幕末のラ・セーヌの星 鴨川の星 快傑女天狗   作:koh1968

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あの少女を救え!

La Légende de Étoile de la Seine au Japon.

Elle s’appelle Étoile de la Kamogawa=Une femme Tenguh.

“Sauvez cette fille!

 

 光輝く丸い月を背景に、逞しい白馬を御す女がいた。女は素顔を仮面で隠し、マントと長い髪を翻しながら伏見街道を南へと駆けていたが、飛び出してくる男がいて、驚いた白馬が嘶きをあげつつ、前足をばたつかせて棹立ちになった。女は尻を浮かせたが、うまく手綱を引き、どうどう、と叫んで白馬をなだめた。鞍上の女は身体の線が露わな珍妙だが色気のある格好をし、腰には大小の刀を二本差していた。ふっくらとした白い太腿が艶めかしかい。

「か、女天狗、いや、鴨川の星や!」

 鴨川の星と呼ばれた女は腰を抜かした男に鞍上から叫んだ。

「大事ありませぬか?」

 男が頷くと、鴨川の星はよかった、急ぎます故、と言うと馬の胴を蹴って東福寺門前から伏見へと駆けていった。時に文久三年(1863)十月十五日望月の夜(太陽暦では十一月二十五日)。

 

(助けて!あてを助けて!お星はん!)

 暗闇の中で美しい少女は震えていた。猿ぐつわを噛まされ、両手を後ろで縛られていて身体の自由が利かないし、声も出せない。ここが何処なのかも分らないが、船に乗せられていることは確かだった。

(あてはどこに連れていかれるのやろう?)

 と少女が思った時だ。突然彼女を覆っていた筵(むしろ)が剥がされ、視界が明るくなった。明るいとは言っても月の光だから限界はある。少女にとって恐ろしい成りの男たち三人が彼女を見下ろしている。見るからに無頼の輩(やから)たちだ。

 そのうちの一人、散切り頭の男が少女の着物の裾に手を伸ばしてきた。

(いやや、いやや、助けて!助けておくりゃす!助けて、お星はん!)

 男の手は着物の裾をめくり、太腿をさすり始めた。少女の背中に悪寒が走る。

(助けて!助けてええええええ!お星はーーーーーん!)

 

幕末のラ・セーヌの星 鴨川の星 快傑女天狗!

「あの少女を救え!」

 仏蘭西大革命の前夜、花屋の娘として育てられた美少女シモーヌは、ラ・セーヌの星と名乗り、剣を取って戦った。

 そして、幕末維新前夜の極東の島国日本の京。花屋の若き女主人お星(せい)もまた鴨川の星と名乗り、剣を取って弱き者の為に戦う。しかし彼女は、自分がシモーヌの血を引くことと、後に徳川幕府最後の将軍となる一橋慶喜の妹であることを全く知らなかった。

 

 

 楠の太い枝に一人の女が立っているのが月明りで分かる。女は右手で樹齢百年を越える楠木(クスノキ)の幹に手をかけ、まっすぐ南の方向を見据えている。女は紅緋色の目かずらのような仮面で白い瓜実の顔の上半分を隠している。仮面の下の眼はつぶらで涼しく、睫毛も長く、鼻は高くて彫りが深い顔立ちだ。口は小さく紅玉色で下唇が少し前に出ていて、仮面をしていても微笑むと何とも言えない優しさを醸し出すが、弱き者をくじく者に対してはあくまで冷たくなる口元だ。

 彼女は星印が縫い込まれた青い頭巾(ベレー帽)を被っている。着ている装束は濃紺の身体の線が露わとなるもの(レオタード)で、生地は足の付け根までしかなく、白いふっくらとした太ももが見えている。裏地が紅い黒の外套(マント)と濃い栗色の長い髪は風で揺れ、腿と違って長い脚の膝から下は黒い革長靴で覆われていた。腰には藤色の帯があって、大刀と脇差が差されていることから彼女は剣士だと分かる。

 そんな成りの剣士など、いや女などこの京には一人しかいないであろう。彼女の名は鴨川の星。女でありながら太刀を振るう剣士なのだ。そう言えば長い袖の下の腕は筋肉質で、一見ふっくらとした太ももも引き締まっている。

鴨川の星は女天狗とも呼ばれ、文久二年(1862年)の春以来、夜の京に現れ、弱者救済を旨として日々戦っている。その正体は京の寺町錦小路上ル西側の花屋であり、薬種商でもある楼蘭堂の若き女主人お星(せい)こと下川星である。そのお星、いや鴨川の星の口から言葉が漏れた。

「今、おたけ殿の叫び声が聞こえたような・・・」

 彼女が見据えている南の方向には京の玄関口、港町伏見の街がある。楠木の枝の上に立つ鴨川の星が案じているのは、十二歳の少女おたけだ。おたけは京で頻発している下級娼婦、江戸では夜鷹と呼ばれる辻君たちの連続殺人事件によって命を落としたおふみの姪にあたる。おたけの母おまつ、つまりおふみの妹は既に亡く、その夫、石職人の加助の借金のかたに大坂の娼館に売られたのである。ただ、借金は既に生前のおふみが代わりに返したのだが、偽の証文を突き付けられた加助は泣く泣くおたけを差し出した。それを知ったお星が鴨川の星となって彼女を探しているのである。おたけは楼蘭堂によく遊びに来ていて、お星は彼女を妹のように可愛がっていた。

 大坂へと連れ去られたおたけが、伏見から船に乗せられたのか、陸路駕籠か馬等で西国街道を連れられていくのかが確信が持てなかった鴨川の星であった。

「でも間違いない。おたけ殿は伏見にいる!」

 鴨川の星は指笛を吹き、愛馬白梅(はくばい)を呼び寄せた。水飲み場にいた白梅は、健気にも主の元へと駆けてきた。鴨川の星は頷くと枝から飛び降り、鞍上の人となった。

「さあ、白梅!急ぎましょう!」

 鴨川の星は少女を救うため、手綱を持って伏見街道を駆けて行った。マントと栗色の長い髪を靡かせながら。

 

 

 話はその日を少し遡る。

 京の寺町錦小路上ル西側に楼蘭堂はある。楼蘭堂とは昨年、つまり文久二年(1862年)の春に開店した花屋であり、薬種商でもある。その主人は数えで十八歳の女、お星こと下川星だ。               

 お星はこの時代の女性としては大柄な身長五尺五寸弱(165センチ位)で、栗色の髪を島田髷の一種であるつぶし島田、上方の娘の典型的な髪型である結綿(ゆいわた)に結っていた。眼はつぶらで涼しく、睫毛も長く、鼻は高くて彫りが深い顔立ちだ。口は小さく紅玉色で下唇が少し前に出ていて、微笑むと何とも言えない優しさを醸し出すが、女ながら商家を切り盛りする意思の強さも感じさせる。嫌みの無い艶やかな雰囲気を出す姿は浮世絵の美人画に描かれるような美顔だった。

 そんなお星が間口三間(5.4メートル)の店から外に出ると、通りを歩く人が皆、挨拶をしていく。勿論お星も挨拶を返す。

「こんばんはぁ!お星はん」

「こんばんはぁ。寒(さぶ)ぅなってきましたなあ」

 お星の長身で、黄緑色に白い桜模様が描かれた黒襟の小袖に前掛けをしている姿は否が応でも目立つ。昨年の秋に近くの寺町錦天神の福娘に選ばれたこともあって、寺町通の看板娘とも呼ばれているが、人々は彼女が京雀たちの喝采を浴びている、弱者救済を旨とする謎の仮面の女剣士女天狗とも称される鴨川の星とは知る由もなかった。

 余談だが、お星が福娘に選ばれた時、菅原道真を祀る錦天神は宮司が何者かに誘拐され、偽の宮司が現れる事件があった。それは鴨川の星=お星のと鞍馬の黒椿らの活躍で解決された。

「ほたら屯太!あて行って参じますぅ!」

「お星ちゃん、早うかえっといでやぁ」

 家族同然に楼蘭堂で働く少年、屯太に声をかけたお星は自宅でもある店を後にした。すでに時刻は申の刻夕七つ半(午後五時位)であたりは暗くなっている。お星が向かったのは、三条富小路通りにある長屋だ。寺町錦から二十町(約2キロ)ほど離れたその長屋にはおたけという少女が住んでいる。

 おたけは今年の春に殺されたおふみの姪にあたる少女である、とは先述した。おふみにとって姪にあたるおたけ、その父、おふみにとっては義理の弟である石職人の加助の面倒をよく見ていたおふみがいなくなったことで、二人の生活は一変した。加助はともかく、おたけの事を案じているお星は様子を見に行くことにしたのだ。

 おたけは桃割れの髪に白い瓜実顔、細く切れ長の目でまるでひな人形のような美しい少女だった。身長は四尺二寸(130センチ)くらいで既に女としての艶っぽさが備わりだしていた。

 丸顔で愛嬌にあった叔母のおふみ、その妹のおまつにはあまり似ていなくて、父親の加助にも似ていない。それでも笑った時の表情はおふみおまつ姉妹に似ているとお星は思っていた。たが、加助は自分の子供ではなく、父親は公家か商家の旦那ではと疑っていると聞いたことがある。

(ひどい話どすなあ)

 お星はそう思っている。おたけも母親や叔母はともかく父親の加助に全く似ていないことを気にしているようで、よくお星にこぼしたものだ。そんな時、お星はおたけをギュッと抱きしめ慰めるのだった。

「そんなんありゃしまへん。おたけはんはなあ、お亡くなりにならはったおふみおばさん、おかあはんの子供(おぼこ)の頃によぉ似てますぇ」

「ほんまにぃ?お星はん!」

「えぇ、ほんまどす。後ろ姿はどことなく加助はんに、お父さんに似てますなあ」

 そう言うとおたけは、お星の体に自分の小さな体を押し付けてきて泣くのだった。

「泣いたらえぇ、おたけはん。気のすむまで泣きなはれ。あては、このお星はあんたはんの味方どすぇ」

 お星にはおたけの気持ちがよく分かった。安政五年(1858年)、押込み強盗によって命を落としたお星の両親、医師下川楼蘭と妻女倫は慈しんで育ててくれた。だが、お星は両親のどちらにも似ていなかったし、父母というよりも年齢的には祖父母と言ってもよいくらい離れていた。自分は両親の本当の娘ではないのではないかと、今のおたけと同じくらいの年ごろになると悩んでいたものだったからだ。

 お星の推測通り、下川夫妻は彼女の本当の両親ではなかった。お星の本当の父親は徳川御三家の水戸家第九代藩主徳川斉昭であり、母は下川楼蘭の兄の養女となったお夏であり、その母は長崎丸山の芸者お春。さらにお春の相手はオランダの医師として日本にやってきたジュリアンで、その母はフランス大革命の前夜にラ・セーヌの星と名乗って剣を取って戦ったシモーヌ・ロランなのだ。もちろんお星はそのことを知らないでいる。

「お星はん、お星はんはなんでそないにやさしいのん。それにお星はんは、ええ匂いがしますなあ。菊の花?それから、名前は知らん花のええ香りがするわ」

「ロゼや西洋ナデシコ(カーネーション)のことかいなあ。あては花屋どす。花の匂いがしてあたりまえどすぇ」

「ロゼ?セイヨウナデシコ?」

 楼蘭堂によく遊びに来るおたけは、大小の菊の花に交じって店の間に並ぶ薔薇やカーネーションの花に興味を示す様になっていた。

 お星は木桶に活けられた真紅の薔薇や薄桃色のカーネーションの花を取っておたけに見せたものだ。

「西洋ではなあ、花に言の葉をつける習慣があるんどす。ロゼにはお互いを思い合う、西洋ナデシコにはおなごの想い、お礼の気持ちと言った言の葉がついてますぇ」

 おなごの想い、と言ってから、お星はある女性のことを思い出し、少し顔を赤らめたが、おたけは気づかずに言った。

「花に言葉があるのんかいなあ」

「そうどす。花言葉、どすなあ」

 おたけは薔薇とカーネーションを手にとってその香りを嗅ぎ、目を輝かせた。

「あても、お星はんといっしょにお花を売ってみたい!ここではたらかせてぇな」

「ほなら手伝って貰いましょうかいなあ。屯太もよろこびますぇ」

 お星は、おたけ本人がその気なら、彼女を引き取り、楼蘭堂で働かせてもよいとも考えるようになった。

(そのためにはあての秘密をどうするかどすなぁ)

 入相の鐘が酉の刻暮れ六つ(午後六時)を知らせた頃、回想していたお星が三条富小路通り下ルにある長屋に着いた。そこには茫然とした加助がいるだけだった。おたけの姿はなく、部屋の中は争ったような形跡があった。お星は焦った。

「か、加助はん、こ、これは一体どないしはったん?おたけはんは?」

 加助は紙きれを差し出した。それは借金の証文で、そのカタにおたけは金貸しが差し向けた無頼の輩に大坂へ連れていかれたという。お星は証文の署名を見た。そこには加助の名があったが、彼の筆跡を知るお星には即座に偽物とわかった。石職人の加助は意外と達筆だが、証文の署名の筆跡は荒々しいものだったからだ。

「うそどす!借金は、おふみはんが身体を売って稼いで返したはずやわ!これは偽の証文どす!」

 このところ偽の借金の証文を突きつけ、女衒(ぜげん)が美しい娘を苦界地獄へと連れ去っていく事件があとを絶たないが、奉行所はまともに捜査や取り締まりをしようとしない。春にはお星が知り合った敵討ちの旅をする江戸の武家、平松作之助、芳江姉弟が偽証文を突き付けられ、美しい芳江が連れ去られそうになった。お星は鴨川の星となって二人を助け、仇討の加勢までしたのである。

「ええんや、おたけを連れて行けば、借金はなかったことにすると言うてくれたんや。それに・・・」

「それに、なんどす?」

「あれは、おたけはわしの子やない。どこぞのお公家はんの種や。せいせいしたわ!」

 と言いながらも加助の頬には涙が流れていた。それでも加助はおたけを亡き妻おまつと一緒に一生懸命育てていたから、本心ではないだろう。例え血がつながっていなかったとしても、娘として慈しんでいたはずだ。

 それと子供ながら美しいおたけは、よく女衒(ぜげん)から狙われていた。例え偽の証文だと必死に抵抗をし、今回は何とかなったとしても、おたけは狙われ続けるだろうことは容易に想像できた。

「あてが、あてがおたけはんを助けます!」

 加助はもうええか、と言うと長屋の中に入り、戸を閉めて出てこなかった。お星が障子戸に耳を寄せると、中からはすすり泣く声が聞こえた。

 お星が年寄衆(自治をする町役人)らに聞いたところでは、おたけは三人の無頼漢たちに連れて行かれたという。西の方に連れられて行くのを見たと言う証言と、南の方へ運ばれたという目撃談が拮抗した。

「きっと伏見どす。伏見から船に乗せられて大坂へ連れて行かれはるんや。そやけど・・・」

 陸路西国街道を、淀川の西岸を駕籠が馬か何かで山崎宿、芥川宿を通って連行される可能性もある。陸路と言えば、淀川東岸、伏見から淀宿、枚方(ひらかた)宿、守口宿を経て大坂に至る大坂街道(京街道)というルートも考えられる。

「そやけど、まず伏見から船に乗せられるますやろうなあ。それと案じてしまう(心配なする)んは・・・」

 今年の春から続いている連続辻君殺し事件。一時鳴りを潜めていたが、このところ頻発し、多くの辻君たちが犠牲となった。もちろんおたけの母おふみも犠牲者の一人だ。今夜あたり、鴨川に下手人が、食い詰めた浪人が現れるとお星は見ていた。

 もし、おたけを探しに伏見に行けば、今夜は新たな犠牲が出るかもしれない。お星は鴨川の方向の空を見て言った。すでに星が瞬き始めている。

「辻君はんたちが心配どす。そやけどおたけはんのことも気になる。おたけを救い出して、あては鴨川にもどって下手人を成敗しますぇ」

 お星は着物の裾を持ち上げ、三条富小路通りから寺町錦へと駆け出した。

 

 楼蘭堂の二階で、バサッと風を切る音がした。お星が裏地の赤い黒のマントを被り、首元を留め具で止めた。頭には既に銀色の星印が縫い込まれた青いベレー帽を被っていて、マントの下は豊満で形のよい胸乳、括れを隠さないレオタードだ。腰に巻かれた藤色の帯に太刀と脇差を指し、深紅の仮面を顔につけるとお星は鴨川の星へと変身を遂げた。マントはともかく、ベレー帽、レオタードはこの時代その名はまだ無く、他で見かけることもまず無い。不思議な素材で作られたそれらは、女天狗鴨川の星を象徴するものであった。

「もうええか、お星ちゃん」

 お星が頷くと、屯太が障子を開けて入ってきた。

「屯太、手はずどおり頼むわね」

 鴨川の星となったお星の口調は京言葉ではなく、関東の武家の女のような言葉だ。

「ああ、西国街道を走って行ったらええんやな。ほんで、おたけちゃんを見つけたら、コロを伝書鳥にして飛ばすんやな」

 コロとはお星が飼っているフクロウのことだ。屯太は頭の後ろに手を置いている。ちいさな目は、鴨川の星=お星を信頼しきっている眼差しだ。

「ええ。無理はしないでよ、屯太。おそらくおたけは伏見を通って連れて行かれるはず。でも西国街道の線も捨てきれない」

「わかってるで。このだんとんこと団子鼻の屯太さまを舐めたらあかんで。おせ、いや、鴨川の星こそ無理は禁物やで!」

「ありがとう、だんとん!」

 

 そして、鴨川の星となったお星が楠木の枝から飛降り、白馬に乗って伏見に駆けだしたころに時は戻る。 

 筵をあけると、そこには桃割れ髪の美しい少女が猿ぐつわを噛まされ、両手首を後ろに縛られて寝かされていた。おたけである。

「へへへ、ええ女になるでこいつは・・」

 散切り頭の男はおたけの赤い桜の花模様の着物の裾をめくった。白い肌のむちりとした太ももが見えてきて、散切りの男はよだれを拭った。おたけは誰かに助けを求め、叫びをあげているが、猿ぐつわを噛まされているから何を言っているかはわからない。

 散切り男はおたけの太ももをいやらしい手つきでさすり始めた。おたけの細い眼が恐怖で大きく開かれた時だ。

「おい、売り物やで!何をしとるのや三治!」

 三治と呼ばれた男は散切りの頭を抱えながら言った。

「ええやないですか、ちょっとくらい乙吉親分!」

「阿保!だいじな売り物を傷物にしたら、わしが弁償せないかんのや!国松!筵、かぶせとけ!あ、待て!」

 乙吉と呼ばれた男がきれいに月代を剃ってはいるが、顔は傷だらけの中肉中背、年は四十くらいだろうか。乙吉は恐怖で震えるおたけを見おろして言った。

「もうちょっとの我慢や。大坂に着いたら、きれいな着物着て、化粧もして、うまいもん食べて、ええ生活ができるで。辛抱しいや。ほなら国松!」

 国松と呼ばれたやせ型の男は筵をおたけにかぶせた。筵はもごもごと動くが彼らは意に介さない。ここは京の玄関口にあたる伏見港。おたけは京と大坂を結ぶ三十石船(さんじっこくぶね)に載せられていたのだ。中肉中背の乙吉、痩せた国松、散切り頭の三治の三人は三月十六日(太陽暦5月3日)の夜、鴨東(おうとう、鴨川の東岸)の三条通に面した旅籠浦戸屋佐兵衛方で偽の証文を持ち出して平松作之助、芳江姉弟を襲い、美しい武家娘の芳江を苦界地獄へ連れて行こうとしたのだ。

「また、鴨川の女天狗が出てこなければええけどなあ。国松よ」

「まさか、この伏見くんだりまではきいひん(来ない)でえ親分!三治も会いたくないやろ」

 三人は鴨川の星に阻まれ、平松姉弟を「奪われて」しまった。その時、三治が髷を斬られてしまったのだ。それ以来三治は頭を剃り、散切り頭にしている。幕末とはいえ、まだ稀な髪型だ。三治は答えにずふてくされている。

「よおし、おい!船をだせや!」

 乙吉は二人の船頭に命じた。普通伏見と大坂を結ぶ三十石船は四人から五人の船頭がいるが、三人とおたけを乗せた船は二人しか船頭がいなかった。二人の船頭はおどおどしながら、舳先(へさき・船首)と艫(とも・船尾)に別れ、棹を差して船を出すのだった。

 

 お星は仮面の女剣士鴨川の星として、寺町錦小路から南へ二里(8キロ)ほど離れた伏見に着いていた。伏見は今でこそ京都市を構成する区の一つだが、当時は京から独立した港町だ。船宿が立ち並ぶ街を、阿波橋、京橋、言った船着き場を抜け、堤の上を進む愛馬白梅の鞍上でマントを翻す鴨川の星が探しているのは、もちろん十二歳の少女おたけだ。

 先述したとおり、おたけは辻君殺しによって命をおとしたおふみの姪で、母おまつ、つまりおふみの妹は既に亡く、その夫石職人加助の借金のカタに大坂の娼館に売られたのである。ただ、借金は既に生前のおふみが代わりに返したのだが、偽の証文を突き付けられた加助は泣く泣くおたけを差し出した。それを知ったお星が鴨川の星となって伏見へと駆け付けたのである。おたけは楼蘭堂によく遊びに来ていて、お星は彼女を可愛がっていた。

 本来なら今日は、辻君殺しの下手人を成敗するべく鴨川周囲を見回りたかったお星=鴨川の星であるが致し方なかった。

「このところ偽証文で女を売り飛ばす輩が増えているわね。辻君殺しを成敗したら、何とかしなければ。ん、あれは?」

 月が明るいことで派流を進む長さ五十六尺(約17メートル)、幅八尺三寸(約2.5メートル)の三十石(さんじっこく)船が見えた。ありきたりな船は宇治川に出て大坂方面に向かおうとしている。現代で言えば伏見港公園、京阪電鉄京阪本線の鉄橋と府道の桃山高架橋の間あたりである。 

 三十石船は米を三十石つまり米俵三十個載せられることが名前の由来で、通常は四人~五人の船頭が操って伏見と大坂を結んでいた。夜に伏見を出て朝に大坂の八軒屋、淀屋橋、道頓堀などに着く便が一般的だったから時間的に不思議では無い。問題は船頭の数だ。

「でも、あの船の船頭は二人、怪しい。それにあまり積み荷を載せていない」

 鴨川の星は白梅を飛ばした末に飛降りると、堤に係留してあった小舟を見つけた。櫓を漕いでその喫水線が高めの三十石船に近づいていく。堤では白梅が心配そうに見守っていた。

 船頭二人は、仮面の女剣士が近付いて行くことに気づいていない。舳先のそばにだけある粗末な屋根の下には三人の人影が見えるが、少女の姿は見えない。

(いや、絶対におたけ殿はあの船にいるはず!)

 そう確信した鴨川の星は、縄を投げて小舟をくくりつけるとマントを翻して、三十石船に飛び乗った。小さな船体が大きく揺れ、革長靴の踵が床板に当たった音がする。さすがに二人の船頭は気がついたようで叫び声をあげた。その叫びに屋根下にいた三人の男達が立ち上がった。

「な、何だ!また鴨川のめ、女天狗か!」

 そう叫んだのは頭目の乙吉だ。

「なんでいつも邪魔するんや!」

「もう、髷切ろうにもないでえ!」

(聞き覚えのある声?まさか?)

 鴨川の星が思った通り、彼らは春に鴨川の東岸の三条通りに面した古い旅籠、浦戸屋佐兵衛方で出会った悪徳金貸しの手先の無頼の輩たちだった。敵討ちの旅の途中、病に倒れた平松作之助芳江姉弟を陥れようとしたのを鴨川の星に「邪魔」されたのだ。中肉中背の乙吉、やせ型の国松、そして鴨川の星が髷を切ったからか散切り頭の三治の三人は、艫に立つ月光に照らされた女の身体の線を隠さない独特な装束に恐怖し、叫んだのだ。

「星!鴨川の星です。あなたたちはあの時の・・・。まだ悔い改めていないのですね」

 艫に近い方は屋根がなく、筵が荷物らしいものにかけられていたが、もぞもぞと動き、唸り声のようなものが聞こえた。鴨川の星は屋根から出てきた三人を睨みつつ、屈んで右手で筵を取っ払った。

 筵の下には荷物はなく、猿轡をかまされ、両手首を後ろで縛られたおたけがいた。街を歩けば誰もが振り返る美しい少女は恐怖でおびえている。

「やはり!あなた達は罪もない娘をまたもやあの時と同じようにかどわかして地獄へ突き落そうとした!」

「かどわかしやない!借金のカタや!」

「偽の証文のね」

「・・・」

 反論しない乙吉を睨みながら、鴨川の星は脇差を抜いておたけを縛る縄を切り、猿轡を取ってやると、彼女を立たせて抱きかかえた。

「もう大丈夫ですよ、おたけ殿」

「か、鴨川の星はん!な、なんであての名前を?」

 少女は仮面の女の顔を見上げながら言った。鴨川の星の噂はよく聞いていたし、その活躍を報じる挿絵入りの瓦版も見たことがあるからすぐに分かった。恐ろしく血の臭いがする女剣士を想像していたが、意外と自分に向けられた声は優しく、血どころか花のようないい匂いがした。

「あなたの叔母様、おふみさんに世話になったからです!おたけ殿、しばし眼をつむっていなさい」

 鴨川の星はおたけを後ろに、艫に下がらせた。腰を抜かせた船頭がいたが、おそらく乙吉らに脅されたのだろうとみていた。推測どおり、初老の船頭はおたけを抱きしめてやり、もう大丈夫やで、と言っている。

「船頭さん、おたけ殿を任せました。信じていますよ」

船頭はおたけの桃割れ頭を撫でながら頷き、鴨川の星もそれを返した。

「ええい、鴨川の女天狗め、ゆ、許さんで!国松!やれ!」

 国松は脇差を抜いて、鴨川の星に向かって飛び掛かった。紅緋色の仮面の奥の眼が光り、女剣士は二尺二寸の無銘の大刀を抜くと、国松の右手を斬り落とした。

「ぎゃあああああ!」

 国松は肘から先がなくなった右腕を振り回して絶叫を上げている。

「すぐ楽にしてさしあげます!」

 そう言うと鴨川の星は、国松の左胸目がけて切っ先で突き、すぐに抜くと倒れこんできた彼の着物の袖を左手掴み、船からつき落とした。乙吉と三治は絶叫した。

 三人の無頼の輩は一度、鴨川の星と対峙し、さんざんな目にはあったが命までは取られなかった。その後も、女天狗とも称される鴨川の星の活躍は瓦版や噂で聞いていて、「弱き」の為に「悪」を懲らしめても、命までは取らないというものだった。それが、今目の前で仲間の国松が右腕を落され、さらに心の臓を突かれて殺されたのだ。

「三治、いけ!」

 命じられた散切り男は床にあった大刀を取って、鯉口をきろうとしたが、鴨川の星が跳躍をし、飛び掛かった。三治が見上げた瞬間彼は右袈裟に斬られ、絶命した。女剣士は三治の亡骸も川に落とした。

 悲鳴のようなものが後ろで聞こえた。それは一瞬目を開けたおたけの叫びだったが、船頭が手のひらで目を閉じ、強く抱きしめ、見たらあかん、と言っていた。だが、それらが鴨川の星に一瞬の隙を作らせてしまった。

 乙吉は屋根下から何かを投げつけた。それは分銅がついた鎖鎌で鎖が鴨川の星の長い右足の脹脛(ふくらはぎ)、黒革靴に絡みついたのだ。

「ふ、深く!あぁん!」

 乙吉は立ち上がると鎖鎌を引っ張り、女剣士をひきずり倒した。大刀を落し、尻餅をついた鴨川の星に、今度は国松が持っていて落とした大刀を拾うと飛び掛かった。

「死ねや!鴨川の女天狗!」

 乙吉が剣を突きさした。すんでのところで、鴨川の星は左に避けるが、すぐに乙吉の剣は振り下ろされ、今度は右に避けた。そのようなことが何度も続いた後、無頼漢の剣の切っ先は女の喉仏の前で寸止めされた。

「ええ気になりおって、覚悟するんやなあ!」

「ここまでなの?」

 鴨川の星の無念の言葉を聞いたおたけは目を見開いた。そこには大刀を突き付けられた女剣士が最後の時を迎えようとしている姿があった。天狗鞍馬の黒椿と並び、京雀たちの喝采を浴びていた弱きを助ける謎の剣士が、自分の為に命を落そうとしている。

 船頭の身体の腕の中でもがいたおたけの手に、船を駆る棹が当たった。おたけはそれをもちあげつつ立ち上がった。

「えぇかげんにしいやああ」

 おたけはそう叫ぶと棹をまるで槍のように乙吉目掛けて投げつけた。槍は乙吉の鼻に命中した。

「ぎゃああ!な、なんや!」

 痛みの余り彼は大刀を落し、鼻に手をやって顔を左右に振った。鴨川の星は自らの刀を持ち上げて立ち上がると、下段から剣を突きあげ、乙吉の両腕の肘から先を斬り落とすのだった。

「うわあああああああ!腕が、腕がああああああああああああ!」

 乙吉は血で濡れた床に膝をつき、泣き叫び、命乞いをした。

「頼むわ、助けてぇ!命だけは、命だけは!」

 鴨川の星は冷たく言い放った。

「あなたのせいで罪なき女がたくさん、涙を流してきました。あなたに、いや、お前に生きる価値はありませぬ。地獄の閻魔大王に裁いてもらいなさい!おたけはん、目を閉じて」

 そう言うと鴨川の星は乙吉の首を船縁(ふなべり)に突き落とすと、彼の背中を踏みつけ動けなくし大刀を振り上げた。乙吉は泣き叫び、命乞いを続ける。

「閻魔さま、そちらへこの男を送ります。地獄のお白洲でお裁きください、」

 そう叫ぶと女剣士は彼の首を斬って落とした。首から上を無くした胴はすぐに川面に投げつけられ、沈んでいった。

 三十石船の舳先の船頭も腰を抜かしている。振り返ると艫のもう一人の船頭はなんとか立ち上がり、その前で赤い着物姿のおたけが両手を掴み、こちらを見ていた。

「怪我はないかしら、おたけ殿、そして船頭殿も」

「か、鴨川の星はん、おおきに、おおきに!」

 鴨川の星は艫のほうに歩くと、両手を広げ、おたけを抱きしめてやった。苦界地獄へ行く羽目だったのを助けられたおたけは、女剣士の腕の中でわんわんと泣くのだった。

「泣いていいのですよ。おたけ殿。もう心配ありませぬ。気のすむまでお泣きなさい。私はあなたの味方です」

 泣きながらおたけは思うのだった。

(鴨川の星はん、血の匂いもするけど、それよりも花のええ香りがするぅ。大菊?小菊?いや、ちがうで、お星はんが売ってはる異国のお花、ロゼとか西洋なでしこの香りや)

 鴨川の星のレオタード越しに感じる胸乳の柔らかさに幼い日のことを思い出したおたけ。見上げるとついさっき、無頼の輩三人を斬って捨てた女剣士は仮面の下から優しく微笑んでいた。

(ほんで、さっき、一回だけ、あてのこと、“おたけどの”やのうて、“おたけはん”って呼ばはったなあ。なんでどすやろうか・・・)

 船頭の二人はどうやら脅されて協力させられたようだった。鴨川の星は船尾の船頭に礼を言うと、二人諸共縛り上げ、目隠しをした。

「いきなり、襲われ目隠しをされた。何も見ていない、役人に聞かれたらそう言いなさい」

 そう告げると、乗ってきた小舟におたけと一緒に飛び乗り、櫓を漕いで堤へと向かった。

 鴨川の星が岸に近寄ると愛馬白梅が駆け寄ってきた。おたけを前に載せた女天狗は白馬の胴を軽く蹴るや、堤の上を駆けだした。

「鴨川の星はん、どこ行くん?京のうちに帰るのん?」

 長屋に帰れば、またさらわれるのでは、と怯えているようだ。

「私に任せておきなさい。おたけ殿」

 伏見長州藩邸の前を通り、京橋を渡って着いたのは船宿寺田屋であった。寺田屋は薩摩藩の指定の船宿であり、お星の父下川楼蘭もよく利用をしていた。お星も子供の頃何度か来たことあるので、女将のお登勢とは旧知の仲だ。楼蘭と母倫の葬儀にはお登勢も参列してくれたし、お星が楼蘭堂を再開したときは寺町錦に祝いに駆け付けてくれた。

 鴨川の星とおたけが着いた時間は大坂に向かう船がちょうど出たところで、宿の前に人気は少なかったが、それでも十数名は船を待つ客、客引きの女などがいて白馬に乗った女剣士の登場に目を見張っていた。

「どう、どう!」

 そう言って白梅を止まらせた鴨川の星は、鞍から降り、おたけを抱えて降ろしてやった。

「か、鴨川の星はん、ここは?」

 

大坂天満橋の八軒家浜へ向かう船が出たところで、寺田屋の周囲にいる人は多くはなかったが、それでも十数名はいただろう。彼らなのかざわつく声がし、馬の嘶きが帳場に座っているお登勢の耳に入った。

「何どすやろ」

お登勢は立ち上がり、大きな黒い目を大きく開いて外の空気を伺った。お登勢は十年ほど前に夫で主人の伊助を亡くしてからは、女将として事実上の主人としてこの寺田屋を切り盛りしている。

薩摩藩指定の船宿である寺田屋では、昨年過激な尊王攘夷派と藩から派遣された追っ手の薩摩藩士同志の斬り合いがあり、七名が死亡する悲劇的な事件があった。

今日は二階に大事な客がおり、お登勢も気を引き締めて帳場に座っていた。

 「どう、どう!」

と馬をなだめる声がしたが、それは女の声で、どこかお登勢には聞き覚えがあった。引き戸に影が映ると、お登勢は框(かまち)を越えて草履を履くと戸の前に立った。

「ごめんください。夜分に申し訳ございません。ごめんください」

影の声は敵意がなさそうだったので、お登勢は静かに戸を開けた。

「あ、あんたはんは・・」

お登勢は驚きの声をあげた。そこに立っていた長身の女は珍妙な格好だった。

星印が縫い込まれた青い頭巾、身体の線が露わになった濃紺の不思議な装束、腰に差された二本の刀、白くてふっくらとした太腿、膝から下を守る黒い牛革の脚絆、裏地が赤い黒の外套そして目かずらのような紅緋色仮面。濃い栗色の髪は髷に結わず洗い髪のように伸ばし、首の後ろあたりで帯によって結んでいた。そのような格好をする女などこの京、伏見に大坂など畿内には一人しかいない。

(か、鴨川の星どすなあ)

 驚きを隠さないお登勢だったが、その女剣士の横には桃割れ頭のあどけない少女が立っていたことにも目を見張った。

 鴨川の星は、少女を前に立たせると、油紙の包みを外套の裏地から油紙の包みを取り出して言った。

「船宿寺田屋の女将、お登勢さまですね。お初にお目にかかります」

そう切り出した鴨川の星。仮面の下の瞳は円らで、力強かった。鼻筋は高く、下唇が少し前に出ているが、艶っぽい口から出る声はやはりどこかで聞いたような気がする。鴨川の星は頷くお登勢に言葉を続けた。

「ここに寺町錦小路上ル円福寺前町の楼蘭堂のお星殿からの書状があります。申し訳ありませんがしばらくこの子を、おたけ殿を預かっていただきたいのです」

 おたけと呼ばれた少女はえっと言って鴨川の星を振り返って見上げた。お登勢は手紙を広げ、寺田屋と縦書きされた提灯に向けると読み始めた。

「確かにお星はんの字、どすなあ・・・」

お登勢はお星のことをよく知っていた。お星の父医術所楼蘭堂の医師下川楼蘭は大坂へ行く時、この寺田屋をよく利用をしていた。その娘お星も子供の頃何度か来たことあるので、お登勢とは旧知の仲だ。楼蘭が妻の倫と共に強盗に殺されたあとの葬儀にはお登勢は参列したし、昨年の春お星が楼蘭堂を花卉商兼薬種商として再開したときは寺町錦に祝いに駆け付けたのだ。お星は美しく成長していた。背は高いが、腰は低く、目は円らで鼻筋は高く、少し前に出た下唇が艶っぽかった。結綿に結った濃い栗色の髪も美しかった。そして手紙のやりとりは時々していたから、お星の筆跡はすぐにわかる。

そんなお登勢だが、目の前の鴨川の星の仮面の下の素顔がお星だとは想像すらできなかっただろう。

 

手紙にはおたけを巡る事情がお星の筆で書かれていた。京で辻君殺しが頻発していることはお登勢も知っていた。噂の仮面の女剣士が連れてきた少女おたけはその犠牲者の一人の家族なのだろう。そしておたけは偽の借金の証文の犠牲となり、苦界地獄へと送られそうになっていたらしい。おたけは恐らく船で伏見から大坂へ連れ去られようとしたところを、鴨川の星に助けられた、とお登勢はみた。そういえば、不審な三十石船を見た、と手代の吉兵衛が言っていた。手紙を読みながら、お登勢は紅緋色の仮面で素顔を隠した長身の女をチラチラと大きな黒い瞳で見やった。

(噂通りの珍妙やけど、色気のある恰好や。でも、目は優しくて強そうどすなあ。それに お初にお目にかかると言わはったけど、どこぞで会うたような気もしますなあ。それにお星はんは、なんで鴨川の星を知ってはるのやろう)

 いつの間にか寺田屋の前には、噂の女剣士鴨川の星を見ようと人だかりができつつあった。あれが女天狗か、ええ女やないか、といった声が聞こえてくる。そしてお登勢は決めた。

「よろしおす。楼蘭堂のお星はんの頼みやったら、弱い者の味方の鴨川の星はんのお願いどしたら、この寺田屋のお登勢、断れますかいな」

「ありがとうございます。お登勢さま。おたけ殿、しばらくはここ寺田屋で暮らすのです。いいですね」

「へ、へえ。あて、もう、おっとろしいめにはあわへんのん?」

「ええ、きっとここの女将、お登勢さまが守ってくれますよ」

「そうやで、おたけはん。あてにまかしとき。そのかわり、ちょっとはたらいてもらいますぇ」

 鴨川の星はお登勢とおたけに頷くと、指笛を吹き、いつの間にか姿を消していた白馬を呼び寄せた。おたけは鴨川の星に抱きついて言った。

「どこ行くのん?鴨川の星!」

「私にはこれから別の戦いがあるのです。おたけ殿、達者でね。お登勢さま、改めてこの子をお願いいたします」

 鴨川の星はお登勢、おたけに別れを告げると、鞍上の女(ひと)となった。鴨川の星は寺田屋の二階を見上げたあと、馬へ語りかけた。

「白梅!行きましょう!」

 鴨川の星は、愛馬白梅の右胴を軽く蹴り、京へと駆け出した。

 お登勢はおたけの肩を抱きつつ、鴨川の星を見送った。

(鴨川の星はん、不思議なお方や。橘の花の香の匂いがしたけど、どこかで嗅いだような気がしますなあ)

 お登勢の思考を大きな男の声が遮った。

「女将、お登勢さん、綺麗な女やったのお。あれが京で噂の謎の剣士鴨川の女天狗か」

 そう言って奥の階段で二階から降りてきたのは、身長六尺(180センチ)近い大男だった。髪の毛はもじゃもじゃで、普通の侍には見えなかったが、剣で鍛えた体躯と人懐っこい顔が印象的だった。

「坂本はん、上から見てはったん?あんたはん、惚れはったんかいなぁ」

「わしゃぁ、強い女がすきやきぃ。お嬢!おまん、鴨川の女天狗にたすけられよったかい?」

「お侍さま」

「なんじゃ?」

「星!」

「星ぃ?」

「鴨川の星どす。女に天狗はせっしょうやわ。ちゃんとよんであげてえな」

「おお、そうやったなあ。おまさんの言うとおりやか。こりゃあ一本とられちゅう」

 おたけは大柄の侍に向かって、命の恩人の女剣士のことについてたしなめ、侍は大きく笑った。その侍こそ、土佐の坂本龍馬である。

鴨川の星はもう少し後で、河原町通にある書籍商菊屋の前にてお星として龍馬と出会うこととなる。(「美しい星第四話」参照)お星は後に龍馬の妻となるお龍とも昔馴染みだ。鴨川の星=お星はこののち二人と何かとかかわることとなり、この寺田屋で龍馬は幕府の役人に捕らえられそうになるのを鴨川の星とお龍の活躍で助けられることとなるが、それはあと数年先の話である。

 おわり

Elle s’appelle Étoile de la Kamogawa=Une femme Tenguh.

“Sauvez cette fille!

Édition supplémentaire du Tueur de prostituēes au coin de rue.

Finer!

 

 Histoire bonus

おまけの話

 慶応二年(1866)一月二十一日。

伏見奉行所の同心たちに両手を掴まれ、寺田屋の女将お登勢は身動きできない。建物の周囲と同じくらいの捕り方達数十人が寺田屋の中に踏み込んでいて、坂本龍馬と三吉慎蔵、富山美蘭を捕えようとしている。三人は絶体絶命のはずだが、不思議とお登勢は危ぶんではいなかった。

(大丈夫や。あの“お三人”はきっと切り抜けはるわ)

 それよりも心配なことがあった。

(おりょうはんや。たしか風呂に入るとか言ってはった。お星はんも一緒のはず。あの二人はどうなっているのかいなあ)

 パアアアンと銃声が響いた。そのあと、龍馬の絶叫が聞こえた。神妙にしろとの捕り方の声が聞こえる。そのとき、寺田屋の屋根に人影が見えた。深夜七つ半(午前三時)とはいえ、七日目の半月が長身の女を照らしている。女は仮面で顔上半分を隠し、長い髪と外套が風に揺れていた。そんな女などこの京、伏見、大坂には一人しかないだろう。

(あれは、鴨川の星、前におたけを助けてくれはった鴨川の星はんが、坂本さまをたすけに来てくれはったんや!)

 同じように捕り方に両腕を掴まれている少女おたけも屋根の上を見上げ、かつて自分を苦界地獄へ向かう船から救ってくれた女剣士を見つめていた。お登勢とおたけは目があい、互いに頷いた。

 あれから二年と数ヶ月経っている。髪を銀杏返しに結ったおたけは確信していた。

(あてを助けてくれはった鴨川の星はんはきっとお星はんや)

 坂本龍馬、三吉慎蔵、富山美蘭が寺田屋に泊まる日にお星が京からやってきた。

そして幕府の伏見奉行所の役人達が龍馬らを捕えようと宿を囲んだときに鴨川の星が現れた、こんな偶然などないだろう。

(大事ないわ。鴨川の星がいや、お星はんがお三人に加わったら、おっとろしいものなどおへんぇ!)

やがて鴨川の星は表通り側の障子が突き破って龍馬達がいる部屋へと飛び込んでいった。さすがや、とおたけは思った。

「何者だ!」

 役人達の声がした。おたけは目を閉じて耳をすませた。

「鴨川の夜の水面を照らす星 朝霧たちし消える儚き・・・・私は鴨川の星、人はまた女天狗とも呼ぶ。そこにいる坂本龍馬殿、三吉慎蔵殿に、富山美蘭殿に助太刀いたす。伏見奉行所の諸君、覚悟!」

 続けて鴨川の星の口上が聞こえてきた。おそらく彼女は大刀を抜いたのだろう。おたけの瞼の裏に、銀の星が縫われた青い頭巾、身体の線が露わになる濃紺の不思議な装束、紅い仮面とその奥の円らな瞳を持つ鴨川の星の顔が映った。仮面の下には高い鼻があり、小さい紅小玉色の唇が思い出された。

続けておたけの瞼の裏の掛け軸にはお星の顔が映った。栗色の髪を島田髷の一種であるつぶし島田、上方の娘の典型的な髪型である結綿(ゆいわた)に結っているお星。眼はつぶらで涼しく、睫毛も長く、鼻は高くて彫りが深い顔立ちだった。口は小さく紅玉色で下唇が少し前に出ていて、微笑むと何とも言えない優しさを醸し出す、浮世絵の美人画に描かれるような美顔だった。そして鴨川の星とお星の顔が重なった。

(間違いあらへん。お星はんが鴨川の星や)

「すまんちゃぁ、またおまんに助けてもらうことになったぜよ!」

「坂本殿、ここは私にまかせて、二人でお逃げください」

 鴨川の星と坂本龍馬のやりとりを聞きながら、おたけは目を開け、二階を見上げるのだった。

おわり

FIN

 

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