おにまい曇らせ(仮)   作:Unus negotiator

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第15話 ほんとうの願い

小さかったのは、自分の方だったはずだ。

兄の後ろを、いつも必死についていった。

少し先を行く背中を見上げて、転びそうになればすぐに手を引いてくれ、怖いことがあると前に立って守ってくれた。

あの背中は遠くて、大きくて、絶対に追いつけないと思うほど頼もしく見えた。

 

なのに今、目の前にいる兄は、こんなにも小さい。

 

名前を呼べば、小さく瞬きながらこちらを見る。

少し手を伸ばせば、やわらかく跳ねた髪に指先が届く。

困ったときには唇をきゅっと結び、結局こちらを見上げてくる。

眠たくなると、そっと袖を掴みかけては、はっと気づいて慌てて手を離す。

 

……可愛すぎる。

放ってなどおけない。少しでも目を離すと胸がざわついて、落ち着かない。

この小さな体を両手で包み込んで、そのまま誰にも見つからない場所へ隠してしまいたい。

 

傷つかないように。

嫌なものを見なくて済むように。

どこにも行かず、自分の手の届く場所にいてくれるように。

けれど、その願いの奥には、もっと昏いものが混ざっていた。

 

ふと、その細い肩に手を置いたら、と思ってしまう。

ほんの少し力を込めるだけで、兄はきっと、ろくに身動きすら取れなくなるだろう。

困ったようにこちらを見上げて、それでも最後には、助けを求めるように自分の名前を呼ぶのだろうか。

 

その想像に、胸の奥が熱く疼いた。

甘くて、昏くて、捻じれた疼き。

 

この狂おしいほどの思いは、いつから胸の奥に根を張ったものだろう。

守られる側から守る側へ——その反転がもたらした、歪んだ充足感。

このまま記憶が戻らなければ、大きくならなければ、きっと、ずっと——

 

(……私のそばに、いてくれる……?)

 

……でも。

 

胸の奥に冷たい影が落ちた。

現実には、いつまでもこの家の中にだけ、閉じ込めておくわけにはいかない。

今みたいに、自分のそばにいてくれる時間は、きっとそう長くはない。

そんなことは、分かっている。

 

でも、愛おしさが胸の奥からあふれて止まらない。

手放すことなど考えたくもない。

 

そんな思いがよぎった時、胸の底に沈めていた記憶が、ふいに浮かび上がってきた。

 

 

あれは、中学に入って間もない頃だった。

ある日の放課後、一人で昇降口へ向かって歩いていると、普段は人気のない空き教室から、複数の女子生徒たちの話声が聞こえてきた。

 

「そういえば緒山先輩とはどうなの?」

 

ふいに耳に飛び込んできた名前に、足が止まった。

そのまま壁際に身を寄せ、息を潜めて聞き耳を立てる。

 

「えっ……どうって」

 

少し控えめで恥ずかしそうな声がした。

 

「え~、ずっと気になってるんでしょ~? 正直に言っちゃいなよ~」

 

明るくからかうような声が続く。

 

「今日、委員会の別の子に聞いたんだけど、他にも先輩を狙ってる子がいるみたいだよ」

 

もう一人が、ちょっと楽しそうに情報を入れる。

 

「え……ほんと?」

 

「でも、なんかわかるかも。面倒見いいし、優しいし、見た目も中性的っていうか、かわいい系じゃない? 」

 

「ちょっと、先輩に向かってかわいいって」

 

「でも、告白するなら早い方がいいかもね。他の子に取られちゃうかもよ?」

 

会話はどんどん弾んでいく。

けれど、もう何も耳に入ってこなかった。

誰かの笑い声も、窓の外のざわめきも、足音も、全部が薄い膜の向こう側に沈んでいく。

 

たまたま、他愛もない恋バナを聞いてしまっただけだった。

相手が自分の兄だったという以外は、どこにでもある日常の会話。

普通の兄妹なら、自分の兄が恋バナの対象になっていることに少し気まずくなって、苦笑いして、せいぜい家に帰ってから、ちょっと揶揄って終わるくらいの話だった。

 

兄にも、そういう目を向ける人がいるのだと。

それだけのこととして、受け止められるはずだった。

 

なのに、胸の奥に広がったのは、そんなまともな感情ではなかった。

 

——嫌だ。

 

嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。

絶対に嫌だ。

 

兄が、他の女に目を向けられること。

他の女に好かれること。

他の女に笑顔を向けること。

すべてが、たまらなく、吐き気がするほど、不快だった。

 

お兄ちゃんは私のものだ。

ずっと、ずっと、私だけのものだ。

誰にも触れさせたくない。自分以外の誰かを、その目に映してほしくない。

ずっと誤魔化して、見ないふりをしていた感情が、はっきりと輪郭を持った瞬間だった。

 

(ああ、やっぱりそうだったんだ。

妹としてなんかじゃない……私は、お兄ちゃんのことを――。)

 

その日、私は自分の中にあるものの名前を、ようやく知った。

 

 

それからは、ただ前へ進むことしかできなくなった。

 

勉強も、運動も、研究も、才能も、すべてを武器にして、誰もが自分を見るように、結果を積み上げていった。

 

やがて私の周りには、人が集まるようになった。

 

天才と呼ばれる自分に近づきたい子。

少しでも親しくなりたい子。

役に立つ情報を持ってくれば、こちらを見てもらえると思っている子。

そういう子たちが、悪気もなく兄の話を運んでくる。

 

自分ひとりで、兄の周囲すべてを見張る必要はなかった。

兄が誰と話し、誰に笑いかけ、誰が好意を向けているのか。

情報は、こちらが求めなくても集まってきた。

 

兄に近づこうとする子がいれば、気づかれないように距離を置かせた。

 

強い言葉を使う必要はなかった。

何かを望む人間は、同時に“諦めるための根拠”も欲しがっている。

 

違うかもしれない。

自分では駄目かもしれない。

踏み出しても、傷つくだけかもしれない。

 

心のどこかで、そんな不安を最初から抱えているのだ。

相手を良く観察し、そこを少し突いてやれば、あとは自分から諦めてくれる。

そうして、兄に向けられていた視線は、少しずつ逸れていった。

 

私の周りは賑やかになり、兄の周りは静かになっていく。

実際のところ、兄の成績は決して悪いものではなかったが、“天才の妹を持つ冴えない兄”という分かりやすいレッテルが、その評価を不当に引き下げ、徐々に居場所を削っていくことになった。

 

もちろん、そんな状況を知るたびに、苦しくなった。

自分のせいだと分かっていたから。

 

なのに、その一方で、誰にも兄を取られないことに安堵している自分もいた。

助けたい。

守りたい。

でも絶対に誰にも渡したくない。

 

相反するはずのものが、いつしか一つに混ざり合ってしまっていた。

 

 

やがて兄は家に引きこもるようになった。

食事を運ぶのも、着替えを出すのも、体調を気にかけるのも、すべてが自分の役目になっていった。

 

兄の部屋の前に立つたび胸が痛んだ。

か細い返事の声を聞くたびに、心が削られるようだった。

それでも、日々は続いていく。

 

「お兄ちゃん、ごはん置いとくね」

 

「……ん」 

 

「お薬飲んだ?」

 

「あとで……」

 

「ちゃんと水分もとってよ」

 

「……わかった」 

 

そんな何気ない日常を送っていくうちに、自分の中に、ひどく醜い感情が混ざっていることに気づいてしまった。

 

兄が家にいる。

帰れば、そこにいる。

呼べば返事が返ってくる。

世話を焼く理由がいくらでもある。

誰にも邪魔されない。

学校も、友だちも、恋人もいない。

兄の時間の中に、自分だけが深く食い込んでいる。

後ろめたさを抱えながらも、胸の奥には否定しがたい充足感があった。

 

離れていってほしくない。

でも、このままでいてほしいわけでもない。

元気になって、また元のように笑いかけてほしい。

けれど、元気になった兄が、自分の手の届かない場所へ行ってしまうのは耐えられない。

 

矛盾した願いが、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まっていた。

そしてある日、新薬の研究データを睨みながら、ふと思ってしまったのだ。

 

――女の子にしてしまえばいい。

 

その発想はあまりにも突飛で、最初は自分でも馬鹿げていると思った。

けれど、ひとたびその発想を頭の中で巡らせると、恐ろしいほど滑らかに、自分の中に収まってしまった。

 

女の子になれば、全く違う人間として、もう一度学校へも行けるかもしれない。

形は違ったとしても、失くした青春を取り戻せるかもしれない。

兄としての役割からも、自由になれるかもしれない。

 

そして何より。

 

 

ずっと一緒にいられるかもしれない。

 

その甘美で昏い誘惑は、弱っていた心を静かに絡め取って離さなかった。

 

だから、必死に自分に言い聞かせた。

これは救済なのだと。

兄のため、もう一度、人生を取り戻してもらうため。

そうやって、ギリギリのところで自分を正当化しながら、引き返せない場所へと踏み込んだ。

 

自分は兄を助けたかったのか。

それとも、自分のそばに閉じ込めたかったのか。

 

たぶん、そのどちらも、紛れもなく自分の中にはあった。

だからこそ自分を許せないまま、それでも兄に必要とされる場所だけは捨てられず、その果てにあるのが今のこの時間だった。

 

そしていま、ちとせ先輩からのメッセージを母に見られた。

 

TS薬の研究そのものは、大学で正式に進めているテーマのひとつだ。

今もそこに関わっていること自体は、何らおかしなことではない。

通知の文面だって、研究の話としていくらでも言い繕うことはできたはずだった。

 

なのにあの瞬間、自分は激しく動揺してしまった。

自分らしくもない失態。あまりにも稚拙な反応だった。

それだけ心が乱れていたのだ。

その感情が自分にとって簡単な筈の判断まで鈍らせてしまった。

 

気づけば、指先をきつく握りしめていた。

ふと顔を上げる。

 

さっきまでソファでうたた寝をしていたはずの兄が、いつの間にか身を起こして、じっとこちらを見ていた。

 

 

 

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