幕末のラ・セーヌの星 鴨川の星 快傑女天狗 作:koh1968
La Légende de Étoile de la Seine au Japon.
Elle s’appelle Étoile de la Kamogawa=Une femme Tenguh.
“lèche noire d`angeⅡ”
「天晴れ 快傑女天狗鴨川の星 悪を成敗」
と書かれたその瓦版は謎の仮面の女剣士で、女天狗とも呼ばれる鴨川の星の活躍を報じるものだ。罪なき真っ当な商売をしている商家に難癖をつけて押込み、大金を奪おうとした浪人の一団を彼女が成敗をし、駆け付けた京の事実上の非常治安警察新選組に引き渡したというのだ。また、浪人の頭目宮川某は東山清寺の近くで芸妓舞妓を襲ったとも言う。
女天狗鴨川の星は、星印が縫い込まれた頭巾をかぶり、外套に隠れているとはいえ、身体の線が露わになった不思議な装束を身に着け、紅緋色の目かづらのような仮面で素顔を隠す謎の剣士だ。瓦版には白馬に乗って立ち去ろうとする鴨川の星、彼女に手を合わせる商家の主と番頭、芸妓と舞妓、縛られた三人の浪人、駆け付ける新選組の隊士三名が描かれていた。
「修郎はん、瓦版に格好よう書いてくれはりましたなあ」
その瓦版を手に取っていたのは、鴨川の星の正体である寺町錦小路上ル西円福寺前町の花屋であり、薬種商でもある楼蘭堂の女主人お星(せい)こと下川星だ。その瓦版は楼蘭堂に住み込みで働く、お星にとっては家族同然の団子鼻の屯太の兄弟分勇太が、連れ出されるときに落としたものだ。
「勇太はんは、あてにたすけてほしかったんどすやろうなあ。ん?」
お星は外に殺気を感じ、瓦版を懐にしまった。
今日は三月十六日、時刻は、申(さる)の刻昼八つ半(午後三時)位、平吉とよばれた月代を無精に伸ばした男は二人の手下を連れて、寺町錦小路の楼蘭堂に辿り着いた。平吉は店先に吊された看板をコツンと叩いた。
「ごめんなせえよ」
平吉はそう言って楼蘭堂の、店の中に入るもそこにはだれもいなかった。手下の一人雑平(ぞうへい)には通り庭の奥の座敷庭を見に行かせ、もう一人の手下魚助(うおすけ)には店前で警戒に当たらせている。平吉は手下に対して、相手は女だが油断はするな、と言ってある。
店の中のミセニワの壁には木桶が階段状に縦に三段、横は十列並び、そこには小菊や、西洋の花ロセ等が活けられていたが、花などに興味がない平吉の視界には入らなかった。嫁かくしの暖簾をくぐり、走り庭に入ってもだれもいない。それは店の間、ダイドコ、奧の間も一緒だった。
「おかしい!誰もおらん!」
草履を履いたまま店の間に上がった平吉は、襖を開けて階段を駆け上がった。二階で障子を開けようとしたとき、その障子が突然倒れ、木刀が飛び出してきて平吉の胸を突いた。木刀を持っていたのは黒襟の萌葱色の小袖を着た栗色の髪を娘島田に結った女、この店の女主人お星だった。
「うううう!」
呻き声を上げながら何とか態勢を立直し、懐から匕首(あいくち)を取り出した平吉だったが、お星の燕のような動きに何もできず、右手に飛び込んできた彼女に木刀で右胴を打ち付はらわれた。余りの痛さに堪えきれず、平吉は階段を転がり落ちていった。お星は階下に下りると、木刀を右手で握ったまま頭を打って意識を失った平吉をまたいで、玄関庭に降りた。
「あと一人、違うわ、二人はおりますなぁ」
雑平は便所棟(トイレ)の横を通り、土蔵の前に出て座敷庭の植木を眺めていたが、平吉が階段から落ちる音を聞くと、草鞋を履いたまま縁側から座敷、ダイドコ、上のダイドコ、玄関間と襖を開けて進み、口から泡を吹いて仰向けに倒れている平吉を見た。
「親分!こ、これは!」
人の気配が通り庭を通って奥の庭に向かうのを感じると、雑平は玄関庭の土間に降り、玄関庭へと駆ける。便所棟を通って土蔵の前に出た雑平は、さっきは閉まっていたはずの蔵の戸が開いているのを見た。
「ど、どういうことだ!」
雑平が中に入ると床の木の板が三枚ほど外され、地下に続いている通路のようなものが見えた。
「ここから逃げよったんか?」
雑平は髷を撫でつつ、板が外された床の中を覗き込んだ。下からひやりとした空気が流れてくる。その時だ、バンと言う音が上からした。雑平が見上げると、天板が外されていて、人影が落ちてくるではないが、思わず帯に挿した脇差に手をやったが遅かった。女の着物の裾がなびくのが見え、陰部が丸々見えたあと、雑平の意識は飛んだ。
お星は土蔵の二階から両手で木刀を握って飛び降り、雑平の後頭部を木刀の切っ先で突いた。唸る間もなく侵入者は失神し、土蔵の床下の収納部に真っ逆さまに落ちた。落ちる男の肩を踏み台にし、お星は床の板に着地した。
「ふうう。思ったよりたいしたことあらしまへんどしたなぁ」
そう言ってお星が息を吐くと、蔵の外から人の気配がした。それはすぐに男の声となった。
「あらら、何ですの?お星はん!」
「あら、吉兵衛はんやないの」
それは、倉田典膳=鞍馬の黒椿の忠僕で、堀川丸太町で小間物屋を開いている黒姫の吉兵衛だった。
「ええとこに来てくれはりましたなあ。ちょっとこの男はんを縛っておくりゃす、それと・・・・」
「へいへい、表と階段下におった二人は縛っておきましたでぇ」
「さすが吉兵衛はんどすなあ」
「へえ。お星はん、その成り(着物姿)でもけっこういけはるのどすなあ」
「うふ。伊達に鞍馬の山奥で三年も修行したわけやあらしまへんしぇ。で吉兵衛はん!」
お星は吉兵衛にこれまでに経緯を話した。
「ほな、屯太が危のおすなぁ、お星はん!」
「へえ、助けに行かんとあきまへん。吉兵衛はん、あて出ますよって店を見ていておくりゃす」
「わてはかましまへん。でも、いま倉田はんは、天狗こと鞍馬の黒椿、京にはいませんよって、お星はんだけでいけますか?」
お星は一瞬肩を落としたが、すぐに気を取り直していった。
「いけます。あてをだれやと思うてますのん」
お星は不敵に笑うのだった。
フランス大革命の前夜、花屋の娘として育てられた美少女シモーヌはラ・セーヌの星と名のり、剣を取って戦った。シモーヌは、自分が王妃マリー・アントワネットの妹であることを知らないまま、その剣を弱き人々の為にふるった。
そして幕末維新前夜、極東の島国日本の京。花屋の女主人お星(せい)も鴨川の星と名乗り、剣を取って戦う。
しかし彼女は、自分がシモーヌの曾孫であることと、徳川幕府最後の将軍となる一橋慶喜の妹であることを全く知らなかった。
幕末のラ・セーヌの星 鴨川の星 快傑女天狗!
「天使の黒い矢‐第二話 一橋慶喜との邂逅‐」
時刻は七つ半(午後五時)梅小路村(今の京都市下京区)。瀬戸内巌流一座が去った稽古場そばの納屋の戸が開いた。ずっと柱に縛られたままだった屯太はずぶ濡れだった。便意を催しても厠(かわや)へ行くことは許されず、用便は垂れ流しだ。だが、それだと納屋の中が臭うので時折全身に水をかけられていたのだ。
戸を開けたのは美しい尼僧姿だった。それは高台寺星雲尼と名乗るお星であった。お星は屯太に大事ないか、と声をかけながら縄を解いた。
「お、お星ちゃん?た、たすけにきてくれたん?いや、その姿は高台寺の星雲尼さまやなあ」
「屯太、ごめんなさい。このような仕儀になっていたとは・・」
尼僧姿のお星は星雲尼としての言葉つかいだ。縄が解かれ、前によろけた屯太をお星=星雲尼は強く優しく抱きしめた。
「よく耐えましたね、屯太」
「あかんて、くさいやろ?におうやろ?」
「そのようなことはありませぬ。さぞ、寒かったことでしょう」
屯太は抱きしめてくれる尼僧姿のお星の暖かさと心地よい香りに涙が出そうになった。
「そ、そんなことよりたいへんなんや。勇太は今夜、大覚寺でお芝居をするんやけど、そのときにぶたのような殿さまを殺すよう言われているんや」
「豚?それはいったい・・・」
と言いかけたとき誰だ、という叫びと共に見張り役の男が入ってきた。散切り頭に着流し姿である。辰吉が屯太を連れ戻しに来たとき、寺町通りにいた一人だ。
「申し訳ありませぬ。この子は連れて行きます!」
「あの時の尼さまじゃな。何者じゃ!」
「今は高台寺の尼僧、星雲尼でございますが・・・」
「舐めなさんなよ!」
そう言うと散切り頭の男は納屋の隅に転がっていた木刀を拾って正眼に構えた。お星にはこの男も成りこそ違え、侍、少なくとも足軽以上だろうと思えた。
「鴨川のぉ夜の水面を照らす星ぃ 朝霧たちてぇ消える儚きぃ・・」
尼僧姿のお星は、足をゆっくりと男の右側に動かしながら舞うかのように歌った。
「な、何者じゃ!馬鹿にしよるんかあ」
お星はたあっ!と叫ぶと共に白い頭巾と黒い法衣をあっと言う間に脱ぎ捨て散切りの男の前に投げつけて飛び上がった。散切りは予想以外のことに木刀の切っ先を震わせたが、法衣が頭にかかりそうになり、それを防ごうとして前への注意力がそれた。
そして男が注意を前に向けたとき、そこに立っていたのは尼僧ではなく、星印がついた頭巾、身体の線が露わになる濃紺の装束に裏地が赤い黒の外套を身に付け、紅緋色の目かずらのような仮面で白い顔を隠した髪を後ろに垂らした女だった。腰の帯には大刀と脇差しが差されている。男もそんな女の噂は聞いている。京には一人しかいないであろう女天狗こと鴨川の星だということはわかった。
散切りは叫びながら木刀を上段に構えて突進しようとしたが、切っ先が梁にひっかかってしまい、そこを鴨川の星に峰打ちにされてあっけなく倒れた。
「さあ、屯太、この頭巾で身体を拭いて。着替えも持ってきています」
「おおきに鴨川の星。急がんとあかんで!」
散切りを柱に縛り、身なりを整えた屯太と一緒に納屋を出た鴨川の星は右近馬場通りに出ると指笛を吹いた。音を聞いた梅小路の村人達が出てきたあと、さらにもう一度吹くと上の方から馬の蹄の音が聞こえてきた。
「女天狗や!」
「鴨川の星や!」
集まってきた人々の声を聞きながら、駆けてきた白馬の白梅に飛び乗った鴨川の星の後ろに屯太が飛び乗って女剣士のマント越しに抱きついた。鴨川の星は愛馬の向きを北に向け、群れる村人をかき分けると洛西に向かって駆け出すのだった。
「屯太!しっかり掴まっていて、急ぐわよ」
「分ってるで!わしをだれやと思うてんねん。だんとんこと団子鼻の屯太、鴨川の星の子分やで」
「その意気よ。白梅!頑張って!さあ、大覚寺へ!」
二人を乗せた白馬の白梅は洛北へ向かって駆け去るのだった。
この日三月十六日は太陽暦で言えば四月二十一日、日没は午後六時半くらいだからまだ明るく、鴨川の星は道を行く人に当たらないよう、白梅を駆けさせた。畑仕事帰りの農夫、行商人らは皆、珍妙な身なりの女を乗せた白馬の出現に驚いている。
鴨川の星の背中にしがみつきながら、屯太は知っている限りの情報を話した。瀬戸内巌流一座の座長辰吉は大林辰次郎という長州藩士で、巳吉はその弟巳三郎だと言うことを話し、陰謀には中原某、石倉某という公家たちが絡んでいることも伝えた。
「急がなくてはね。その豚の殿さまが殺される前に。そして勇太が下手人になる前に」
黒姫の吉兵衛によれば鞍馬の黒椿=倉田典膳は京を離れていると言う。今宵は助けを期待できない。敵の全容はまだ分らないが、今日は一人で、いや屯太と二人で成し遂げなければならない。
(できる。私は負けませぬ。鞍馬の黒椿さまがいなくとも勝ってみせます)
空には星が瞬き始め、東山の峰から満月がのぼろうとしていた。目指すは洛西、嵯峨野の大覚寺である。
大覚寺は平安の世の初期に嵯峨天皇が建立した離宮「嵯峨院」を前身とする皇室ゆかりの真言宗大覚寺派の大本山である。本尊は不動明王を中心とする五大明王だ。境内には中国の洞庭湖を模したといわれる外周九町十間(約1キロメートル)の大沢池があり、そこに面して本堂である五大堂が建てられている。
五大堂の前には二十七坪(約90平方メートル)の観月台が設けられていて、そこには公家の石倉重薫(しげただ)、中原房道らとその女房たち、そして招かれた一橋慶喜とその家臣らがいた。慶喜一行が観月台の中央に、北側に石倉家、南側に中原家が陣取っている。
中原、石倉らはどちらかと言えば公武合体派、佐幕派の公家であり、一橋家用人沢尻竹五郎を通じて今宵の非公式な観月の宴に招待してきたのだ。慶喜の横には妾のお芳、後ろには側近の平岡円四郎、原市之進がおり、その後ろに沢尻竹五郎、川村恵十郎がいて、さらに渋沢篤太夫(後の栄一)、成一郎(喜作)が続いていた。石倉、中原らの挨拶をうけた慶喜とその側近平岡円四郎、原市之進らは今宵の宴について特に警戒はしていなかった。
大沢池には観月台の前から水面に延びた特設の池舞台があり、そこでは能が舞われていた。舞台の両横には龍頭船が浮かんでかがり火を焚いており、すでに星と満月が輝きつつある酉の刻暮れ六つ(午後六時)の川の上の舞台を照らし、幻想的な光景を演出していた。
将軍後見職の辞職も申し出ていて、公務も暇になっていた慶喜は、今宵の宴を楽しんでいる。料理は湯豆腐、小芋、水菜、筍などを中心とした精進料理で伏見の酒も出された。
「円四郎、なかなかいけるではないか。特にこの筍の煮物と木の芽和えは絶品である」
「乙訓で取れた筍でさあ。美味いもんですなあ」
乙訓とは筍の名産地として名高い京の南郊乙訓(おとくに)郡(現在の京都府長岡京市、向日市)のことである。
「ああ美味い。だが、余は豚が食べたい。豚肉は無いのか」
慶喜は豚肉が好物で有り、豚が好きな一橋家当主ということで「豚一殿(ぶたいちどの)」というあだ名までついていた。
「殿ぉ。ここは寺ですぜ。それも朝廷ゆかりの・・」
「わかっておる、戯(たわむ)れに言ったまでのこと。お芳、楽しんでおるか」
慶喜は微笑んで平岡とお芳に言った。
「ええ。さっすが、京でござんすねぇ・・・」
江戸の火消しで侠客新門辰五郎の娘、慶喜の上洛に付いてきていて身の回りの世話をしていたお芳も楽しんでいるようだ。火消しの娘だが髪は武家の奥方の格式を示すおさ舟に結っていて瑠璃色の留め袖を着ていた。
一方、後ろの方に控えている一橋家家臣渋沢篤太夫はこの宴にあまり感心をしていなかった。京には一時より収まっているとは言え、自分たちの思想に反する者を天誅と称して暗殺する浪士が跋扈していて、政局への復帰を狙う長州派の志士も暗躍していると聞いているからだ。
「警備も手薄なこの禁中ゆかりの寺に、我が主君慶喜公を狙う輩が来襲すればどうなるのか。織田信長公の本能寺の変の再来となればどうする、篤太夫よ」
「そうならぬよう、我らがいるのではないか。成一郎!」
「それはそうだがのお」
二人は郷里で神道無念流を学んでおり、篤太夫は北辰一刀流に入門もしていて剣の覚えはある。だが、大刀は観月台に上がる前に寺に預けていて、腰に差しているのが脇差だけであるのが不安ではあった。
池の上での能など頭に入らなかった二人だが、そのうち上司である平岡円四郎から頼まれている案件を思い出した。慶喜の生き別れの兄弟を探すという事案である。だが、いかに徳川の血を引く者とはいえ、数えで十九歳位という以外に手がかりはなく、男か女かも分らない兄弟を探すのはいかに貴人とはいえ難しかった。
「母親は背が高かったと聞く。背が高い男か女を手がかりに捜せばよいのではないだろうか」
「篤太夫、背が高い男女などわりといるぞ」
「そうだな。成一郎よ、背が高い女、と言えば思い出さねえか、あの目かずらをつけた女の・・・」
「女天狗、鴨川の星だな。背丈が高く、年も十八から二十歳位に見えたの」
渋沢従弟が京に出て来たのは文久三年(1863年)の十一月下旬だった。まだ、一橋家には仕えておらず、東本願寺近くの珠数屋町通りの旅籠相州屋に泊まっていた篤太夫と喜作は、京の情勢を探るべく年末まで連日、洛内の諸藩の屋敷を訪れたり、夜は花街で志士達と交流を持ち、時勢を論じ合ったりしていた。
そんなある日、花街の一つ北野天満宮近くにある上七軒の茶屋ときわを土佐の浪士達と出たところを、新撰組と同じく会津藩主京都守護職肥後守松平容保麾下の見廻組に不逞浪士と勘違いをされ、問答の末に捕縛されそうになった。やがて乱闘となったが、酒が入っていたこともあり、剣も冴えず危うく斬られそうになったところへ現れたのが鴨川の星だったのだ。
マントと濃い栗色の髪を翻しながら身体の線が露わになる不思議な装束に身を包み、素顔を仮面で隠した女剣士の太刀筋は、篤太夫が江戸のお玉が池千葉道場で学んだ北辰一刀流に似ていて、芸妓の舞のように美しく且つ力強かった。だが剣士とは言え、女に助けられた事が恥ずかしく、このことを他人に漏らすことはなかったし、家族への文に書くこともなかった。
「さあ、渋沢殿!ここは任せてお逃げなさい!」
仮面の下の円らな目は凄みがあるが、慈悲の心を感じさせた。鼻は高く、小さな口の下唇は少し下にでていたが、頬は白く、きめ細かった。
「な、何故、我らを助けてくれる?そ、それに名前をどうして?」
後の栄一渋沢篤太夫は鴨川の星に問うた。
「貴方にはご恩がありますゆえ、さあ、早く!」
仮面の女剣士は見回り組を相手に大立ち回りを演じ、渋沢従弟は何とか逃げることできた。
「何の恩なのか?わからんのう成一郎!」
「そうだ、背の高い女と言えば、その何日か前に祇園であった、あの芸妓!何て言ったか」
「花星だ。花に星と書いてかほ、良い女だった・・・」
上七軒での宴に先立つ三日前、祇園の茶屋菊水での土佐浪士の座敷に招かれていた渋沢従弟は、厠(かわや=トイレのこと)に立ったかえり、間違って他の座敷の襖を開けてしまった。そこには黒紋付に黄金色の博多帯を締めた芸妓が座っていた。奴島田は濃い栗色で、鼻が高かった。その芸妓は間違って襖を開けた篤太夫と成一郎を優しい眼で見上げた。白粉(おしろい)を塗った顔はハッとするほど美しかった。他に芸妓が一人、舞妓が二人いたが、女としての器量は比べようがなかったのだ。
「す、済まぬ!間違えたようだ!」
慌てる篤太夫に、その座敷の主らしい商家の旦那が言った。
「花星、お武家さまを連れて行ってあげなはれ」
「へえ、お侍さま。土佐さまのお座敷どすなあ?こちらどすぇ」
花星と呼ばれたその芸妓は立ち上がると背が高く、小さな口から出た言葉は気品があり、身体の動きは優雅だが隙がなかった。渋沢従弟は何も言えず、花星について行くだけだった。
すっかり酔った渋沢従弟が菊水を出て通りを歩いていると、辻で騒ぎがあった。見ると、きちんとした羽織と袴を身に着けた、おそらく西国諸藩の京都留守居役らしい武士六人で、芸妓舞妓を取り囲んで罵声を浴びせている。
「成一郎、あれはさっきの・・・」
「かほ、とか言った芸妓じゃねえか」
花星ともう一人の芸妓、二人の舞妓たちが因縁をつけられているようだった。一緒にいたであろう男衆(おとこし)は逃げだしたのか、三味線等を入れる箱が地面に落ちている。
「さっきから言うてます。うちらは遊女とはちがいますぅ。芸は売っても身体は売らしまへん」
侍の一人がもう一人の芸妓の腕を掴み、舞妓二人は後ろから羽交い絞めにされた。
「や、やめておくれやす!あぁ!」
見ると花星も侍の一人に腰に手を回され、尻にさすられている。
「見てられぬ!」
そう言った篤太夫は侍たちに突進し、まず花星を自由にし、続けてもう一人の芸妓を助けた。やれやれといいつつ従兄の成一郎も続き、舞妓二人を解き放った。五人の侍は剣の心得など無いに等しいらしく、渋沢従弟の凄みにまけて退散していった。
「おおきに、すんまへん!たすかりましたぁ」
「危ないところだったな」
花星は礼を言って改めて祇園の置屋光善の花星、花に星とかいてかほと名乗り、篤太夫と成一郎も自己紹介をした。他の芸妓と舞妓も名乗ったのだが、篤太夫は花星の顔ばかり見ていて頭に入らなかった。
「本当にきれいな芸妓だったなあ・・・」
「篤太夫、背が高いと言えば、寺町通の・・」
「楼蘭堂とかいう花屋、女主人のお星さんか!」
今月の始め、寺町通を歩いていると長身の女性が、水が入った木桶を持って、路面に水を撒いているのが見えた。「花卉薬種取扱ひ楼蘭堂」と書かれた看板のそばである。それはその店の女主人、お星だった。篤太夫は彼女に見とれてしまった。お星の濃い栗色の髪を娘島田に結った濃い栗色の髪、色白で肌きめ細かい肌、眼はつぶらで涼しく、睫毛も長く、鼻は高くて彫りが深い顔立ちだ。口は小さく紅玉色で、下唇が少し前に出ている。背丈はこの時代としては高めで五尺五寸(165センチ位)だ。嫌みの無い艶やかな雰囲気を出す姿は浮世絵から飛び出したかのようだ。白い星模様が描かれた黒襟の萌葱色(もえぎ・黄緑)の小袖に白の前掛けをしていたお星は、篤太夫の視線に気が付くとゆっくりとお辞儀をした。
「渋沢さま、どしたなあ・・」
「な、何故名前を・・・・」
「憂国の士、弱きを助けるお侍さまと言うたら、渋沢さましからあらしまへん、ささ、どうぞお入りやす」
わけが分からないまま渋沢従弟はお星の店に入り、西洋のロセという赤い花を木桶毎買い、主一橋慶喜が住む弱集屋敷の中の書院に飾ったのだった。
彼女が京雀たちに評判の謎の仮面の剣士女天狗鴨川の星だとは知らないし、幻の芸妓と呼ばれている花星だとは、想像すらできないのであった。
鴨川の星としてたまたま上七軒にいたお星は、芸妓花星としての自分を救ってくれた渋沢従弟の危機を見ると捨てては置けなかったのである。
「な、篤太夫!背が高い者など、おなごだけでもこれだけ、鴨川の星、芸妓の花星、花屋のお星とこの京にはたくさんおるのだ。殿の兄弟を探すのは至難の業だぞ!」
「そうだなあ。お、能が終わったようだな。この後は子供が演じる芝居らしい」
「桃太郎と照助物語だそうだ」
「照助?桃太郎は知っておるが、テルスケなど知らぬぞ、そんな話は・・・」
「何でも異国の物語を、舞台を日の本に移した芝居らしいが・・・」
照助を演じる勇太は、五大堂の南側の白砂庭園に居て、一幕目の芝居桃太郎にかかる歓声を聞きながら、役柄に集中しようとしているときに巳吉に声をかけられた。役柄の弓の名手、天使(あまつか)照助よろしく鹿の毛皮を着、楊弓を持ち、腰に刀を差し、頭には髪の毛を腰まで伸ばしたかつらを着けている。
「勇太よ、お前がやる武家はのお、豚一殿とあだ名される憎き幕府の将軍後見職、一橋中納言慶喜じゃ」
「ぶたいちどの?ひとつばしちゅうなごんよしのぶ・・・」
その名前は勇太も聞いたことがあった。今の征夷大将軍徳川家茂と将軍の座を巡って争い、英明で知られる一橋家の当主だ。家茂の上洛に従って慶喜も二条城に入り、普段は近くの若州屋敷で生活をしているらしい。子供達の間でも立派なお殿さまと言われていた。
「失敗してはならぬぞ。お前の弓が世を救うんじゃ」
「よをすくう?そ、それで、と、屯太は、屯太兄やんは・・・」
「勿論無事じゃ。じゃがお前の気持ちが変わったり、しくじったりしたら、わかっちょるな」
勇太の足が小刻みに震えた。それを知ってか巳吉は勇太を抱きしめた。
「稽古どおりじゃ。稽古と同じようにやればええのじゃ。さ、行くけえな」
可愛らしい少年達が演じる「桃太郎」はお芳や公家の女房達の歓声を浴び、男達は桃太郎の太刀さばきに感心をした。石倉重薫、中原房道は一橋慶喜に酒を勧めながら、ご機嫌を伺っている。
二人は江戸幕府の創始者徳川家康の再来と評される慶喜が宴を楽しみ、心地よく酔っていることに安堵し、眼を合わせたがその表情が固いことを平岡円四郎、川村恵十郎らは気にはしていた。だが上七軒の芸妓らがしきりに酒を勧めてくるのをむげに断ることも出来ず、少しずつ酔いが回ってきていた。
そして「照助物語」である。瀬戸内巌流一座座長辰吉が物語の流れを弁じ始めると、慶喜一行はその芝居に引き込まれていった。
そのあらすじは、美濃国のとある村の美しい娘、おまちを手込めにせんとする悪徳な米問屋桔梗屋利兵衛を、勇太演じる弓の名手の天使(あまつか)照助が弓矢でこらしめる。桔梗屋は領主野川治兵衛に照助を無実の罪で訴え、照助は窮地に陥る。治兵衛は照助に息子善太の頭に橙を載せ、それを射貫けば罪を許そうと言ったのである。
池舞台の真ん中には橙を頭に載せた善太役の五歳の子供吾作が立っていた。勇太は足の震えを抑えながら、二尺八寸(84センチ位)の楊弓を構えた。九寸(27センチ)の矢は二つあり、一本は白くて矢じりの代わりに丸い小さな鞠が付いている。万一外したとしても善太=吾作が命を落とすことはないし、怪我もしないだろう。
だが、もう一本の漆黒の矢は毒を塗った鋭い矢じりがついていた。勇太演じる天使照助は弓を引き、七間半(13.5メートル)先の池舞台に立つ善太の頭上の作り物の橙を狙う。橙を射貫いた後、振り返って観月台の真ん中にいる一橋中納言慶喜を射貫く団取りなのだ。狙われているとは夢にも思わない慶喜とその一行は息を飲んで勇太を見守っている。
勇太は芝居が始まる前の一瞬、一橋慶喜の姿を見た。暗くなってきているのではっきりは分らなかったが、とても悪い人には見えなかった。本当に慶喜を殺して世の為になるのだろうか、と疑問に思った勇太。
(でもひとつばしちゅうなごんさまをころさなければ、屯太兄やんが・・・)
幼い頃から苦楽をともにした、団子鼻の屯太の優しい顔が脳裏に浮かぶ。京でやっと会えたというのに、彼の命は自分の手にかかっている。
段取りよりも少し時間が経過し、座長の辰吉、立師の巳吉の視線が背中に刺さった。やむなく勇太は白い矢を放った。満月の下、矢は風を切って飛び、見事善太の頭上の橙に命中した。観月台から歓声があがり、慶喜はお芳とともに立ち上がった。
勇太は身体の向きを変え、三間半(6メートル30センチ位)離れた慶喜に向けて矢を向ける、はずだった。が、雄太は満月が輝き、星が瞬く夜空に向かって黒い矢を放ったのだ。巳吉の叫びが聞こえたが勇太は無視をし、楊弓を捨てて池舞台の花道に土下座をした。
「ひとつばしちゅうなごんさまー。おゆるしください。わしは、わしは、ちゅうなごんさまを矢でころすよういわれてたんやぁ。そうせんと、わしのだいじな兄やんが、屯太兄やんがころされてしまうんやぁ!」
突然の少年の告白に観月台の男達はどよめき、公家の女房や芸妓や舞妓達の悲鳴があがった。平岡と川村が進み出て慶喜とお芳を守る態勢に入った。原は背後を守るが、沢尻は何故か動かない。
「勇太ぁ!何をふざけよるんじゃぁ!」
観月台のそばに座っていた巳吉が立ち上がり、駆けだした。腰に差していた脇差しを抜き、勇太を殺しそうな勢いだった。いや、殺すつもりだったのであろう。
勇太が目を閉じ、頭を抱えたとき、風を切る音がし、その刹那巳吉の悲鳴が聞こえた。脇差を持つ右手首に星形の手裏剣が刺さっていたのだ。
「狙われていたのは、一橋中納言慶喜公だったの?」
「ど、どこが豚やねん」
観月台から南側に八間(14.4メートル)程離れた赤松の木の枝の上で、仮面の女剣士鴨川の星と屯太は気配を消して様子を見守っていたが、勇太の告白を聞き、狙われていたのは将軍後見職一橋中納言慶喜と知った。鴨川の星は慶喜に会ったことは勿論ないが、その羽織袴と気品のある鼻筋の整った顔立ちからすぐに観月台の大沢池側中央に居る人と分った。そして慶喜に豚一殿、豚を好んで食べる一橋殿のあだ名があることを瓦版売りの修郎から聞いていたことを思い出したのだ。
鴨川の星は、勇気ある少年勇太を殺さんとする巳吉こと長州藩士大林巳三郎に向かってマントの裏地から取り出した星形の手裏剣を投げつけた。これまで手裏剣を実戦で使ったことはなかったが、剣と同じく奧鞍馬での修行時代に師の大天狗こと天辻平七郎から学んでいて、今夜新しい装束と共に持ち込んだのである。
「屯太、行くわよ」
「おっしゃ!」
鴨川の星は赤松から飛降り、大沢池沿いを、両拳を握りしめ、白い太腿を上下させつつ駆けた。その後を屯太が続く。走りながら鴨川の星は新しい装束の着心地に満足した。胸甲帯は豊かな胸乳の揺れを抑えてくれているし、レオタードとマントは池から吹く風から体温の低下を防いでくれる。観月台の人々は状況が飲み込めない、さらにマントを翻す仮面の女の登場に驚いているが、女天狗だ、鴨川の星?と叫ぶ声も聞こえた。
鴨川の星は大刀を抜くと、刺さった手裏剣を抜こうと必死の巳吉の右肩を峰で打った。そして手裏剣を抜くと衿を掴んで身体を起こさせ、右拳で鳩尾を思い切り突いた。
「ううううう!」
巳吉が池舞台の花道上に唸りながら倒れ込むと、ようやく勇太は手を離し、顔をあげた。そこには優しい視線で見つめる女が立っていた。大刀はすでに鞘に納めている。
「勇太殿、もう大丈夫よ。ほら」
屯太が追い付いてきて勇太に飛びかかるようにして抱きしめた。
「と、屯太兄やん!ぶじやったんや?」
「あたりまえや。まあ、この鴨川の星が助けてくれたんやけどな」
「か、かもがわのほし・・」
勇太はそばに立つ、赤い仮面で素顔を隠し、長い髪を結わずに下ろし、不思議な装束を身に付ける美しい女を見上げた。女天狗とも呼ばれる謎の剣士鴨川の星のことは瓦版や噂で知っていた。でもまさか自分と兄貴分の屯太を助けてくれるとは夢にも思わなかったし、なぜ、自分の名前を知っているのかも分らなかった。
そんな鴨川の星は仮面の下の優しげだった瞳に怒りの炎を立たせ、観月台を見上げていた。池から吹く風が栗色の髪と黒いマントを揺らせている。
「石倉さま、これはどういうことか?」
平岡円四郎が慶喜とお芳を守りつつ佐幕派の公家石倉重薫に糺した。石倉は頭を抱えながら言った。
「し、知らん、麿は知らん、ただ、長州と沢尻はんに頼まれ、いや、脅されたんや!」
平岡は水戸の家臣だった沢尻竹五郎に振り返ったが、沢尻は原市之進の前を通り過ぎ、脇差を抜いて石倉に飛びかかろうとした。
その時、勇太と巳吉のそばにいた鴨川の星が駆け出し、観月台の上に飛びあがった。沢尻は満月を背景に飛んでくる女天狗の影に気がつくと彼女に向かって脇差を構えた。
「遅い!」
そう叫んだ鴨川の星に右に回り込まれ、手刀で脇差しを落とされてしまった。
「くそ、女には負けぬ!」
「男には負けません」
叫んだ沢尻は脇差を拾おうとしたところを抜刀した女剣士によって右胴を峰打ちされ、呻き声をあげて倒れ込んだ。
「やめろ沢尻!」
「殿をなんとする!」
すかさず駆けだしてきた渋沢篤太夫と成一郎が取り押さえる。篤太夫が鴨川の星の仮面に隠された白い瓜実顔を見上げると、彼女は優しい顔で頷き、かすかに首を左右に降った。篤太夫は自分のことを覚えてくれているようで嬉しくなったが、すぐに表情を硬くし、主君一橋慶喜の方を見た。
「沢尻!何故余を討とうとしたのだ」
衝撃を受けた慶喜が家臣に問うた、いやすでに元家臣だろう。お芳は慶喜にすがって見守っている。そして鴨川の星も葵の紋が入った羽織袴を着た慶喜を直視した。本来なら頭が高いと言われかねないがこの修羅場では誰も言うまい。慶喜は鼻筋がとおった、大きくて鋭い眼光の意思が強そうな眼を持つ色白の貴公子だった。身長は五尺一寸(155センチ)くらいだろうか。
(このお方が一橋中納言、初めてお会いする)
鴨川の星=お星の視線に気がついたのか慶喜もこちらの方をじっと見た。力強いが優しくもある眼である。鴨川の星は思った。
(でも、はじめてのような気がしない。ずっと昔、会ったことがあるような気がするわ。何故?)
思考は沢尻の声で中断した。
「ち、違いまする、殿を狙ったのではない、この沢尻竹五郎、平岡殿を狙うと聞いたから、協力をしたまでのこと・・」
慶喜は視線を沢尻に戻した。平岡も彼を睨みつけ、そして言った。
「俺を狙う?何故だ、誰に協力をした!」
「謀臣平岡殿を撃てば、殿は・・・殿は救われ、公儀も、幕府も力を取り戻す、と」
沢尻の視線は欄干のそばに立つ瀬戸内巌流一座の座長のほうに向いた。鴨川の星も仮面の下の瞳を再び怒りの炎に染め、拳を握りしめて同じ方向に向いた。そして言った。
「瀬戸内巌流一座座長辰吉こと毛利大膳太夫家来大林辰次郎、首謀者はあなたですね」
鴨川の星の言葉に一橋家一行は皆そちらを向いた。
「わ、わしは知らん、わしはただの芝居の一座の座長じゃ、た、立師の巳吉が勝手に、」
だが、池の方向から勇太の声が聞こえた。
「そ、その人が、た、たつきちがちゅうなごんさまをやれとさいしょに言ったんや」
平岡は石倉重薫を、川村は中原房道を睨んだ。
「そ、そうや、麿らは脅されたのや!なあ、房道殿。し、信じてくれ中納言殿」
「さようや、協力せえへんと首を取るって、天誅やって、あ?、わああ!」
追い詰められた辰吉こと大林辰次郎は脇差を抜き、中原房道目掛けて振り下ろそうとした。その動きは燕のように素速いが、鴨川の星にはさほどのことはなく、彼女は星形の手裏剣を取って投げつけた。右手首を狙ったものの、当てることはできなかった。ただ脇差しの鍔にはあたり、それは観月台の床に手裏剣とともに転がった。
悪態をついた辰次郎は観月台を五大堂の方向に駆けだした。それを渋沢従弟が追い、鴨川の星も続いた。篤太夫が辰次郎の右手に飛びかかったが、あっと言う間に床にたたき付けられた。続けて脇差しを抜いた成一郎だが、辰次郎はそれをかわし、右手を熊手にして顔面を撃ち、衿を掴んで成一郎を床にたたき付けた。
「待ちなさい!」
そう叫んだ鴨川の星が飛びかかったが、辰次郎は女剣士の立て襟を掴むと欄干にその背中を叩きつけた。
「あぁん、あぅ!」
甲高い悲鳴が大覚寺本堂五大堂前の観月台に響く。さらに辰次郎は鴨川の星の襟を掴んで引き起こすと、今度は彼女の白い額を欄干に叩きつけた。紅緋色の仮面が床に落ちる。続いて辰次郎は、仮面を落した鴨川の星を床に投げつけると、五大堂前から白砂の庭園に飛降り、西に向かって駆けだした。何とか受け身をした鴨川の星だったが、頭を打ったことあってふらつき横に倒れてしまった。無意識に落ちている仮面に手を伸ばした鴨川の星。慶喜の妾のお芳が鴨川の星に駆け寄り、手を差し出したときは、仮面は再び素顔を隠していた。
「大事ない?でもすごいよ!まるで女鼠小僧みたい!背も高いねえ」
お芳の言葉に微笑みつつ頭を下げて礼を示すと鴨川の星は立ち上がり、欄干を飛び越え、庭園に駆け下りた。星型の手裏剣を投げるも命中はしない。女剣士は気を取り直してマントを翻して辰次郎を追った。
(無垢な子供を暗殺の道具に仕立て上げるとは、絶対に許しませぬ)
額から血を流しながら、鴨川の星は必死に悪の首領を追っていった。
石舞台、宸殿を右に見、走って行くと式台玄関の前に出て、表門である。門は開いていたが、騒ぎを聞きつけ閉じられようとしていた。そこへ辰次郎が現れ、門番の一人をなぎ倒して外に出た。門の扉は閉じられてしまったが、鴨川の星は膝を屈伸させて飛び上がった。まるで後の世に現れるトランポリン競技のような跳躍をし、表門の屋根にブーツを履いた足をつけるとさらに飛び上がり、砂利の上に下りた。
「て、天狗、まさに女天狗や!」
門番達は鴨川の星の身体能力に驚愕の叫びを上げた。
着地した鴨川の星に、表門を出て、堀割の橋の上を走って行く辰次郎を満月が照らしているのが見えた。
「逃がさぬ!決して逃がしませぬ!」
鴨川の星は身体を起こすと拳を握りしめて全速力で駆け出した。前の辰次郎は息切れをしたのか少し速度が弱まってきた。程なくして、仮面の女剣士は再び跳躍をし、辰次郎の左肩に右足を乗せた。ブーツの踵が食い込み、長州の男は悲鳴を上げてよろめいた。
鴨川の星はさらに飛び上がり、身体を一回転させてから大林辰次郎の一間(1.8メートル)ほど前に降り立つと身体の向きを変え、二尺四寸の無銘の大刀を抜いてその切っ先を彼の首元に突きつけた。
「これまでです、辰吉こと大林辰次郎。おとなしく縛につきなさい。程なく裁きがあるでしょう」
「め、女天狗鴨川の星と言えば、我ら長州の味方じゃったはずじゃ!なんで邪魔するんじゃ」
紅緋色の仮面の下の大きな瞳はじっと辰次郎を睨み続けた。そして言った。
「勘違いされているようですね。私は常に弱き者の味方です。ましてや罪のない子供を使って闇討ち(暗殺)をさせんとする卑怯者、この鴨川の星、決して許しませぬ」
そう言うと大刀の峰を返し、大林辰次郎の右胴を、続けて右肩を力の限り峰打ちをした。罪深い長州藩士はうめき声すら上げずに倒れ込んだ。
鴨川の星が息を吐き出し、剣を鞘に納めた時、渋沢従弟が少しふらつきながら大覚寺の門外へと駆けてきた。そして、倒れ込んでいる町人の成りの長州藩士を押さえつけた。
「鴨川の星殿、また助けられました。拙者渋沢篤太夫、こちらは成一郎。何とお礼を言ってええか」
鴨川の星は括れた腰に両手をつき、微笑んで言った。
「いいえ。あなた方の助けがあったればこそですわ」
「血が、こ、これを」
そう言って渋沢篤太夫は懐紙を懐から取りだし、鴨川の星に額の血を拭うよう勧めた。
「お優しいのね。渋沢殿、あなたのご厚意はわすれませぬ」
鴨川の星は血を拭き取り、篤太夫が手を差し出したので懐紙を返した。祇園の菊水で芸妓花星として彼と出会ったこと、その後、彼に「助けて」もらったこと、楼蘭堂のお星として彼を接客し、赤いロセの花を買ってくれたこと、上七軒で見廻り組から彼らを救ったことなどが女剣士の頭をよぎった。
そこへ平岡円四郎、と一橋慶喜、お芳も駆けだしてきた。原市之進と川村恵十郎は巳吉と沢尻を縛り上げ、観月台の後始末をしているのであろう。平岡と慶喜らの後ろには屯太と勇太の「兄弟」も居る。屯太は鴨川の星に目配せをし、女剣士も頷いた。勇太少年は暗殺犯になることを逃れ、将軍後見職一橋中納言慶喜の命も守られたのだ。
今回は公儀を、徳川幕府を助けた形となった鴨川の星=お星。佐幕公武合体派、反幕府尊皇攘夷派のどちらが正しいのかお星には分らないが、闇討ちや天誅といった暗殺で新しい世が来るとは思えない。今回はこれでよかったのであろう。鴨川の星は満足そうに微笑むと指笛を吹いた。
参道の方から白馬白梅が駆けてきて、鴨川の星は飛び上がって鞍上の女(ひと)となった。
慶喜、円四郎、お芳、渋沢篤太夫、成一郎、勇太に屯太が女剣士を見上げた。満月が彼女を照らしている。
銀色のたてがみの白馬白梅の手綱を鞍上で引く鴨川の星は、瓜実の白い顔の上半分を隠す紅緋色の仮面の下から一同に微笑んだように見えた。銀色の星印を縫い込んだ青い頭巾(ベレー帽)によって守られた栗色の髪は、こめかみのあたりから前に垂れ、首のあたりで紫の帯で結ばれた後ろ髪同様、風に揺れている。裏地が赤い黒の外套(マント)の下には、濃紺の不思議な装束は両の胸乳、腰のくびれを露わにしている。その腰には藤色の帯が巻かれ、反りの少ない大刀と脇差が差され、彼女が剣士であることを証明している。むっちりとしながらも筋肉質は白い太ももが夜更けではあるが眩しく見え、膝から下の引き締まった脹脛(ふくらはぎ)は黒の革長靴(ブーツ)で隠され、そのつま先は鐙(あぶみ)にかかっていた。額の血が痛々しいが、皆、彼女に見とれているかのようだった。女剣士鴨川の星は居並ぶ一橋家一同と屯太勇太の義兄弟に向かって言った。
「一橋中納言様、そして一橋家家臣諸君、今回中納言様の命を救ったのは・・・」
そこまで言うと、慶喜の力強い眼力が鴨川の星の仮面の下の瞳を捕えた。何なのだろうかこの感覚は、と彼女は思った。
「中納言様をお救いしたのは・・・」
鴨川の星は弓の名手天使照助の姿の勇太を細い指で指し示した。
「そこにいる小さな勇者照助殿です。十分ねぎらってくださいますよう!では!」
そう言うと鴨川の星は白馬の胴を蹴り、参道の方へと駆け去って行った。
「渋沢、よくやったな。そして円四郎よ」
後に徳川幕府最後の将軍となる慶喜は言った。
「はは、殿、申し訳ありませぬなあ、今回の件、責任はあっしにもありやす」
「よい。そして鴨川の星、女天狗。天下を騒がす悪人と聞いていたが、そうでもないようだな。あの仮面の下の素顔、見てみたかったものだ」
(力強い、知恵と勇気と慈悲を感じさせる眼であった。そして不思議だ。前にどこかで会ったような気がする。どこであろうか)
お芳が考え事をする慶喜の袖を引いた。
「三位(さんみ)さま、あの女に惚れちゃったんですかい?」
「お芳、馬鹿なことを申すな」
「よござんす。女のあたいでも惚れそうな強い剣士ですものねえ。お江戸にも来てくりゃしませんかねえ」
「江戸にか、面白いかもしれぬな」
そう言うと慶喜は懐から笛を取り出し、優しいが物悲しい音色を大覚寺門前に奏で始めた。渋沢篤太夫と成一郎は下手人を下僚二人に渡すと、白馬に乗った女剣士が去って行った方向を見つめた。
「篤太夫よ、つ、強いな。女だてらに」
「いや成一郎、これからの時代、男も女もないのやもしれんぞ。我らもうかうかしてられぬ」
篤太夫は女天狗鴨川の星が落としていった、銀色で星形の手裏剣を手の平に泳がせた。
「かっこええやろお侍さま!あれが京の名物、謎の仮面の女剣士、鴨川の星やで!」
勇太と並んだ団子鼻の屯太が自慢げに言うのだった。
「ああ、格好がええ。いや、おかしれえ!」
「おかしれえ?何なんや?」
「おかしれえ女だ!鴨川の星、また会いたいものだ」
後に渋沢篤太夫は仏蘭西国で開かれる万国博覧会の幕府の随員として巴里を訪れることになる。その時、鴨川の星にそっくりな仏蘭西大革命前夜に活躍した仮面の女剣士ラ・セーヌの星の活躍を描く舞台を観劇することになるが、それはあと三年程先の話である。
物悲しくも優しい笛の音色は、白馬を駆る鴨川の星にも聞こえて来た。かつて二条城から聞こえて来た笛と同じものだ。
「遠い昔、聞いたような気がする。この音の主は一橋中納言、彼は一体・・・」
鴨川の星は白馬白梅を駆って嵐山の渡月橋の北詰までやってきた。渡月橋はこの時代、幅二間半(4.5メートル位)で細い欄干を持つ箸である。戦いを終えた女剣士はふと紅緋色の仮面を取り、桂川のせせらぎを聞きながら、川面に映る満月を見ながらふと甘い息を吐いた。
(鞍馬の黒椿さま、いいえ、倉田さま。私は今宵はなんとか闘い抜きました。でもわかりませぬ。私は何の為に戦っているのでしょう)
倉田はよく長州の志士を助けるよう、自分に指示をだし、時には頭を下げてきた。それが日本の夜明けを迎えるためだと言っていたからだ。だが、今夜の「事件」は長州の男達が無垢な少年を暗殺犯にしたて、徳川幕府の雄、一橋慶喜を亡き者にしようとした。
(でも一橋中納言慶喜、悪しき人には見えませぬ。それに、どこかで会ったことがあるような気がしてならない。それは何故?)
人の気配がし、鴨川の星は再び仮面を付けた。
(でも弱き者、志を持った者を助ける。そしていつか亡き両親の仇を取る、それまでは戦い続けましょう)
鴨川の星は洛中に向かって白梅とともに駆けていった。そんな彼女を渡月橋の東詰めで見ていたのは、行商人の姿をしていた新選組の諸士調役兼監察の山崎丞(すすむ)であった。
(あれが女天狗鴨川の星、大覚寺で何かあったな・・)
山崎はその後大覚寺へ行き、鴨川の星が落とした星型の手裏剣を手に入れることとなる。
なお、その後、大林辰次郎、巳三郎兄弟は京都所司代に引き渡されるべく駕籠に乗せて移送中何者かが放った毒塗りの吹き矢により命を落とした。楼蘭堂を襲った男達平吉、雑平、魚助は、黒姫の吉兵衛が若州屋敷の門前に縛ったまま夜中に置き去りにしたが、いつの間にか姿を消していた。門前には大量の血が流れていたという。梅小路村で屯太を見張っていた散切り男も行方知れずとなった。
この月の二十五日に慶喜は正式に将軍後見職を辞任し、朝廷より禁裏御守衛総督に任じられ、慶喜の周囲は多忙となった。そして六月十六日には側近平岡円四郎が暗殺され、七月十八日には新撰組による池田屋事件を発端とする禁門の変が発生した。風雲を告げる中、この大覚寺事件はいつの間にか忘れ去られ迷宮入りとなったのである。
大覚寺での事件から三日経った日の朝。
「では女天狗は、鴨川の星は、一橋中納言さまをお助けしたと言うのだな」
ここは京の西の郊外、壬生にある新撰組の屯所。局長近藤勇は副長土方歳三とともに
書院で諸士調役兼監察の山崎丞の大覚寺での事件の報告を受けていた。
「作用でございますな」
近藤は腕を組み、四角い顔を天井に向けた後、傍らの歳三の方を向いた。
「歳ィ、どう思う?」
歳三も役者のような顔を涼しげにして山崎の向こうの障子をジッと見ていて何も言わない。女天狗鴨川の星は天狗鞍馬の黒椿とともに長州派の浪士らを新撰組の刃から“救って”きた。攘夷御用盗などを成敗して新撰組や見廻組に手渡してくることはあったが、基本的には公儀に、幕府に刃向う不逞の剣士とみられていたのだ。
「それなのに長州派と思われるやつらが仕組んだ闇討ちを子供と一緒になって救ったとはな・・」
近藤がそう言った後、しばらくして歳三が口を開いた。
「山崎、女天狗鴨川の星の闘いぶりだが、改めて報告はあげてもらうが、寺男達は見ていたのだな」
「そうだす。天狗のように跳ね回り、芸妓や舞妓の舞いように剣を振るっていたそうだすわ」
「今回も傷一つ無く、長州人と思われる芝居の一座の座長を成敗した、そうだなァ」
「へぃ、あ、でも副長、その座長と揉み合ったとき、額に傷を負って血を流したとか」
「そうか、めずらしいな」
歳三がそう言ったとき、障子が開き、背が高い一人の男が入ってきた。
「あらあら、近藤先生、怖そうなお顔ですね。そんな顔ですと嫌われますよ」
「だ、誰にだ、総司?」
新撰組副長助勤沖田総司、近藤、歳三とは江戸の天然理心流道場試衛館以来の仲である。
「祇園の幻の芸妓、花星(かほ)ですよ、今宵お座敷に来るはずで、局長は楽しみにしておられましたが・・・」
「ましたが?」
「はい、さっき祇園の一力から使いが来て、今夜花星はお座敷には出られないそうですよ。
なんでも階段から落ちて額に怪我をしたとかで・・」
近藤は沖田の報告にがっくりと肩を落とした。それを見て、歳三は涼しい顔をほころばせた。
「山崎ぃ、鴨川の星、鞍馬の黒椿ともどもこの二年の動き、調べておいてくれ。奉行所の密偵どもが何か知っているだろう。公儀にとって敵なのか味方なのか、何の目的で剣をふるっているのか見極めなければなるまい」
「は、副長」
「額に怪我か、それにしても女はどいつもこいつもそそっかしいな」
同じ頃、お星は屯太と一緒に鴨川にかかる三条大橋東詰で勇太を見送ろうとしていた。お星は額の傷を隠すため、白い鉢巻きをしている。勇太は慶喜の妾お芳の様子を見に来た父新門辰五郎の舎弟門次郎に連れられ、吾作と一緒に江戸へ旅立つことになったのだ。屯太は一緒に楼蘭堂で暮らすことを勧めたのだが、勇太は江戸で役者を目指すことを選んだ。江戸にある芝居の一座に辰五郎の口利きで入門することとなったのである。
三条大橋にはお芳が供も連れずに二条城近くの若州屋敷から駆けつけた。髷は目立たないように京の町家の二十代の女に流行っている粋書髷で小袖も白い格子柄だ。端から見れば決して徳川御三卿一橋家当主の女には見えない。
「およしさま、おおきにでした。屯太兄やん、さいなら。お星姉さんもお世話になりました。そんでからおでこのきず、はようなおしや。べっぴんさんがだいなしやで」
「まあ、勇太はん、おじょうずやなあ」
と言いつつ額の傷で鴨川の星とばれていないか少し心配をしたお星。傷のせいで今夜は芸妓花星(かほ)として祇園の一力での座敷にでるはずだったのが、取りやめとなった。
仲間の芸妓や舞妓達に申し訳ない思いで一杯だ。置屋光善の女将お福には階段から落ちたと伝えてある。
「あっ、そうや!屯太兄やん、かもがわのほしにもよろしゅう言うといてな」
お星の心配は杞憂のようだ。
「ああ、言うとくで」
言ってから屯太はお星を見上げてにやついた。そして勇太に向き直って言った。
「勇太、また手紙を書くしな。元気でやるんやで」
「では、門次郎、頼みましたよ!」
お芳が言うと、頷いた門次郎、勇太、吾作は江戸に向かって旅立っていった。
「どうもないかいなぁ、勇太はん・・」
「大丈夫やってお星ちゃん。勇太は、きっとええ役者になるで。なあ、お芳さま」
「そうだねえ。きっと大丈夫でぇ。それはそうと屯太、君はいつもあの鴨川の星と一緒に
戦っているのかえ?」
「ああ、頼りにされとるさかいなあ。お星ちゃんは危ないからやめとき、っていうんやけど」
お芳は長身のお星を見上げ、その額に注目した。
「で、お星さんは、鴨川の星、お会いしたことはあるのかい?」
お星は丸くなっていた背筋を伸ばして言った。
「へ、へえ、噂にはきいてますぅ。でもお会いしたことはあらしまへんのや」
「そうかい。仮面はしているけどすごい別嬪さんで、女のあたいでも惚れちまいそうな強え剣士でねえ」
「そ、そんな、べ、別嬪さんやて、あて、照れますう」
お星は頬と首筋を赤くし、右手を胸に当てた。屯太は笑いをかみ殺している。そしてお芳は悪戯っぽく笑って言った。
「なんでお星さんが照れるのさ。あたいは鴨川の星を褒めたんだけどぉ」
「あ、ちゃいますぅ。江戸のおなごしのお芳さまに、京の女をだいひょうして照れたんどす、あっ?」
お星はハッとなってお芳を見下ろしたつもりが、屯太と一緒に三条通りを西に歩き去って行った。そして額を抑えてお芳は気づいているのと心配した。
「ほんな、と、屯太まで、待って、待っておくりゃす!」
お星は二人を追いかけ、やがて追い付いた。お芳は鼻歌を歌っている。
「お芳さま、おおきにどした。ほいで屯太、今日もいそがしくなりますぇ」
この日も楼蘭堂が忙しくなりそうな予感を感じつつ、お星は空を見上げた。鏡のように青い空が広がり、上空には鳶(とんび)が飛んでいた。京の一日の始まりだ。
おわり
La Légende de Étoile de la Seine au Japon.
Elle s’appelle Étoile de la Kamogawa=Une femme Tenguh.
“Flèche noire d`ange“
Complet!