幕末のラ・セーヌの星 鴨川の星 快傑女天狗 作:koh1968
La Légende de Étoile de la Seine au Japon.
Elle s’appelle Étoile de la Kamogawa=Une femme Tenguh.
Quelque part en 1862après JC.
A Kyoto à la finde la période Edo.
“Mauvais fouet vol2”
夜雲が小望月(満月の一日前)に照らされている。
庭に座らされて梅の木に縛られているのは寺町通円福寺前町に住む読売の修郎。その修郎が空を見上げると、高さ十八尺(約5.4メートル)の土蔵の瓦葺き屋根の上に人影が見えた。
「だ、誰だ?」
普段かけている紐眼鏡がないのでぼんやりとはしているが、目を細めると月光を背景にした影は女と思えた。吹く北風に長い髪と外套が靡(なび)いている。脚は長くて細く、くびれた腰には何やら長いものが差されていた。
「ま、まさか・・・」
修郎には女の影が観世音菩薩のように見えた。
(観音様が助けに来てくれたってのか?いや、観音様じゃねえな、あれは・・・)
修郎が心の中で独り言ちると、女の影は宙に浮いた。影は宙に舞った後、庭に飛降りるや素早く抜刀し、修郎を縛っていた縄を切って彼を自由にしてくれた。庭の松明に照らされた人影は修郎が思っていたとおりの女だ。
「修郎殿、大事ありませんか?」
女は右膝を庭の土の上に一寸(約三センチ)ほど浮かし、左膝は天に向けて立てていて、両の脹脛(ふくらはぎ)は黒の革靴で守られている。ふっくらとしているが、筋肉質でもある白い太腿が眩しい。修郎の視線は女の熟れ始めた果実のような臀部、括れた腰つき、胸の膨らみを露わにする濃紺の装束に流れる。鎖骨のあたりは大きく開いていて、胸の谷間までが見えていた。両袖も腕の線を描き、手首あたりまで伸びていて先端は飾りがついている。何より右腕は修郎を縛っていた縄を切り落とした反りの少ない大刀を持ち、その切っ先は空に向いている。左の手のひらは修郎に向いていて身体を動かさないよう求めていた。
「ひどいことを・・・」
修郎の視線は女の顔へと流れた。紅玉色の唇の上下の間から、怒りと悲しみに満ちた声が出た。その口は小さく、少し下唇が前に出ているが、微笑むときはとても優しそうになるのであろうが、今は怒りに震えている。顔は細面で鼻筋は高くすらりと伸び、目は円らで大きく見開かれている。修郎はどこかで会ったような気もするが、顔の上半分が紅緋色の仮面で隠されているため素顔が誰なのかは分からない。
裏地が赤い黒の外套と、後ろを首筋あたりで括られ、一部はもみあげから胸前に垂れた濃い栗色の髪が風にここでも靡いた。頭頂部は前部に銀の星印が縫い込まれた青い頭巾で守られている女、そんな女などこの京には、いや日の本には一人しかいないであろう。
「お。おまえさんは、いや、貴方は鴨川の女天狗!」
「星!鴨川の星です!さあ、修郎殿、ここを抜け出しましょう!」
女剣士は大刀を腰に巻かれた藤色の帯に挿された鞘に収めると、修郎の小さな肩に手を回して抱き上げようとした。橘の花の匂いのような不思議なお香が、汗臭を隠している。どこかで嗅いだような香りだった。そう、寺町通りの花屋の若き女主人お星も似た匂いを発していた。
「助けに来てくれたのかい?鴨川の星!それにしてもどうしておいらの名前を・・」
「あなたの瓦版はよく読ませてもらっていますわ。よく私のことを書いてくれている」
修郎は読売と呼ばれる瓦版の制作者であることは何度も述べた。この年の春、仮面で素顔を隠して悪を斬る女剣士鴨川の星の鴨川七条橋での初陣をたまたま目撃し、
「天晴!痛快也!!鴨川之女天狗!」
との見出しでその活躍を書いた瓦版は売れに売れ、謎の女剣士の名を京に轟かせたのだ。
正義感の強い修郎は、京で乱暴狼藉を働く雑掌・公家侍(実は偽者だが)の二人、白木午之助と井川丑五郎を糾弾する瓦版も売り出したが、その二人の侍に、ここ洛西常盤(ときわ・今の京都市右京区)にある公家六辻家の別邸に拉致されていたのだが、まさか鴨川の星が来てくれるとは思ってもいなかった。
女剣士の肩を借りた修郎が足を引きずらせて歩きつつ、塀の築地の瓦屋根に目をこらすと、そこにも人影があった。それは少年らしい姿だった。白い布で盗人被りをし、結び目のあたりには大きな団子鼻が見える。
「修郎兄さん、どうもないか?」
「そ、その声はと、屯太!なんでここに・・」
「話は後です。修郎殿、屯太殿と一緒に逃げるのです!」
鴨川の星が、修郎の傷ついた身体を持ち上げた時、屋敷の縁側から声がした。
「誰だ!」
「曲者!」
幕末のラ・セーヌの星 鴨川の星 快傑女天狗
「悪しき鞭(ムチ)‐瓦版屋修郎を救え!‐第二話」
仏蘭西大革命の前夜、花屋の娘として育てられた美少女シモーヌは、ラ・セーヌの星と名乗り剣を取って闘った。
そして幕末維新前夜の日本の京。花屋の若き女主人お星も、鴨川の星と名乗り剣を取って闘う。
しかし彼女は、自分がシモーヌの血をひくことと、後に徳川幕府最後の将軍となる一橋慶喜の妹であることを全く知らなかった。
文久二年(1862)八月十五日(太陽暦では九月八日)亥の下刻夜四つ半(午後十一時くらい)。
洛西常盤の里にある公家六辻輔晴(むつじすけはる)の別宅の母屋では、京の街を馬の暴走、鞭などで暴虐の限りを尽くしていた六辻家の雑掌・公家侍(先述したように身分を偽っている)の白木午之助と井川丑五郎が茶碗に入れた酒を酌み交わしていた。つい一刻(二時間位)前まで虫の羽音が聞こえ、蒸し暑かった室内は急速に冷えてきていた。
白木は銀の煙管(きせる)に入れた煙草をふかしつつ飲んでいるので、酒量はそれほどでもない。だが、井川はひたすらに飲んでいて顔は赤く、目は血走っている。灰を被った炭が山積みの火鉢の向こう、部屋の隅には蚊帳の中で二人の女が胸乳や足をはだけて寝息を立てていた。その表情は疲れきっている。二人の男に慰みものにされたからだ。寒むがりの井川は火鉢の火をおこしていた。
「井川よ、あの読売の男、しぶといな。誰に頼まれてあの瓦版を書いたのか、吐きやがらねえ」
「まったくだ。ところで白木、あの読売、修郎と言ったか、もとは徳川の御家人だったらしいぜ」
「ふ、情けねえな。直参が瓦版職人かよ。武士の風上にもおけねえ。ところであいつが書いた瓦版だが、いま噂の鴨川の女天狗をよく書いている。女のくせに剣を持って闘うとよ!京の奴らには評判らしい」
「顔を、眼の周りを紅の目かづらのような仮面で隠しているとか。それでいて白い御足は隠さず、胸や腰の線が露わになった珍妙な格好をしている。剣の腕はそこらの侍に負けないらしいぜ」
「ふむ、一度その太腿を拝んでみたいな。それより俺はあの花屋のお星、あいつに惹かれる。はやく寝てみたいもんだ。二百両は無理だろうが、程なくあいつは俺たちのもんになる。明日にはお星が修郎を助けるために、百三十両を持ってくるはずだ」
そう言うと白木は煙管を竹で出来た灰吹きに当てて目を閉じた。彼の脳裏には白木と井川が鞭を振るい、馬を飛ばしていた寺町通りの真ん中で両手を大きく広げて行く手を遮った女お星の姿が映った。
お星は紫陽花(あじさい)の花が描かれた萌葱(黄緑)色の小袖に襷(たすき)と前掛けをした長身の女だった。お星は面長で肌は雪のように白い。眼は円らで涼しく且つ優しそうで、睫毛は長い。鼻筋は高くて口は、紅玉色の下唇が少し前に出ているが、彫りが深い顔立ちで嫌みのない艶やかな雰囲気を放っていた。栗色の髪はつぶし島田に結われていた。
『止まりよし!ここは寺町通り、天下の往来どすぇ!』
気丈に叫んだお星は、何度か会ったが橘の花の香りに似た香の匂いがしたのを覚えている。
「井川、明日金とお星を手に入れたら、京を出るか」
「ああ、潮時だな。長州の奴らも、六辻家の連中も冷たくなってきた」
「やり過ぎたかもな。奴らに京の街を騒がせろと言われてやっただけなのだが・・」
「うむ。で、白木、この女らはどうする?元いた商家に帰すか?連れて行くか?」
「馬鹿な。もう飽きたし邪魔だ、後で始末し、庭に埋めるさ。む?」
「どうした?」
「何か庭で物音がしたぞ」
二人は懐に入ってあるものを確かめ、大刀を持って縁側へ向かった。
「話は後です。修郎殿、屯太殿と一緒に逃げるのです!」
そんな女の声が聞こえてきた。
鴨川の星がそう言って、修郎の傷ついた身体を持ち上げて屯太に託そうとしていたのだが、それを聞いて白木と井川は目を合わせた後に叫んだ。
「誰だ!」
「曲者!」
白木と井川は裸足のまま、庭に降りて抜刀した。仮面の女剣士との距離は五間(九メートル)あるかないかだが、月明りに照らされた曲者がで女であることはわかったようだ。
「何者だ、お、女だな?」
「この珍妙な恰好、め、女天狗だ。鴨川の女天狗だ!瓦版に書いてあったあの女天狗だ」
修郎の瓦版の記事にあわせて描いた三次郎の挿絵は、顔はともかく鴨川の星の装束を克明に描いていて、本物の女剣士を見れば正体は容易に分る。
「おのれ女天狗!」
修郎が屯太に連れられ、塀の向こうに逃げたことを確認すると、その女天狗も抜刀して言った。
「天子様のおわす京の都を騒がす不届き者、修郎殿はこの鴨川の星がもらい受けました」
女天狗鴨川の星は右手で反りの少ない大刀を持ち、左手を少し前にだし、足は左脚を少し前に出して肩幅ほどに開き、白木と井川の反応を見た。彼女から見て左に青眼に構えた白木、右に八相に構える井川、剣の構えからそれなりに修行を積んだと見える二人に対し、勝ち目はあるだろうか、と仮面の女剣士が思ったときだ。白木が剣を鞘に納め、井川もそれに続いた。
(どういうこと?)
紅緋色の仮面の下で一瞬、鴨川の星は戸惑い、次ぎに大きく目を見開いた。男達の出方が分らなかったのだが、続けて白木が懐から何かを取り出した。
(だめ!これは!)
と思ったと同時に白木が何かを投げつけたように見え、鴨川の星は裏地が赤い黒のマントをはためかせてそれを防いだ。まるで蛇(へび)のように飛んできたのは鞭だったのだ。錦市場や寺町で能面の二人が馬上から振るったのも鞭で、ますますあの能面をしていた二人が目の前に居ることを女剣士に確信させた。続けて、井川も同じように鞭を投げつけてきたが、それは鴨川の星の右の上腕にかすかに触れた。すかさず白木が鞭を振ってきたのを避けるべく、鴨川の星は飛び上がり、背後の築地塀の瓦の上に降りた。
「そのようなものを使うとは卑怯な!武士なら武士らしく剣で勝負なさい!」
鴨川の星は二人を見おろして言った。
「ふん、顔を隠す貴様こそ、卑怯ではないか」
「それはお互い様ね」
「女のくせに刀をもつなど生意気な奴だ!」
「いずれ。男も女も関係の無い世がきます」
「そうかもな。だが、今ではない!」
白木が応唱している間に、井川が鞭を投げつけてようとしていることを、鴨川の星は不覚にも気がつかなかった。シュルっと音をたてえ飛んできた蛇のような鞭は鴨川の星の右足の黒い革長靴に絡みついた。
「きゃっ!」
井川が鞭を引っ張ると、鴨川の星は悲鳴を上げて態勢を崩してしまった。右手の力が抜け、大刀を塀の向こうに落し、身体がよろめいた。隙が出たところにさらに白木が投げつけた鞭を避けられず、それは右足首に絡みつき、女剣士は塀から屋敷の庭の土蔵の前に落ちて尻餅をついたあと、仰向けに倒れ込んでしまった。
「はうぅ!」
呻き声を上げて、上体を起こしたとき、さらに鞭が飛んできた。それは白木午之助の鞭だった。彼が持っている鞭は一つではなかったのだ。鞭は容赦なく、濃紺のレオタードで守られた腹部を叩きつけ、あまりの痛みに鴨川の星はおこしかけていた上半身を倒された。マント越しに土の冷たさが背中に感じられる。
「ふふふ、噂ほどではないな、鴨川の女天狗よ!」
白木の言葉にいつものように「星です!」と返すことができなかった仮面の女剣士。あっと言う間に白木が彼女の両手首を取り、井川は黒革靴を履いた両足首を押さえ込んでしまった。
「な、何をする!あっ!」
公家である六辻家の別宅の母屋の畳の上で、鴨川の星は両手両足を縛られていた。黒革靴の上から足首を、膝の上、腹回りから両上腕部にかけて、さらには背中に廻された両手首を井川丑五郎の手によってがんじがらめにされていたのだ。
腰に差していた大刀の鞘と脇差も奪われた。もっとも取り上げられなかったところで、大刀は鞘だけで、脇差があっても身体の自由がきかない以上、宝の持ち腐れであるが。幸い、濃紺のレオタード、裏地が赤い黒のマント、正面に星印が縫い込まれたベレー帽はそのままで、取られてもおかしくない紅緋色の仮面も奪われていなかった。尻の下には裏地が赤いマントが敷物のようになっている。
鴨川の星は仮面越しに二人の男、白木午之助と井川丑五郎を睨みつける。二人の顔がにやついているのが行灯(あんどん)でわかった。視線が鴨川の星の首筋、鎖骨、胸の膨らみからふっくらとした白い太ももへと流れていくのがわかる。縛られて動かない両の太腿をキュッと締めるのが精一杯だ。
鴨川の星の左隣には、京の街から拐(かどわ)かされてきたのであろう、二人の若い女がいた。白い襦袢に桃色の小袖を着させられているが、胸ははだけ、太ももから脹脛が露出している。島田に結われていたであろう髷は乱れきっていた。
狭い蚊帳の中で男達と汗臭い体臭、女達のなぶりものにされたことを想像させる匂いが充満している。
(修郎は助けられた、次はこの娘さんたちを助けねば、でも、どうやって?)
女達は疲れ切った表情で鴨川の星の奇妙な装束に目をやっていた。彼女らも仮面の女剣士の噂は聞いていたが、こうもあっさり虜(とりこ)になったことに失望していたようだ。
やがて白木が身体を屈ませ、女剣士の括れた腰を両手で掴み、続けて右手で豊かな胸乳を左、右と揉みしだき、左手は下腹部に指を走らせた。
「あっ、はぅんんん!」
白木の指技に思わず鴨川の星=お星は悶えた声をあげた。
「ふふ、まだ男は知らぬようだな。たっぷり味合わせてやるさ」
続けて白木が右手を仮面に近づけた時、外で鳥の羽音がしていたが、気が付かない。
「むむ?この香りは橘の花か?京で流行っているのかな」
白木は井川が寺町の楼蘭堂の女主人お星は橘の花の香の匂いがしたと言ったのを思い出した。
男の親指と人差し指が仮面を掴んだとき、鴨川の星は口と目をキュッと締めた。
(弥生三月から鴨川の星として剣を取って戦ってきたけれど、今宵が最後かしらん)
辱めを受ける前に舌を噛み切って死ぬべきかとも思ったが、ギリギリまでは勝利への望は捨てたくなかった。だが縛られた両手首、足首はびくともしない。
(やはり、駄目・・・)
「両親」下川楼蘭と倫が殺された後、身を投じた鞍馬の山奥で剣を教えてくれた大天狗こと天辻平七郎は、万一の際の自害の方法も教えてくれた。それが残念ながら役に立とうとしている。
(でも、父上と母上の仇は取りたかった、無念!)
女剣士の仮面が取られようとし、舌は噛み切られようとしたその時、鳥の羽の音が土間から聞こえてきた。先ほど外から聞こえていたが、それが大きくなってくるにつれ、鴨川の星=お星が自分のよく知る鳥の羽音だと知った。
(助かるかも知れない)
屋敷に入ってきた鳥は梟(ふくろう)だった。それはお星が飼っているコロだった。井川が蚊帳から出ると、コロは彼に飛びかかり、嘴や足で彼を攻撃した。
「なんだ!こいつは!」
井川はむきになって脇差しを抜き、コロを斬ろうとする。だが、コロは羽音を響かせて庭のほうへと飛び去り、井川はそれを追いかけた。
「何をやっている!」
白木は仮面から手を離し、蚊帳から出た。だが、そこには行灯に照らされた小さな人影があった。
「な、何者だ!」
「何者?人に名前を聞くときはなあ、自分から名乗らんかい!」
そう言うと小さな人影、盗人被りに団子鼻の屯太は炭を高く積んだ火鉢の灰を摑んで白木の目に向けて投げつけ、次ぎに床にあった茶碗の酒を火鉢に投げかけた。
「わああ、な、何をするう!」
灰神楽が煙のようにあがり、白木は目を押さえて土間へ降り、咳き込みながら外に向かって飛び出した。井戸の水で目を洗おうとしたのだ。
頬被りをした屯太は蚊帳の中に入ると、短刀を抜いて、鴨川の星の自由を奪っていた縄を素早く切り裂いた。蚊帳の中は灰神楽とは無縁だった。
「ありがとう、屯太!でも、どうして?」
「なんか様子がおかしいから戻ってきたんや。もう、大丈夫やで!あ、修郎は無事やしな!」
「さすが団屯!」
「なんも出えへんで、おせ、いや、鴨川の星!」
しばらく縛られていたので、少しふらついたものの、鴨川の星は立ち上がり、屯太が差し出した、塀の向こうに落とした大刀と部屋の隅に置かれていたと脇差しを受取った。大刀の鞘と脇差を藤色の小帯に差込み、大刀を鞘に納めたあと、鴨川の星は言った。
「コロもよくやってくれたみたいね」
「ああ、あとで褒めたってや!」
鴨川の星は土間に降りると、慰みものにされていた女達に振り返った。
「あなた達も逃げるのです!」
だが、二人の女は顔を引きつらせて首を振った。白木と井川からは逃れられないと思っているようだ。
「では、あなた方をここに縛り付ける禍根を、この鴨川の星が断って見せましょう!屯太、二人をお願い。勿論修郎殿もね」
そう言うと鴨川の星は、裏地が赤い黒のマントをなびかせて土間から外に出た。井戸では白木が桶の水で目を洗っていて、井川は梟のコロを追い回している。
「浪人ども!この鴨川の星と勝負なさい!」
そう言うと仮面の女剣士は庭を駆けて飛び上がり、石灯籠を踏み台のようにして飛び上がり、さらに土蔵の蔵戸の庇(ひさし)を経て高さ十八尺(約5.4メートル)の瓦葺き屋根の上に降り立った。井川を翻弄していたコロも高度をあげて土蔵の屋根に向かい、鴨川の星の右肩に止まった。
白木と井川は鴨川の星の跳躍力に目を丸くしていた。その丸い目には小望月に照らされた仮面の女剣士が映っていた。風が吹いてマントと長い髪がなびいている。彼女は括れた腰に両手をおいて庭にいる二人を見おろしていたが、腰の大刀を抜いて空に掲げた。そして歌を唄い始めたのだ。
「鴨川のおぅ 夜のぉ水面を 照らす星ぃ 朝霧たちて消える儚きぃ」
白木と井川は口をも丸くあげて呆然と見上げていたが・・・
「舐めるな女、貴様は!」
「お前は一体!」
鴨川の星は刀を納めて口を再び開くのだった。
「私の名は、先ほども名乗りましたが、鴨川の星。暁が輝くまでしか闘えない女の剣士。京の街を騒がす無頼はこの鴨川の星が成敗します!」
鴨川の星は口上を終えると宙に舞った。そしてその長身の身体は塀の向こう、畑との間に舞い降りた。そこには彼女の愛馬白梅がいて、仮面の女剣士は鞍上の人となった。
逃げるのか、卑怯だぞとの声が塀の向こうから聞こえてきた。
「逃げはしません!場所を変えて勝負しましょう!貴方たちも馬をお持ちのはず、ついてきなさい!」
そう叫ぶと、鴨川の星は白馬の胴を蹴り、西の方、嵯峨野に向かって走り去った。少し時を置いて、二人の男も馬を駆って追いかけたのは言うまでもない。
北西の方角、嵯峨野に向けて白馬で駆ける鴨川の星は後方に耳を澄ませた。中野村を越えた頃、二頭の馬の蹄の音がかすかに聞こえ、それは少しずつ大きくなってきた。二人の雑掌、公家六辻(むつじ)家に仕える侍である白木午之助、井川丑五郎だ。無論公家侍というのは表向きで、実態は不逞浪士であろう。二人は洛西の常盤の里にある六辻家の別宅に読売の修郎を拉致し、暴虐に限りをつくしていたのを彼女が団子鼻の屯太と一緒に救い出したのはここまで述べたとおりである。
修郎は馬と鞭で京の街中を荒らし回った二人の公家侍の悪事を瓦版によって報じた。実名こそ無かったが、六辻家の雑掌が起こしたことは京に住む者なら読めば分るようになっていた。当主の六辻輔晴に「家臣」二人を叱責し、それに逆恨みした白木達は修郎を捕えたのである。
(屯太、修郎殿を逃がしてくれたでしょうか?)
もしも、白木か井川のうちのどちらかが東の方角へ、京に向けて馬を飛ばせば、修郎と屯太の身が危ない。幸い二人は鴨川の星=お星の挑発に乗ってこちらを追いかけてくる。
(でもあの二人を相手にすれば、必ず鞭を使ってくる。私の剣が届かない距離から放ってくるでしょう。どうすれば二人を倒せる?)
鴨川の星は九町(約一キロ)ほど愛馬の白梅を走らせていた。あと二十町ほど走れば嵯峨野のあたりに辿り着くだろう。
(そうだ、嵯峨野と言えば・・・)
鴨川の星の脳裏に行灯の明かりが灯った。
「白梅、頑張って!」
鴨川の星は愛馬の胴を蹴り、一路嵯峨野へと駆け続けるのであった。
時刻は夜九つ半丑の刻(午前一時くらい)になっていたであろう。
白木午之助は井川丑五郎と前後して馬を駆けさせていた。
二人は羽林家(うりんけ:公家の家格)の六辻家に仕える雑掌と呼ばれる侍だが、それは何度も述べたように表向きのことである。実際は西国九州の福岡藩出身の浪人である。六辻家は長州萩藩の息がかかった公家だが、二人の浪人は身分を偽り、京で狼藉を働いて治安を悪化させ、幕府政治の足を引っ張るという役目を負っていたのだ。だが、それも少しやり過ぎたようだ。
(おのれ!女天狗め!)
仮面の剣士が乗る馬の白い尻が視界に入ってきた。白木の脳裏に女天狗とも呼ばれる鴨川の星の叫び声と月明かりに照らされた肢体が浮かんだ。
「浪人ども!この鴨川の星と勝負なさい!」
白木と井川に叫んだ仮面の女剣士は庭を駆けて飛び上がり、石灯籠を踏み台のようにしてさらに飛び上がり、土蔵の蔵戸の庇(ひさし)を経て高さ十八尺(約5.4メートル)の瓦葺き屋根の上に降り立った。井川を翻弄していたフクロウも高度をあげて土蔵の屋根に向かい、鴨川の星の右肩に止まったのだ。
白木と井川は鴨川の星の天狗のような跳躍力と肢体、白い太ももに眼を丸くした。その丸い目には小望月に照らされた仮面の女剣士が映っていて、マントと長い髪が風になびかせている。彼女は括れた腰に両手をおいて庭にいる二人を見おろしていたが、腰の大刀を抜いて空に掲げた。そして歌を唄い始めたのだ。
「鴨川のおぅ 夜のぉ水面を 照らす星ぃ 朝霧たちて消える儚きぃ」
白木と井川は口をも丸く開けて呆然と見上げていたが・・・
「舐めるな女、貴様は!」
「お前は一体!」
鴨川の星は刀を納めて口を再び開くのだった。
「私の名は、先ほども名乗りましたが、鴨川の星。暁が輝くまでしか闘えない女の剣士。京の街を騒がす無頼はこの鴨川の星が成敗します!」
鴨川の星は口上を終えると宙に舞った。そしてその長身の身体は塀の向こう、畑との間に舞い降りた。そこには彼女の馬がいたようで嘶く声が聞こえた。
「逃げるのか!」
「卑怯だぞ」
白木と井川は続けて叫んだ。
「逃げはしません!場所を変えて勝負しましょう!貴方たちも馬をお持ちのはず、ついてらっしゃい!」
そう叫ぶと、鴨川の星は馬の胴を蹴り、西の方、嵯峨野に向かって走り去った。
「よし、追うぞ!」
白木が言うと井川も頷き、馬屋まで行った。二人は修郎のこと、女達のことも忘れて馬を駆って追いかけたのだ。
さて、鴨川の星が乗る白馬白梅の鞍は、当時は珍しい洋鞍をつけていた。轡(くつわ)、手綱、鐙(あぶみ)等他の馬具も西洋風だ。体躯は逞しく、この頃の日本で普通に荷物の運搬に使われていた馬はもとより、武家が乗る馬に比べても大きく、四肢は長くその肢体は美しくもあった。白木と井川が乗る馬は、白梅と比べたら鹿と犬ほどの差があった。
中野村の家屋が見えてきた頃、もう少しで追い付くかと思ったが、栗毛の足が太くて短い二人の馬は息を切らして速度を落としてしまった。それに対して体躯も立派で足が長い女剣士の白馬はどんどん白木と井川が乗る馬を引き離し、やがて見えなくなった。
「くそっ!運のいい女め!」
だが白木はあきらめない。道はずっと一筋で、向かう先は決まっている。
(恐らくは上嵯峨村を越えて二町ほど行ったところで道が分かれているはずだ。天竜寺、渡月橋へ向かうか、水尾のほうへ行くかだが・・)
白木が考えていたとき、井川の馬が追い抜き前を走り始めた。やがて上嵯峨村に達した頃、鴨川の星の白馬である白梅が見えたのだ。白梅は道を通せんぼするかのように体躯を横に向けていた。
「白木、いたぞ!」
「ああ、ここで勝負だな」
井川が後ろの白木に向けて叫んだが、鴨川の星はあざ笑うかのように白梅を走らせ、さらに西にむけて駆けだした。
「おのれ、女天狗め!」
白木は馬に鞭打って、井川を追い抜いた。鴨川の星を乗せた白梅は二町(約二百二十メートル)ほど駆けたところにある分かれ道をまっすぐ駆け、やがて見えなくなった。
女天狗鴨川の星が京の街に現れてから半年近く経つが、神出鬼没でその正体、拠点は謎であった。白木はおそらく嵯峨野を越えた山奥に彼女の隠れ家があるのではと思った。
(ならば鴨川の女天狗ではなくて嵯峨野の女天狗だな)
やがて竹林が見えてきたころ、白梅が鞍上に誰も乗せず、息を吐いて首を左右に動かしているのが見えた。白木は馬を止めて飛降りた。彼の気迫に驚いたのか、白梅が西の方へと駆け上がっていった時、井川が追い付いてきた。
「どうした白木、あの馬を追わないのか」
「馬にはあの女は乗っていない。この竹林に奴は隠れているはずだ」
白木と井川は鞭をもって竹林に一歩を踏み出した。
(鴨川でも嵯峨野でも良い。女天狗め、何としても仕留めてやる)
竹林の中は夜とは言え、かすかに月光が差込んでいるので視界はあった。太い竹が天に向けてそびえる中、お星=鴨川の星は身体を屈めて白木と井川の二人を待ち受けていた。
(ここなら鞭をかわすことができるはず)
そう思って仮面の女剣士は愛馬白梅から降りて嵯峨野の竹林の奥深くへと入り、隠れているのだ。嵯峨野には幼い頃、父(とお星は信じているが実は養父)の医師下川楼蘭、母(養母)の倫とともに何度か遊びに来たことがある。この竹林でも筍を採ったことがあり、今となっては良き思い出だ。倫が茹でてくれた筍は美味しかった。
あの頃のお星はいずれ、成長すれば婿をとって下川家を相続し、楼蘭堂をもり立てるのだろうと無意識に思っていたものだ。楼蘭堂を継いだことは予想通りだが、まさか剣士になるとは夢想だにしなかった。それに「両親」が押し込み強盗に斬殺されることも予想できなかった。
鴨川の星=お星がいる竹林の奧からは、白梅が息を吐いて首を左右に動かしているのが見えた。そこに馬の蹄の音と嘶く声が聞こえ、鞍上の主が飛降りる気配がした。六辻家の雑掌の二人のうちの一人であろう。それは白木だった。
(来たわね・・)
鞍から飛降りた白木の気迫に驚いたのか、白梅が西の方へと駆け去ったとき、さらにもう一頭馬の蹄の音がした。もう一人の井川が追い付いてきたのだろう。
「どうした白木、あの馬を追わないのか」
「馬にはあの女は乗っていない。この竹林に奴は隠れているはずだ」
二人の声が聞こえ、竹林に一歩を踏み出すのも見えた。二人からは何としても女剣士を仕留めようという気迫が伝わってきた。
(では、やりましょうか)
鴨川の星は小石を拾うと立ち上がり、二人に向けて投げつけた。
「わっ!」
「な、なんだ!」
正確に狙ったつもりだったが、石が飛ぶ音を聞いたのか、二人とも巧みに避けたようだ。
(さすがね!)
鴨川の星はマントを翻すと、竹林のさらに奥深くへと走り出した。ブーツの踵が竹林の軟らかな土を蹴る。待てという声が聞こえてきた。普通はここで無視して駆け続けるのがセオリーthéorieなのだが、鴨川の星はあえて立ち止り、またもマントを翻して二人の公家侍にその美しい肢体を向けた。
「な、なんだ!いきなり、止まりおって!」
白木がそう言った。
「止まれと言ったではありませぬか?」
鴨川の星としては彼らを挑発したつもりであった。もう一人の井川は懐に手を入れて鞭を握ったようだ。井川は白木に頷くと鞭を女剣士に投げつけてきた。
投げつけられた鞭に対して反射的に後ろに飛び下がったが、鞭は竹に遮られて届かなかった。井川の悪態をつく声に対し、鴨川の星は高笑いで答えた。
「どうしました?その程度ですか?」
井川は再度鞭を女剣士に向けて投げつけたが、やはり立ち並ぶ竹に阻まれて彼女には届かなかった。
「井川、俺に任せろ」
そう言うと白木は抜刀し、草鞋(わらじ)を脱いで、草をかき分けつつ鴨川の星に向かって走り出した。
「鋭!鋭!」
白木は低い声で叫ぶと、居並ぶ太い竹を切って捨てた。その数は一つ、二つ、三つと続いていく。竹の幹が笹の音を立てて倒れていくと、白木はさっと避け、そこを井川の鞭が竜のように流れ飛んでいった。
(く、来る?)
鴨川の星は鞭の音を聞き、身を屈めると頭上を鞭が走っていった。白木が竹を切り倒していくことで、鞭は嵐のように女剣士に届くようになった。
(さすが白木、もう一息だ!)
井川は白木の刀に心中で感服し、鞭を持つ手に力を込めた。そして叫んだ。
「何が鴨川の星だ、所詮は女!負けはせぬ!」
立ち上がって走り続ける鴨川の星の背中に、マント越しに鞭の先端が届き、激痛が走った。
(やるわね。ならば・・)
二人の男達の気迫が伝わってきた鴨川の星は、マントの裏側から小さな赤い玉を取り出すや、後ろに向けて投げつけた。玉は地面に落ちると、パンという音とともに白い煙を立てて、二人の公家侍の視界を塞いだ。煙が鼻と口に入り込んでくる。
「おほッ、おほッ、何だこれは」
「おのれ女め!卑怯な!」
白木と井川は着物の袂で口、鼻を覆いさけんだ。女天狗鴨川の星はどこに行ったのか?二人は疑問に思ったが白木はジッと立ち止り、井川は右足を一歩、左足を一歩、と後ろに下がっていった。それが二人の明暗を分けた。
井川の右の踵に白木によって切り取られて倒れ落ちた竹が当たったとき、白木が叫んだ。
「井川!動くな!」
白木の叫びに鞭を持った井川の手に力が入ったとき、頭上から鳥の翼のような音がした。(何だ?)
井川が煙の収まりつつあった竹林の上を見たとき、月光に照らされ なにものかが、少し前の頭上から降り落ちてきたのだ。井川は一歩前に進んだ。
それは鴨川の星だった。女剣士の白いふっくらとした太ももが目に入った刹那、彼女のつま先が井川の顔面を直撃した。
火薬が詰まった赤い玉が爆発したあと、鴨川の星は六間(十メートル八十センチ)ほど先まで走るや、向きを替えて白木と井川に向かって静かに走り出した。
一人の男が、井川の踵が倒れた竹に当たった音を聞いた鴨川の星は跳躍した。
「井川!動くな!」という声が聞こえたので、その男は井川と分った。声をだした白木はその場で身体の姿勢を低くしたようだ。井川がこちらに向かおうとしたが、鴨川の星は黒革靴を履いた前足のつま先で、彼の顔を続けて鞭を持った右手を蹴った。鞭は宙を舞い、鴨川の星はそれを摑んだ。
「むううん!」
悲鳴とも呻き声ともつかぬ声をあげて、井川がふらついた時、三間(五メートル四十センチ)離れた竹と竹の間で振り返った鴨川の星は、奪った鞭を井川の首に向けて投げつけた。
彼の首に鞭が絡むと、身体の態勢を崩した井川は仰向けに倒れ始めた。
「井川!危ない!」
白木が叫んだ時は遅かった。先ほど白木が斬った竹の、刀の鋒のようになった先端が、
井川の左の背中を突き刺し、心の臓まで貫いたのである。
「ぎゃ!」
叫び声を一瞬あげたあと、血を吐いた井川丑五郎は絶命した。それを見て紅緋色の仮面の下で微笑んだ鴨川の星は鞭を離すと竹林の外へ向かって駆け始めた。
「井川ああああ!」
白木が駆け寄ったときには、井川の顔は青白くなり、眼は大きく開かれて動かなくなっていた。
「お、おのれええ!」
鴨川の星は道に向かって駆けていくのが白木の眼に映った。
井川を倒した鴨川の星は竹林の中の道に出ると、指笛を吹き、愛馬白梅を呼んだ。すぐに駆けてきた白馬の鞍上の女となった鴨川の星は、愛馬の胴を蹴って駆け去った。
「逃がしはせぬぞお!」
白木午之助も自らが乗ってきた馬に乗ると、すぐに仮面の女剣士を追いかけ始めた。
(保津峡へ向かうか)
白木の予想どおり、鴨川の星を乗せた白梅は嵯峨野の竹林を出て六丁峠へ向かっていた。そこを越えれば保津峡である。
保津峡とは丹波国松平侍従信義五万石の亀山藩(現在の京都府亀岡市)から嵐山の渡月橋に至る桂川の上流、保津川の渓谷である。その保津峡の崖の上の路なき道を、白馬の白梅に乗った鴨川の星が駆けている。左側は崖で下に保津川が流れている。空は満天の星々と丸い月が輝いていて、彼女の勇姿を照らしていた。
鴨川の星は正面に銀色の星印が縫われた青い後世のベレー帽のような頭巾を被り、赤い裏地の黒の外套・マントを風に乗せて、髪と一緒に後ろに翻らせていた。その下の装束は濃紺で長袖、胸や腰の括れなど身体の線が露わになったもので後世のレオタードそっくりである。
顔から喉元、鎖骨、双の乳房のあたりまでは雪のように真っ白だ。乳房自体は豊満且つ形がよく、生娘のふくらみをたたえていて、左右のそれが形作る峡谷は深い。馬にまたがる長い両足、そのふっくらとした太ももは、豊かな胸と相まって目にした男を虜にし、女を嫉妬させるであろう。膝から下は黒い革長靴に覆われていて、つま先は鐙(あぶみ)にかかっている。腰には藤色の細い帯があり、そこには反りの少ない大刀と脇差しが差されていた。そう彼女は剣士なのだ。後ろを振り返るまでもなく蹄の音で白木午之助を乗せた栗色の馬が付いてきているのがわかる。
そんな鴨川の星をさらに特徴づけるのは、細く長い白い顔の上半分を隠す目かずらのような紅緋色の仮面だ。仮面の下には澄んだ円らで凛々しい鳶色の瞳があり、鼻は高々とそびえ、紅小玉色で少し下唇が前に出ている。小さな口はとても艶っぽい。濃い栗色の髪は後ろの首のあたりで紫色の小さな帯で結ばれていて、腰の近くまで、前は胸のあたりまで伸びている。
その鴨川の星は、この年、文久二年(1862)の春、夜の京に突如出現した女天狗とも呼ばれる正義の仮面の剣士であり、その正体は寺町錦小路上ル円福寺前町の花屋兼薬種商でもある楼蘭堂の女主人、お星(せい)こと下川星(しもかわせい)であることは何度か述べた。
お星こと女天狗鴨川の星を乗せた白馬の五間(約九メートル)後ろには、馬乗り袴を履いた白木午之助を乗せた栗色の馬が走っていた。鞍上の男は長い鞭を振り上げ、仮面の女剣士に向けて放った。
鞭はシュルシュルと音をたてながら、女剣士の白い首に二重三重に絡みついた。それは鞭と言うよりも蛇のようで、その先端はさながら蛇頭のようだ。
「あぅううう!」
鴨川の星は声なき声を上げ、手綱から離した両手で鞭を外そうとするが、絡まったそれは容易に外れない。真紅の仮面は苦悶の表情を隠せずにいた。鴨川の星は窮地(ピンチ)に落ちてしまったのだ。
「わっはっはっはぁ!」
鞭を投げた馬に乗る男の笑い声が響いた。鴨川の星の命は鞭を持つ彼の手中にあったのだ。
「女のくせに!剣を取り、馬に乗るなど生意気な奴だ!」
二人と二頭の足下は崖で、保津川の急流の音が星空のもとに響いていた。
「死ぬがいい!井川の仇だ!」
保津峡に誘い込み、人気のないところで白木午之助を成敗しようと考えていた鴨川の星だが、馬上から鞭を放たれるのは計算外であった。鞭は鴨川の星の白い首に巻き付いた。なんとか外そうともがくものの、鞭の締め付けは強くなるばかりだ。
(不覚!息が出来ない!ど、どうすれば・・・)
その時、右手が外套の、マントの留め具に触れた。彼女の脳裏に再び行灯の明かりが灯った。
(一か八か!)
鴨川の星は赤い留め具に手を付け、裏地が赤い鞍のマントを空に放った。マントは意思をもったかのように風に乗って飛び、やがて鞭を両手で握った鞍上の白木の上半身に被さった。
「わ、わぁ!な、何だ!」
白木は鞭から手を離し、視界を塞いだマントを外そうと躍起になった。
「ええい、女天狗!卑怯な真似ばかりをしやがる!」
そう叫んでマントを再び風の流れに放った白木は恐怖した。馬に崖が迫ってきているのだった。左に保津川が見え、右は崖、ここは馬を止めるしかない。
「いかぬ!だ、だめだ!」
白木は手綱を引き、馬を止めようとしたが、白梅と違ってあまり賢くない彼の馬は崖に向かって突っ走る。白木の顔が恐怖に引きつった。崖の下は保津川の急流が岩に水飛沫をあげて流れているはずだ。
「わあああああああ!」
「ヒヒヒーーン!」
白木の絶叫が夜の保津峡に轟、宙に舞った馬も恐怖の嘶きを上げつつ空に四肢をばたつかせた。白木と馬は真っ逆さまに落ちていき、岩に身体を叩きつけた。
鞭から解放され、自由になった鴨川の星は馬上から保津峡を見おろした。はっきりとは見えないが、下の岩に激突した馬は川に流されていったようだが、白木の身体は岩の上で頭や腹あたりからおびただしい血を流して動かなかった。絶命していると見て間違いと鴨川の星は思った。
(二人をなんとか仕留めることができた。京の街も少しは静かになることでしょう)
鴨川の星がしばらく愛馬を歩かせると、木の枝に架かったマントを見つけた。幸い留め具は付いたままだ。いつものようにそれを羽織ると、鞍上の鴨川の星は六丁峠に向かってゆっくりと駆け去って行った。峠の先には京がある。
しばらくして岩の上の白木午之助の亡骸は、川面に落ち、保津川を下流へと流れていった。
翌八月十六日、酉の刻の刻暮れ六つ(午後六時)頃。
日が沈もうとし、入相の鐘が鳴る頃だというのに京の台所、錦小路市場は老若男女の歓声に包まれていた。この錦の市場など京の街を暴れ回った二人の公家侍が鴨川の星によって成敗されたことを報じる瓦版が売られていたのだ。
十日ほど前この錦市場では二頭の馬を操る能面を被った白木午之助、井川丑五郎が市場を暴れ回り、鞭で店先に並ぶ青物(野菜)、干し魚などを路面に落としたり、娘を拐かそうとしたりと狼藉に及んでいたのである。
深編み笠を被った読売の修郎と挿絵描きの三次郎が売り歩く瓦版を人々は争うように買い求めた。四百枚刷られた瓦版の最後の一枚を手に取ったのはお星である。
この日のお星も紫陽花(あじさい)の花が描かれた萌葱(黄緑)色の小袖に襷(たすき)と前掛けをしていた。お星の顔は面長で肌は雪のように白い。眼は円らで涼しく且つ優しそうで、睫毛は長い。鼻筋は高くて口は、紅玉色の下唇が少し前に出ているが、彫りが深い顔立ちで嫌みのない艶やかな雰囲気を放っていた。濃い栗色の髪はつぶし島田に桃色の鹿の子をかけた結綿(ゆいわた)と呼ばれる上方の十八歳位までの未婚の女がする髷に結われている。
花屋であり薬種商でもある寺町通り円福寺前町の楼蘭堂の女主人のお星は、ここ錦市場でも人気で、お星が瓦版を求めているのを知ると、人々は遠慮して最後の一枚を譲ったのだ。
「修郎はん、おおきに!みなさんもありがとさんどす。でも助かってよかったどすなあ」
「お星ちゃん、屯太に早く書けってせっつかれてなあ、夜なべして書いたんだぜ」
「屯太に?ご苦労さんどしたなあ」
「鴨川の女天狗は凄いぜ。おいらを助けた上にあの公家侍、いや、六辻家を脅して雑掌になりすましていた二人を倒したんだからな、ま、読んどくれよ」
「修郎はん!」
「なんだい?」
「星!」
「星?」
「鴨川の星どす。女に天狗はせっしょうどす」
「あ、そうだったな鴨川の星だ。すまねえ」
「ま、鴨川の星は許してくれるさ。なんと言っても初陣以来のつきあいだ」
修郎は鴨川の星の初陣をたまたま目撃し、その活躍を報じたのをよく自慢している。
白木と井川に捕えられ、痛めつけられたのはつらかったが、女剣士の活躍を今回も誰よりも早く瓦版の記事に出来たのを喜んでいるようだ。
「へえ、ふむふむ、月光を背景にせし女天狗鴨川の星の姿は観世音菩薩のごとく神々しく・・・、正義の銀の剣は二人の偽雑掌を嵯峨野の竹林、保津峡にて斬り倒しけり。この女天狗鴨川の星のある限り、この京の人、民は安心して暮らせるなり。へえ、名文どすなあ。それに挿絵もええわあ。こんなに勇ましく書いて、綺麗に描いてくれはったら、あては照れますぇ」
「なんでお星ちゃんが照れるんだよ」
「あ、そ、それは・・・」
「それよりお星ちゃん、屯太だけどなあ、知っているのかい?あいつは鴨川の星と・・・」
屯太は店の後片付けと留守番をお願いしていているのでここにはいない。修郎は鴨川の星と屯太が組んで悪を成敗していることをお星は知らないのではないか、と心配したのだ。
「鴨川の星と?うちの屯太がどないかしましたかいなあ?」
修郎は屯太が鴨川の星と一緒に戦っているぜ、という言葉を飲み込んだ。お星に余計な心配をかけない方がいいと思ったのだ。
「いや、なんでもねえ。おい、三の字行くぜ!」
お星は寺町のほうへと歩いて行く修郎と三次郎を見送った。
(よかったわあ修郎はん、元気そうやし。でも修郎はん、あてが鴨川の星とは思いもせんやろうなあ)
謎の仮面の女剣士鴨川の星が白木午之助と井川丑五郎を退治し、自らを救出したことを書いた修郎の瓦版は売れに売れた。二人の亡骸を調べた京都西町奉行所は、彼らが六辻家を脅して雑掌を騙ったと結論づけたとの噂が流れ、瓦版の文はそれを反映していた。
とにかく鴨川の星の名声は今回の事件を経て、さらに京の街や伏見、大坂などに、遠くは江戸や長崎にまで広がっていったのである。
「あてはやります。これからも鴨川の星として弱き人の為に剣をとって戦いますぇ」
お星は星が瞬き始めた空を見上げて小さな声で言った。すでに錦に人影はほぼ絶え、店は全て閉まっていた。
さ、いにまひょ(帰りましょう)と言ってお星は帰途につき、寺町通と錦小路が接する辻を上がって我が家でもある楼蘭堂の戸を開けた。
「屯太、今帰りましたぇ。瓦版買うてきましたぇ。修郎はん、あてらのことよう書いてくれてますう。屯太もおきばりやした(頑張った)しなあ」
「お星ちゃん、お帰りいい。それより錦で夕飯の買い物できたんかあ、何も残ってなかったんとちゃうか!」
暖簾の向こうからの屯太の声を聞き、お星はハッとなり、外しかけていた前掛けを土間に落とした。
「し、しもた!肝心の買い物、忘れてもうたぁ・・」
この日の夜、お星と屯太は夜鳴き蕎麦を求めて、夜の街をさまようこととなった。
修郎は長屋で固い豆腐を肴に酒をちびちびと飲んでいた。
この度の白木と井川の一件ではひどい目にあったが、二人の狼藉の解決に自分が記事を書き、三次郎が挿絵を描いた三河屋の瓦版が一役買ったことには満足していた。
「それにしても鴨川の女天狗、たいした女だぜ」
修郎の脳裏の掛け軸には常盤の屋敷の土蔵の屋根から飛び下りてきた女剣士の姿が描かれた。右膝を地面につき、左膝は立てていた女天狗鴨川の星は濃紺の身体の線が露わな不思議な装束と外套を身に纏い、紅緋色の仮面の下から優しく、それでいて凜として目でこちらを見つめていた。
「まさか助けに来てくれるとはなあ。それに俺の瓦版を読んでくれているとよ」
修郎は杯の酒を飲み干すと、行灯に以前書いた鴨川の星の瓦版を照らした。
「それにしても珍妙な、それでいて色っぽい装束だ」
瓦版には星印が縫い込まれた頭巾、顔の上半分を隠す仮面、外套に身体の線を隠さない脚絆のような革靴を身に付け、右手で刀を構える鴨川の星が三次郎によって描かれていた。
「一体その正体は誰なんだろう」
刀を振るうからには武家か下級の公家の娘だろう。天狗鞍馬の黒椿の身内かもしれない。顔、表情に気品があるから庶民ではあるまい。だが、あのような不思議な装束をそろえ、体躯の良い白馬を持つには経済力がないと無理だろう。
『鴨川の星どす。女に天狗はせっしょうどす』
お星の声が頭の中に響いた。お星も鴨川の星の活躍を喜んでいるようだが、修郎が女天狗と言うとむきになって“星どす”と言ってくる。
「まさか、お星が・・・」
修郎の脳裏に、仮面をつけた女剣士と寺町の花屋であり薬種商でもある楼蘭堂の女主人の顔が並び、やがてゆっくりと重なった。
「ふふ、まさか、あのようにおっとりしたお星ちゃんが、剣を振るうもんか。二人とも背が高いのと橘の香の匂いがするのはただの偶然だ」
鴨川の星はこれからも弱き者の為に剣を振るうだろう。武士の家に生まれた修郎だが、剣の心得はないに等しい。
「だが、俺には筆がある。これからも三次郎と一緒に、筆の力で世を正すのだ。鴨川の女天狗、いや鴨川の星には負けていられねえ」
修郎は銚子を持って杯に酒をつぐと、それを口へと近づけて誓うのだった。
おわり
La Légende de Étoile de la Seine au Japon.
Elle s’appelle Étoile de la Kamogawa=Une femme Tenguh.
Quelque part en 1862après JC.
A Kyoto à la finde la période Edo.
“Mauvais fouet vol2”
FIN