幕末のラ・セーヌの星 鴨川の星 快傑女天狗   作:koh1968

3 / 8
鴨川の星見参‐江州大津の仇打ち‐

La Légende de Étoile de la Seine au Japon.

Elle s’appelle Étoile de la Kamogawa=Une femme Tenguh.

“Vengeance”

 

時は文久三年(1863年)弥生三月十六日(太陽暦5月3日)日の本の都、京。時刻は夜五つ(午後八時)。

 

 夜の三条大橋で瓦版屋の修郎と挿絵画家の三次郎は蹄の音を聞いた。振り返ると、月明かりのおかげで白馬がさっそうと寺町から東の方へと駆けて来るのがわかった。鞍上の人も身なりは珍妙であったが、明らかに女性であった。

女は星印が縫い込まれた青い頭巾で頭頂部を守り、紅緋色の目カズラのような仮面でその細面の顔の上半分を隠していた。涼しい円らな瞳は力強く、高い鼻に艶っぽい下唇が少し前に出た口、白い肌が夜でもよく目立つ。

濃い栗色の髪は首の後ろで小さな紫色の帯で結ばれて腰あたりまで伸び、一部はもみあげから前に垂れ、着物ではなく、身体の線がくっきりと露わになった謎めいた濃紺の後世レオタードと呼ばれる装束を身につけている。

 豊満で形の良い胸乳、首筋から鎖骨から胸の谷間にかけての白いデコルテ、腰の括れは男たちの目を奪うだろう。さらに、驚くのは膝から下は黒い西洋風の長革靴を履いているが、白くふっくらとした太ももが露出していることだ。背中には裏地が赤く外側が黒いマントと呼ばれる外套を身にまとっていた。括れた腰には藤色の帯が巻かれていて、反りの少ない大刀と脇差が差されている。そう彼女は剣士なのだ。文久二年(1862年)の春より京に現れた、正義と弱き人々を助ける謎の仮面の女剣士、鴨川の星である・

「よう。鴨川の星ィィ!今宵はどこへ」

鴨川の星は修郎に一瞬微笑んだあと、鴨東へと渡り、三条通を東へと駆けて行った。

「よし、三次、追いかけるぜ」

 三次の肩を叩くと、修郎は裾を持ち上げて走り出し、三次が追いかけた。

(三条通を東へ・・・あの旅籠,浦戸屋があったな、水戸家の平松作之助と芳江の二人がいり浦戸屋に?)

 

幕末のラ・セーヌの星 鴨川の星 快傑女天狗!

「鴨川の星見参!‐江州大津の仇討ち‐」

 

仏蘭西大革命の前夜、花屋の娘として育てられた美少女シモーヌはラ・セーヌの星と名乗り剣を取って戦った。

そして幕末維新前夜の極東の島国日本の京。花屋の若く美しい女主人お星もラ・セーヌの星のように剣を取って弱き者の為に、正義の為に戦う。しかし彼女は自分がシモーヌの血を引くことと後に徳川幕府最後の将軍となる一橋慶喜の妹であることを全く知らなかった。

 

 

「やめろ!借りた金は返した!姉を離せ!」

「何を言うとるのや。ここに証文があるでぇ!お侍様、あんたの美しい姉上はもらっていきますでぇ!三治、国松、姫(ひい)さんを連れてけ」

「さ、作之助!あぁ、いやぁ!」

「な、何を、姉上に何をする!無礼であろう!」

 ここは鴨東、鴨川の東岸の三条通り、東海道であり京では大津街道とも呼ばれるその通りに面し、花街祇園にも近い古い旅籠(はたご)浦戸屋佐兵衛方。時刻は夜五つ半(午後九時)頃、痩せた若い侍と美しい彼の姉が悪徳な金貸しが差し向けた無頼漢三人と対峙している。    

二人は敵討ちの旅の途中、この京で病に倒れた。路銀が尽きたところを宿の主人にだまされ、法外な利息をとる金貸しから借金をしてしまったのだ。いや、借金はなんとか工面をし、返したはず。だが、その証文の金額は借りたときとは違い、何十倍にも膨らんでいたのである。

「そ、その証文は、に、偽物だ!」

「なんやてぇ!お侍様!なに言うてますのや!ここにあんたの姉上の名前が書いてあるやないか!この稲妻の乙吉さまが嘘をついとるとでも言うんか!三治お侍さまんい見せたりや!」

乙吉と名乗る四十歳くらいで中肉中背の無頼漢は文字通り雷のような大声で叫んだ。月代は綺麗にそってはいるが、顔は傷だらけだ。

 三治が持っていた証文、確かにそこには武家の娘らしい名前が書かれていた。「平松芳江」と美しい女性の筆跡でだ。

「ち、違います!その字は、わ、私ではありませぬ!さ、作之助!」

細面で切れ長の目が美しい芳江は叫んで否定をし、自分によく似た美男子である弟に助けを求めた。

 だが、作之助と呼ばれた弟は乙吉ら無頼漢に殴りつけられ、胸倉を掴まれた上に土間に叩きつけられた。さらに加勢に呼ばれたらしい浪人達に足で蹴られたのだ。浪人は三人いた。二人は総髪で髭が伸び、着物がぼろぼろのいかにも食い詰め浪人で、彼らは代わる代わる汚い足で病身らしい平松作之助を足と拳で痛めつけた。もう一人は講武所風の月代はきちんと剃られていたが、着物は長旅をしたかのように土と埃まみれだ。比較的身なりはきちんとしていたその若い浪人は美しき武家の娘、芳江が苦界地獄へと連れて行かれようとしているのを、ただ腕を組んで見ているだけだった。哀れな武家の女の運命は決まったかのようだ。

 だが、その時、笛の音が、旅籠に成り響いた。少し甲高いが悲しげで美しい音色だ。借金取りである乙吉ら無頼漢達は戸惑いの声をあげた。

「な、なんや、この音色は!」

 無頼漢の一人三治の手が緩み、芳江は土間の弟に駆け寄ってすがった。弟の作之助が姉を抱きしめて顔をあげ、天井を見上げたその時、ミシミシという音が天井から聞こえ,さらに砂のようなものがパラパラと落ちはじめた。

「二階、何かおるのか!」

 芳江を掴んでいた無頼漢の三治がそう言った時、ドドッと音がし、二階天井が抜け破れ、畳や柱、板、かまちなどが激しい音を立てて崩れ落ちてきて、無頼漢達、浪人達、平松姉弟の悲鳴があがった。落下してきたのは床、天井だけではなかった。人が、何者かが落ちてきたのだ。それもただの人ではない。男ではなく、女でもなかった。いや、普通の女ではない、という意味だ。暗い夜の家屋の中とはいえ、落ちてくる人影は女だと分かる。二階の窓から差し込む望月の光が照らしていたからだ。長い足、括れた腰つき、膨らんだ胸、そして長く伸びた髪は間違いなく女だ。外套、マントを身に付けていた女はそれを鳥の翼のように羽ばたかせて落ちてきた。

 だが、そのように肢体が、体つきの線がわかる裸体のような成りをしている女はこの京には、いや日の本には一人しか居ない。長く伸びた髪は黄金のように輝いて見え、落ちてくる勢いともに龍のようにうごめいていた。その女は半時(1時間)ほど前鴨川の三条大橋を馬で渡った女だ。

「わあああ、な、なんやあああ!」

「な、何が起こったのや!」

 無頼漢達と浪人の声が町屋に響いた。わけが分からない敵討ちの旅の武家の平松姉弟は事態を見守るしかなかった。

 そして「女」は落ちきていた板と共に一階の畳上に膝を曲げて着地すると舞い散る埃の中にゆっくりと立ち上がった。吊り行灯、壁際の蝋燭が彼女をかすかに照らす。女は珍妙な格好だった。

「鴨川のぉ 水面に映る星ひとつぅー・・・・・」

 女はそう歌を詠むと、鯉口を切る音がした。男たちは身構える。

「夜の暗さを 切り裂く輝きぃ!」

 歌い切った女は大刀を抜くと無頼漢の三治の髷を切り、ひるんだ彼から証文を取り上げた。大刀はすぐに鞘に収まったようだ。

 土間で姉を抱きしめる作之助は、破れた天井から差し込む月光と部屋の行灯の光で照らされた女を見た。女は右手で天井に向けた太刀の柄を握り、左手には証文を握りしめている。

(この女は剣士か。しかし、なんとも奇妙な身なり!)

と作之助は思った。

 銀色の星印☆が縫い込まれた頭巾を、作之助から向かって頭の左半分に被せている。頭の右半分は髷を結っていない栗色の髪が見えていて、襟足あたりで結び、腰の辺りまで伸びていた。髪は耳の前、もみあげのあたりから胸の辺りまで伸びてもいた。身に付けている装束は珍妙だが妖艶だ。濃紺の身体の線が露わになったその装束は胸乳の形を隠さず、鎖骨あたりから豊かな膨らみが形作る峡谷と白い肌を見せつけている。くびれた腰には藤色の小さな帯があって刀の鞘と脇差が挿されていた。不思議な装束の布地は足の付け根あたりまでしかなく、白いふっくらとしているようで筋肉質な太腿も丸見えだ。右膝は畳の上につき、左膝は天井を向いている。膝から下は黒い革の脚絆のようなものを着けていた。両肩は隠れている。なぜならば裏地が赤い、黒の外套を羽織っているからだ。奇妙な頭巾は後にベレー帽、装束はレオタード、革脚絆はブーツ、外套はマントと呼ばれるようになり、日本でも一般的となるが、勿論作之助は知るよしもない。

 だが、もっとも彼女を特徴付けるのはその白い顔の上半分を隠す目カズラのような紅緋色の仮面だろう。仮面は皮膚に張り付いているように見えて、その穴からは円らで凜とした瞳が見えている。鼻は高々とそびえ、その下の唇はなんとも艶っぽい。そして仮面に隠れていない額、頬、鼻、顎のあたりの肌は鎖骨辺り同様、雪のように真っ白だ。

(まさか女天狗!鴨川の女天狗、いや鴨川の星では?)

 

 鴨川の星は証文を持った左手を高く掲げた。黒い外套、マントが翻り、髷を結っていない長い髪も竜のように踊った。胸から腰の括れ、臀部から太腿に至る身体の線が破れた天井から差込む月光に照らされていた。

 仇(かたき)を求め、姉芳江と共に江戸を出て諸国を旅した末に京に入って一年ほどになる作之助だが、天狗とも呼ばれる義賊的な剣士鞍馬の黒椿と女天狗とも称される鴨川の星の噂は聞いていた。諸国から流入する浮浪浪士のため、京の治安は悪化した。徳川幕府の京都所司代、東西の町奉行所は無力化し、浪士達による天誅、攘夷御用金に名を借りた強盗などで無警察状態となった。また、癸丑(きちゅう)以来、つまり嘉永六年(1853年)のアメリカのペリー提督率いる黒船来航以後の開国、諸国との貿易開始による物価高で庶民達の生活は塗炭の苦しみに陥っていた。

 そんななか、天狗こと鞍馬の黒椿、女天狗こと鴨川の星は不逞浪士や盗賊らを成敗し、京雀たちは喝采をあげていたのだ。

(その女天狗が我らを助けに来てくれたというのか)

 仮面で素顔を隠しているとは言え、彼女は凜としていて美しく、作之助は事態を忘れて思わず見とれてしまった。そしてどこかで会ったような気もしたのだ。

(この声、どこかで聞いたような気がする。香の匂いも。誰だったのだろう?)

 女の仮面の下の瞳は凄みのある視線で無頼漢らを睨みながら力強いが気品のある声で叫んだ。

「鴨川の星、見参!」

「な、何をするんや!お、お前は鴨川の女天狗やな!」

「星!鴨川の星です。私は弱き者、正しき者を助け、夜の暗さを切り裂く為に銀の剣を振るう剣士です!」

 作之助の思うとおりだった。彼は震える姉を強く抱きしめて言った。

「姉上、もう大丈夫ですよ」

 仮面の女剣士は立ち上がった。背丈は高く五尺五寸(約165センチ)近くはあるだろう。

「そう呼びたければご自由に。この証文は偽物ですね。こちらの証文が本物のはず」

 そう言うと女天狗鴨川の星はマントの内側から文書を取り出し乙吉率いる無頼漢達に見せたあと、土間に座り込んだ姉弟に目配せした。作之助は姉と一緒に立ち上がって土間から畳上に駆け上がり、「本物の」証文を取ってみた。

「これだ!これです!本物だ。ここに書かれてある金額はきちんと返した。たしかに半刻(はんとき、約一時間)遅れはしたが・・」

 鴨川の星は作之助に優しく頷くと、彼から証文を受け取り、借金取りの無頼漢達に向いて言った。

「さあ、どうです?あくどい借金取りども!」

「ええい!それこそ偽もんや!かせぃ!」

 そう言って無頼漢の頭乙吉が飛びかかってきたのを鴨川の星は、刀の峰で右籠手を打った。同じようにかかってきた髷を切られた三治はマントを翻しながら右足で回し蹴りをして土間に突き落とした。痛みのせいか二人はうなり声をあげて動けなくなった。もう一人の国松は呆然としている。そして、鴨川の星は身体を屈めると蝋燭に偽の証文をかざして、燃やし始めたのである。土間に突き落とされた三治が叫ぶ。

「な、何をするんや!先生方、何だまって見ているんや!」

 鴨川の星の姿態に見とれていたかのような浪人達二人はハッとして土間から飛びかかってきたが、彼らが草鞋を脱ぎ、かまちにその右足がかかったとき、立ち上がった鴨川の星の剣に一人が右胴を峰打ちされ、もう一人は右首を打たれ倒された。鴨川の星の名、噂は京洛に轟き始めていたが、剣の腕は立つものの滅多に人は斬らないとのことだった。用心棒らしい浪人のうち二人は倒れ込んだが、もう一人の若い浪人は呆然として便所の戸に背中を付け動けなかった。

「さあ、ご両人、ここを出ましょう!あなた達は何もやましいことはありませぬ!」

「かたじけない。鴨川のめ、女天狗殿!」

「星!」

「星?」

「鴨川の星です!女に向かって天狗とはひどうございますわ!」

 決して怒っているわけではない。仮面の下で女剣士は微笑んでいた。彼女の身体からは橘の花の香りがした。

「さあ、立って、表に出るのです!」

 その時だった。鴨川の星が突き破って穴が開いた状態の二階天井から、影が飛び降りてきた。影は仮面の女剣士の右肩甲骨をマント越しに蹴りつけた。

「きゃぁ!」

とっさのことでわけがわからない鴨川の星は悲鳴をあげて畳の上に倒れこんだ。倒れる寸前に身体をひねって受け身をしたが、持っていた大刀を落とし、拾い上げることなどできなかった。さらに、畳の上には二階から落ちてきた折れた柱があり、そこから飛び出た釘で右の太ももが切れ、程なく赤い血が流れはじめもしたのだ。

鴨川の星は上体を起こし、周囲の状況を見極めようとした。両肘をつき、右膝を上にあげ、左脚は伸ばされている。‘’レオタード‘’とブーツとの間の白い太ももに居並ぶ男達も同じ女である芳江も一瞬見とれた。

「な、何?」

 鴨川の星が顔を振り上げた時、影が再び飛んできて彼女に覆いかぶさってきた。

「おのれ!どこからっ!あぅ!」

 影は六尺(180センチ)余りの長身でやせ型の町人風の男だった。謎の男(おそらく無頼漢の仲間なのだろう)は、鴨川の星の首を絞めつけ始めた。女剣士は男の絞首する手を放そうともがくが、思うに任せない。

 

(なんて強い力なの?だめ、このままでは負ける!)

仮面の下の瞳を閉じ、鴨川の星ことお星が覚悟をした。

水戸徳川家の勘定吟味役平松兵助の長男である作之助と長女芳江。五年前、江戸の上屋敷の廊下で二人の父兵助は、小納戸役の山上軍兵衛に斬殺されたという。山上は事件の後出奔し行方不明。作之助と芳江は敵討ちのため諸国を歩き回った。

 半年ほど前に山本が京にいるとの情報を得て入洛したらしい平松姉弟だが、長年の旅で作之助は病にかかり、寺町錦小路上ル円福寺前町の路上で倒れてしまった。

「どないしはりましたん」

 たまたま通りがかったお星、円福寺前町の花屋であり薬屋でもある楼蘭堂の女主人は作之助と彼の背中をさする芳江に駆け寄ったのだ。お星は作之助と芳江を店に招き入れると

二人から身の上話を聞いた。

「まあ、えらいことどすなぁ」

お星はそう言ってミセの畳に腰掛ける作之助芳江姉弟に嘆いたのだ。反対側の壁の前にはたくさんの木桶が並んでいて、菊の花が一輪あった。外では入相の鐘が鳴り、日没が近いこともあり、店はもうしまいだ。

お星から見て作之助は病気で頬がこけてはいるが、凛々しい若侍だった。そして姉の芳江は切れ長の目が涼しいが艶っぽい武家の女だった。お星は作之助の視線に気づくと彼に言った。 

「ほやわぁ、ちょぼっと待っておくれやす。屯太、お茶出してあげておくりゃす」

お星はそう言うと、草履を脱いでミセに上がった。ミセの奧は薬の棚がある。楼蘭堂のもう一つの顔、薬種商として欠かせないものだ。お星はそこの引き出しを幾つか開け閉めをした。薬の売買と管理は、三条西洞院で薬種商那賀川屋を営む多助に任せてある。多助はお星の養父下川楼蘭が営む旧楼蘭堂の運営をかつて手伝っていた。多助が派遣する手代は朝から昼過ぎまでしかいないが、お星も薬の知識は持っている。

「あったわぁ」

そう言ったお星は、薬を袋に入れて戻り、正座をしてそれを作之助に差し出した。

「お侍さま・・」

 そういえばまだ名前を聞いていなかったお星。

「作之助、平松作之助!」

「作之助さま、この薬を、朝、昼、晩と飲んでおくれやす。お代は、仇討ちが終わらはったら、考えまひょ」

お星が与えてくれた薬が効いたのか作之助の病は快癒しつつあった。作之助と芳江は、旅籠の浦戸屋から時々やってきた。楼蘭堂がある寺町錦小路上ル円福寺前まで歩いて小半刻(約三十分)かかるかかからないかだ。お星は借金をし、法外な利息と取り立てに悩む姉弟の相談に乗ってやった。なんでも二人の周りには女衒(ぜげん)も現れていて、美しい芳江は狙われているようだった。

瓦版の制作と販売をする読売の修郎から聞いた情報では、いよいよ芳江の身に危機が迫っているらしい。なんでも偽の社借金証文で脅されているとか。そもそも姉弟が泊まり続けている旅籠浦戸屋にはあまりいい噂はない。仇の相手が大津にいるらしいという情報を得て、旅立とうとする作之助たちを引きととどめているという。何かあるだろう。

そして、お星の幼馴染であり、寺町の東林寺での寺子屋の雇われ師匠をしている富山美蘭が平松兄弟のものらしい証文を拾ったといって、持ってきてくれた。

「おおきに、美蘭先生!これであの二人が助かりますぇ」

それを持ってお星は鴨川も星となって、白馬の白梅を駆ってここへ駆けつけたのだが・・・

 

作之助は町人風の謎の男に倒され、彼に覆い被されただけでなく、首を絞められている鴨川の星を見て小刻みに震えていた。それが抱きしめていた姉芳江には分ったようだ。芳江は小声で言った。

「さ、作之助、鴨川の星殿をお助けするのです!」

「しかし、姉上・・・」

「鴨川の星殿は私たちを、命をかけて助けようとしてくれています。この京で私と貴方は助けられてばかり」

「それはお星さんたち・・」

「そうです。今こそ人々の恩に報いるのです!」

 作之助は押し倒されてもがいていた鴨川の星の長い脚の白い太腿を見やった。右の腿からは血が流れ続けている。ふっくらとはしているが筋肉が引き締まったそれは段々動きが緩慢になってきているではないか。

(このままでは鴨川の星殿の命が危ない。どうすれば・・)

 

 水戸徳川家の勘定吟味役平松兵助の長男である作之助。五年前、江戸の上屋敷の廊下で父兵助は小納戸役の山上軍兵衛に斬殺されたのだ。山上は事件の後出奔し行方不明。作之助は姉芳江とともに敵討ちのため諸国を歩き回った。

 半年ほど前に山本が京にいるとの情報を得て入洛した平松姉弟だが、長年の旅で作之助は病にかかり、寺町錦小路上ル円福寺前町の路上で倒れてしまった。花屋であり薬屋でもある楼蘭堂の女主人お星が親切にしてくれたのだ。お星は作之助と芳江を店に招き入れると

二人から身の上話を聞いた。

「まあ、えらいことどすなぁ」

お星はそう言ってミセの畳に腰掛ける作之助芳江姉弟に嘆いた。反対側の壁の前にはたくさんの木桶が並んでいて、菊の花が一輪あった。外では入相の鐘が鳴り、日没が近いこともあってほとんど売り切れたのだろうか。

話をし終わってから、作之助はお星の立ち姿に見ほれた、

お星はこの時代では大柄な五尺五寸ほどの若い女で、栗色の髪を島田に結い、浅緑色に桜の花が描かれた黒襟の小袖に前掛けをしていた。嫌味のない艶やかな雰囲気を出す娘は、目は大きくて涼しく、鼻は高い、口は小さく紅玉色で下唇が少し出ているが、浮世絵に描かれるような美顔だった。

「ほやわぁ、ちょぼっと待っておくれやす。屯太、お茶出してあげておくりゃす」

お星はそう言うと、草履を脱いでミセに上がった。ミセの奧は薬の棚らしいものがあり、お星はそこの引き出しを幾つか開け閉めをした。

そうしている内に嫁隠しの暖簾をかき分けて、蓬髪姿で団子鼻に目が小さい年が盆を持って出てきた。彼が屯太なのだろう、

「ほれ、お侍様、お姫様、お茶やで。お星ちゃんにまかしといたええわ」

芳江は頭を下げて屯太に礼を言ったが、作之助は薬を探しているらしいお星の姿をジッとみつめていた。

「お侍さま、お星ちゃんに見とれてはるんか?」

「な、何を!私は・・」

「しゃあないわ。お星ちゃんはべっぴんはんやさかい」

暫くすると、あったわぁと言ったお星は、薬が入っているらしい袋を持ってきた。正座をしたお星はそれを差し出した。

「お侍さま・・」

「作之助、平松作之助!」

「作之助さま、この薬を、朝、昼、晩と飲んでおくれやす。お代は、仇討ちが尾終わらはったら、考えまひょ」

 お星の身体からは橘の花の香が匂った。上品な香りだった。

お星が良く効く薬を与えてくれてから、作之助の病は快癒しつつあった。お星は借金をし、法外な利息と取り立てに悩む姉弟の相談に乗ってもくれた。その親切なお星と鴨川の星の姿が重なったのである。

 女剣士の脹脛を守る黒長靴の側には反りが少ない大刀が転がっていた。彼女が押し倒されたときに思わず落としたものだ。作之助は姉をそっと離すと立ち上がった。鴨川の星に乗りかかっている男は、女剣士の苦しむ顔と膨らんだ胸に夢中のようで若き侍に気がついていない。

 手を伸ばして大刀の柄を掴んだ作之助は畳上に上がると、男の右肩に女天狗の剣を突き刺した。作之助が男に気づかれないように無言で切っ先が男の肉をえぐったとき、彼が絶叫をあげた。

 

仮面の下の瞳を閉じ、鴨川の星が覚悟をしたとき、その長身の男が絶叫し、手の力を緩めた。鴨川の星が落とした大刀を作之助が拾い、長身の男の肩に刺したのだ。

 鴨川の星は下半身に力を入れ、膝で男の股間を蹴り上げた。そして脇差を抜くと、男の右手首から先を切り落としたのである。男は股間の痛みと手を切り落とされた痛みで絶叫し、土間の三和土(たたき)に転がり落ちた。

五助!と乙吉は叫んだ。やはり二階から飛降りてきた男は稲妻の乙吉の手下なのだろう。五助は痛みに耐えかねて失神した。

「作之助様、ありがとう。危ないところでした」

 女剣士は作之助から大刀を受け取りながら言った。

「さあ、行きましょう!」

 鴨川の星女天狗は二人を促し、証文を投げつけると鰻の寝床を呼ばれる狭い土間を走った。事態を見守っていた金貸し屋の手代らしい若い男とグルで姉弟を陥れようとした宿の主人佐兵衛らしい老人を突き飛ばし、台所、帳場を通り、外に出た。東海道でもある三条通りには野次馬がたくさんいて、女剣士の仮面の下の瞳は驚きで大きく見開かれた。

「あぁ、あれが鴨川の女天狗やでぇ!」

「鴨川の星やなかったか。なんやあのかっこうは!」

「ええ女やないか!」

 野次馬達の声と視線を美しい肢体全身で感じながら、鴨川の星が指笛を吹くと、立派な体躯の白馬と栗色の馬が西のほう、三条大橋の方向から駆けてきた。彼女の愛馬の白梅と紅梅である。野次馬達がさっと引くと鴨川の星は白梅の馬勒(ばろく)をとらえて向きを元の東のほうに向けた。紅梅にはぼさぼさの蓬髪頭に団子鼻の少年頓太が乗っていて、どうどうと言いながら馬の向きを変え、白梅と並ばせると飛び降りてきた。

「だんとん!ご苦労様!」

「お安いごようやで!おせ、いや、鴨川の星!」

 

 女天狗こと鴨川の星は、若い武家の姉弟を栗色の馬に乗るよう促した。そして自分は白馬に乗り、だんとんと呼ばれた少年屯太を前に乗せた。

「屯太殿ではないか!何故、一体?」

「へへへ、鴨川の星の手伝いをしているんや、お星ちゃんにはないしょやで!」

「さあ、作之助様、このまま一気に江州大津へ向けて走ります」

「大津?」

「そうです。あなた方の仇、山本軍兵衛がそこにいるのでしょう?」

「な、何故それを・・・」

「作之助様!馬は大丈夫ですね?芳江様、しっかりなさって!」

 病身らしい若侍作之助と苦界へ落ちそうになった姉芳江を気遣う鴨川の星の言葉は力強いがどこまでも優しかった。

「も、勿論。これでも祖先を甲州(今の山梨県)武田騎馬隊に持つ平松家の跡取り!」

 作之助は芳江を紅梅に乗せ、自分はすぐその後ろに乗るや小柄な姉を抱きかかえるように手綱を取った。

「頼もしや。さすがです!」

「鴨川の星殿、なんとお礼を言って良いか!そう、花売りの楼蘭堂のお星殿にもお礼をいわねば・・」

 花売りのお星とは京の寺町通に店を構える花屋であり、薬種商でもある楼蘭堂の女主人だとは先述した。お星(せい)こと下川星(しもかわせい)は仮面の女剣士鴨川の星の正体だが、それを知る人は京ではほんの一握りだ。

お星は病身の二人と知合い、手厚く世話をし、良い薬を与え、借金の相談にも乗り、さらに平松姉弟の仇である山本軍兵衛が大津にいることもどういう伝手(つて)があるのか知らないが、探して突き止めてくれたのだ。

「芳江様、時がありませぬ。さあ、行きましょう!お星殿には私から伝えておきます」

「お星殿とお知り合いなのですか?」

「ええ、今日のこともお星殿からくれぐれもよろしくと頼まれたのです」

 鴨川の星がそう言ったとき、浦戸屋の出入り口に先ほどの浪人達のうち、彼女が討たなかった若い男がふらふらと出てきて、刀に手をかけた。馬上の女天狗はマントの裏側から菊の花を取るとそれを彼の手元に投げつけた。若い浪人は情けないことに思わず大刀を落としてしまった。

「旅の浪人!あなたに私は斬れませぬ。国に帰って論語でもそらんじておきなさい!」

 その浪人の名は猪口弥二郎と言い、この日の前日に発足した会津藩預り壬生浪士組、このあと京の事実上の治安警察となる新選組に数日後に入隊し、鴨川の星と刃を交えることとなるが、それはもう少し先のことだ。

また、女衒の乙吉、三治、国松らともまた相まみえることになるのだが、それも今の女剣士は想像もできないことであった。

野次馬達が二頭の馬の周りを取り囲み、なかには鴨川の星の傷ついた太ももを触る輩もいたが、何とかかき分けることができた。

 「さあ、行きましょう。白梅!行って江州大津へ!」

そう叫ぶと、よ、天晴れ鴨川の星!との掛け声が聞こえた。読売の修郎だ。

 白馬と栗毛の馬は力強く嘶(いなな)くと三条通りを、いや東海道を東に駆けだしていった。平松姉弟の仇がいる琵琶湖のほとりの大津へと向かって。

 

 江州(近江国)大津は東海道五十三番目の宿場町である。幕府の直轄地でもある大津は北国街道と東海道の分岐点で、北陸諸国などとを結ぶ湖上交通の拠点でもある。かつては大津百町とも呼ばれた賑やかな街であったが、北回り航路の発達、井伊家の彦根との物流を巡る争いでその地位は低下していた。それでも徳川幕府にとっての重要な港町、宿場町であるこに変わりは無い。

そこに平松作之助とその姉芳江の仇である山上軍兵衛がいるという情報は、女剣士鴨川の星=楼蘭堂の女主人お星が黒姫の吉兵衛なる男から得ていた。勿論、お星はそのことを平松作之助と姉の芳江には伝えてある。吉兵衛は天狗こと鞍馬の黒椿こと倉田典膳の忠僕であるが、お星の為に働くことも惜しまない男であった。

 鴨川の星と屯太を乗せた白馬の白梅、平松姉弟を乗せた栗毛の馬の紅梅が大津に着いたのは亥の下刻夜四つ半(午後十一時位)であり、人の往来はほとんど無く、街は静まりかえっていた。

 札の辻と呼ばれる大津代官所の高札が立つ辺りで鴨川の星は屯太と共に馬を下り、平松姉弟も続いた。現代の大津では自動車二台分とともに京阪電鉄京津線の複線の線路が走る広い道だが、この時代は四間(約7.2メートル位)ほどの幅しかない。

 七十軒程の旅籠の一つ、美濃屋吉兵衛方の前で鴨川の星は止立ちどまり、作之助に振り返った。

「山上軍兵衛、ここに止まっているはずです。作之助様、良いですね」

 作之助と芳江は縦書きの旅籠の看板を見上げた。一階は暗かったが、二階の障子はほのかに行灯らしい明かりが灯っていた。

「ここに我が父の仇が・・・」

 鴨川の星は頷いた。仮面の下の涼しい瞳が輝いたような気がしたとき、女剣士は向き直り美濃屋の戸を叩いて叫んだ。

「夜遅うにすんまへん!あけておくりゃす!」

 作之助と芳江は鴨川の星がいきなり京言葉を口にしたことに驚き、目を見合わせた。単に京言葉だったからではなく、その話し方、声質も楼蘭堂の女主人お星にそっくりだったからだ。

「へいへい、今開けまっさかい待っておくれやす」

 しばらくして主人の吉兵衛らしき声、閂を外す音がして戸が開いた。五尺あるかないかくらいの主人の目は驚愕で大きく開いていた。恐らく彼は宿の客が呼んだ芸妓が来たと思ったのだろうが、目の前にいるのは仮面の女剣士だった。

「あ、あんさんは、も、もしや、か、鴨川の星!女天狗!」

 京の隣の大津でも天狗鞍馬の黒椿や女天狗鴨川の星の活躍は瓦版や噂話でよく知られていたから、その珍妙な身なりですぐに誰かが分かった美濃屋吉兵衛である。

「お察しのとおり、鴨川の星です。ここに水戸の徳川中納言様元家臣山上軍兵衛殿がおられますね。通していただきましょう」

「そ、そんなお客はお、おらんけどなあ・・水戸様の家臣やなんて・・」

「いえ、今は房州(安房国・今の千葉県)浪人上山某と名乗っているはず!」

「し、知らんて、そんな侍は、いやお武家様はお、おらんがな」

 京で噂の女剣士の奇妙ではあるが妖艶な成り、京言葉ではなく江戸の武家の女のような声にあわてふためいている。

「お、おらんて、上山助平などという、さ、お侍さまは、お、おらん!」

 主吉兵衛は二階に向かって叫んだ。

 

「二階ですね!」

 二階に向かって叫んだ吉兵衛を突き飛ばした鴨川の星はマントを翻して中に入り、美濃屋の一階を抜け、鯉口を切って奧の裏階段を土足のままで駆け上がった。

「何事だ!」

 吉兵衛の絶叫を聞いたのか障子が開き、総髪に髭面の細い身体の浪人が出てきたようで階段の上から鴨川の星を見下ろしているのが見えた。着流し姿で帯に脇差しを挿していた髭面の浪人は、紅緋色の仮面の女剣士が駆け上がってくるのに驚き中に入ったが、すぐに大きな物音がした。その浪人は酒の銚子や料理の皿が載った膳に躓いて前に倒れ込んだのだった。

 障子を全開にして中に入った鴨川の星は大刀を抜き、切っ先を男の喉仏に向けた。

「ひいい、な、何者だ、女のくせに無礼であろう!」

「水戸徳川家元家臣山上軍兵衛殿ですね!私は鴨川の星、名前くらいは聞いたことがおありでしょう」

「お、お前が女天狗鴨川の星!」

 山上の視界には鴨川の星の白いふっくらとはしているが筋肉質な太もも、鼠径部から上の肌を隠す濃紺の不思議な装束、括れた腰つき、裏地が赤い黒のマントが入った。続けて彼が顔を上げると彼女の膨らんだ胸乳、白いデコルテが、続けて上半分を真紅の仮面に隠された細い顔が目に入った。仮面の下の瞳は怒りと蔑(さげす)みに燃えていた。

「貴方が斬った平松兵助の息子作之助殿と娘芳江殿が下でお待ちです」

「ひいい!」

 叫んだ山上はさっと後ろに下がると起き上がり、裾を帯に挟むと障子を倒して隣の部屋、廊下へと飛び出した。

「しまった、お待ちなさい!」

 山上は東海道に面した二階の部屋に入ると、酔いつぶれていた商人らしい男と女を突き飛ばし、障子を破って外へ飛び出した。いや、飛降りたと言った方が良いだろう。うめき声をあげ、足をくじいたらしい山上が顔を上げると、そこには平松作之助と芳江が立って彼を見おろしていた。

「ああ、やはり、山上軍兵衛!」

「つ、ついに見つけましたわ!」

 作之助と芳江が叫んだ時は、鴨川の星が二階から飛降りるところだった。彼女は勿論足をくじくようなことはなく、着地するや否や右に握っていた大刀で山上の髷を切り落とした。山上は悲鳴をあげた。

「さあ、山上軍兵衛!作之助殿と勝負なさい!」

 右膝を地に付け、左膝を空に向けている女剣士は大刀を構えたまま叫んだ。

「山上軍兵衛!勝負しろ!」

 作之助は帯に挿していた脇差を抜いた。大刀を挿していたのだが、中は竹光であった。

借金を返すため、姉を苦界地獄へと落とさないため金に換えてしまったのである。脇差は二人の父兵助の形見で一尺八分(約32.7センチ)の堀川国広だった。

 山上は両手を地に着き、髷を切られた無残な姿で両手をついて作之助と芳江を見上げた。その時どこからかドンドンと太鼓の音が夜も更けた大津の街に響き始めた。

 

 太鼓の音はいつの間にか姿を消していた屯太のものだった。団子鼻の少年はどこからか太鼓を探してきてドンドンと打ち始めたのである。

「さあさあ。お立ち会い!今から敵討ちがはじまるでえ!みんな見届けやあ!」

 太鼓の音と屯太の叫びで、大津宿の旅籠、家々の灯りがつき、人々が二階の障子を開けたり、戸をあけて出てきたりした。人々は若い武家の姉弟と彼らの前にひざまずく落ち武者のような浪人、そして珍妙な格好の仮面の女剣士に驚き、ざわつき始めた。

「山上軍兵衛殿、これで逃げも隠れもできませんね。さあ、勝負をするのです!」

「山上!立て!立って帯の脇差を抜け!」

 太鼓の音が止み、作之助がそう言った時、山上はいきなりすすり泣き始めた。作之助の脇差の切っ先が突然の事に揺れた。

「す、すまぬ!お主らの父を、平松殿を斬ったこと、この山上軍兵衛、ずっと悔やんでおった。本当にすまぬ。拙者は逃げも隠れもしない。江戸へ戻り、裁きを受ける。だから命だけは、命だけは助けてくれぬか!」

 作之助の脇差しがどんどん下がっていく。

「作之助様、何をしているのです!さあ、早く!」

「作之助、早くするのです!」

 鴨川の星と芳江が叫ぶも、作之助は脇差しを落とした。そして言ったのだ。

「父の敵とはいえ、命乞いをするものを斬れぬ!」

「作之助!ゆ、許してくれるかあ!」

 そう叫んで山上は若き平松家の跡取りににじり寄り、膝を掴んで彼を見上げた。その表情は泣き顔から笑顔に変わりつつあった。作之助が頷いたとき、山上は突然叫んだ。

「甘いわ!父に似ておるのお!」

 山上は落ちていた堀川国広を拾うや、作之助を突き飛ばし、立ち上がって芳江の元へ駆けだした。そして彼女の首を左腕で掴むと脇差の切っ先を芳江の首筋にピタリと付けた。

「ああ、芳江さま」

「姉上!」

「ふふふ、馬を用意せい!俺は捕まらぬぞ。まだまだ、やらねばならぬことがあるのだ!

皮肉なものよのう、この脇差はお前らの父平松兵助の形見であろう!鴨川の星とやら、お前も刀を置け!」

「作之助!鴨川の星殿、私のことは構わずこの男を討ちなさい!」

 作之助の油断が危機を招いてしまったのだ。

 

 鴨川の星は自分の油断を悔いたが、今は芳江の命が第一だ。あきらめて大刀を捨てた。ちなみのその反りの少ない大刀はお星の養父下川楼蘭の形見で陸奥守吉行二尺三寸(訳71.1センチ)である。

「おい、鴨川の星、お前、女のくせに馬に乗ったな、貴様の馬をよこせ!」

 鴨川の星は頷くと指笛を吹き、愛馬白梅を呼んだ。白梅は琵琶湖の方向からゆっくりと歩いてきた。良い馬だ!と山上が叫んだ時、一瞬隙が出来た。鴨川の星はすかさず留め具に手をかけ、マントをとると、山上と芳江のほうへと投げつけた。

 バサッと言う音とともに舞い上がったマントを山上は思わず見上げた。その隙に鴨川の星は大刀陸奥守吉行を拾うと山上の右手首に思いきり突き刺した。

「ぎゃああ!」

髷を落とされた髭面の浪人の絶叫と共に堀川国広が落下し、鴨川の星はそれを掴んで作之助へと投げた。女剣士は立ち上がると、山上の右胴を峰打ちし、ふらふらと倒れかけた芳江の身体を支えて叫んだ。

「今です!作之助殿!父上の仇をその形見で!」

 作之助は頷くと飛んできた堀川国広の柄を握り、倒れ込んだ山上軍兵衛にその切っ先を向けた。

「うわあああああああ!」

 そう叫ぶと作之助は山上に飛びかかり、彼の頸動脈を斬った。血がほとばしった後、死体となった水戸徳川家の元家臣は倒れ込んだ。

「お見事!作之助殿!見事仇を取りましたね!」

 最初は信じられないと言った表情の作之助だったが、頷いて鴨川の星に微笑んだ。

「作之助!」

 鴨川の星から離れた芳江は愛する弟に掛けより、見つめ合った後父の敵を見おろした。大津宿の人々の歓声が暗闇に響く。落ちていたマントを拾った鴨川の星はバサッという音をたててマントを羽織り、赤い留め具をかけた。屯太が駆けてくると鴨川の星は大刀を鞘に納め優しく微笑んだ。

「やったな、鴨川の星!」

「ええ屯太、これにて一件落着ね」

 鴨川の星と屯太は抱き合って嗚咽する平松姉弟を見つめた後、夜空を見上げた。

 

 

 三日後の朝、寺町錦小路の辻を二軒分上がったところにある町屋、そこには「花卉薬種取扱ひ楼蘭堂」なる看板が掛けられている。かつて町医者下川楼蘭が医術所兼薬種屋として開いていて、花をも少し売っていたのだが、五年前の安政五年(1858年)に押込み強盗で妻倫とともに命を落とし、閉鎖されていたのを、昨年文久二年(1862年)春に生き残った娘お星によって再開されたのだ。

 楼蘭堂からは大店のご隠居といった風情の客が、木桶にたくさんの花をいれて上機嫌で出てきた。続いて暖簾をくぐって来たのは若い美しい女だ。

「そしたら、お星はん、また来ますよって、よろしゅうおたのもうします」

「ご隠居はん、おおきに!こちらこそ、おたのもうします!また来ておくれやす!」

 元気な声で客を送り、寺町錦小路の辻の雑踏に客が消えるのを確かめると、お辞儀をしていた女は体を起こした。

 この時代では大柄な五尺五寸ほどの女は、栗色の髪を島田に結い、浅緑色に桜の花が描かれた黒襟の小袖に前掛けをしていた。嫌味のない艶やかな雰囲気を出す娘は、目は大きくて涼しく、鼻は高い、口は小さく紅玉色で下唇が少し出ているが、浮世絵に描かれるような美顔だった。

「お星ちゃん!瓦版やで!大津の仇討ちが書いてるで」

 ご隠居が消えた方向から団子鼻の少年が駆けてきた。

 娘の名は、お星。この楼蘭堂の主であった医師下川楼蘭の娘、下川星である。数え十八歳の娘盛り。いまは楼蘭堂の女主人である、いや寺町通りの看板娘とも言われていた。

「あ、お星ちゃん!一緒に読もうな!」

 少年の名は、屯太。身長は三尺五寸(106センチ位)、団子鼻が特徴で周囲からはだんとんと呼ばれていた彼は、瓦版を取り上げたお星に文句をつけた。

 同じ町内に住む読売の修郎が書いた瓦版は大津での平松作之助による敵討ちが、名前は変えてあったが書かれていた。そして女天狗鴨川の星が助太刀したことを誇らしく書かれていたのだ。

 父下川楼蘭は元々は水戸徳川家家臣の家に生まれた。言わば同じ家中の者の仇討ちをお星は鴨川の星として助けたのだった。

(よろしおしたどすなあ、作之助様、芳江様。あてもいつかは父の仇を討たねば・・・)

 父楼蘭と母倫を殺した押し込み強盗の行方は未だに分らない。お星が鴨川の星として剣を取って闘う理由の一つは、いつか父母の仇を取ることでもあったのだ。

 お星は瓦版を屯太に渡すと、店の暖簾に手をかけ、振り返った。

「屯太!何をしてますのや。いそがしくなりますえ」

 お星は満面の笑みで言うと、店の中に入った。それを屯太が追う。

「ま、まってえな!お星ちゃんひどいわ!」

 京の空は今朝も晴れ渡り、鳶が一羽ゆうゆうと飛んでいた。

 

それから十日後、徳川幕府おひざ元の江戸。徳川御三家の一つ水戸家の中屋敷は本郷にある。その屋敷の一室にいるのは水戸家の姫だ。

「姫様、月姫さま!」

 侍女である向島(むこうじま)が入ってくると、月姫と呼ばれた女は文机に向けていた顔をあげた。月姫は徳川斉昭の娘月子である。月子は栗色の髪を高島田に結い、赤色に白い桜の葉が描かれた着物を着ている。嫌味のない艶やかな雰囲気を出す月姫は、目は大きくて涼しく、鼻は高い、口は小さく紅玉色で下唇が少し出ているが、浮世絵に描かれるような美顔だった。

「向島、何があったのじゃ」

 向島は月姫の前に座ると、話し出した。

「当家の元勘定吟味役平松兵助の長男作之助と長女の芳江が江州大津で見事敵討ちを、本懐をとげたとのことでございます」

「平松兵助、屋敷内で山上軍兵衛に斬られたのじゃったな」

「左様でございます。諸国を放浪すること五年、ようやく、ようやく」

「めでたい話じゃな」

 月姫はそう言うと立ち上がった。彼女はこの時代では大柄な五尺五寸(約165センチ)で、それが数えで十八になっても嫁ぎ先が決まらない理由の一つであった。

「ですが、姫様、実は平松姉弟は助太刀を頼んだそうでございます」

「聞いておる。京で噂の仮面を付けた女剣士であろう?鴨川の・・・」

「め、女天狗!鴨川の女天狗でございます。姫さま何故それを?」

「向島!」

「はい、姫様」

「星!」

「星?」

「女天狗ではなく、鴨川の星だそうじゃ。この瓦版に書いてある!」

 月姫は瓦版を向島に渡した。

「これを、どこで?」

「お美兎にもらったのじゃ」

「美兎!まあ、またあのような者にお会いになられたのですか?」

 美兎は元々徳川宗家の御家人波多野家の娘であったが、家が没落し、今は水戸家の密偵のような仕事をしていた。表むきは江戸の下級娼婦夜鷹の元締めである。京にはお里須なる下級娼婦辻君をしている妹がいて、情報源の一つであった。彼女から京の情報は逐一送られてきていたのである。

「向島!一度平松作之助、芳江に会って労ってやりたい。想像を絶する苦労をしたであろう。それと京での話、鴨川の星の話、聞いてみたいものだ」

 もし平松作之助と芳江が月姫に会えば驚愕するであろう。月姫は平松姉弟が世話になった、女剣士鴨川の星の昼の顔、花卉薬種商楼蘭堂の女主人お星に瓜二つであったからである。

「それと兄上、一橋中納言慶喜さまの活躍も聞いてみたいものじゃ」

 お星は徳川斉昭の娘として生まれ、下川楼蘭の養女となった。そして双子の姉である月姫もある家臣の養女となったが、成長して水戸家に引き取られたのである。

「鴨川の星、会ってみたいのお」

 月姫も京に妹がいることは知らないのであった。

 京では何も知らないお星が花屋として、仮面の女剣士鴨川の星としてこれからも活躍を続けることとなる。

おわり

 

La Légende de Étoile de la Seine au Japon.

Elle s’appelle Étoile de la Kamogawa=Une femme Tenguh.

“Vengeance”

FIN

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。