死神アレン・コルテスが魂の根幹を燃やし尽くし、最後の『月牙天衝』を放ってから、どれほどの時間が過ぎただろうか。
天を覆っていた不気味な漆黒の蓋は完全に消え去り、そこには新世界の眩しすぎるほどの太陽が、何事もなかったかのように燦々と降り注いでいた。
だが、その陽光が照らし出していたのは、かつて世界政府すら恐れをなし、四皇と並び立つ「楽園」と称されたゴッドエデンの姿ではなかった。
『アンノーン』の領域が齎した物理法則の消滅、生命力の吸奪、そして最後の巨大な爆発。
それらは、ゴッドエデンという国家を構築していた全てのものを根こそぎ削り取っていった。
豪奢を極めた王宮、幾重にも張り巡らされていた最先端の結界装置、美しい庭園、数万の民が暮らしていた美しい街並み、そして数余の兵器や建造物――。
そのことごとくが、風化し、砕け散り、最後は灰となって風に吹き飛ばされた。
あとに残されたのは、ただ果てしなく広がる、草木一本すら生えていない「無色の更地」だけだった。
波の音が、遠くから静かに響いてくる。
かつては分厚い防壁によって隔てられていた外の海が、今や更地となった島の端から、隠すものもなく剥き出しで見えていた。
その殺風景な灰色の土の上。
二人の女性が、静かに横たわっていた。
ゴッドエデンの絶対なる女王、マキナ。
そして、その頭脳であり、唯一無二の懐刀であったリース。
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「……ハァ……、ハァ……っ」
マキナの口から、弱々しい息が漏れた。
彼女の身体は、すでに死の淵にあった。
ボロボロに引き裂かれた高級なドレスは血と土に塗れ、かつて世界を平伏させたその美しい肌は、生命力を根こそぎ削り取られたことで褐色から痛々しい土色へと変色している。全身の骨は砕け、筋肉は断裂し、指一本動かすことすら叶わない。
本来ならば、アレンが『アンノーン』を破壊した時点で、彼女の強靭な生命力や「覇気」は回復に向かうはずであった。
だが、時すでに遅すぎたのだ。
アンノーンに肉体のファクターを極限まで吸い上げられたダメージはあまりにも深すぎ、彼女の命の灯火は、今や風前の灯火となって揺らめいていた。
「……マキナ……様……」
マキナのすぐ隣で、小さな声が聞こえた。
リースだった。
彼女の白磁のような肌はヒビ割れ、片方の瞳は光を失い、頭部の機械素子は火花を散らすことすらなく完全に機能を停止していた。
アレンが時間を稼ぎ、アンノーンを破壊したことで、彼女の電子頭脳はなんとか「再起」を果たした。しかし、それは彼女の身体を維持するためのシステムではなく、ただ「最期の意識」を数分間保つためだけの、残存エネルギーによる悪あがきに過ぎなかった。
「……リース……か」
マキナは奇跡的に動く首を僅かに傾け、隣に倒れるリースへと視線を向けた。
「……はい。……周囲の環境データを……スキャン……。……エラー。……計測可能オブジェクト……ゼロ」
リースの声はノイズが混じり、途切れ途切れだった。
「……ゴッドエデン全域の建造物、インフラ、防衛システム……並びに全住民の生体反応……消滅。……当島は、完全なる『更地』へと移行」
「更地、か……」
マキナは可笑しそうに、血の混じった乾いた笑声を喉から漏らした。
「……ふん。私が数年かけて築き上げた最高の城塞、最高の楽園が……あのような薄汚いネズミどもの玩具一つで、ただの土の塊になるとはな。……お笑い草だ」
「……肯定。……極めて不条理な、計算外の結末です」
ふたりは、視線を空へと向けた。
雲一つない、抜けるような青空。
かつてはこの空の下で、アレンがだるそうに欠伸をし、スレナとヴァイパが騒がしく喧嘩をし、マキナがそれを優雅に嗜め、リースが淡々とデータを報告していた。
だが今、この広い更地に存在するのは、死を待つ二人の女だけだった。
スレナとヴァイパは灰となって風に消えた。
黒ずくめの三人も、アレンの月牙によって肉体ごと消滅した。
そして、すべてを護り切ったアレン・コルテス自身もまた……光の粒子となって、二人の目の前で消えていった。
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「……なあ、リース」
マキナが、ゆっくりと掠れた声で問いかけた。
「……はい、マキナ様」
「……あの男は……アレンは、最後まで……本当に……生意気な奴だったな」
マキナの紅い瞳に、悔しさと、切なさと、言葉にできない愛憎の感情が溢れ出した。
「我が護衛でありながら……いつも『だるい』と口にし……私の前で平然と欠伸をし……格好をつける場面だけは、一人で全て持って行きおった……」
マキナの記憶の中に、最期のアレンの姿が鮮明に蘇る。
血みどろになりながら、己の魂を燃やし尽くし、五分間だけの「最後の卍解」を解き放った男。
そして、全てを叩き潰したあと、泥の上で倒れそうになりながら、あの気だるげで、憎たらしい笑みを浮かべてみせたのだ。
『……あいつら、片付けたっすよ……。……俺……ちゃんと、仕事……したっすよね……?』
「……『仕事した』だと? ふざけるな……っ!」
マキナは動かない右拳を固く握り締めようとして、虚しく指先を痙攣させた。
「誰が命を捨てろと命じた!? 誰が一人で全てを背負って消えろと許した!? 我が言ったのは『ネズミどもを排除せよ』だ! 自らの存在ごと消滅して良いなどと、一言も許可など与えておらんわ……ッ!!」
声が震えていた。
かつて世界政府すら恐れさせた絶対の女王が、今やただの傷ついた一人の女として、自分を置いて先に逝ってしまった男への不満を爆発させていた。
「……いつもそうだ……! あの男は……いつだって私より先に勝手な判断をし、勝手に満足して、勝手に消えていく……! ゴッドエデンの王は私だぞ!? 私を置いて……一人で格好をつけて逝くなど……万死に値する愚行だ……ッ!」
「……同感です、マキナ様」
リースの無機質だった声に、微かな、しかし決定的な「感情」の揺らぎが混ざり込んだ。
「……アレン・コルテスの行動は……論理的整合性を欠いています。……護衛対象であるマキナ様と、私を残し……自らの存在を自己崩壊させるなど……護衛としての評価は『不合格』です」
リースのひび割れた顔から、一筋の油圧オイル――まるで涙のような黒い液体が、土の上へと滴り落ちた。
「……私の脳内データには……彼と過ごした数千時間の記録が、記憶されています。……彼が淹れた不味いコーヒーの味も……私の頭を適当に撫でてきた手の温もりも……『だるいっすねぇ』という口癖の周波数も……全て、鮮明に残留しています」
リースは光を失いつつある瞳を、空へと向けた。
「……消去できません。……彼に関するデータを消去しようとすると……私のコア(心)に、致命的なエラーが発生します。……アレンは、卑怯です。……私にこのような不合理なバグを残したまま……自分だけ『やり切った』ような顔で消えるなんて……」
「……そうだろう、リース」
マキナは自嘲するように笑った。
「あの男は……本当に……ズルい男だ。……私たちに『楽園』を与えておきながら……最後はそれを更地にして……自分だけさっさと先に逝ってしまうのだからな……」
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波の音が、静かに二人の会話を包み込む。
マキナは、天を見上げたまま、かつてアレンが死に際に口にした言葉を思い出していた。
『死ぬのなんてな……俺はもう、一回経験してんだよ』
アレン、マキナ、リース。
彼らは三人とも、かつて別の世界で一度命を落とし、この世界へと生まれ変わってきた「転生者」であった。
「……ふふ。思い返せば……おかしな人生だったな」
マキナの吐息が、次第に浅くなっていく。
「一度死んで……この見知らぬ世界に生まれ変わり……『女王』として頂点に君臨した。……世界政府を脅かし、海賊どもを平伏させ……世界を我が手に収めるはずだった……」
「……はい。……マキナ様の覇道は……完璧でした」
「だが……その覇道の隣には……いつもあの不器用で、気だるげな死神がいた。……あいつがいたからこそ……このゴッドエデンは……私にとっての『楽園』だったのだな……」
マキナの紅い瞳から、一筋の透明な涙が伝い、土へと染み込んでいった。
「……覇気も、王の座も、国家も……何もかもなくなった。……残ったのは……ただのボロボロの私と……更地だけだ」
「……マキナ様。……私の残存エネルギー……あと一分未満で完全停止します」
リースの声がいよいよ小さくなり、その指先から微かな光が消えかけていた。
「……怖くはないか、リース? 再び……『死』が訪れるぞ」
マキナの問いに、リースは少しだけ間を置いた。
そして、彼女の壊れかけた人口音声システムが、最後にこれまでで最も柔らかい、人間らしいトーンを奏でた。
「……いいえ。……恐れはありません。……なぜなら……」
リースは、視線をマキナへと向けた。
「……先に逝ったあのアレンが……あの世の街角で……『遅かったっすねぇ、二人とも』などと……だるそうに欠伸をしながら……待っているはずだからです」
「……ふっ」
マキナの唇が、美しく吊り上がった。
「……違いない。……あのバカめ……私たちがそちらに行ったら……真っ先にその頬を引っ叩いてやらねばならんな。『女王を待たせるとは何事だ』とな」
「……肯定です。……私も……彼の頭を……強く叩く予定です」
二人の会話は、そこで途切れた。
太陽が、新世界の海に傾き始めていた。
更地となったゴッドエデンの島を、黄金色の夕暮れの光が優しく包み込んでいく。
「……アレン……」
マキナが、最後にその名を呟いた。
「……すぐに行く。……次こそは……私から離れることを……絶対に許さんぞ……」
マキナの紅い瞳が、静かに閉じられた。
彼女の胸の上下が完全に止まり、世界を揺るがした絶対の女王の命の灯火が、ここにひっそりと潰えた。
そして、その直後――。
『システム……全機能……シャットダウン。……マキナ様……アレン……また……』
リースの片目の光も、完全に消えた。
彼女の頭脳は静かに沈黙し、ただの美しく精巧な人形の残骸となって、マキナの隣で沈黙した。
ゴッドエデン。
かつて新世界にその名を轟かせた至高の楽園。
その島には今や、城も、兵も、民も、そして王も存在しない。
ただ、何もなくなった果てしない更地の上で、静かに寄り添うようにして息絶えた二人の女性の姿があるだけだった。
風が吹く。
新世界の澄んだ潮風が、更地となった島を吹き抜けていく。
その風の音は、どこか遠くで……あの気だるげな青年が、いつものように「あーあ、だるいっすねぇ」と笑っている声のようにも聞こえた。
楽園の神話は終わった。
だが、世界の理を超えて戦い、生きて、そして逝った者たちの記憶は……誰にも知られることなく、この美しい更地と、広大な海の中へと、永遠に溶け込んでいくのだった。
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