好奇心の下僕   作:かんぱにい

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ジョン・ロック


他人を従わせるための方法の一つは説得だ。もう一つは議論で、さらにもう一つは罰だ。

「では、最後に。目撃者を呼んでもよろしいでしょうか」

 

一瞬、室内の空気が止まった。

 

「……どうぞ」

 

橘先輩の返答には、わずかに呆れの色が混じっている。

これ以上、話が膨らむことを想定していなかったのだろう。

 

ドアが開く音がして、控えめな足音が近づいてくる。

 

「し、失礼します。1年Dクラスの、佐倉です」

 

消え入りそうな声。

肩をすぼめ、視線を伏せたままの彼女は、明らかにこの場に慣れていない。

 

ざわり、と再び波紋が広がった。

 

「……Dクラス?」

「ハッ、同じクラスじゃねぇか」

 

Cクラス側から小さな失笑が漏れる。

巻き返しを図れるとでも考えているのだろう。

だが、それに反応する者はいない。

今この場で重要なのは、彼女が何を見たかだけだ。

 

「佐倉さん」

 

橘先輩が、なるべく柔らかい声色で問いかける。

 

「あなたは、日曜日の夕方、特別棟にいましたか?」

「……は、はい」

 

か細いながらも、はっきりとした返答。

 

「そのとき、何を見ましたか?」

 

一瞬、佐倉は言葉に詰まる。

握りしめた指先が、小刻みに震えているのが見えた。

 

「私は……須藤君が立ち去るところを、確かに見ていました」

 

佐倉の声は震えているが、言葉そのものははっきりしている。

 

「そのとき、Cクラスの三人は怪我を負っていましたか?」

 

橘先輩の問いに、佐倉は少し考えるように視線を落とし、それから首を横に振った。

 

「いいえ……少なくとも、倒れていたり、痛がっている様子はありませんでした。須藤君に向かって、大声で何か叫んでいました」

 

その瞬間、室内の空気がわずかに変わった。

怪我をしていなかった、その一点だけで、Cクラスの主張は大きく揺らぐ。

 

しかし、その流れを断ち切るように、低く落ち着いた声が響いた。

 

「ふむ」

 

坂上先生だ。

 

「そんな証言はいくらでも繕える」

 

冷静だが、どこか含みを持たせた言い方。

 

「佐倉君、だったね?」

「……はい」

 

名を呼ばれただけで、佐倉の肩がぴくりと跳ねる。

 

「聞いたところによると、君はそこにいる綾小路君と親しいそうじゃないか。彼に頼まれて、ここに立っているのではないかね?」

 

露骨な誘導。

証言の内容ではなく、証言者そのものを疑う手だ。

同じクラス、同じ立場。確かに、疑いを向けるには都合がいい。

 

だが。

 

「そんなことはありません!」

 

佐倉の声が、思いのほか強く響いた。

 

自分でも驚いたのか、一瞬はっとした表情を浮かべるが、それでも言葉を止めない。

 

「ここにいるのは……自分の意思です。誰かに頼まれたわけじゃ、ありません」

 

必死に、噛みしめるように。

 

「見たことを、そのまま言っています。それだけです」

 

しん、と静まり返る室内。

 

彼女の声量は決して大きくない。

だが、逃げずに言い切ったその姿勢は、少なくとも操られている人間のものではなかった。

 

坂上先生は、ふっと鼻で息をつく。

 

「……なるほど」

 

それ以上、佐倉を追及しようとはしなかった。

これ以上踏み込めば、逆に圧力をかけていると見られかねない。

 

「だがね──」

 

坂上先生は眼鏡の奥から、佐倉を値踏みするように見据えた。

 

「目撃した、という証言だけでは明確な証拠にはならないんだよ。残念だが、それが現実だ」

 

その言葉に、佐倉の指先がわずかに震えた。

一瞬、俯きかけ──しかし、次の瞬間、彼女はぎゅっと拳を握りしめ、前に一歩踏み出す。

 

「証拠なら……あります!」

 

その声は、先ほどよりもはっきりしていた。

 

ざわ、と室内が揺れる。

 

佐倉はポケットの中から小さなケースを取り出す。

そして、その中身──親指ほどの小さな記録媒体を、両手で掲げた。

 

「これです」

「……SDカード?」

 

橘先輩が思わず呟く。

 

「私があの日、特別棟にいたという証拠です!」

 

佐倉は一度息を吸い、言葉を続ける。

 

「あの日、私は写真を撮るために、特別棟にいました。人が少なくて、構図がいいので……。そのとき、たまたま須藤君たちの声が聞こえて……」

 

たまたま。

だが、その偶然こそが、今この場で決定的な意味を持つ。

 

「このSDカードには、私が撮った写真と動画が残っています。撮影日時も、場所も、消していません」

 

坂上先生の表情が、わずかに硬くなった。

 

「……動画、だと?」

「はい。須藤君が立ち去ったあと、シャッターを切ったときに、数秒ですが映ってしまいました」

 

完全な暴行の瞬間ではない。

だが、それで十分だ。

 

少なくとも、須藤が一方的に三人を殴り倒した直後の光景でないことは、簡単に確認できる。

 

橘先輩は一瞬、生徒会長へと視線を送る。

会長は無言のまま、顎をわずかに引いた。

 

「……提出を許可します」

 

その一言で、場の空気が決定的に変わった。

 

佐倉は小さく頷き、震える手でSDカードを差し出す。

それを受け取った橘先輩の表情は、いつになく引き締まっていた。

 

証言だけでは足りない。

確かにその通りだ。

 

だが、

証言に裏付けが加わったとき、話はまったく別になる。

 

俺は、黙ってCクラスの三人を見る。

彼らの顔色は、はっきりと変わっていた。

 

モニターに映し出された写真には、はっきりとしたタイムスタンプが刻まれていた。

事件が起こったと主張されている時刻と、完全に一致している。

 

そこに写っていたのは──無傷のまま、須藤の背中を追いかけようとするCクラスの三人の姿だった。

 

多少制服に乱れはあるものの、血痕はない。

顔に腫れもなく、誰一人として殴られた直後とは言い難い状態だ。

 

室内が静まり返る。

次に再生されたのは、短い動画だった。

画面はややブレており、夕暮れの特別棟の通路が映っている。

 

須藤の姿はすでに画面外。

代わりに、取り残された三人の背中と、くぐもった声が録音されていた。

 

『ど──よ……』

『け──く……』

『殴られなかった──』

 

音声は小さく途切れ途切れだが、意味は十分に伝わる。

 

殴られなかった。

少なくとも、その時点では。

 

橘先輩は動画を停止し、ゆっくりと振り返った。

 

「……この映像が事実であれば」

 

その視線は、Cクラス側へと向けられる。

 

「須藤君が、あなた方三名に暴力を振るったという主張とは、明確に矛盾します」

 

沈黙。

 

先ほどまで強気だった小宮も、近藤も、石崎も、誰一人として口を開かない。

いや──開けない、と言った方が正しいか。

 

坂上先生も、さすがに言葉を失った様子で、腕を組んだまま黙り込んでいる。

 

俺は、ここで畳みかける必要はないと判断した。

証拠はもう十分だ。

事実は静かに、しかし確実に、この場を支配していた。

 

 

橘先輩が一度、場を見渡してから口を開いた。

 

「では……今回の暴力事件についてですが」

 

一瞬、室内の空気が張り詰める。

須藤の呼吸が浅くなるのが、隣にいなくても分かるほどだった。

 

「Cクラスによる虚偽の報告、そしてDクラス側が提出した証拠の信憑性の高さを踏まえ──Cクラスの訴えは棄却とします」

 

その瞬間。

 

「しゃあっ!」

 

須藤が思わず立ち上がり、力いっぱいガッツポーズを取った。

溜め込んでいたものが、一気に弾けたのだろう。

 

「……あ」

 

周囲の視線に気づいたのか、須藤は慌ててこちらを見る。

 

「す、すいません……」

 

俺が軽く視線を送ると、須藤は素直に肩をすくめ、大人しく椅子に座り直した。

 

「……Cクラスは50cpのマイナス。そしてあなた方3名には慰謝料として須藤君にそれぞれ5万ppの支払い、虚偽事件を起こしたペナルティとして生徒会への1万ppの支払い、及び1週間の停学を命じます。また、バスケ部の2名は1ヶ月間部活動への参加を禁じます」

 

室内に、わずかな安堵が広がる。

だが同時に、Cクラス側の沈黙は重く、はっきりとした敗北を物語っていた。

 

少なくとも、この一件は終わった。

表向きは、だが。

 

 

 

廊下に出ると、愛里と櫛田、そして千秋が壁際で待っていた。

どこか緊張が抜けきらない様子で、こちらの顔をじっと見ている。

 

その脇を、Cクラスの三人が無言のまま通り過ぎていく。

さっきまでの勢いは影を潜め、背中はどこかふらついていた。

 

「ありがとな綾小路! 堀北! それと櫛田と佐倉も!」

 

須藤が勢いよく頭を下げた。

さっきまでの緊張が嘘のような、晴れやかな声だ。

 

「気にするな。それより、部活はどうするんだ?」

「……あっ、そうだった!」

 

須藤は一瞬だけ間の抜けた顔をしてから、慌てて振り返る。

 

「じゃあな!」

 

そう言い残し、廊下を駆けていく背中は、いつもの須藤そのものだった。

その姿を見送ってから、俺は小さく息をつく。

 

「無事、終わったみたいだね」

 

千秋が肩の力を抜いたように言った。

 

「ああ。俺たちの勝ちだ。正直、助かった」

「私は何もしてないけどね」

 

さらりと言い切る千秋に、思わず視線を向ける。

 

「そんなことはないと思うが……」

「あるよ」

 

即答だった。

 

「それより、愛里の方が頑張ってたでしょ?」

 

突然話を振られ、愛里は一瞬きょとんとした表情を浮かべる。

 

「わ、私……役に立ちましたか?」

 

不安が混じった声。

 

「ああ。特に動画を撮っていたのは大きかったな。あれがなかったら、話は違っていた」

「そ、そうですか……」

 

胸に手を当て、ほっとしたように笑う愛里。

その笑顔を見て、こちらまで少し力が抜けた。

 

「私も大変だったんだけどなぁ」

 

今度は櫛田が、わざとらしくため息をつく。

 

「いろんな人に聞いて回って、正直喉カラカラだよ?」

「櫛田もありがとう。先輩にも顔が利くとはな」

「えへへ、それが取り柄だからね」

 

冗談めかして笑う櫛田。

それぞれが自分の役割を果たした結果だった。

 

 

後ろから、遠慮のない手刀が飛んできた。

鈍い音とともに、脇腹に衝撃。

 

犯人は堀北だ。

 

「痛いんだが……」

「セクハラした件は、これで相殺してあげるわ」

「別にセクハラでは──」

「清隆君?」

 

間髪入れず、千秋の声。

先ほどまでの柔らかさは消え、温度のない視線がこちらに突き刺さる。

 

「どういうこと? セクハラって」

 

まずい。

櫛田も、愛里も、興味津々といった様子でこちらを見ている。

 

「いや、堀北が生徒会長に睨まれて固まってたから、仕方なくだな……」

 

言い終わってから気付く。

これではやったと認めているようなもの。

どう考えても、弁明としては最悪だ。

 

「……あなたね」

 

堀北が深くため息をつく。

 

「状況を悪化させる才能だけは一級品ね」

「否定はしない」

 

裁かれる場はもう終わったはずなのに、今の方がよほど居心地が悪い。

 

──何故俺は、こんな言い訳じみたことをしているのだろうか。

 

どう切り抜けたものかと思案していると、不意に扉が開いた。

現れたのは、生徒会長と橘先輩。

この場において、これ以上ない救世主だ。

 

「救世主だ」

 

思わず漏れた俺の呟きに、生徒会長は眉をひそめる。

 

「……お前は何を言っている?」

「なんでもないです」

 

即座に視線を逸らす。

胡散臭いものを見るような目が、じっとこちらに突き刺さった。

 

「……まあいい」

 

興味を失ったのか、生徒会長はそれ以上追及せず、廊下の面々を一瞥する。

 

「まさか、無罪を勝ち取るとはな」

 

感想としては淡泊だが、そこにはわずかな評価が滲んでいた。

 

「言ったでしょう? なるようになる、と」

 

肩をすくめて返すと、生徒会長は小さく鼻を鳴らす。

 

「結果論だ。だが……」

 

一瞬だけ、視線が堀北に向く。

堀北は反射的に背筋を伸ばした。

 

「今回は、お前の読みが当たったということにしておこう」

 

それだけ言い残し、生徒会長は踵を返す。

 

少し間を置いて、生徒会長は足を止めたまま言葉を返してきた。

 

「明日からまた生徒会としての仕事が待っているぞ」

 

背中越しの声音は、忠告というより事務連絡に近い。

 

「溜まるような人間じゃないでしょう、生徒会長は」

 

軽口のつもりで返すと、今度こそはっきりとこちらを振り返った。

 

「買い被るな。仕事は放っておけば、いくらでも溜まる」

「それを溜めないから、生徒会長なんでしょう?」

 

一瞬、沈黙。

それから、ほんのわずかに口元が緩んだ──ような気がした。

 

「……減らず口だな」

 

それだけ言って、今度こそ生徒会長は立ち去っていった。

 

足音が完全に消えたのを確認してから、堀北が小さく息を吐く。

 

「……本当に、あなたはよくあの人に噛みつけるわね」

「噛みついてるつもりはないんだが」

「自覚がないなら、なおさら質が悪いわ」

 

呆れたように言いながらも、どこか安堵した表情だった。

 

遅れて、一之瀬が廊下に姿を見せた。

少し小走りで、こちらを見つけるとほっとしたように表情を緩める。

 

「おめでとう! 綾小路君!」

「それは須藤に言ってやれ」

「そうだね。……あれ、須藤君は?」

「もう部活だ。解放された途端、全力で走っていった」

「あはは、須藤君らしいね」

 

肩の力を抜いて笑ったあと、一之瀬はふっと声の調子を落とした。

 

「そっか……。これに懲りて、うちのクラスにもちょっかいかけるの、止めてくれるといいんだけど」

「痛い目を見たのは、あの3人だけだからな」

 

言葉を選びながら、俺は続ける。

 

「今回の件で動いた人間が、あれで全員とは限らない。黒幕がいるなら、どう考えるかは別問題だ」

 

一之瀬は少し考え込むように視線を落とし、それから静かに頷いた。

 

「……やっぱり、簡単には終わらないよね」

「この学校で、簡単に終わることはないだろうな」

 

そう言うと、彼女は苦笑した。

 

「でも、今日は素直に勝利を喜ぼうよ。須藤君も、佐倉さんも、みんな頑張ったんだから」

「それには同意だ」

 

あとは──彼らに釘を刺すだけだ。

 

 

 

夜。

寮の裏手は昼間とは別の顔をしていた。外灯の光は心許なく、建物の影がやけに濃い。風が吹くたび、木々が擦れる音だけがやけに大きく響く。

 

ここは──堀北兄妹のいざこざがあった場所。

人が来ることなんて滅多にない、だからこそ話をするには都合がいい。

 

「まさか、本当に来るとはな」

 

静寂を破ったのは俺だった。

 

「はぁ? お前が呼んだんだろ?」

 

苛立ちを隠そうともしない声。

視線の先には、Cクラスの三人が並んでいる。

小宮、近藤、そして石崎。

すれ違うとき、彼らのポケットに紙を忍ばせたが、皆気がついたらしい。

 

昼間の審議の場とは違い、威勢のいい態度は影を潜めていた。

 

重々しく巻かれていた包帯やガーゼを、彼らはぞんざいに外している。

その様子を見れば一目瞭然だった。

やはり、怪我は大したものじゃない。

 

「その程度で大騒ぎとは、随分と大げさだな」

「うるせぇ。こっちは恥かかされたんだぞ」

 

小宮が吐き捨てるように言う。

だが、その声には昼間のような自信がない。敗北の余韻が、まだ抜けきっていないのだろう。

 

「恥をかいたのは、自分で墓穴を掘ったからだ」

「……っ」

 

近藤が歯噛みする。反論したいのは見え見えだが、言葉が出てこない。

 

「で? こんな場所に呼び出して、説教でもするつもりか?」

 

石崎が一歩前に出る。三人の中では一番気が強いが、それでも距離は詰め切れない。

俺がここに一人で来ている理由を、測りかねているからだ。

 

「説教なんて柄じゃない。ただ確認しに来ただけだ」

「確認?」

「ああ。今回の件──誰の指示だった?」

 

一瞬、空気が凍った。

三人の視線がわずかに泳ぐ。それだけで十分だった。

 

「……何の話だよ」

「しらを切るにしても、もう少し上手くやれ。あの筋書きは出来が悪すぎる」

 

沈黙。

夜の冷気が、じわじわと肌にまとわりつく。

 

「自分たちで考えたなら、もう少し賢いやり方があったはずだ。だが実際はどうだ? 証人も想定していない、怪我の程度も詰めが甘い」

 

一歩、前に出る。

 

「誰に焚きつけられた?」

 

小宮が唇を噛み、近藤が視線を伏せる。

そして石崎が、苛立ったように舌打ちした。

 

「……チッ。だからお前らは嫌いなんだよ」

 

それは肯定と同義だった。

 

「安心しろ。今さら名前を聞き出して、どうこうするつもりはない」

「じゃあ、何だって言うんだ」

「忠告だ」

 

俺は静かに告げる。

 

「次は、もっと慎重に動け。今日みたいな真似をすれば、次に切り捨てられるのは──お前たちだ」

 

三人の表情が、目に見えて強張った。

 

「黒幕は、負けた人間の面倒なんて見ない」

「お前の言うことなんて聞くかよ」

 

吐き捨てるような声。

それに、俺は肩をすくめて応じた。

 

「だろうな。だからわざわざここを選んだ」

 

寮の裏手。

生徒会長ですら、妹を『躾ける』ために使った場所だ。

つまり、ここには監視カメラが存在しない。

特別棟と同じ、何が起きても記録に残らない空間。

 

「言葉じゃお前たちには伝わらない。だから──身体に教え込む」

 

その瞬間、空気が弾けた。

 

「ふざけんな!」

 

最初に突っ込んできたのは石崎。

大振りな右フック。勢いだけはあるが、読みやすい。

 

半歩引き、拳をやり過ごす。

同時に、鳩尾へ肘を叩き込んだ。

 

「ぐっ……!」

 

息が詰まる音。

だが、それで終わりではない。

 

左右から、小宮と近藤が挟み込むように距離を詰めてくる。

1対3。

喧嘩慣れした人間と、スポーツで鍛えた人間。

常識的に考えれば、勝ち目などない。

 

──普通なら、だ。

ホワイトルームで育った俺には通用しない。

 

 

近藤のタックルを横にいなす。

勢いのまま壁に激突させ、小宮の拳を前腕で受け止める。

 

鈍い衝撃。

だが、構わない。

 

「っ……こいつ……!」

 

恐怖が、声に混じり始めている。

 

間合いを詰め、顎下へ掌底。

膝が落ちる前に、背中を蹴って地面に転がす。

 

石崎が立ち上がろうとする。

踏み込んで、肩口に低い回し蹴り。

 

「がっ……!」

 

バランスを崩した身体が、無様に倒れ込む。

 

三人とも、まだ動ける。

だが、最初の勢いはもうない。

 

「な……なんだよ、こいつ……」

 

呼吸が荒い。

目が泳ぐ。

さっきまでの威勢は、影も形もなかった。

 

俺は一歩ずつ近づく。

 

「安心しろ」

 

震える視線を、正面から受け止めて言った。

 

「怪我は残らない」

 

拳を握る。

 

「お前たちに残すのは──」

 

短く、確実に、痛みを刻み込む。

 

「痛みと恐怖だけだ」

 

夜の静寂に、鈍い音が溶けていった。

 

 

 

人の壊し方はよく知っている。

故に、その逆もまた然り。

 

倒れている三人は、地面に伏したまま呻き声を漏らしていた。

呼吸は乱れ、視線は合わない。

骨は折っていない。

内臓も傷つけていない。

青痣すら存在しない。

せいぜい砂埃と、転んだ拍子についた擦り傷程度だ。

 

だが、立ち上がろうとする者はいなかった。

 

しゃがみ込み、一番近くにいた石崎の顎を指で軽く持ち上げる。

力は入れていない。

それでも、びくりと身体が跳ねた。

 

「次はない」

 

低く、淡々と告げる。

 

「今日のことをどう報告するかは自由だ。また須藤にやられたでもいいし、転んだでもいい。ただし」

 

視線を巡らせ、三人全員を順番に見る。

 

「次に同じことをしたら、そのときは──怪我が残らないとは言わない」

 

沈黙。

唾を飲み込む音だけが、妙に大きく聞こえた。

 

「分かったら、帰れ」

 

背を向けると、しばらくしてから衣擦れの音がした。

誰も文句は言わない。

誰も、振り返らない。

 

闇の中へ消えていく三つの背中を、俺は確認しなかった。

確認する必要がなかったからだ。

 

恐怖は、もう十分に刻んだ。




私は決して速筆というわけではありません。
何が言いたいかと言うと、ストックが尽きました。
次回更新まで間が空くと思いますのでご了承ください。
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