ダンジョンに生まれた私は、英雄の魂を育てて喰らう   作:ヨーヨーヨー

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19話 観測者たちの遊戯

迷宮都市オラリオを囲む外壁に乾いた衝突音が、鋭く響き渡る。石畳を踏みしめる音、息を切らす音、そして――金属と金属がぶつかり合い、火花が散る音。踏み込み、交錯し、弾かれる。その中心にいるのは――白髪の少年、ベル・クラネル。

 

「――遅い」

 

低く、静かな声。次の瞬間――

 

「がっ……!」

 

腹部に叩き込まれた一撃に、ベルの体がくの字に折れる。衝撃が空気を震わせ、そのまま地面を滑り、土煙を上げて止まる。

 

「今の踏み込みでは、敵まで届かないぞ」

 

剣を構えたまま立つのは、ローエン。一切の無駄がない構え。感情を削ぎ落とした、ただの“正しさ”。

 

「……もう一度だ」

 

淡々とした指摘。逃げ場のない現実だけを突きつける。

 

「……っ、はい……!」

 

ベルは歯を食いしばり、立ち上がる。息は荒く、腕も震え、握る剣が、わずかに軋む。それでも――刃だけは、折れていない。

 

「じゃあ次は私ねっ!」

 

横から飛び込む影――ティオナ・ヒリュテ。軽やかな踏み込みから放たれた一撃が、ベルの剣を弾き飛ばす。

 

「うわっ――!?」

「ほら、止まってるよ!」

 

速い。思考が追いつく前に、体が置き去りにされる。崩れた体勢、開いた防御、迫る次撃――間に合わない。

 

キィン、と澄んだ音。

 

「そこまで」

 

アイズ・ヴァレンシュタインが、その一撃を受け止めていた。無駄のない剣、揺らぎのない立ち姿、風すら従わせるような静けさ。

 

「……防御が遅い。相手を見る前に、止まってる」

 

短く、的確な指摘。ベルは唇を噛み、頷く。

 

「……はい」

 

その様子を、アイズはじっと見ている。逸らさない視線、測るような眼差し――観察。癖、間合い、恐怖の残り方。三者三様。力で押し潰すローエン、速度で翻弄するティオナ、技で封じるアイズ。どれも、届かない――今のベルでは、それでも。

 

「……もう一度、お願いします」

 

ベルは剣を拾い、構える。震える手、乱れる呼吸、だが――その刃先は、下がらない。踏み込む、さっきよりも低く、速く。地面を蹴る音が、迷いなくわずかに重くなる、その瞬間――アイズの瞳が、わずかに揺れた。

 

(……違う)

 

先ほどまでとは、ほんの僅かだが、確かに。踏み込みに“止まり”がない。恐怖に引かれていた足が、前へと現れ、躊躇いが、削れている。その変化を、誰よりも正確に捉える。剣が振るわれるが未だ拙く軌道も甘い。だが――躊躇いがない。

 

「――いい」

 

ぽつりと、誰に聞かせるでもなく、零れた言葉であり評価。それはアイズにとって、極めて珍しい感情の揺らぎだった。ベルの動きに合わせるように、アイズは一歩踏み出す。受けるのではなく“合わせる”ための一歩。試すのではなく――引き出すための踏み込み。

 

キィン、と鋭い音が響く。

 

ベルの剣が、初めてほんの僅かだが――弾かれずに残った。その事実にアイズの目が、わずかに細められる。

 

(……強く、なってる)

 

確信に近い感覚。その理由は――数日前に遡る。神々の宴で、アポロンがベル・クラネルに執着し、”戦争遊戯”を一方的に通告した。それは交渉ではなく、通告。拒絶など初めから許されていない、神の決定だった。当然、ヘスティアは強く反発する。だが――その意思は踏みにじられる。翌日、日常の中に、何の前触れもなく。アポロン・ファミリアによる襲撃が始まった。狙いはただ一つ、ベル・クラネルという“獲物”。数で圧倒され、逃げ場を塞がれ、追い詰められる。必死に走り、抗い、剣を振るう。そこに現れたのは、アポロン・ファミリアの団長ヒュアキントス・クリオ。その一撃で、戦況は決定的に傾いた。重い剣撃、受け止めきれない衝撃、圧倒的な力量差。斬られ、叩きつけられ、息を奪われ、立ち上がることすら許されない。何もできないまま、ただ打ち据えられる現実。

 

(……勝てない)

 

そう思い知らされる。それでも――終わらなかったのはタケミカヅチ・ファミリア、リリルカ・アーデ、ヴェルフ・クロッゾ、ナァーザ・エリスイスらの介入があったからだ。乱戦の中、辛うじて生まれた突破口。ベルは――逃げ延びた。そして、神ヘスティアは、決断する。逃げないため、奪わせないため、小さな神は、一歩も引かず、アポロンの元へと赴き――告げた。ベルの改宗を賭けた、”戦争遊戯”を正式に受諾する、と。それは、神の遊戯。だが同時に――全てを賭けた、戦争の始まりだった。そして再び、現在。

 

ベルは息を整え、剣を握り直す。その視線は、まっすぐ前だけを見ている。

 

「……いきます!」

 

その踏み込みに迷いはない。その姿を見てティオナは楽しげに笑い、ローエンは静かに目を細め――アイズは何も言わず、剣を構える。だが、その立ち位置が変わっていた。ほんの僅かに“迎え撃つ側”から、“応じる側”へ。それは、無言の承認。少年が、戦うに値すると認めた証、迫り来る『戦争遊戯』へ向けてその一歩は、もう止まらない。

 

 

 

 

夕暮れの光が、石畳の隙間にゆっくりと沈んでいく。昼の喧騒を残しながらも、どこか輪郭を失い始めた街の空気。その中を、アイズとティオナは静かに歩いていた。ベルとの訓練の後の帰り道。身体にはまだわずかな熱が残っている。だが、それとは別に——理由のない空白が胸の奥にあった。ふと、視界の端に人影が映る。見慣れた背中。

 

「……ローエン」

 

無意識に、名を零していた。だが——その隣に、誰かがいる。赤毛の少女。柔らかな笑みを浮かべ、まるで昔からそうしていたかのような自然さで、彼の隣に並んでいるがその距離が近い。そして楽しそうに言葉を交わしている。あの少女を、私は知らない。

 

「アイズ?どうしたの? ……あ、ローエンだ」

 

軽やかな声とともにティオナが声をかける。そして、すぐに気づいた。

 

「……隣の子、誰だろう?」

 

その問いは、ごく自然なものだった。けれど——答えが、出てこない。視線が、離れない。胸の奥に、微かな引っ掛かりが生まれる。それは痛みというほどではなく、けれど確かに、無視できない違和感。

 

「ね、尾行しよ?」

「……え?」

「だって気になるでしょ? あんなの!」

 

屈託のない笑み。いつもなら咎めるはずの軽率さも、その時ばかりは否定できなかった。理由は分からない。ただ——目を離したくなかった。気づけば、二人で距離を取りながら後を追っていた。

 

「……こんな場所で会うべきじゃないと思うんだが」

 

ローエンは小さく息を吐く。隣を歩く少女へ、わずかに視線を向ける。少女は楽しげに目を細めた。

 

「どうして? 人間はこういうの、好きでしょう?」

「……何がだ」

「刺激のない人生なんて、ありえないのでしょう? 人間は」

 

くすり、と笑う。どこか他人事のような口調。ローエンは肩をすくめる。その言葉はどこか軽く、それでいて妙に的を射ている。

 

(……ほんとうに、好き勝手言う)

 

内心で呟く。背後の気配にも、当然気づいていた。

 

(あいつら……隠れる気あるのか?)

 

わずかに肩を落とす。呆れながらも、歩みは止めない。“主”の意向が優先だ。止める理由がない。止められる立場でもない。

 

「ほら、あそこ」

 

少女が指差した先、小さなカフェの看板が揺れていた。

 

「少し休みましょう?」

 

断る選択肢は、最初から存在しない。

 

「……好きにしてくれ」

 

店内に入ると、柔らかなコーヒーの香りが満ちていた。夕刻の穏やかなざわめき、食器の触れ合う小さな音、外の世界とは切り離されたような、緩やかな空間。窓際の席に座る二人。少し遅れて、アイズとティオナも席についた。

 

「……近くない?」

「聞こえないって!」

 

ひそひそと交わされる声が、やけに鮮明に響く。視線が、自然と向いてしまう。少女は、よく笑う。仕草が柔らかく、どこか親しげで——ローエンも、それに応じるように言葉を返している。見たことのない表情だった。あんなふうに、誰かと話すのを——私は、知らない。胸の奥が、ざわつく。理由を探そうとして、やめる。言葉にした瞬間、何かが決定的に変わってしまいそうで。ただ、視線だけが離れない。カップに手を伸ばす。温もりが、掌に伝わる――それなのに、指先はどこか冷えていた。——二人の距離が近い。声は聞こえないのに、その距離だけがやけに鮮明に見える。胸の奥で、何かが小さく軋む。

 

ピキ——

 

微かな音が、手の中で響いた。

 

「……え?」

 

ティオナの声。気づいた時には、カップにひびが走り——次の瞬間、静かに割れた。音は小さい。だが、その場の空気を切り裂くには十分だった。一瞬、周囲の視線が集まる。

 

「アイズ!? 大丈夫!?」

「……大丈夫」

 

短く答える。けれど、何も大丈夫ではないことを、自分が一番分かっていた。どうして、こんなことをしたのか。分からない。ただ——抑えきれなかった。

 

(……やれやれ)

 

ローエンは、ほんの僅かに目だけを動かした。割れたカップ。慌てるティオナ。そして、固まったままのアイズ。小さく、息を吐く。

 

(分かりやすいな……)

 

内心で呟く。その様子を見て、向かいの少女がくすりと笑った。

 

「本当に、人間みたい」

「……揶揄うのはやめろ」

「褒めているのよ?」

 

クフフと笑う。軽やかな声音だがその奥にあるのは、明確な“観察者”の視線。理解ではなく、興味。共感ではなく、愉悦。その違和感が、空気に溶け込んでいた。その時、入口のベルが小さく鳴る。一匹の猫が、静かに店内へと入ってきた。誰も気に留めないありふれた光景。だが——その猫は迷わず、少女の元へと歩み寄る。すり、と足元に身体を寄せる。そして、見上げた。まるで、合図を送るかのように。

 

「あら」

 

少女が、わずかに目を細める。

 

「もうそんな時間?」

 

ゆっくりと立ち上がる。

 

「……帰るのか」

「ええ。十分楽しめたもの」

 

その視線が、ふと横へ流れる。アイズへと。ほんの一瞬。何かを見透かすような、そんな目で。

 

「人間って、本当に面白いわね」

 

意味深にそう言い残し、少女は店を出ていく。猫も、その後を追う。静寂が戻った店内に残されたローエンは、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。

 

「……はぁ」

 

短く息を吐く。立ち上がり、何事もなかったかのように会計を済ませ、そのまま店を出た。何も残さずに。

 

「ねえ、アイズ……」

 

ティオナの声が、少しだけ慎重になる。

 

「ほんとに大丈夫?」

「……うん」

 

頷く。けれど、視線は扉から動かない。胸の奥に残る、あの感覚。

 

(……私は)

 

理解する。自分はローエンのことをあまりにも——知らない。どこで生まれたのかも、何を見てきたのかも、誰と、ああして笑うのかも――何も知らない。その事実が、静かに胸に沈んでいく。手を伸ばしても届かない距離が、そこにあった。

 

 

 

 

ローエンが店を出ると、外の空気はすでに夜へと傾いていた。通りにはまだ人の気配が残っているが、どこか輪郭がぼやけている。昼間とは違う、緩んだ時間。ローエンはゆっくりと歩き出した。背後を振り返ることはない。

 

(……行ったか)

 

シエラの気配は、もう感じられない。あの猫も、あの少女も、最初からそこにいなかったかのように、跡形もなく消えている。

 

「……ほんとうに、勝手なお方だ」

 

小さく呟く。だが、その声音に苛立ちはほとんどなかった。だが――慣れている。あれが“普通”だと、知っているからだ。ふと、足を止めると通りの向こう側の人混みの中に、妙に目立つ影があった。長い外套に軽薄そうな笑み――ヘルメスだ。

 

「——やあ」

 

ひらりと手を上げるその男に、ローエンは無言で目を細めた。

 

「奇遇だね、こんなところで会うなんて」

 

軽やかな声音。だが、その裏にあるものを知らないほど、ローエンは甘くない。

 

「……奇遇、ね」

 

低く返す。その隣には、もう一人。落ち着いた佇まいの少女——アスフィが静かに一礼した。

 

「お久しぶりです、ローエン」

「……ああ」

 

短く応じる。視線はすぐにヘルメスへと戻る。数秒の沈黙。互いに探るような間。だが、それを先に崩したのはヘルメスだった。

 

「いやあ、本当に偶然でね」

 

わざとらしく肩をすくめる。

 

「ちょうど君のことを考えていたところなんだ」

「やめろ。気色悪い」

 

即答だった。ヘルメスは楽しそうに笑う。

 

「はは、相変わらず手厳しいなあ」

 

だが、その目は笑っていない。じっと、ローエンを見ている。値踏みするように、あるいは——確信を持っているかのように。ローエンは小さく息を吐いた。ヘルメスは一歩、距離を詰めた。周囲のざわめきに紛れる程度に、声を落とす。

 

「単刀直入に言おう」

 

その声音は、先ほどまでとは別物だった。軽さを残しながらも、芯がある。

 

「君に——」

 

わずかに間を置く。意図的な沈黙。そして、口元に笑みを浮かべたまま——

 

「頼みがある」

 

 

 

 

豊穣の女主人――夜の帳が降りた店内は、いつも通りの喧騒に満ちていた。皿の触れ合う音、酒をあおる音、笑い声と、くだらない罵声、混ざり合う雑音の中で――ただ一人、静かにグラスを拭く影――リュー・リオン。その手つきは正確で、無駄がない。まるで作業そのものに意識を沈めているかのように――だが。

 

「……いらっしゃいませ」

 

入口に立った二人を見た瞬間、その翠の瞳が、わずかに細められた。

 

「やあ、リューくん。少し時間をもらえるかい?」

 

軽薄な笑みだが、その奥にある計算を隠さない男――ヘルメス。隣には、静かに頭を下げるアスフィ。

 

「……仕事の話、ですか」

 

グラスを拭く手は止まらない。問いながらも、答えは既に予測している声音。ヘルメスは肩を竦める。

 

「まあね。しかも、できれば君にしか頼めない類のやつだ」

「断る可能性があると分かっていて来た、と」

「もちろん」

 

わずかな間、リューはグラスを棚に戻し、二人へと向き直る。

 

「内容を」

 

短く、無駄のない言葉。その態度に、ヘルメスの口元がわずかに緩む。

 

「――戦争遊戯の助っ人だ」

 

空気が、切り替わる。酒場の喧騒が、遠のく。

 

「……例のアポロン・ファミリアの件ですか」

 

声は変わらない。だが、その内側で思考が加速している。ヘルメスは語る。先日の神会で決定された戦争遊戯の勝負形式。公平を規すためのくじ引き。引いたのは――何を隠そうここに居るヘルメス。

 

「結果は……攻城戦だ」

「……」

 

ほんの僅かに、リューの眉が寄る。攻める側と守る側、準備、地形、戦力――すべてが結果に直結する形式。そして。

 

「ヘスティア・ファミリアは少数、対してアポロン・ファミリアは大所帯」

 

淡々と、事実を並べる。

 

「その時点で、勝負は見えている」

「だからこその調整だよ」

 

ヘルメスが指を一本立てる。

 

「オラリオ外の人間に限り、助っ人を一人だけ認める」

 

特例により、神々によって決められた救済措置。視線が、リューに固定される。

 

「その一人に、君を指名したい」

 

沈黙。リューは視線を落とし思考する。戦力差、勝率、役割。熟考の結果――ある一人の剣士が導き出される。

 

「……私より適任がいるのではないでしょうか」

 

それは静かな否定であった。

 

「中層での戦いを、あなた方も見ていたはずです」

 

空気が、僅かに揺れる。リューの脳裏に浮かぶのは――漆黒の巨体、絶望的な圧力、そして、時間稼ぎではあったがそれを正面からねじ伏せた存在。

 

「――ローエン」

 

その名が、落ちる。一瞬だけ、ヘルメスの笑みが、固まった。ほんの僅かではあったが、確かに。

 

「……やっぱり、そこに行き着くか」

 

苦笑。視線を逸らし、頭を掻く。

 

「もちろん最初に頼みに行ったさ」

 

ローエンは旅人かつ、中層での出来事を鑑みるに実力者であることは間違いない。そしてオラリオで活動する冒険者にしては、どこの神も情報を持っておらず、謎に包まれた人物である。それらを踏まえ、導き出される答えは、”オラリオ外の冒険者”であること。だが、ヘルメスは軽くため息をつきながら告げる。

 

「断られたよ」

 

リューの瞳が、わずかに揺れる。理解と、違和感が同時に走り、問いが漏れる。

 

「……なぜ……彼は――ベルの利の為に、迷わず判断できる人だ」

 

ベルが怪物進呈に巻き込まれた際も、十八階層での際も、彼のためであれば躊躇なく踏み込む。今までの行動がすべてを物語っている。ならば、ベルのために戦争遊戯にも参加する――それが結論のはずだった。だが――

 

「さあね。彼には彼なりの事情がある、ってやつさ」

 

ヘルメスは肩を竦め、軽い口調で答える。だが、それ以上踏み込ませない線引き。

 

「……」

 

リューは沈黙する。

 

(……分からない)

 

十八階層での出来事。あの大切な戦友たちの墓前で語らった際――彼の微笑みを見て、信用に足ると、本当に尊敬に値する人物だと思った。だからこそ――この“不参加”が、歪に見える。

 

「……」

 

思考は泥沼のように深く沈んでいく。――だが。

 

「リュー」

 

柔らかな声が、それを断ち切った。振り返るとそこにいるのは、シル。いつもと同じ笑顔――けれど、その奥にあるものは――

 

「お願い」

 

一歩、近づく。

 

「ベルさんを、助けてあげて」

 

言葉は柔らかい――だが、その重さは明確だった。リューは目を閉じ静かに、息を吐き、そして目を開く。

 

「……分かりました。この依頼、引き受けます」

「助かるよー、リューくん」

 

ヘルメスが緊張の糸が切れたようにふにゃりと笑う。そこには安堵と、わずかな達成感が滲み出ていた。続いてアスフィも深く頭を下げ感謝を述べる。用件は済んだ――二人はそのまま店を後にする。扉が閉まり喧騒が戻る――だが。

 

「……」

 

リューは、その場から動かない。視線は、どこか遠くにあった。それは、これから訪れる戦争遊戯への不安か、それとも――

 

(……なぜだ)

 

リューは、無意識に手を止めていた。拭きかけのグラスに、指先が触れたまま動かない。

 

(なぜ私は、あの男のことを――考えている)

 

ローエン。ただの一冒険者、所属も曖昧で、素性も不明。関わりも、深いわけではない。それなのに――胸の奥に、引っかかる。評価はできる――実力も、判断力も、人格も、あの場で見せた振る舞いは、間違いなく“信頼に値する”ものだった。だが――それだけだ。それ以上の何かを、自分が感じる理由が、見つからない。

 

(……なぜ、気になる)

 

答えが出ないまま、思考だけが空回りする――その時。

 

「――リュー」

 

柔らかな声――シルだった。

 

「さっきから、ぼーっとしてますよ?」

 

いつものように微笑みながら、リューの顔を覗き込む。リューは、はっとして視線を戻した。

 

「……大丈夫です」

 

短く答える。だが、そのわずかな間を、シルは見逃さなかった。

 

「もしかして――」

 

少しだけ、声を弾ませる。

 

「ローエンさんのこと、考えてました?」

 

その一言で。

 

「――っ」

 

リューの手が、わずかに止まった。グラスが、かすかに音を立てる。

 

「な、なぜ……その名前が出てくるのですか」

 

珍しく、言葉が一瞬遅れる。視線も、ほんのわずかに逸れた。シルは、その反応を見て、くすっと笑う。

 

「やっぱり」

 

楽しそうに。

 

「気になってるんですね」

「違います」

 

即答だった。だが、その声はほんの少しだけ強く――わずかに早かった。

 

「私はただ、合理的に――」

 

言葉が続かない。自分でも、何を否定しているのか分からなくなる。シルはそんな様子を、じっと見つめてから、ほんの少しだけ、声のトーンを落とした。

 

「……ローエンさんは」

 

一拍、間を置く。

 

「やめておいた方がいいですよ」

 

その言葉は、あまりにも自然で。軽く、何気ない調子で――それなのにどこか、引っかかる響きがあった。

 

「……なぜですか」

 

リューは即座に問う。今度は迷いのない声だった。シルは、少しだけ目を細める。まるで、考えるふりをするように。

 

「うーん……」

 

あどけない顔で指先を頬に当てて、首を傾げる。そして。

 

「なんとなく、ですよ」

 

にこり、とほんの少しの気品を感じさせるながら笑った。

 

「……」

 

リューは、その答えに沈黙する。曖昧すぎる。理由になっていない。だが――なぜか、それ以上追及する気にはなれなかった。シルはすでに、いつもの調子で別の客へと向かっている。何事もなかったかのように。

 

「……」

 

リューは、再びグラスに視線を落とす。胸に残るのは、同じ違和感。ローエンに対してのものかそれとも――シルの、あの一言に対してか。答えはまだ、出ない。

 

 

 

 

人通りの消えた、暗い路地の奥。昼間の喧騒が嘘のように、そこには音がなかった。建物と建物の隙間に落ちた影が、夜よりも先にその場所を支配している。少女はゆっくりと歩みを止めた。石畳に、かすかな靴音が一つだけ残る。

 

「……もういいかしら」

 

振り返らずに、そう告げる。その声には、先ほどまでの柔らかな響きはない。感情の温度が、わずかに削ぎ落とされている。足元にいた猫が、小さく鳴いた。トン、と軽い音を立てて地面へと降りる。その瞬間——輪郭が、揺らいだ。毛並みが霞のようにほどけ、形が曖昧になる。小さな身体が、内側から引き伸ばされるように歪む。骨格が軋むような錯覚。だが音はない。ただ静かに、存在だけが組み替えられていく。やがて、猫は消えた。そこに立っていたのは——白髪の少年。細い身体。年の頃はまだ幼い。だがその瞳だけが、不釣り合いなほどに静かで、深い。少年は一歩、前へ出る。わずかに頭を下げた。

 

「……お疲れ様です、シエラ様」

 

声音は幼い。だが言葉遣いは丁寧で、どこか不自然なほど整っている。少女——シエラは、ゆっくりと振り返った。

 

「ええ、お疲れ様。ノア」

 

その呼びかけに、少年は顔を上げる。表情は薄い。感情の起伏はほとんど見えない。それでも——ほんのわずかに、安堵の色が混じっていた。

 

「体は大丈夫?」

「はい。問題ありません。……多少壊されましたけど、もう戻ってます」

 

さらりと告げる。まるで擦り傷の報告でもするかのように。その言葉に、シエラはくすりと笑った。

 

「そう。ならいいわ」

 

興味は一瞬で薄れる。視線が、すぐに別のものへと移る。

 

「それで?」

 

促すように、顎をわずかに引く。空気が変わる。先ほどまでの“遊び”の余韻が、すっと消えていく。代わりに残るのは——機能、役割、ただそれだけ。ノアは姿勢を正した。小さな背筋が、ぴんと伸びる。

 

「……はい。報告いたします」

 

一拍、間を置く。言葉を選ぶように、わずかに視線を落とした。

 

「現在、タナトス・ファミリア内部への潜入は継続中です。末端構成員としての立場は確保できています」

 

淡々とした報告。だが、その声にはわずかに子供らしいぎこちなさが残る。

 

「ヴァレッタという女に目をつけられていますが……今のところは、都合よく使われている状態です」

 

ほんの一瞬だけ、言葉が詰まる。それでも、すぐに立て直す。

 

「……問題はありません。むしろ、内部情報へのアクセスは以前より容易になっています」

 

シエラは何も言わず、ただ聞いている。評価もしない、否定もしない、ただ“観察”している。

 

「エニュオと呼ばれる人物の動きについても、断片的ですが情報を得ています」

 

 空気が、わずかに張り詰めた。だがノアの声は変わらない。

 

「何か大きな計画が進行中です。詳細はまだ掴みきれていませんが……」

 

そこで、わずかに言葉を切る。そして、続けた。

 

「オラリオの上級冒険者を巻き込む規模のものになる可能性が高いです」

 

沈黙が落ちる。路地の奥、光の届かない場所でシエラは、ゆっくりと目を細めた。その表情は——楽しんでいる。

 

「そう」

 

短く、それだけを返す。だが、その一言に含まれる満足は明確だった。

 

「いいわね。それ、とても面白そう」

 

くすり、と喉の奥で笑う。その声音は、先ほどカフェで見せていたものとよく似ている。だが決定的に違う。こちらの方が——純粋だ。

 

「引き続き、情報収集を続けます」

 

ノアは、静かに頭を下げる。その仕草は忠実で、正確で、そしてどこか機械的だった。

 

「ええ、任せるわ――私を失望させないでね」

 

シエラは軽く手を振る。それだけで十分だった。ノアは顔を上げる。一瞬だけ、何かを言いかけて——やめる。代わりに、こう言った。

 

「……承知致しました」

 

その言葉には、わずかに——感情が混じっていた。忠誠とも、執着ともつかない、微かな揺れ。だがそれを指摘する者は、ここにはいない。闇の中で、二つの影が向かい合う。主と、その分身。血ではなく、魂で繋がれた歪な関係。遊びの時間は終わった。ここから先は——“仕事”の時間だ。

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