木さんの証言の照合作業をする予定だった。
「結城くん、この名前」
つる子先輩が、名簿の一点を指差した。
「木野雅人。木野薫さんの弟です。あかつき号の乗員名簿には載っていません。ですが、薫さんの証言によれば弟さんは雪山で亡くなったことになっている。でも、本当にそうなのか」
「どういうことですか」
「薫さんがアギトの力に覚醒したのは、あかつき号事件の後です。ですが、彼が『弟の右腕を移植された』という話。その右腕が、実はあかつき号と関係があるのではないか」
つる子先輩の推測はいつも鋭い。木野さんの死後、彼女は木野さんの過去を徹底的に調べた。その結果、見えてきたのはあかつき号と木野兄弟の間に、まだ知られていない繋がりがあるかもしれないという可能性だった。
「でも、それを確かめるのはもう」
「ええ。本人には聞けません。ですが、記録は残っています。私はそれを追い続けたい」
つる子先輩の目は真剣だった。彼女の戦いは、知識で戦うこと。それはこれからも続く。
「先輩」
「何です」
「俺、先輩が卒業してもこの調べ物を続けたいです。一緒に」
つる子先輩は少しだけ驚いた顔をした。そして、静かに頷いた。
「ええ。では、それが二つ目の約束ですね」
俺は少しだけ笑った。約束が増えていく。それは、これからも続く暮らしがあるということだ。