おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
小さかったのは、自分の方だったはずだ。
兄の後ろを、いつも必死についていった。
少し先を行く背中を見上げて、転びそうになればすぐに手を引いてくれ、怖いことがあると前に立って守ってくれた。
あの背中は遠くて、大きくて、絶対に追いつけないと思うほど頼もしく見えた。
なのに今、目の前にいる兄は、こんなにも小さい。
名前を呼べば、小さく瞬きながらこちらを見る。
少し手を伸ばせば、やわらかく跳ねた髪に指先が届く。
困ったときには唇をきゅっと結び、結局こちらを見上げてくる。
眠たくなると、そっと袖を掴みかけては、はっと気づいて慌てて手を離す。
……可愛すぎる。
放ってなどおけない。少しでも目を離すと胸がざわついて、落ち着かない。
この小さな体を両手で包み込んで、そのまま誰にも見つからない場所へ隠してしまいたい。
傷つかないように。
嫌なものを見なくて済むように。
どこにも行かず、自分の手の届く場所にいてくれるように。
けれど、その願いの奥には、もっと昏いものが混ざっていた。
ふと、その細い肩に手を置いたら、と思ってしまう。
ほんの少し力を込めるだけで、兄はきっと、ろくに身動きすら取れなくなるだろう。
困ったようにこちらを見上げて、それでも最後には、助けを求めるように自分の名前を呼ぶのだろうか。
その想像に、胸の奥が熱く疼いた。
甘くて、昏くて、捻じれた疼き。
この狂おしいほどの思いは、いつから胸の奥に根を張ったものだろう。
守られる側から守る側へ——その反転がもたらした、歪んだ充足感。
このまま記憶が戻らなければ、大きくならなければ、きっと、ずっと——
(……私のそばに、いてくれる……?)
……でも。
胸の奥に冷たい影が落ちた。
現実には、いつまでもこの家の中にだけ、閉じ込めておくわけにはいかない。
今みたいに、自分のそばにいてくれる時間は、きっとそう長くはない。
そんなことは、分かっている。
でも、愛おしさが胸の奥からあふれて止まらない。
手放すことなど考えたくもない。
そんな思いがよぎった時、胸の底に沈めていた記憶が、ふいに浮かび上がってきた。
あれは、中学に入って間もない頃だった。
ある日の放課後、一人で昇降口へ向かって歩いていると、普段は人気のない空き教室から、複数の女子生徒たちの話声が聞こえてきた。
「そういえば緒山先輩とはどうなの?」
ふいに耳に飛び込んできた名前に、足が止まった。
そのまま壁際に身を寄せ、息を潜めて聞き耳を立てる。
「えっ……どうって」
少し控えめで恥ずかしそうな声がした。
「え~、ずっと気になってるんでしょ~? 正直に言っちゃいなよ~」
明るくからかうような声が続く。
「今日、委員会の別の子に聞いたんだけど、他にも先輩を狙ってる子がいるみたいだよ」
もう一人が、ちょっと楽しそうに情報を入れる。
「え……ほんと?」
「でも、なんかわかるかも。面倒見いいし、優しいし、見た目も中性的っていうか、かわいい系じゃない? 」
「ちょっと、先輩に向かってかわいいって」
「でも、告白するなら早い方がいいかもね。他の子に取られちゃうかもよ?」
会話はどんどん弾んでいく。
けれど、もう何も耳に入ってこなかった。
誰かの笑い声も、窓の外のざわめきも、足音も、全部が薄い膜の向こう側に沈んでいく。
たまたま、他愛もない恋バナを聞いてしまっただけだった。
相手が自分の兄だったという以外は、どこにでもある日常の会話。
普通の兄妹なら、自分の兄が恋バナの対象になっていることに少し気まずくなって、苦笑いして、せいぜい家に帰ってから、ちょっと揶揄って終わるくらいの話だった。
兄にも、そういう目を向ける人がいるのだと。
それだけのこととして、受け止められるはずだった。
なのに、胸の奥に広がったのは、そんなまともな感情ではなかった。
——嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
絶対に嫌だ。
兄が、他の女に目を向けられること。
他の女に好かれること。
他の女に笑顔を向けること。
すべてが、たまらなく、吐き気がするほど、不快だった。
お兄ちゃんは私のものだ。
ずっと、ずっと、私だけのものだ。
誰にも触れさせたくない。自分以外の誰かを、その目に映してほしくない。
ずっと誤魔化して、見ないふりをしていた感情が、はっきりと輪郭を持った瞬間だった。
(ああ、やっぱりそうだったんだ。
妹としてなんかじゃない……私は、お兄ちゃんのことを――。)
その日、私は自分の中にあるものの名前を、ようやく知った。
それからは、ただ前へ進むことしかできなくなった。
勉強も、運動も、研究も、才能も、すべてを武器にして、誰もが自分を見るように、結果を積み上げていった。
やがて私の周りには、人が集まるようになった。
天才と呼ばれる自分に近づきたい子。
少しでも親しくなりたい子。
役に立つ情報を持ってくれば、こちらを見てもらえると思っている子。
そういう子たちが、悪気もなく兄の話を運んでくる。
自分ひとりで、兄の周囲すべてを見張る必要はなかった。
兄が誰と話し、誰に笑いかけ、誰が好意を向けているのか。
情報は、こちらが求めなくても集まってきた。
兄に近づこうとする子がいれば、気づかれないように距離を置かせた。
強い言葉を使う必要はなかった。
何かを望む人間は、同時に“諦めるための根拠”も欲しがっている。
違うかもしれない。
自分では駄目かもしれない。
踏み出しても、傷つくだけかもしれない。
心のどこかで、そんな不安を最初から抱えているのだ。
相手を良く観察し、そこを少し突いてやれば、あとは自分から諦めてくれる。
そうして、兄に向けられていた視線は、少しずつ逸れていった。
私の周りは賑やかになり、兄の周りは静かになっていく。
実際のところ、兄の成績は決して悪いものではなかったが、“天才の妹を持つ冴えない兄”という分かりやすいレッテルが、その評価を不当に引き下げ、徐々に居場所を削っていくことになった。
もちろん、そんな状況を知るたびに、苦しくなった。
自分のせいだと分かっていたから。
なのに、その一方で、誰にも兄を取られないことに安堵している自分もいた。
助けたい。
守りたい。
でも絶対に誰にも渡したくない。
相反するはずのものが、いつしか一つに混ざり合ってしまっていた。
やがて兄は家に引きこもるようになった。
食事を運ぶのも、着替えを出すのも、体調を気にかけるのも、すべてが自分の役目になっていった。
兄の部屋の前に立つたび胸が痛んだ。
か細い返事の声を聞くたびに、心が削られるようだった。
それでも、日々は続いていく。
「お兄ちゃん、ごはん置いとくね」
「……ん」
「お薬飲んだ?」
「あとで……」
「ちゃんと水分もとってよ」
「……わかった」
そんな何気ない日常を送っていくうちに、自分の中に、ひどく醜い感情が混ざっていることに気づいてしまった。
兄が家にいる。
帰れば、そこにいる。
呼べば返事が返ってくる。
世話を焼く理由がいくらでもある。
誰にも邪魔されない。
学校も、友だちも、恋人もいない。
兄の時間の中に、自分だけが深く食い込んでいる。
後ろめたさを抱えながらも、胸の奥には否定しがたい充足感があった。
離れていってほしくない。
でも、このままでいてほしいわけでもない。
元気になって、また元のように笑いかけてほしい。
けれど、元気になった兄が、自分の手の届かない場所へ行ってしまうのは耐えられない。
矛盾した願いが、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まっていた。
そしてある日、新薬の研究データを睨みながら、ふと思ってしまったのだ。
――女の子にしてしまえばいい。
その発想はあまりにも突飛で、最初は自分でも馬鹿げていると思った。
けれど、ひとたびその発想を頭の中で巡らせると、恐ろしいほど滑らかに、自分の中に収まってしまった。
女の子になれば、全く違う人間として、もう一度学校へも行けるかもしれない。
形は違ったとしても、失くした青春を取り戻せるかもしれない。
兄としての役割からも、自由になれるかもしれない。
そして何より。
ずっと一緒にいられるかもしれない。
その甘美で昏い誘惑は、弱っていた心を静かに絡め取って離さなかった。
だから、必死に自分に言い聞かせた。
これは救済なのだと。
兄のため、もう一度、人生を取り戻してもらうため。
そうやって、ギリギリのところで自分を正当化しながら、引き返せない場所へと踏み込んだ。
自分は兄を助けたかったのか。
それとも、自分のそばに閉じ込めたかったのか。
たぶん、そのどちらも、紛れもなく自分の中にはあった。
だからこそ自分を許せないまま、それでも兄に必要とされる場所だけは捨てられず、その果てにあるのが今のこの時間だった。
そしていま、ちとせ先輩からのメッセージを母に見られた。
TS薬の研究そのものは、大学で正式に進めているテーマのひとつだ。
今もそこに関わっていること自体は、何らおかしなことではない。
通知の文面だって、研究の話としていくらでも言い繕うことはできたはずだった。
なのにあの瞬間、自分は激しく動揺してしまった。
自分らしくもない失態。あまりにも稚拙な反応だった。
それだけ心が乱れていたのだ。
その感情が自分にとって簡単な筈の判断まで鈍らせてしまった。
気づけば、指先をきつく握りしめていた。
ふと顔を上げる。
さっきまでソファでうたた寝をしていたはずの兄が、いつの間にか身を起こして、じっとこちらを見ていた。