自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ 作:パラレル・ゲーマー
二〇三一年六月。
テラ・ノヴァ中央管制室。
工藤創一は、前日の「案件棚卸し」の重圧から立ち直り、手元のホログラムに表示された《火星補給便:最終確認待ち》のタスクを開いた。
「さて、と」
画面に、膨大なリストが展開される。
《国際火星長期滞在実証拠点一号棟
第一次定期補給便/最終積載確認》
工藤は、その荘厳な見出しを見て、少しだけワクワクした。
「人類初の火星定期補給便」という字面には、エンジニアの端くれとしてどうしようもなく惹かれるロマンがある。宇宙開拓の歴史に刻まれる、偉大な第一歩だ。
ところが。
その見出しの下に羅列された『積荷の中身』を見て、工藤は思わず顔をしかめた。
「……なんか、猛烈に地味だな」
リストの最上段。
《閉鎖循環生命維持系》
・空気清浄フィルター(メイン・サブ)
・CO₂除去系交換材
・水再生系交換フィルター一式
・高耐圧配管シール材
・予備バルブ(各種)
・環境センサー交換用モジュール
・小型循環ポンプ
・消毒・微生物管理用ケミカル
「……完全に設備屋の発注リストじゃん」
工藤がボヤく。
『補給とは、本来そのようなものです』
イヴが、夢もロマンもない正論で返す。
工藤は画面をスクロールする。
《機械・保守系》
・標準工具セット補充
・特殊工具類
・真空対応潤滑材
・接合材およびシーリング剤
・予備コネクタ(規格統一版)
・ロボットアーム消耗部品(爪部等)
・船外活動・作業用手袋
・各種ケーブル類
・標準ボルト・ナット類
「ホームセンターみたいになってきたぞ……」
そして、次のカテゴリで工藤の指が止まった。
《衛生・廃棄物処理系》
工藤は、リストの中に燦然と輝く、しかし火星という響きにはあまりにも似つかわしくない部品群を見つけた。
「……トイレ?」
『はい』
・トイレ用交換ポンプ
・排泄物処理系バルブ
・密閉パッキン類
・汚水系配管部材
・臭気検知センサー
・消臭・殺菌系消耗部材
「人類初の火星定期補給便に、普通にトイレの修理部品が載るんだ……」
工藤は、複雑な顔で呟いた。
『六名の人間が継続的に居住していますので、必然的な消耗品です』
「まあ……するよな。トイレ」
工藤は、当たり前すぎる結論に自ら納得した。
工藤は少し考えた。
「火星だからって、トイレが壊れなくなるわけじゃないもんな」
『はい。長期使用によるポンプやシール材の摩耗、微細な火星塵の持ち込み、薬剤や汚水による部材劣化は避けられません』
「むしろ、火星でトイレが壊れたら、地球より困るんじゃない?」
『著しく困ります。基地内の衛生環境の悪化は、クルーの精神的・肉体的な健康に直結する致命的インシデントです』
「じゃあ、超重要物資じゃん」
工藤が衛生設備部品の優先度を確認すると、そこにはハッキリと《優先度:A》と記載されていた。生命維持用のフィルター等と全く同レベルの、最重要貨物扱いである。
「トイレ、強いな……」
◇
今回は、日本の官邸の日下部ではなく、地球側の『国際火星合同管制』との最終確認会議であった。
NASA、JAXA、そしてその他参加機関の代表者たちが、セキュアな閉域回線に接続してくる。もちろん、アンノウン側の中核システムや輸送ルートは日本政府が厳重に管理しているため、工藤自身は日本政府側の閉域回線にのみ接続し、対外回線への発言は日本側の技術窓口を介して中継される。
「では、第一次定期補給便の最終積載確認を始めます」
NASAのミッションディレクターが、正式に会議を開始した。「第一次定期補給便」という言葉に、少しだけ力がこもっている。
だが、本題に入る前に、ある国の代表から確認が入った。
「……積荷の前に確認したい。本当に『第二陣』は送らないのか?」
世界中からの圧力は凄まじいものがあった。
各国宇宙機関、研究者、メディア、政治家、そして民間宇宙企業。全員が「次は我々の人間を火星へ送れ」と要求してきている。
しかし、合同管制の結論は、これまで通りの既定方針を崩さなかった。
「今は、人間を増やしません」
JAXAの責任者がきっぱりと答える。
「第一陣の六人による長期滞在負荷データが必要です。現在の設備で、本当に安定して人間が生きていけるのか。必要物資量、設備寿命、心理負荷、医療問題、そして保守の負担。……それらを完全に評価し終えるまでは、人を送るべきではありません」
当然の安全第一の判断だが、政治的な不満も残る。
そこで、工藤が珍しく、完全に同意する発言をした。
「俺も、それでいいと思います」
工藤の言葉を受け、日本側の技術窓口がその意見を対外回線へと伝える。回線の向こうで、関係者たちが少し意外そうな反応を見せた。いつもなら「部屋、増やせますよ?」「なんならもう一棟建てましょうか?」と気軽に言ってくる技術側だからだ。
「人を増やす前に、今いる六人が『普通に住み続けられるか』を確認した方がいいですよ」
工藤は、元SEとしての経験から語った。
「サーバーの長期負荷テストも終わってないのに、とりあえずユーザー数だけ増やすと、大体ろくなことにならないので」
その内容を中継した日本側の責任者が、深く納得したように言った。
「……珍しく、完全に正しいですね」
「珍しくって何ですか」
工藤が、閉域回線の向こうで不満げに返した。
◇
「それでは、現場からの『追加要望書』の確認に移ります」
ここからが、今回の会議の最も生々しい部分だった。
合同管制が地球上で緻密に計算した計画積荷に対し、実際に火星で暮らしている第一陣の六名から、「実際に暮らしてみたら、これが必要だった」というリアルな追加注文が届いているのだ。
《第一回長期滞在・現場追加要望》
最初は、ミッションコマンダーのエリック・ヘイルからの要望だった。
彼は派手な英雄型ではなく、極めて実務的で冷静な指揮官として選ばれた人物だ。
・共用区画用の予備チェックリストボード
・物理筆記具(複数)
・紙ベースの緊急手順書の追加
・個人作業区画の小型収納具
「紙?」
工藤が、最新鋭の宇宙基地にあるまじきアナログな要望に首を傾げる。
「はい。電子システムがすべて落ちた状態(ブラックアウト)でも、手順書が読めなければならないからです」
管制官が説明する。
「なるほど」
工藤は感心した。指揮官として、最悪の事態を想定した完璧に実務的な要求だ。
次は、生命維持・安全担当の瀬尾航平の要望。
人工重力や閉鎖循環生命維持装置という、火星基地のインフラの要を握る男だ。
・交換フィルターの予備数増量
・各種センサー予備
・手動環境検査機
・小型工具類
・ラベルシール用品
そして。
・結束バンド(大量)
「……結束バンド?」
工藤が、リストを見て笑った。
要望理由にはこう書かれていた。
《仮固定用途。微小な配線整理等、想定以上に使用頻度が高い》
「分かるわー……」
工藤は、猛烈に共感して頷いた。元SEと火星のインフラエンジニアの間で、謎の結束バンドの絆が生まれた瞬間だった。
続いて、閉鎖環境運用担当のアナスタシア。
限られた資源管理と、クルーの生活リズム維持を担当する彼女の要望は、非常に生活感に溢れていた。
・清掃用品の追加
・衣類管理用圧縮袋
・小型収納ボックス
・共用区画の整理用品
・洗濯/乾燥系消耗材
・日程管理用の物理表示用品
「生活感あるなぁ」
工藤が呟く。
「閉鎖環境では、散らかった物が一つあるだけでも、長期間の重大な心理ストレスに繋がるからです」
管制側が真面目に補足する。
「なるほど、生活を回すためのインフラか」
建設・機械担当の劉天宇の要望は、さらに露骨だった。
・工具追加(各種)
・交換ビット(消耗激しい)
・ボルト・ナット類(規格多種)
・ケーブル類
・シール材
・作業灯
・収納ケース
・ロボットアーム交換爪
・予備作業グローブ
「完全にホームセンターの買い出しリストだ」
工藤が笑う。
「火星にホームセンターはありませんからね」
地球側の技術者が、自嘲気味に言う。
「それは困る」
医療・生理学担当のアーシャ・ラマンの要望。
・採血・検査消耗品
・培養検査用品
・消毒用品
・各種薬品
・睡眠・生理データ用センサー予備
そして、一つ目を引く項目があった。
《市販レベルの保湿剤・増量》
「保湿剤?」
工藤が首を傾げる。
「はい。閉鎖循環環境の火星基地内は、非常に乾燥しています。皮膚トラブルが多発しており、こうした小さな不快感も、長期滞在では無視できないストレス要因となります」
「……こういうの、設計する側からだと絶対に見落とすんだよなぁ」
工藤は、現場のリアルな声に感心した。
最後に、惑星科学・地質調査担当のルーカス・マイヤー。
・試料袋(大量)
・ラベル
・小型保管ケース
・標本整理資材
・清掃用ブラシ
・野外用作業用品
そして。
《試料収納スペースの追加》
「もう、基地の収納いっぱいにしちゃったんですか?」
工藤が苦笑する。
「地質学者を火星に送り込んで、石を拾わせた結果です。当然こうなります」
管制官が溜め息をつく。
「ああ……」
工藤も、学者の性を理解して笑った。
◇
そして、リストの最後に《クルー共通要望》という項目があった。
そこには、これまでとは違う、完全な「生活用品」が並んでいた。
・食事メニューの種類追加
・飲料の選択肢増加
・衣類、タオル類
・書籍、雑誌等の娯楽物
・卓上ゲーム等
・運動用品の消耗品
・小型の共用収納
そして。
《私物配送枠の設置》
「私物配送枠?」
工藤が、その項目に目を止めた。
「はい」
NASAの担当者が説明する。
「一人あたり一定の重量内で、家族や本人が指定した『私物』を送れるようにする枠です」
高価なものや危険物は不可。食品も検疫上の制限がある。衛生・質量審査をクリアしたものだけ。
だが、これまで彼らの荷物はすべて「ミッションのための装備」だった。それが初めて、「自分個人のもの」を火星へ持ち込めるようになるのだ。
工藤は、少し黙ってその文字を見つめた。
「……それ、いいですね」
それは、火星に人間が「暮らしている」という、何よりの証拠だった。
「これ、もう補給船っていうより、完全に宅配便じゃないですか?」
工藤が笑って言う。
「火星への、ですがね」
誰かが真面目に返す。
「住所どうするんです?」
正式な配送先は《Mars / International Mars Long-Term Habitation Demonstration Base No.1》となる。あるいは地球側の管理コードだ。
「郵便番号ないんですか?」
「要りません」
「宅配業者が泣きますよ」
そんな軽い冗談が飛び交うほど、この前代未聞の補給ミッションは「当たり前の物流」として処理されつつあった。
◇
工藤は、全体の輸送能力の余力ゲージを見た。
「重量、まだ少し余ってますね」
工藤が言う。
「予備品、もう一セットずつ積みます?」
これは合理的な提案だったので、管制側も頷いた。
工藤は調子に乗った。
「収納も増やして、食事も増やして、ついでに居住区もう一棟——」
「工藤さん」
日本側の責任者が、閉域回線越しにピシャリと止めた。
「はい」
「これは『補給』です」
「はい」
「『増築工事』ではありません」
「……はい」
工藤は、素直に引き下がった。日下部に怒られ続けたおかげで、彼も少しは「引くこと」を覚えていた。
だが、工藤は自分の中で「余計なもの」を一つ考えた。
昔の彼なら、ここで勝手に巨大なテレビや娯楽設備を積んで送っていただろう。だが今は違う。
(現場の要望にはないけど、輸送に余裕があるなら……何か欲しいものはないか?)
工藤は、日本側の管制を通して現場に確認してもらうことにした。
これが、彼なりの成長だった。
◇
地球と火星を繋ぐ、暗号化通信回線。
《国際火星長期滞在実証拠点一号棟》の内部映像が、モニターに映し出される。
到着から数週間。第一夜のヒリヒリするような緊張感は薄れ、そこには確かな「日常」が存在していた。
六人は、それぞれ着慣れた制服や作業着姿で、思い思いの作業をしている。
誰かが点検を行い、誰かが地質の試料を整理し、誰かが医療データを確認している。
壁には細かく書かれた勤務表。棚には物が増え、最初は無機質で綺麗すぎた居住区が、明らかに「人が住んでいる場所」特有の生活感を纏い始めていた。
『こちら地球合同管制。……補給便、最終積載前です』
日本側の管制官が、閉域回線で工藤から上がってきた確認事項を火星側へ中継した。
『積載重量に、まだ少しだけ余裕があります。技術側からの確認ですが、追加で必要なものはありますか?』
火星の六人は、作業の手を止め、一瞬だけ沈黙した。
「火星で、何が欲しいか?」
あまりにも壮大な、そして日常的な質問。
「……予備品を優先してくれ」
エリックが、指揮官らしく真っ先に実務を答える。
「フィルターですね」
瀬尾が続く。
「衛生用品を」とアナスタシア。
「工具だ」と劉。
「医療物資」とアーシャ。
「試料ケース」とルーカス。
「皆さん、真面目だな……」
工藤が、日本側の閉域モニターの前で苦笑する。
「それ、もう全部載ってますよね。……仕事じゃなくて、暮らすのに欲しいものを聞いてみてもらえません?」
工藤の言葉を受け、日本側の管制官が火星側へ問い直した。
『必要物資ではなく、皆さん自身が……火星で暮らすために欲しいものはありますか?』
火星の基地内に、少しだけ空気の変わる音がした。
「暮らすのに、欲しいもの……」
六人は、顔を見合わせた。
誰も、すぐには答えられなかった。
彼らは優秀な宇宙飛行士として訓練されすぎており、「ミッションに必要な物資」なら一瞬で計算できる。だが、「自分が欲しいもの」を聞かれると、ひどく戸惑ってしまったのだ。
やがて、アナスタシアが現実的な視点から口火を切った。
「……もう少し、普通のカップが欲しいわね」
「食器?」
エリックが尋ねる。
「ええ。宇宙食のパックのまま食べ続けるのは、洗い物も出ないし効率的だけど……食事をしている気がしないのよ」
彼女の言葉に、他の数人も深く頷いた。
「確かに、それは必要だな」
アーシャが、医療・心理の観点から肯定する。
「単調な閉鎖環境において、食事の『儀式性』は心理的健康に直結する。仕事と休息の切り替えのためにも、無駄ではない」
「生活も、システムの一部なんだな」
工藤は、日本側の閉域モニター越しにそのやり取りを聞き、現場のリアルな声に感心した。
そこから、六人の要望が少しずつ人間味を帯び始めた。
「普通の皿」
「マグカップ」
「箸とフォークの予備」
「小さな卓上ゲーム」
「壁に貼れる、地球の綺麗な写真」
そして、現場から一つだけ、ひどく生活感のある追加要望が出た。
「……洗濯ばさみ」
工藤が、日本側のモニター前で吹き出す。
「火星に欲しいものが、洗濯ばさみかぁ」
火星側では、瀬尾が管制へ大真面目に理由を説明していた。
「笑い事じゃない。無重力じゃないとはいえ、ちょっとした物を仮固定したり、干したりするのに、一番手軽で重宝するんだ」
最終リストが更新された。
新しいカテゴリが二つ増える。
《生活用品》
《個人私物》
「……これでいいな」
工藤が確認する。
『積載質量、許容範囲内です』
イヴが承認した。
◇
数日後。
人類初の、火星定期補給便が出発した。
だが、地球側のニュースの扱いは、第一陣の打ち上げの時のような、世界が息を呑んで見守る大仰なものではなかった。
ニュースの速報テロップは出た。しかし、人々が仕事を止めて画面に釘付けになるようなことはなかった。
『人類初の火星定期補給便、出発』
「定期」という言葉が、ごく自然に使われている。それこそが、このミッションの最大の成功だった。
メディアが、公開可能な一般向けの積荷リストを紹介する。
生命維持消耗品、食料、医療物資、科学機材、整備部品、生活用品。
そして記者が、少し面白おかしく付け加えた。
「……なお、この中には衛生設備、つまり『トイレの交換部品』も含まれているとのことです」
当然、ネットの反応はそれに食いついた。
『火星まで行ってトイレ詰まるの嫌すぎるww』
『人類文明の最前線を支える便座』
『NASA「火星開拓!」 アンノウン「パッキン持った?」』
『こういうのでいいんだよ』
『むしろトイレ部品まで定期便で送れる時点で、もう定住始まってるだろ』
最後のレスが、この出来事の本質を見事に突いていた。
◇
輸送そのものは、全くのノントラブルだった。
事故もない。故障もない。劇的な救出劇もない。
補給船は予定通りの航路を進み、予定通り火星に到着した。
ただ、無事に着いた。それだけだ。
火星側。
一号棟のハッチが開き、六人が荷受け作業を開始する。
以前なら、火星の地表に物が届くこと自体が世界史の教科書に載る出来事だった。
だが今回は違う。
「補給来たぞ」
「了解。手順通りに搬入する」
チェックリスト。シール番号の確認。数量照合。汚染の確認。そして収納。
完全に、ただの『物流』になっていた。
劉が、新しい工具箱を受け取り、中身を確認して小さく喜ぶ。
「やっと来た」
瀬尾が、フィルターの束を受け取り、深く息を吐く。
「これで、予備が増えた。安心だ」
アーシャは医療用品を整理し、ルーカスは待ちに待った試料袋を確保し、アナスタシアは衛生用品の在庫を棚へ収めていく。
それぞれが、当たり前のように自分の「仕事」に戻っていく。
そして。
一つの箱が運び込まれた。
《SANITATION SYSTEM / SPARE PARTS(衛生設備/予備部品)》
「これ、最優先で倉庫の奥に入れてくれ」
瀬尾が、真剣な顔で指示を出す。
「壊れてからじゃ、遅いからな」
地球側の日本政府閉域モニターでその様子を見ていた工藤が、深く頷く。
「分かるなぁ……予備部品って、使わないまま終わるのが一番いいんですよね」
火星側では、瀬尾が管制へ続ける。
「実際に使わずに済むなら、それが一番です」
何も起きないための物に、最大の価値を見出す。互いに直接言葉を交わさなくても、元SEとインフラエンジニアの発想はよく似ていた。
◇
最後に、一つの特別な箱が開けられた。
《CREW PERSONAL ITEMS(クルー個人私物)》
六人の空気が、少しだけ変わった。
これは、冷たい仕事用の貨物ではない。それぞれに名前が書かれた、個人のための荷物だ。
誰かは、家族の新しい写真を取り出した。
誰かは、読みたかった紙の本を。
誰かは、地球からの手紙を。
デジタルデータでいくらでも送信できる現代でも、物理的な『物』が、数億キロの距離を超えて届く意味は、決して消えない。
「……地球から届いた箱だ」
誰かが、梱包材を開けながら、ぽつりと言った。
全員がプロフェッショナルだから、泣き崩れたり、大げさに抱き合ったりはしない。
でも、少しだけ、全員の手が止まり、それぞれの時間を持った。
◇
その日の夕食。
共用テーブルの上には、追加された『生活用品』——新しい皿とマグカップが並んでいた。
以前は、温めた宇宙食のパックのまま、効率重視で胃に流し込んでいた。
今度は、パックを開け、皿に移して食べる。
中身は、全く同じだ。
でも、見た目が違う。食卓の音が違う。
「……味、変わってないよな?」
誰かが、皿の上の食事を見ながら言う。
「変わるわけないだろう。同じロットだ」
「でも」
少しだけ笑って。
「少し、うまい」
それは、設備ではなく、彼らの『生活』が一段階進んだ瞬間だった。
最初の夜は違った。
狭いテーブルで、水の使用量を気にし、トイレの手順を確認し、交代当番に気を張り詰めていた。あれが、彼らの「火星生活の始まり」だった。
今。
補給便が来て、予備品が棚に並び、私物が増え、普通の食器で食事をしている。
生活が、始まりから『続き』へと変わったのだ。
日本側の閉域管制室で、工藤がモニターの向こうの六人の夕食風景を見ていた。
誰も、歴史的なスピーチなどしない。ただ、飯を食っているだけだ。
「……普通ですね」
工藤が呟く。
「火星ですがね」
日本側の管制担当が返す。
「だから、成功なんですよ」
工藤は、満足げに笑った。
◇
地球のニュースでは、《人類史上初の火星定期補給成功》という見出しが踊っていた。
しかし、工藤の手元にある運用ログは、極めて事務的だった。
《生命維持フィルター補充:完了》
《医療物資補充:完了》
《工具補充:完了》
《衛生設備予備部品:完了》
「……トイレ部品まで、無事届いた、と」
工藤が、チェックを入れる。
『はい』
「人類、火星で暮らしてるなぁ」
◇
火星、一号棟。
夜。窓の外には、赤黒い荒涼とした死の世界が広がっている。
だが、その強固な壁の内側では、六人の人間が暮らしている。
食後、誰かが食器を洗う。
誰かが、明日の作業表を確認する。
誰かが、新しい補給品を棚へ入れる。
誰かが、自室で家族の写真を見つめる。
そして、収納庫の奥。
新品の箱が一つ、静かに置かれている。
《衛生設備予備部品》
人類が初めて火星へ向かった時、世界が注目したのは、巨大な宇宙船だった。
次に注目したのは、火星の大地へ降り立つ英雄たちの姿だった。
だが。
人間が本当に別の惑星へ「住む」ために必要だったものは、そんな華々しいものばかりではない。
空気を綺麗にするフィルター。水を循環させる部品。壊れた機械を直す工具。薬。食料。皿。私物。
そして。
壊れた時のために棚へしまっておく、トイレの交換部品。
火星はもう、人類が「行った場所」ではない。 補給便を待つ人間が暮らしている、「住んでいる場所」になり始めていた。
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