絶景の落穂拾い ―彼女らの一番になれなかった者たちの独白― 作:雷炎
秋の空は高かった。どこまでも高く、どこまでも青かった。その青空を見上げながら、私はいつものようにトレセン学園の坂道を走っていた。
前方には、ひとりの背中。決して追いつくことのできない先頭の景色そのもの。長い栗色の髪を風に流しながら走るその姿は、まるで風そのものだった。
サイレンススズカ。
私の同期でもあり、そして――私の憧れ。
彼女は特別だった。速いからでも強いわけでもない。勿論彼女の走りは言うまでもなかったが、走っている姿が、あまりにも自由だった。
誰かに勝つためじゃない。
誰かを見返すためでもない。
ただ走りたいから走る。
ウマ娘としてあまりにもシンプルな原初の思い。それだけで彼女は誰よりも美しく見えた。
「はぁ……はぁ……」
私は必死で追いかける。疲労でフォームが崩れ歯を食いしばる。煮えたぎった闘志が液体となって地面に染み込んでいく。けれど距離は縮まらない。それは今に始まった事ではない。最初から、入学してから縮まったことなんて一度もなかった。
才能。その言葉を嫌というほど思い知らされた。スズカは走れば走るほど速くなる。何者にも縛られない自由な走りは、彼女に翼が生えたかの様に推進力を与えた。地面を這いつくばる私とは違い、彼女は輝かしい道へと羽ばたいていった。私は走れば走るほど、自分の限界が見えてくる。
同じ景色を見ているはずなのに、立っている場所が違う。
そうして今日もあの背中を追い越すことはできなかった。
「ごめんなさい」
ある日のレース後。私は人気のないベンチで泣いていた。誰に謝っているのか分からなかった。
トレーナーにか。
期待してくれた人たちにか。
それとも自分自身にか。
それすらも分からずにただ泣き続けた。泣くことが走りにつながらないと分かりながらも、両の目から溢れるこの悔しさは止まる気配を見せなかった。
「どうして謝るの?」
静かな声がした。風の様な綺麗な声だった。
振り返るとスズカが立っていた。夕陽を背に立つ彼女は、どこか幻想的だった。
「……だって」
言葉が続かない、だって何に誤っているのか自分にも分からないのだ。ただ悔しさが音となって出てくるだけなのだから。そんな私を尻目にスズカは隣に腰を下ろした。
「私は」
ぽつりと言う。
「走るのが好きなの」
知っている。
誰よりも知っている。毎日その姿を見続けたのだから。
「だから負けると悔しいし、勝つと嬉しい」
風が吹いた。
「でも、一番好きなのは景色」
スズカは遠くを見ていた。
「見たことのない、私だけの景色が見たいから走るの」
私はその横顔を見ていた。綺麗だと思った。不器用だとも優しいとも思った。きっと一生届かない場所にいる人なのだと思った。
それでも。
「……私も」
「スズカみたいになりたかった」
思わず声が漏れてしまう。スズカは少し驚いた顔をした。
それから。ふふっと笑った。
「なれないわ」
残酷な言葉だった。けれどその声は優しかった。
「だって、あなたはあなただから」
私は泣きそうになった。
秋。今年も天皇賞が近づいていた。学園中が、街中が浮き足立っていた。誰もが口を揃えて言う。今年の主役はサイレンススズカだと。秋の戴冠は彼女こそが相応しいと。
当然だった。誰も彼女を捕まえられなかった。
誰も彼女の前を走れなかった、栗毛の怪物も怪鳥も近い将来日本総大将と言われるウマ娘も、誰もあの背中に追いつくことができなくなった。
彼女は完成されつつあった、ウマ娘の理想へと。
けれど、ある日の帰り道。
フクキタルが珍しく真顔だった。あの何処にいても目に止まるほど喧しく、占いのことばかり話すあのフクキタルが今日は一言も話さずずっと黙っていた。
「……嫌な感じがするんです」
「嫌な感じ?」
「はい」
彼女は俯く。その日初めて聞いた彼女の声は、沈んだ声でポツリと話した。
「上手く言えません」
「でも……スズカさんの周りに、黒い霧みたいなものが……」
占いやら運勢やら、いつもなら笑い飛ばしていた。けれどその日はなぜか胸がざわついた。このざわつきを無視すると一生後悔することになる。それだけは断言できた。
「何が起きるの?」
「分かりません」
フクキタルは震えていた。
「ただ、とても嫌な感じなんです」
その夜。私は眠れなかった。
窓の外には憎たらしいほど、満月が自己主張している。
もし。
もしも。
本当に何か起きるなら。私は何ができる?
答えはなかった。こんな小娘に何か出ることなんてないはず、けれど...
翌朝。気がつけば近くの神社にいた。誰もいない境内は冷たい風が強くふいていた。
賽銭箱の前で手を合わせる。願い事なんてしたことがなかった。レースで勝てなかった時もタイムが伸びない時も願い事だけはしなかった。願えば私の努力は何だったのか、あれほど追いつきたいと望んだ背中に二度と追いつけないと分かってしまうから。
けれど。その時だけは違った。
神様。三女神様。
もし代われるなら。サイレンススズカに何か悪いことが起きるのなら、代わりを用意します。私の未来を使ってください。
だから。
彼女だけは。
あの景色を見続けられるように。
秋の天皇賞。歓声が東京競馬場を揺らしていた。先頭をサイレンススズカは走る。いつも通りだった。誰も追いつけず誰も並べない。
自分が見たかった景色が、私だけの景色が見られる。走りの中で確信があった。
だが、大欅に差し掛かり足のギアを一段階引き上げたときだった。
左脚に違和感、それはほんの一瞬だった。本当に一瞬だけ。だが致命的な破滅的な違和感だった。
「――っ!?」
何かがおかしい。このままだと取り返しのつかないことになる。けれど左脚は既に空中を駆けていて、すぐにでも地面に着地してしまう。それはダメだと分かっていてもどうしようもなかった。
そう思った瞬間。聞こえた気がした。
『行って』
声がした。今聞こえるはずのない、けれど聞き慣れた声だった。けれど分かった。
『スズカの見たい景色を見て』
違和感が消える。左脚が地面を踏み締める。
「……ありがとう」
誰にも聞こえない声が風となり消えていく中、スズカは前を向いた。
走る。第四コーナーを曲がり加速する。
走る。後続が食らいつこうするが離されていく。
走る。異次元の逃亡者として今トゥインクルシリーズの傑作になった。
そして――決着
爆音の歓声と万雷の拍手が彼女を祝福する。サイレンススズカは勝った、走り切った。圧倒的な逃走劇は今何十万という人々の目に焼きついて消えることはない。
ウイニングランの最中。スズカは思った。
伝えたい。
あの子に。
この景色を。
....この勝利を。
同時刻。病院へ向かう救急車が道路を走っていた。けたたましいサイレンを鳴らしながら必死に走る。
担架の上にひとりのウマ娘が横たわっていた。左脚は血に染まりそこにはあるべきものがなかった。
遠くで救急隊員の声が聞こえる。
『意識レベル確認!』
『脈拍維持!』
『急げ!』
視界がぼやける。けれど不思議と怖くなかった。
断片的な記憶が思い返される。
横断歩道。
飛び出してきたトラック。
その瞬間。何故か分かった気がした。
ああ。
そういうことだったんだ。
「....っカ...スズ..カは」
私がそういうと携帯を見せてくれた。彼女が秋の盾を持って笑っている。それだけで十分だった。
私がどうなろうと、走れなくなったとしてもどうでもよかった。
あの人は走れた。
見たかった景色を見られた。
私の焦がれた走りは、もう運命にも誰にも止められない。
それで十分だった。
「……よかった」
小さく呟く。瞼が重い、意識が遠ざかる。
最後に浮かんだのは。
誰よりも自由に走るひとりのウマ娘の背中だった。風を切り、誰も見たことのない景色へ向かって。
どこまでも。
どこまでも――