幕末のラ・セーヌの星 鴨川の星 快傑女天狗   作:koh1968

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ある古老が鴨川の星を回想します。
女剣士の新選組との闘いもあります。
よろしければおつきあいください。


追憶の鴨川の星

La Légende de Étoile de la Seine au Japon.

Elle s’appelle Étoile de la Kamogawa=Une femme Tenguh.

``Souvenirs de l’épéiste masqué``

 

 時は幕末

 暁の星が輝き、空が白みかけてきた頃、旅の一座「星の空豆一座」の一員である少年は目が覚めてしまい、彼らが分宿していた山城国乙訓(おとくに)郡久世(くぜ)村(今の京都府京都市南区)の集落の中心にある、庄屋の屋敷の井戸で顔を洗っていた。

 久世村は現在JRの東海道新幹線や在来線の東海道本線、名神高速道路や国道が走っていて、住宅や工場が立ち並んでいるが、幕末当時は一面が田畑であった。

「また、つらい一日がはじまるでぇ・・」

 そう言って少年が憂鬱になっていた時、遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。彼が屋敷の蔵の横を通って門を出て西国街道のほうに駆け寄ると、白馬が乙訓(おとくに)の山並みを背景に駆けてきているのが見えた。それも乗っているのは女だ。長い栗色の髪、裏地が赤い黒のマントが後ろになびいている。

「ひょっとしたら・・」

と少年が思うと白馬はみるみる近づいてきた。そして馬上の女が手綱を引くと、逞しい白馬は棹立ちになって嘶(いなな)き、走るのをやめて、屋敷の前を歩き出した。

「め、めてんぐ、か、かもがわのほしや!」

 少年は思わず叫んだ。どうどうと言って馬をなだめる鞍上の女剣士とまだ七歳だった少年は目が合った。目かずらのような紅緋色の仮面はしていたが頷いた彼女は微笑んでいるのが彼にはわかった。

 女天狗こと鴨川の星は青いかきつばた色の銀の星印が縫われた頭巾、裏地が赤い黒の外套(マント)を身につけていた。濃い栗色の髪は後ろの首のあたりで紫色の小さな帯で結ばれていて腰の近くまで、前は胸のあたりまで伸びている。

 そして彼女が身につけていた装束は、紺桔梗色で長袖の後にレオタアドと言われる、胸や腰など身体の線が露わになっている装束で、少年は思わず赤面した。

 顔から喉元、鎖骨、双の乳房の谷間あたりまでが雪のように真っ白、レオタアドの下の胸乳は豊満で、それでいて団栗の先端のように形がよくて膨らんでいて、左右のそれが形作る谷間は深かった。馬にまたがる長い両足、そのふっくらとした白い太ももにも少年は目を奪われた。膝から下は黒い革長靴に覆われていて、つま先は鐙(あぶみ)にかかっていた。腰には藤色の紐があり、そこには朱鞘の反りが少ない大刀と脇差が差し込まれていた。

夜が明けるまでに洛中に戻りたい、と女天狗鴨川の星は考えていたが、空が白みかけ、瞬く星が少なくなってきてそれも厳しいそうだ。愛馬白梅も心なしか元気がなくなってきていた。馬は久世村にさしかかり、見えてきた庄屋の屋敷から人影が飛び出してくるのが見えた。恐らく子供だろう。

鴨川の星が手綱を引くと、逞しい白馬は棹立ちになって嘶(いなな)き、走るのをやめて、屋敷の前を歩き出した。

「め、女天狗、か、鴨川の星や!」

 少年が叫んだ。どうどうと言って馬をなだめる鞍上の女剣士と少年は目が合った。目かずらのような紅緋色の仮面はしていたが頷いた彼女は微笑んでいるのが彼にはわかったはずだ。

 

「馬に水を飲ませたいのです。よろしいかしら?」

 力強いがとても色っぽい声、武家の女のような口調で鴨川の星は少年に言った。屋敷の中にも井戸はあったが、親方に怒られるかもしれぬし、庄屋にも悪い気がした少年は、そばに建っている百姓の家の前の井戸を指さした。

 鴨川の星は下馬すると百姓の家の庭まで手綱を引いて、息を吐いて疲れ切っていた白馬を井戸のそばまで連れて行った。少年は思わず追いかけ、追い越し井戸の釣瓶を引いて水をくんでやった。

「ありがとう、助かります」

 少年が彼女の言葉にキョトンとすると、女剣士はこう優しく言った。

「おおきにぃ、すんまへんなぁ」

 先ほどの武家言葉と違って祇園の芸妓が話すような京言葉で改めて言われた少年だったが、礼を言われても彼は首を縦に振るのが精一杯だったようだ。鴨川の星が白馬の顔を撫でていたわりつつ、水を飲ませていると、胸の膨らみ、腰の括れ、ふっくらとした太腿などに少年の視線を感じた。

 謎の正義の仮面の女剣士鴨川の星、そんな彼女を特徴づけるのは、細く長い白い顔の上半分を隠す紅緋色の目かずらのような仮面だ。仮面の下には澄んだ円らで凛々しい瞳があり、鼻は高々とそびえ、薄桃色の唇、少し下唇が前に出ているそれはとても艶っぽかった。年齢は少年には二十歳前後に見えた。二十歳は当時の松太郎から見れば眩しい大人の女だった。

 白馬が水を飲んで元気を取り戻したのを見計らって、鴨川の星は再び鞍上の女剣士となり、改めて少年に礼を言うと北東に走る西国街道を洛中に向けて駆けていった。少年は思わず追いかけて手を振るのだった。

 

幕末のラ・セーヌの星 鴨川の星 快傑女天狗

「追憶の鴨川の星」

 幕末維新前夜、京の花屋の若き女主人お星は鴨川の星と名乗り、剣を取って戦う。

しかし彼女は、自分が仏蘭西大革命前夜に剣士ラ・セーヌの星を名乗ったシモーヌの曾孫であり、後に徳川幕府最後の将軍となる一橋慶喜の妹であることを全く知らなかった。

 

女天狗とも呼ばれた鴨川の星は、幕末の維新前夜、文久二年(1862)の春、夜の京都に出現した正義の仮面の剣士であり、その正体は当時の京の中心部寺町錦小路上ル円福寺町の花屋であり、薬種商でもあった楼蘭堂の若き女主人お星(せい)こと下川星(しもかわせい)といううら若き乙女だったが、その当時は知られていなかった。勿論、彼女が徳川幕府十五代にして最後の征夷大将軍徳川慶喜公の妹だったことも。   

そのことが知られるようになったのは明治が終わり、大正時代後期頃の事だ。劇作家菊川敬三は当時を知る京都の古老に鴨川の星ことお星、下川星の事を聞いて廻っていた。彼女はその活躍の反面誤解されている一面もある。それを正したかったのだ。

 また、お星は欧州仏蘭西大革命前夜にパリで活躍した女剣士エトワール・ド・ラ・セーヌ、ラ・セーヌの星ことシモーヌ・ロランの子孫でもあったらしい。菊川は真実の鴨川の星のことを調べて戯曲にし、少女歌劇の劇場で公演することを考えていた。これは菊川が古老に聞いた話の一つである。

 

昭和四年(1924)11月のある日。京都府京都市中京区。

「おやおやこんな年老いた、しがない元パン屋の主人に何のようじゃね若いの?」

「はい、私、菊川敬三と申しまして、東京から来ました。ええっと、田中松太郎さんですね」

 「ああ、その通り、田中松太郎じゃ。鴨川屋の創業者じゃ。あんたかね。大阪毎朝新聞の記者の波多野修三郎が言っておったのは。」

「は、はい。あ、これ、名刺でございます」

「ふむふむ、何じゃ劇作家か。戯曲を書いているのかね。で、何を知りたい?まあ、入りなさい」

 田中松太郎は菊川を町屋の奧へと誘った。庭を見ることが出来る座敷にはちゃぶ台があり、その上には裸電球が天井からぶら下がっていた。菊川はちゃぶ台前に出された座布団に座った。

「じ、実は、幕末の女剣士鴨川の星についてお聞かせいただけたら」

「か、鴨川の星?鴨川の星・・・そうか。久しく聞いておらんかったのお。女天狗とも呼ばれた鴨川の星の戯曲を書くのかい。そうかそうなのか・・・」

「駄目でしょうか」

 菊川の向かい側に座る松太郎はしばらく無言だった。程なく使用人らしい女が入ってきて、膝をつくと銚子と杯をちゃぶ台に置いた。女は松太郎に目配せすると足袋を畳に刷らせながら障子を閉めて立ち去った。

「駄目ではないが。皆、鴨川の星に助けられた者もそうでない者も、あの明治の御一新のあとは忘れてしまったかのようじゃ。長州やら土佐やら薩摩やら、多くの勤王の志士が彼女に助けられたというのに。慶喜公が大政を奉還し、新しい平和な世がきたと思ったら、土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎が闇討ちにあい、王政復古の大号令があり、戊辰の戦が始まったのじゃ。京は大騒ぎとなり、人々は戦火を逃げ惑ったし、あとから京都にできた太政官政府は、それはもうひどいものじゃった。 こんな時に鴨川の星がいたら、みたいな声もあるにはあったが少数じゃった。それに薩長土の奴らは、あの仮面の女剣士は倒幕派を裏切った、という声をしきりに出しておった。いつの間にか将軍職を返上した慶喜公に、旧幕府軍に味方をしたんじゃからなあ。さ、飲みなさい」

 

松太郎は銚子を菊川に差し向け、杯に注いでやった。菊川も礼を言うと松太郎に酒を注ぎ、二人は飲み始めた。松太郎はグッと飲んで息を吐くと話し始めた。

 「天子様の世に、明治の世には、あの仮面の女剣士はほとんど忘れられた存在になったものじゃが、わしは悲しかったなあ」

そう言うと松太郎は、火鉢を引き寄せ、火箸で炭を所在なげにいじり始めた。

「寒くはないかな。寒いならこっちにきて火鉢にあたりなさい」

「い、いえ、大丈夫です」

「そうか、あ、話を戻そうかの。じゃが、明治の御一新の前夜、確かに彼女は、あの仮面の女剣士はいたのじゃ。あの頃、徳川幕府の不甲斐なさ、開国による西欧諸国との貿易で上がり続ける米や味噌、酒、生糸の値段、攘夷を口実にゆすりたかりをする浪人たち、それを取り締まる会津藩、新選組、見廻組の横暴に苦しんだ京雀、そんな人々を弱きを助ける赤い仮面の女の剣士、女天狗こと鴨川の星は確かにいてな、天狗鞍馬の黒椿と一緒に剣を取って戦ったのじゃ」

「二人の天狗、ですね」

「そうじゃ。 あの御一新はなあ、恐らく鞍馬の黒椿と鴨川の星がいなければ、もっと違った形で終わっていただろうよ。薩長土の新政府軍に旧幕府軍は装備でも数でも圧倒的に勝っておった。慶喜公は京に攻めあがる気満々じゃったのに、それを大坂の城に潜入し、最後の将軍に逃げるよう説得したと言うのじゃからな」

「説得?鴨川の星が慶喜公に?それで明治維新があのような形に・・」

「明治維新か。最近はそう言うのじゃなあ。皆、幕府が倒れれば、新しい政府が外国人を追っ払い、元のように国を閉ざして平和な世になると思っておったのじゃが。都は京から江戸改め東京に移るし、薩摩の西郷は敗れ、侍はいなくなり、憲法を発布し、富国強兵とやらで清国、ロシアを相手に戦いをし、台湾や朝鮮半島を領有し、満州に鉄道を敷き、国際連盟の常任理事国で今や世界の五大国の一つ。こんな日本になるとは夢にも追わなかったわい」

「そうです。帝国は、日本は良い国になりました」

「ふん、じゃが、皆、人々は幸福なのかのお。そろそろ世の中落ち着くかのお。ああ、頭の中に響いてきたわい、御一新前のあの頃の人々が狂喜乱舞するさまがなあ。“よいじゃないか、えいじゃないか、えいじゃあなかと”」

 

 田中松太郎翁は菊川に語り始めた。

幕末の頃、鴨川の星は京雀には評判だった。京には鞍馬の天狗とも呼ばれた鞍馬の黒椿を名乗る義賊が安政年間(1855~60)から活躍をしていたが、文久二年(1862)春に妹分とも言える、鴨川の星を名乗り、鴨川の女天狗とも呼ばれた謎の女剣士が現れるようになったのだ。いつの頃からか天狗鞍馬の黒椿よりも彼女の活躍が目立つようになっていったという。

 鴨川の星が活動するのはほとんどが夜だったため、実際にその姿を見た者はそう多くはなかったが、松太郎は何度も見たという。(その噂を新聞記者の波多野修三郎から聞いていたので菊川はここに来たのだが)当時京の人々、いわゆる京雀達は瓦版や噂話で仮面の女剣士の活躍を知り、喝采をあげたという。

 まだ子供だった田中松太郎が最初に鴨川の星を見たのは、慶応元年(1865)だったらしい。その頃の松太郎は畿内各地を巡業する旅回りの芝居の一座「星の空豆一座」にいた。まだ七歳だった彼が、夜中に京の三条大橋から二里半(約十キロ)離れた宇治郡醍醐村(現在の京都市伏見区)で恐ろしいばかりの炎が上がっているのを見たのである。一座の皆がそこまで駆けつけた。本当に空が赤く染まるほどの炎だったという。

 あとで松太郎が知ったのだが、さる公家の名家の別宅だったとのことである。燃えさかる屋敷、その炎の中から白馬が現れ、それには帽子に赤い仮面、黒いマントを纏った髪の長い女が乗っていたのだ。

「おお、あれは鴨川の星や!弱きを助ける女の剣士やで」

 空豆一座の親方倉之助がそう言ったのを松太郎ははっきり覚えているという。夜中だったこともあり、その姿なりはよく分からなかったらしいが、それが彼のはじめて見た鴨川の星である。

 その次に松太郎が鴨川の星を見たのは一座の公演で、播磨国(今の兵庫県)を回った後、西国街道を通って京へと向かっていたときだ。京に近い乙訓郡久世村に泊まっていたおりに女剣士に出会ったのである。(筆者注:この物語冒頭の場面)

 鴨川の星を見送った後、松太郎はそのことを誰にも言わなかった。そもそも一座の芝居の準備、公演、あと片付け等で忙しくて思い出す暇もなかったのだろう。

 だが、程なくして松太郎は鴨川の星と再会することとなる。京の下賀茂での公演が終わろうとする日、借金を抱えていた親方倉之助が高利貸しの雇った荒れ暮れ男どもに捕まり、一座の大人達は逃げ、松太郎等子供たち十人余りがその無法者どもによって盗賊団に売り飛ばされ、虜(とりこ)となってしまったのである。

京郊外の愛宕(おたぎ)郡高野(たかの)村(今の京都市左京区)にある古びた屋敷の離れに松太郎らは閉じ込められた。そこは姓名、官位は分らないがさる公家の別宅だったようで、貧乏公家が盗賊団とつるんでいた可能性もある。

空が白みかけてきた朝方、松太郎は目を覚ました。

(こんなとき、鴨川の星がいてくれはったらなあ・・・)

 松太郎がそう思った時、障子に剣を腰に差し、マントと長い髪を翻す女性の影が映ったのである。もしかして鴨川の星?と彼は思った時、女剣士は子供等が捕まっていた部屋の障子戸を突き破って飛び込んできたのだ。

「みんな大丈夫?さあ、逃げるのです」

 割れた障子でラ・セーヌの星の太腿には傷と血が見えた。それよりも背後に見張り役の男がいたのを子供達は思わず危ない!と叫んだという。

 突かれてきた剣を側転でかわした鴨川の星は、態勢を整えると一旦納めていた大刀を抜いて一文字に構えた。そして見張り役の男に言った。

「この子供達に罪はありませぬ。私が、この鴨川の星がもらい受けます」

「な、何を言うとんのや!こいつらは我々が買ったんや!死ねや!鴨川の女天狗!」

「星です!鴨川の星!仕方がありません!」

 女剣士と盗賊団の見張りの男の剣と剣が絡み合う音が部屋に響いた。鴨川の星の剣さばきは舞踊のようで美しく、だが力強かったという。仮面の女剣士は不敵な笑いを浮かべながら見張り役の男を追い込んでいった。やがて男が振り上げた刀が欄間にひっかかり、その隙に左胸を突き刺したのだ。

 

 「一体どうしてわし等を助けに来てくれたのか、今もって謎じゃが、とにかく鴨川の星はわし等を縛っていた縄を脇差で切って自由にしてくれたのじゃ」

「まさに弱き者の味方ですね」

 

屋敷には盗賊団の男達、公家の家人らしい男達らが二十人ばかりいたが、皆、百戦錬磨の女剣士の敵ではなかったそうで、ある者は斬られ、ある者は峰打ちにされ、他の多くの者が逃げたという。松太郎ら子供達が女剣士に連れられて屋敷の外に出ると、星の空豆一座の大人達が三人、高野川の向こうにいるのが見えた。彼らを指さして鴨川の星は言った。

「さあ、迎えが来ています。お行きなさい」

 だが、松太郎はもう苦しい生活を強いられる一座に未練はなく、他の子供達が大人達の元へ歩くのに彼は動かなかった。それを察したのか鴨川の星は松太郎を見おろしてこうも言ったという。

「もしも、困ったことがあったら、寺町錦小路上ルの花屋であり薬屋でもある楼蘭堂の女主人お星殿を訪ねなさい」

 松太郎は鴨川の星が自分のことを覚えていてくれた、と思った。目が合った瞬間彼女は頷き、松太郎が何かを言おうとすると首を横に振ったのである。その時の顔は戦っている時とは違い、菩薩のように優し気な表情だったそうだ。

「おねがい、かもがわのほし、つれていってぇな」

 だが、鴨川の星は首を振ったという。

 結局、子供達は皆新しく旗揚げされた一座の一員となったが松太郎は逃げた。高野川、

鴨川の横を走って一里(約四キロ)あまりを走って逃げた。女剣士鴨川の星の美しい肢体、甘酸っぱい香りと心地よい汗の匂いを思い出しながらひたすら駆けたのだ。

(きれいやったなあ、つれていってほしかったで、かもがわのほしに)

そしてその日の夕方、松太郎は京の寺町通に辿り着いたという。

 

「寺町の人は皆親切じゃったよ」

 

当時の松太郎が寺町通で会う人にお星の名を口にすると、やがて瓦版を作って売る読売の修郎と名乗る男がその花屋であり、薬屋でもある楼蘭堂へと連れて行ってくれたという。なお、修郎は菊川に田中松太郎を紹介した新聞記者波多野修三郎の祖父である。当時の寺町通りは元治元年(1864)七月の禁門(蛤御門)の変の際の大火(どんどん焼け)で多くの寺社、家屋が焼けたが楼蘭堂は奇跡的に残り、周囲も再建が始まっていたという。

 

「間口三間半(6.3メートル)の小さな店じゃったなあ。花屋の女主人というから、でっぷりと太った、いかつい中年の女を想像しておったが出てきたのは、白い肌に円らな瞳、高い鼻に薄桃色の唇、濃い栗色の髪を島田に結った、黄緑色の小袖に白い前かけをした二十歳くらいの乙女じゃ。それに花屋よりも祇園の芸妓が似合っている、いや武家か公家のお姫さまのように物腰の柔らかな美しい大人の女性じゃ。甘酸っぱい香の匂いがしておった」

 

松太郎はこの時からお星に夢中となり、彼の頭からは鴨川の星の顔が消えた。

「まあ、鴨川の星はんがあてを訪ねろといわはりましたん。そうどしたかぁ。大変どしたなあ。あてがお星どすぅ。で、あんたはんのお名前は?」

「ま、松太郎や」

 初めて会うのにどこかで聞いたような声だと松太郎は思った。それに彼の境遇を知っているかのような口ぶりだったという。

「とにかく今日はお泊まりやす。さあ、お入り。修郎はん、おおきにぃ!」

 どうやら親しい間柄らしい読売の男に礼を言ったお星は、松太郎の手を引っ張り、楼蘭堂の店の中へと招き入れた。女性にしては思ったよりも力強かったことに彼は驚いた。中には当時の松太郎より少し年長の、団子鼻で眼が小さく髪が蓬髪、ぼさぼさ頭の少年がいた。お星は松太郎を前にして、肩を握って少年に紹介してくれた。店内には木桶に活けられた売り物の沢山の菊などの花が咲き乱れていた。西洋の花、今日で言う薔薇や西洋なでしこ(カーネーション)が並んでいた。

「屯太(とんた)、松太郎はんどす。しばらくうちで預かりますよって、あんじょうたのみますぇ。さあ、松太郎はん、ご挨拶しよし」

 お星が身体をピタリと付けてきて、橘の花の香の匂いが松太郎の鼻腔に流れた。鴨川の星と同じ匂いだったが、不思議には思わず京の女に流行っているのだろうと松太郎は思った。

 お星も屯太もとても親切で働き者だったそうだ。松太郎はダントンとも呼ばれること団子鼻の屯太とも仲良くなり、花屋の小僧として一生懸命働いた。水を入れた桶に花を入れて売る花屋など当時はほとんどなかったが松太郎は無我夢中で働いた。

 美しいお星は見かけによらず、力持ちだったらしい。売り物の花を活ける水がたっぷり入った大きた木桶を軽々と持ち上げたし、鋏で花の茎や根を素早く切り取っていく様は見事だった。接客も上手くて花もあわせて売っていた薬もよく売れた。お星は寺町通りの看板娘とも言われ、老若男女に人気だった。だが、昼飯を食べたあとは眠そうな顔をしていることがしばしばで、時にはダイドコと呼ばれる居間で横になり居眠りをしているときもあったという。また、料理はあまり得意ではなかったらしい。

 屯太も昔は軽業師の一座「北河内万歳一座」に居たらしく、松太郎と話も気も合った。お星が飼っていたふくろうのコロはすぐに懐いてくれたという。薬の扱いや、帳簿については三条西洞院町の薬種商那珂川屋多助方の手代が来ては楼蘭堂を手伝っていたが、彼らも松太郎を可愛がってくれた。

 

 ずっと楼蘭堂で働きたいと思っていた松太郎だったが、お星はどこか良い働き口を探してくれると言い、寺の小僧がいいかとも言ったという。何だか分からないが、ここに長居はしてほしくないような口ぶりに聞こえ、松太郎は落胆した。

 

「お星さんは本当に美しい女性じゃった。店にはあきらかに彼女目当てと思われる若い侍や商家の若旦那や番頭、手代、職人、寺の和尚や小僧らがよく来たし、街を一緒に歩いていると背が高くて足も長く、鼻筋も高くて目が綺麗なお星は否が応でも目立ったのじゃ。通り過ぎる男も女も皆、彼女に熱い視線を送ったものよ。鴨川の星のことなど忘れ、わしはお星に夢中になった。いつも店でも外でも彼女の後を追いかけ、袖から除く脇、襟元から垣間見える胸の膨らみの谷を盗み見るようにしては鼓動を高鳴らせたりもしたよ。そんなわしを屯太はよくからかったのお。“松太郎!お星ちゃんをそんな目で見たらあかんでぇ”

“そんなんとちゃうんや!”とわしはむきになって言い返したわい」

 

 松太郎がお星の花屋楼蘭堂に住み込むようになって十日ほどした夜中の事。目を覚ました彼の耳に遠くで剣戟のような音が聞こえ、人の叫び声、馬の嘶きも聞こえた。怖くなった松太郎は隣の布団で寝ているはずの屯太に声をかけた。だが屯太はいなかった。松太郎は二階に繋がる箱階段を駆け上がり、声をかけてからをお星の部屋の障子を開けたが、そこももぬけの殻だった。

「お星はん、屯太はん、どこいかはったんや?」

 ふくろうのコロもいなかったし、こんな夜中に皆自分を置いてどこに行ったのだろうと心配をし、怖くなった松太郎は半纏(はんてん)を羽織ると外に、寺町通に飛び出した。

「きっとお星はんや屯太になにかあったんや」

 松太郎は月が出ているとは言え、人気がない夜更けの寺町の町並みを音と声がする方向へ走りに走った。錦天神の前を駆け、河原町通を越え、高瀬川のせせらぎが聞こえて来た頃、人影が数人分見えたという。さらには何か火花が散っていて誰かが剣を取って闘っている様子だった。そこは土佐藩邸の近くだ。

「ええい、!生意気な女め!」

「この鴨川の星がいる限り、悪事は許しませぬ!正義の剣を受けてみよ!」

「悪事ではない。不逞な浪人を斬るまでのこと!」

 闘っているのは女剣士鴨川の星とあの会津藩京都守護職松平容保公御預りの新選組だったのだ。松太郎がよく見るとマントが翻っているのが見えた。闘っている相手は、黒の羽織袴に下に山形の模様が付き、「誠」の一字が染め抜かれた袖章をつけた大柄な二人の隊士だった。それと少し向こうで白馬がいて様子をうかがっているように見えたという。

 程なく二人の男の剣が宙を舞って落ち、勝負はついた。さすがだと思った松太郎。鴨川の星も勝利を信じて疑っていなかっただろう。しかし、松太郎には見えた。路地から弓矢で女剣士を狙う小柄な侍らしい男がいたのを。

「あぶない!鴨川の星!うしろうしろおおおお!」

 小柄な男が弦から指を離し、矢が勝利を目前とした仮面の女剣士に飛んだ。だが、鴨川の星は身体を左に翻し、剣で矢を落した。

「わああああ」

松太郎は叫んで二の矢を放とうとしている男に飛びかかった。落した剣を拾った二人の男達は、隙ができた鴨川の星に切っ先を向けてきたが、再度向き直った彼女に剣を落され、さらに一人は左胸を、もう一人は首の頸動脈のあたりを突かれ、倒れ込んだ。

 矢の男は松太郎を地面に叩きつけると、逃げようとしたのだが、そこへふくろうのコロが飛んできて嘴や足で攻撃をした。そして鴨川の星が追いつき、矢の男の首を掴むと建物の壁に思い切りその顔を叩きつけた。

 ふくろうのコロは何と鴨川の星の上を旋回した後、彼女の右肩に止まった。松太郎はコロが会って間もない自分にすぐに懐いてくれたと思っていたが、どうやら人間なら誰でもよいらしい、とちょっとがっかりした。

「ありがとう、松太郎殿!あなたにまた助けられました」

 松太郎はまた首を縦に振るのが精一杯だった。彼が何故自分の名を鴨川の星が知っているのか、疑問に思ったのは少し後の事だ。ほどなく足音がし、現れたのはまたしても驚くことに団子鼻の屯太だった。

「鴨川の星!土佐の人は逃がせたで。あん?松太郎やんか、どないしたんや」

「どないしたん?それはこっちがききたいわ。とんたはん、かもがわのほしのなかまかいな?」

 屯太が答えに窮して鴨川の星を見上げたとき、南の、四条通の方角から蹄の音がかすかに聞こえてきた。

「新選組だわ。屯太、土佐の皆さんが心配。念のため追ってちょうだい」

「鴨川の星は?それに松太郎は?」

 鴨川の星は一瞬考えた後、指笛で白馬を呼ぶと松太郎を抱き上げて乗せ、続けて彼女も鞍上の人となった。鴨川の星の胸の膨らみを後頭部で感じた松太郎は赤面した。

「私が新選組を引きつけるわ。一人にするのは危ないから松太郎も一緒に。コロ、屯太と一緒に行きなさい!」

「分かったで鴨川の星。松太郎!気いつけや。コロ!来いや!」

 屯太とコロは木屋町通りを北に向かって行った。

「さあ、白梅!行くわよ。松太郎殿、しっかりつかまっていて!」

 松太郎と鴨川の星を乗せた白梅という名前があるらしい馬は、四条通の方向に向けて駆けだした。すぐに四条小橋の東詰で新選組の騎馬隊と出会い、騎馬戦が始まった。松太郎は恐怖を感じたが、必死で白梅の首につかまった。鴨川の星といれば死ぬことはないと信じていたのだ。

 

 五頭の馬からなる新撰組の騎馬隊と鞍上の鴨川の星は銀の剣を振るって必死に闘ったが子供とは言え、二人を乗せている白梅の動きは軽々とは言いがたく、松太郎は申し訳ない気持ちで一杯だった。一名は腹を突いて倒したが、あとの二名は交互に剣を向け合うかたちとなった。

 そんな時、二頭の馬の新選組隊士が洋式銃を構えているのを見つけた松太郎は鴨川の星に指さして知らせようとした。ちなみに松太郎は後で知ったのだが、新選組はこのころ、洋式の調練を始めていた。騎馬隊と洋式の銃はその証と言えよう。そして松太郎は恐怖で声が出なかった。

 銃声が聞こえた刹那、鴨川の星の姿は消えていた。何と飛び上がっていて、空中でマントを翻しながら一回転すると落下しつつ、銃を構えた隊士一人をその長い足で右、左と蹴り落とした。鴨川の星は主を失った馬の上から、再度銃を構えた敵に飛びかかり、彼を地面にたたき落とした。

「銃を使うなど卑怯です!」

「なにを、顔を隠す貴様も卑怯だ!」

 たたき落とされた隊士と鴨川の星は路上でもみ合いつつののしりあっていた。敵が背中を地面につけたかと思えば、女剣士のマントが地面に押しつけられたりもした。

 男のうなり声と女の悲鳴と悶え声が聞こえてきたが、白馬に乗った松太郎はどうすればよいか分からなかった。そこへ大刀をもった二人の隊士が馬上から飛び降りた。

「あぁう!」

三人の男に飛びかかられた鴨川の星は悲鳴をあげるや二人に両腕を掴まれて立たされ、一人が剣の切っ先を彼女ののど元に突きつけて絶体絶命となった。

「あかん、やられるで、白梅!いくんや!」

 松太郎は叫んで手綱をとり、小さく短い足で白馬の胴を思い切り蹴った。すると白梅は少年の考えが分かったのか、主の女剣士の危機を悟ったのかはわからないが、嘶きをあげて棹立ちになってから四人が揉み合った場所へと駆けだした。

 白馬白梅は前足で鴨川の星の喉元に剣を突きつけていた新選組隊士の頭を前足で蹴った。驚いた腕を掴んでいた二人が隙を見せた瞬間に肘鉄を食らわせて自由になった鴨川の星は落ちていた反りの少ない大刀を拾い、二人の敵を牽制しつつ、白馬に乗りかかった。

「ありがとう松太郎!新選組隊士諸君!この鴨川の星、今はつかまるわけには参りません。さらば!」

 そう言うと、鴨川の星は敗れた新選組の「騎馬兵」と馬たちを残し、白馬の胴を蹴って四条通りを東へと駆けだした。白馬はすぐに四条大橋にさしかかり、鴨川を渡った。川の風が白馬のたてがみをなびかせ、頬に冷たい風があたった。手綱をとる鴨川の星の豊かな胸乳の柔らかさと大きさを背中で、橘の花のお香の匂いを鼻で感じながら松太郎は正義の女剣士を結局は助けたことに、共に戦ったことに満足をし、ずっとこのまま馬に乗って走っていたいと思った。

女剣士鴨川の星のレオタアドは絹でも麻でも木綿でもない、不思議な肌触りの生地だったのを松太郎は覚えている。

 

「とにかくわしらを乗せた馬は祇園を通り、三条通、東海道に出た。今は大津と三条大橋を結ぶ京阪京津(けいしん)線の電車が走っておる(現在は市営地下鉄東西線が道路の下を走っている)が当時は勿論そんなものはない。鴨川の星は白梅を東進させた。今、蹴上(けあげ)の電停見えてくる辺りを曲がると、馬は南禅寺の境内へと入っていったのじゃ」

 

かつて太閤秀吉の頃、盗賊石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」と叫んだという有名な南禅寺三門の前では、屯太がふくろうのコロと待っていた。二人を乗せた白馬が石階段を駆け上がると、三門の太くて丸い柱にもたれかかっていた屯太は石段を駆け下り、コロは彼の肩から鴨川の星の右肩へと飛んできた。

「鴨川の星!」

「大事ないわ。また松太郎に助けられました。土佐の方は?」

 助けられたとの言葉に素直になれない松太郎は、恥ずかしくなって馬上でうつむいた。

「どうもない。ちゃんと大津の方へ向かって行かはったで」

「よかったわ。松太郎、あなたは屯太と楼蘭堂に帰りなさい。きっと“お星殿”が心配しているわ」

「お星はん?」

 だが、お星は家にいなかったではないか。そしてお星と同じ栗色の髪を持ち、似た声をし、自分の名を知り、同じお香をにおわせる鴨川の星はお星ではないのか?とさすがに松太郎も思った。だが、鴨川の星はお星が心配していると言うのである。

 鴨川の星に促され、白馬から降りた松太郎は鴨川の星に問うた。

「かもがわのほしは?どこへいくんや?おうちにかえらへんの?」

 仮面の女剣士は鞍上で松太郎を見下ろしながら言った。

「私には今宵行くところがあります。私の助けを必要とする人がいる限り、鴨川の星は暁の星が輝き、朝が来て消えるまで闘うのです!」

 そこへ足音が聞こえたので、その方向を三人と一羽が見ると、提灯が揺れ動いているのが見えた。その提灯には「誠」と赤字で書かれていた。屯太が悲鳴をあげた。

「ひいい!し、新撰組やで鴨川の星!」

 それは木屋町辺りでの騒ぎを聞いたのか、新撰組が南禅寺まで追ってきたのである。そして先頭には黒い隊服に身を包んだ総髪の男が歩いていた。奴らは石階段から四間(約7.2メートル)ほど離れた石畳の上で止まった。

「女天狗こと鴨川の星!会津中将松平肥後守御預新選組副長土方歳三だ!覚悟しろ!」

 それは泣く子も黙る鬼の副長だった。鴨川の星は白馬から降りると抜刀し、右手で大刀を、左手に脇差を持って十段くらいの石階段を駆け下りた。まるで宮本武蔵のような二刀流である。大刀など男でも片手で持つのは大変だが、仮面の女剣士は軽々と持っているように思えた。松太郎の脳裏に水がたっぷり入った木桶を持ち上げるお星の姿が一瞬頭に浮かんだ。そして女剣士は叫んだ。

「新選組副長土方歳三殿なら相手に不足はありませぬ!この鴨川の星、お相手いたしましょう」

 

 石畳の下で、鴨川の星は戦った。だが相手は鬼の副長土方歳三ではなく、彼が連れてきた他の平隊士達。石段の上まで駆け寄った松太郎と屯太は闘いを見守った。その様子を松太郎は鮮明に覚えていた。

 まず二人が上段から打ち込んできたのを、女剣士は左右の刀で受け止めた。続けて、左側の隊士の右太腿に脇差しを投げ、続けて右の隊士が再度上段から剣を振り下ろしてきたのを、右胸を大刀の切っ先で突いた。さらに三人の隊士が打ち込んできたが、鴨川の星はマントを振り回しながら、たくみに避け、さらには飛び上がっては他の隊士の顔を黒のブウツのつま先で蹴った。まさに女天狗とも呼ばれる所以(ゆえん)である。

 

「まるで、剣戟の音が聞こえてくるようです。失礼ですが、剣術の心得がおありですか」

 菊川は松太郎翁の語りに興奮して言った。

「馬鹿を言うでない。そんなものあるものか。じゃが、宮本武蔵や柳生十兵衛の講談は良く聞いたからなぁ」

 

いつの間にか石畳の上には五人の隊士達が倒れてのたうち回っていたという。皆、浅い傷か峰打ちで命に別状はないようだった。禅寺の最高位で、天皇家にもゆかりのある南禅寺の境内で殺生をするのを避けたのだろうか。そのうち丸い月が雲に隠れた。

「やってくれるじゃねえか。鴨川の星ィ」

そう言うと黙って見ていた土方歳三は、役者のような美顔に氷のような頬笑みを浮かべて愛刀和泉守兼定を抜刀した。五人を倒して一度剣を収めた鴨川の星は、肩で息をしていたが、再び朱色の鞘から大刀陸奧守吉行を抜いた。

「早くお行きなさい!早く!」

 鬼の副長は大刀を右に寄せており、構えは青眼。鴨川の星は諸手上段で土方を睨みつけながら松太郎と屯太に逃げるよう促した。黒い雲から月が再び出てきた瞬間、女剣士は打ちかかり、新撰組副長がそれを受け止めた。

鴨川の星の上段の剣を打ち返した土方は、左諸手上段に構えて剣を舞いあげ、鴨川の星に向かって突進した。その勢いに押されたかのように下がった女剣士は振り下ろされるであろう土方の剣を受け止めた。

 

「すごい音じゃったよ。あの鴨川の星が負けるはずがないと思っておったのじゃが、土方の剣の腕の強さも京ではすでに伝説じゃった。どちらが勝っても負けてもおかしくは無かったのじゃ」

 

 二人は一度離れ、お互い青眼に構え、しばらく睨み合っていた。やがて互いに三歩右足から前進すると互いに左右に打ち合う相打ちとなった。続けて、鴨川の星は上段に構えて土方を睨み、土方は左膝をつき、兼定を左に向けて膝の上に乗せた。

 誘いこまれたのを承知で鴨川の星は右足を踏み出して土方の顔を狙うが、すかさず彼は左足を右側に出しながら立ち上がり、鴨川の星の陸奥守吉行を左肩の上で受け流した。

「きゃっ!」

 鴨川の星は剣を受け流されて思わず悲鳴をあげ、右足を踏み込んできた土方の剣を何とか鍔元で受け止めた。土方はさらに和泉守兼定を舞い上げ、鴨川の星の細い顔の左側を狙った。鬼の副長の切っ先が女剣士の象徴でもある紅緋色の目かずらのような仮面に達しようとした時、彼女はまたも鍔元で受け止めたが、すぐに土方は鴨川の星の右胴、続けて右顔と狙ってくる。

 女剣士は次々と斬り込まれ、突かれるのを防ぐのが精一杯だった。さらに土方は再び諸手上段に構え、顔面に振り下ろすと見せかけ、彼女の右の脹脛を狙ってきた。おそらく黒い革靴は傷つけられたであろう。今度も何とかかわした鴨川の星だったが、身体の態勢が崩れて尻餅をついてしまった。

「早く!逃げるのです!逃げて!」

 鴨川の星は右手で大刀の柄はなんとか握っていたが敗れたも同然。それでも土方を睨み上げながら松太郎と屯太に逃げるよう叫んだのだ。

松太郎は行く末を見守りたかった、いや、命の恩人である鴨川の星を見捨てたくなかったが、屯太に促されて三門を離れた。フクロウのコロは三門の屋根の上で様子を見守って動かない。木々を越えて達磨堂の塀の前に達すると白馬の白梅がいた。松太郎と屯太は何とか鞍に乗りかかり、団子鼻の少年の手綱で境内を夢中で駆けだした。必死に背中に捕まる松太郎に屯太は言った。

「心配せんでもええ。鴨川の星は負けへんで。だいじないんや!」

その時、前から蹄の音がし、あっと言う間に黒毛の立派な体躯の馬が、鞍上にいたのは黒の宗十郎頭巾に紋付きの黒い羽織、覆面から見せる目は涼しい立派な侍だった。

「鞍馬の黒椿や。きっと鴨川の星を助けてくれるで、どうもないで!」

天狗鞍馬の黒椿が南禅寺に向かうのを見て少し安心した松太郎は屯太と一緒に逃げた。丸太町通に出て鴨川が見えてくると、屯太は手綱を引いて白梅を止めて飛降りた。勿論松太郎もだ。屯太の馬術はなかなかのもので、白梅との息もあっていたようだ。屯太が尻を叩くと、女剣士の愛馬は南禅寺の方向へと駆け去って行った。

 鴨川にかかる丸太町橋を渡ったあとは、どこをどう歩いたか松太郎は覚えていなかった。寺町錦小路上ルにある楼蘭堂に着いたのは、暁の星が輝き、空が白みかけてきたころだったという。店先には浴衣姿のお星が右肩に梟のコロを乗せて立っていた。お星は二人の少年を見るなり叫んだという。

「まあ、屯太、松太郎はんも。どこに行ってはったんどす?」

 松太郎はお星がそこにいることに驚くとともに、やはり鴨川の星とお星は別人なのだと納得をした。部屋にいなかったのは、きっと小用を足しに厠へと行っていたのだろうと推測もした。

「へへへ?鴨川の星を助けに行ってたんや!なあ、松太郎!」

「まあ、鴨川の星はんを?そないな危ない真似はせんといておくれやす屯太。それに松太郎はんを巻き込むやなんて!せっしょうやなあ、松太郎はん、怪我はあらへん?」

 松太郎は首を横に振るのが精一杯だった。

その日の朝、お星は屯太と何事もなかったように店を開けた。勿論松太郎も手伝う。ただ、松太郎はお星が笑顔ではあったものの、時折左右の手首をさすっていたのが気になった。屯太がいつも以上に水桶など重いものを運んでいたようにも思えたが、段々客が増えたことで忙しくなり、その日は暮れていった。

 

三日後、松太郎はお星に連れられ、高瀬船で伏見へ向かった。松太郎は一緒に出かけるのが嬉しかったが、伏見の船宿寺田屋へ着き、女将のお登勢が出てくるなり言ったお星の言葉にそれは消し飛んだ。

「すんまへん、この子を、松太郎をここで働かせておくれやす」

松太郎は驚いてお星を見上げ、次にお登勢を見た。

「なんどす、藪から棒に。お星はん、分けを聞かせておくれやす」

お星が経緯を話すと、お登勢は暫く考えていたがやがて言った。

「へえ、お星はんの頼みなら断れまへんなあ。よろしおす。松太郎はんどすな」

 そう言って寺田屋の女将は少年を迎えた。お星との別れはいきなりやってきたのだ。

最初は駄々をこねた松太郎だったが、お星は彼を抱きしめて言った。

「心配あらしまへん。お登勢はんはええ方どす。大きな船に乗ったと思っておきばりやす。また、あては松太郎はんに会いに来ますぇ」

松太郎は寺田屋では一所懸命に働いた。土佐の浪人坂本龍馬、恋女房おりょうと出会い、“様々なこと”があったが、しばらくすると彼の真面目な働きぶりを聞いた伏見の菓子屋の摂津屋の主人富太郎に見込まれ、そこで働くこととなったのだ。菓子屋での修行も辛かった松太郎だが、一座での日々に比べたらどうと言うこともなかったという。いつも美味しそうな香りに囲まれる生活には満足していたことだろう。

 松太郎がお星と会うことはそれからなかった。女天狗鴨川の星に会うこともそれからなかった。だが、京で評判の女剣士と一緒に闘ったことは松太郎の密かな自慢だった。再び、いや、最後に彼が鴨川の星を見たのは、徳川幕府第十五代将軍慶喜が大政奉還をして朝廷に政権を返上し、坂本龍馬が河原町の醤油商近江屋で闇討ちにあい、王政復古の大号令が発せられ、新政府ができて明けた慶応四年(1868)、いや明治元年、戊辰戦争が勃発してからのことだ。

 正月三日に大坂から進軍してきた会津藩や桑名藩などの旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする官軍、新政府軍が小枝橋のあたりで戦火を交える鳥羽伏見の戦いを切っ掛けに戊申の戦が始まったのだ。

 

 「戦いのせいで伏見の街は丸焼けになったよ。官軍と旧幕府軍とが市街戦をしたものでなあ。わしがおった菓子商の摂津屋も焼けたし、寺田屋も燃えてなくなった」

「え、でも寺田屋なら今もありますよ。坂本龍馬の刀傷もありますし」

「あれは明治の半ばに建て替えられたのものじゃ」

「ええ?そうなのですか」

 

 戦争が始まると伏見の人々は皆慌てて逃げた。よほど慌てたのか、弾を避けたのか知らんが、肥溜めに落ちた人もいたという。

 逃げ惑ううちに松太郎は一人はぐれてしまった。夜になり、伏見の街外れを歩いていた松太郎は、怪我をして大坂のほうへと逃げる新選組の若い隊士二人と出会った。黒の羽織袴がぼろきれのようで、大刀を杖替わりにして歩く二人を見ると、松太郎にはとても京で恐れられた人斬り集団には見えなかった。赤字で「誠」と書かれた袖章がなければ新選組とはわからなかっただろう。松太郎はひとまず彼らと大坂を目指すことにした。

「待てぇ」

 声がした方向を見ると、そこには西洋式の軍服に陣笠の長州兵が立ちはだかった。十人はいたであろう。二人の新撰組隊士らは尻餅をつきおびえきっていた。入隊して間もない新人隊士だったのか、あるいは脱走隊士だったかもしれない。そこに現れたのが鴨川の星であった。

 

 刀を振り上げ、ある者は銃を構え、新選組隊士を殺そうとする長州藩兵は鬼のような形相だった。親兄弟か仲間を新選組に殺されたのかもしれない。空は燃える伏見の街のせいで明るかった。

 そこへマントを翻してどこからか飛び降りてきたのが鴨川の星だ。銀の星印が縫われた青いベエレ帽、紅緋色の仮面、裏地が赤い黒のマント、長袖の胸の膨らみや腰の括れが露わな紺桔梗色のレオタアド、白い太ももに黒いブウツは健在だったのだ。

 鴨川の星は長州藩兵の胴や左籠手を次々と反りのない大刀で打ちはらっていった。倒れこんだ長州藩兵の隊長らしい男は叫んだ。

「か、鴨川の星といえば、我ら長州の、倒幕派の味方ではなかったのか!」

 鴨川の星は松太郎と新選組隊士の前に立ちはだかった。風が吹き、黒いマントと栗色の髪がなびいていた。そして長州藩士らに言った。

「私は常に弱き者の味方です。手負いの者を大勢で嬲(なぶ)り殺そうとするなど武士の風上にもおけませぬ。この鴨川の星が代わって相手をいたしましょう」

 すると後ろのほうの長州藩兵の間で悲鳴があがり、血しぶきが飛んだ。そこに現れたのはあの土方歳三だ。局長近藤勇は十二月十八日に伏見街道で狙撃され、この時の新撰組は土方が事実上の隊長だったのだ。

 土方が二人の長州兵を斬ると、残る八人は這々の体で逃げていった。土方は若い二人に歩み寄り、労ったうえで立ち上がるよう促した。その表情は鬼ではなく優しい笑みを浮かべていた。そして鴨川の星のほうに向いていった。

「鴨川の星、すまねえな。うちの隊士を助けてくれたようだ」

「たいしたことではありませぬ」

暫く二人は無言で見つめ合っていた。松太郎は南禅寺での対決を思い出し、今にも斬り合い始まるのではと思ったが、やがて土方は若い隊士を促して歩き出した。そして振り返ると言った。

「戦はこれからだ。大坂で再起する。もしも鴨川の星、戦場であったら手合わせいただこう」

そう言うと土方歳三は夜の闇に消えた。

「松太郎殿お久しぶりですね。大事ありませんか」

鴨川の星はしゃがみ込み、松太郎の目を見つめた。仮面の下の瞳は凜々しく優しそうに見えた。少年が頷くと女剣士は彼を力強く抱きしめてくれた。橘の花の香り、血と汗の匂い、煤の臭いが混じり合い、松太郎の鼻腔に入ってき、全身が硬くなった。

 しばらくすると蹄の音がし、二人の前に白馬と黒い馬が現れた。白馬は一目で白梅と分かり、黒馬には誰かが乗っていた。宗十郎頭巾に黒い羽織袴、鼻筋が通り、涼しい眼をした侍、天狗こと鞍馬の黒椿だった。

 

「鞍馬の黒椿さま。この子を、松太郎殿をお願いできませぬか」

 松太郎の右手を握りながら、鴨川の星は馬上の覆面の剣士を見上げて言った。女剣士の手は力強く、暖かったという。

「構わぬが、おせ、いや鴨川の星どのはやはり・・・」

「大坂の城へ向かいます。兄に会って、説得します。戦はなりませぬ。天子さまに弓をひいてはなりませぬ、と言ってみます。戦が続けば、人民が塗炭の苦しみにあい、西洋列国はこの日のもとを、日本国を侵すことになりましょう」

 鴨川の星が言った兄とは誰だろうか、何を説得するのか松太郎はその時はわからなかったが、きっと大坂城にいた徳川慶喜公だろう、そして江戸へ逃亡することを勧めたのでああろう、と後に思った。鴨川の星は、武家の、徳川の血を引く女剣士だったのだろうか。そうとなれば女にして剣が強いのも、姫様のように美しいのも納得だった。

 鞍馬の黒椿の黒い馬に乗せられた松太郎は、馬を並べて鞍上の女となった鴨川の星に言った。

「かもがわのほし、いってしまうんか。もうあえへんのか」

 鴨川の星は黙って頷くのみだったが、仮面の下の瞳は力強いが優しかった。

「白梅!行きましょう!大坂へ」

 そう言うと鴨川の星は、手綱を引き、愛馬の右胴を軽く蹴った。嘶いた白馬と仮面の女剣士は暗闇に、大坂の方向へと消えた。その後、数でも装備でも勝っていた旧幕府軍を置いて、慶喜は軍艦で江戸へと逃げ、畿内での戦いは呆気なく終わった。おそらく鴨川の星が兄である慶喜の説得に成功したのだろう。

鞍馬の黒椿のおかげで摂津屋の主人富太郎らと再会できた松太郎は、数年後、若旦那の与兵衛とともに東京となった江戸へ向かうことになった。伏見の再建は始まっており、これからは太政官政府の京都の玄関口になる伏見に残ることを摂津屋の主人は勧めたが、若旦那与兵衛は日本の政治も経済も東京がその中心となり、京も伏見もさびれると見越していた。結局はそれが正しかったことが後に分る。

 伏見を出て、京を通った時、与兵衛にせがんで松太郎は楼蘭堂がある寺町錦小路へと向かった。だが、そこにお星の姿はなく、屯太もいなかった。「花卉薬種取り扱ひ楼蘭堂」と縦に書かれた看板が寂しそうに風に揺れていた。

 東京に行ってしばらくすると、摂津屋の若旦那の与兵衛は残念ながら、病で亡くなってしまった。松太郎は知り合いのつてで横浜へ行き、そこでパン屋を営むフランス人のピカールのもとで働くこととなった。

 必死になってパン作りに励んだ松太郎は、やがて自分と妻の店「鴨川屋」を横浜で持つようになり、明治の中頃にはいくつも支店をもつこととなった。明治末期には京都にも店を作ることができたのだ。世が大正となったころ、松太郎は妻に先立たれた。すでに隠居の身、子や孫に囲まれて暮らすのも悪くはないが、昔を思い出した松太郎は懐かしい京都に戻ってきたのである。言葉は関東のままであったが。

 久しぶりに松太郎が寺町錦小路を訪れると楼蘭堂は他の店になっていた。

 

「何の店か?忘れたよ。それにお星さんのことも鴨川の星のことも京都の人は皆忘れておった。わしは憤慨したが、それが世の流れじゃなあ。こんなわしの話しで役に立ったのか?そうかそうか、ならよいがなあ。楽しい歌劇にしてくれよ」

 松太郎は菊川にさらに言った。他の者が何と言おうと、今の自分があるのは、子や孫に恵まれてまずまず幸福に余生を過ごせるのは鴨川の星とお星のおかげだと。

 そしてこうも言った。京都に戻ってからお星にそっくりの舞妓を祇園の座敷でみたという。他人の空似だろうと言った。菊川は何かを言おうとしてやめた。

 「鴨川の星もきっと子供を産んで、その子孫が満州か蒙古かどこかで、いやもっと遠い国かも知れぬが彼女の意思を継いで闘っておると信じたいわい。お星さんの子や孫もきっとがんばっておるじゃろう」

 「あの、鴨川の星とお星は同一人物だとおもえませんか」

「何じゃと?お前さん、話しをきちんと聞いておったのか?じゃあ、もう一度最初から話すぞ!暁の星が輝き、空が白みかけてきた頃じゃった。まだ子供じゃったわしは目が覚めてしまい、一座が分宿していた久世村の集落の中心にある、庄屋の屋敷の井戸で顔を洗っていたんじゃ。その時じゃ、遠くから馬の蹄の音が聞こえてきたのじゃよ。屋敷の蔵の横を通って門を出て西国街道のほうに駆け寄ると、白馬が乙訓の山並みを背景に駆けてきているのが見えたのじゃ。それも乗っているのは女じゃよ。長い栗色の髪、裏地が赤い黒のマントが後ろになびいているのが見えたものでな、わしはひょっとしたらとおもったのじゃ。白馬はみるみる近づいてきた。そして馬上の女が手綱を引くと、逞しい白馬は棹立ちになって嘶(いなな)き、走るのをやめて、屋敷の前を歩き出したのじゃ・・・・

“か、かもがわのほしや!めてんぐや!”わしはそう叫んだのじゃ。どうどうと言って馬をなだめる鞍上の女剣士とまだ七つか八つだったわしは目が合った。仮面はしていたが頷いた彼女は微笑んでいるのがわかったよ。

 女天狗こと鴨川の星は濃紺の星印が縫われた帽子、裏地が赤い黒のマントを身につけていた。栗色の髪は後ろの首のあたりで紫色の小さな帯で結ばれていて腰の近くまで、前は胸のあたりまで伸びていたのお。

 そして彼女が身につけていた装束は、濃紺で長袖のレオタアド、まあ、当時はそんな呼び名はなかったが、じゃった。身体の線が露わになっていて思わず赤面したよ。それと肌は透き通るような白い肌じゃったのお。まだ二十歳位じゃった。二十歳なんて今のわしから見れば小便臭い娘ッ子じゃが、あの頃はなあ・・こら、聞いておるのか!」

 おわり

La Légende de Étoile de la Seine au Japon.

Elle s’appelle Étoile de la Kamogawa=Une femme Tenguh.

``Souvenirs de l’épéiste masqué``

 FIN

 

 

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