おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
まつりの案内で、かえでともみじは緒山家のリビングへ通された。
久しぶりに入ったそこは、前に来た時となにも変わっていない。
けれど、漂っている空気だけがまるで違う。
誰も口を開かず、何かが起きた直後のような重苦しい気配が、部屋全体を包んでいた。
最初に目に入ったのは、泣き腫らした顔のみはりだった。
二人の姿を認めると、立ち上がり何か言いかけるように唇を動かした。
けれど結局、かすかに会釈をしただけで、視線を落としてしまう。
その隣にいた小さな男の子も、静かに立ち上がった。
やわらかく跳ねた髪。
幼げでかわいらしい。そして、どこか見覚えのある顔立ち。
ただ、その表情は妙に大人びていた。
初めて会う相手を見るような警戒もなく、まるでずっと前から二人を知っているように、静かにこちらを見つめている。
玄関先で、まつりに言われた言葉がふと頭をよぎった。
――驚かせてしまうと思うけど。
男の子を見つめたまま、もみじは考える。
もしかして、この子のことなのだろうか。
「……えっと」
かえでが戸惑ったように、まつりを振り返った。
「親戚のお子さん、ですか?」
まつりはすぐには答えなかった。
みはりも黙ったまま。
その妙な沈黙に、かえでの表情が曇る。
そんな姉の隣で、もみじは男の子の顔を食い入るように見つめていた。
目元も。
髪の感じも。
こちらを窺う、その表情まで。
知っているあの子に、あまりにも良く似ていた。
「まひろちゃんに……そっくり」
ぽつりとこぼれた声に、男の子がわずかに反応した。
その目が、もみじを捉え、一瞬だけためらうように揺れた。
「二人とも……来てくれたんだ」
驚きで、もみじの肩がぴくりと跳ねた。
「え……?」
聞き間違いかと思った。
声そのものには覚えがない。
まだ変声期前の、幼い男の子の声。
それでも、話し方も、こちらに目を向ける仕草も――知っている。
かえでも、何かに気づいたように小さく息を呑んだ。
「……まさか」
男の子は困ったように眉尻を下げた。
「……久しぶり。もみじに、かえでちゃん」
その瞬間、もみじの頭の中は真っ白になった。
差し入れの入った紙袋が、するりと指から抜け落ちた。
ぱさり、と軽い音を立てて床に落ちる。
「…………まひろ、ちゃん……なの?」
何も考えられないまま、ようやく口からこぼれたのは、その名前だった。
目の前の男の子――まひろは、こちらを見たまま静かに頷いた。
「……うん」
「ずっと心配かけて、ごめん。それに……」
その先を言いかけて、まひろは口をつぐんだ。
言葉に詰まり、困ったように目を伏せるその仕草にも、確かな見覚えがあった。
姿も声も違う。
それでも、もみじの知っているまひろが、少しずつ目の前の男の子に重なっていく。
「……えっと、ちょっと待って」
かえでは目の前の男の子を見つめたまま、困惑したように眉を寄せた。
「どういうことなんですか?この子は……本当にまひろちゃんなんですか?」
「ええ」
まつりが頷く。
「今はこんな姿になっているけど……二人が知ってるまひろで間違いないわ」
「でも、この姿って……いったいどうして……」
かえでがもう一度、まひろを見る。
中性的で愛らしい顔立ちの、小さな男の子。
言われてみれば確かに似ている。
いや、似ているというだけではない。
目の動かし方、困ったときにする今の表情も、さっきから何度も見覚えのあるものが重なっていく。
それでも、一番大きなところがどうしても噛み合わない。
「だけどこの子、男の子……だよね?歳だってもっと下に見えるし……」
誰に確認するでもなく、かえでは呟いた。
「ええ……驚くのも当然よね」
まつりは少し言いにくそうに間を置いた。
「ただ、それには少し事情があるの……」
みはりの肩が、わずかに強張る。
まつりは一度そちらへ目を向けてから、二人に戻した。
「まず、……まひろは本当はみはりの兄なの」
「……お兄さん?」
もみじが反射的に聞き返す。
「そう。年齢も、本当はあなたたちより上で、元々は成人した男性だったの」
「…………え?」
かえでの口が半端に開いたまま止まった。
もみじも、まひろとみはりを交互に見る。
「成人……って」
「大人ってこと?」
「そうよ」
あまりにもあっさり返されて、今度こそ二人とも言葉を失った。
まひろちゃん。
みはりさんのお兄さん。
大人の男の人。
そして今は小さな男の子。
情報が多すぎて、理解がまったく追いつかない。
「じゃあ……」
かえでが慎重に口を開く。
「私たちが今まで一緒にいた、まひろちゃんは……?」
まつりは一瞬、みはりを見た。
みはりは何も言わない。
顔を上げることもできず、唇を固く結んでいた。
「みはりが作った薬で、女の子の身体になっていたの」
「…………薬?」
「ええ……」
「なんで……そんな……」
かえでは額に当てていた手を、そのまま髪の中へ滑らせた。
「いや、ちょっと……待って。待って待って」
当然の反応だった。
一緒に遊んだこと。
買い物に行ったこと。
服を選んだこと。
家に泊まったこと。
何気なく触れ合って、同じように笑っていたこと。
その相手が、本当は成人した男性だった。
理解した途端、これまでの記憶が一斉に別の角度から浮かび上がってくる。
「じゃあ……私たち、ずっと……」
そこまで言って、かえでは言葉を止めた。
まひろを見るその目には、これまで一度も向けられたことのない色が混じっていた。
確かめるような、どこか探るような目。
その視線を受けて、まひろの表情がわずかに曇る。
その変化にもみじは気づいた。
「……まひろちゃん」
呼ぶと、まひろがゆっくり顔を上げる。
さっきまでとは違って、その目にははっきりと怯えがあった。
「……ごめん」
まひろが先に言った。
「ずっと黙ってて」
「……」
「今さら言い訳にもならないけど……騙すつもりはなかったんだ。でも……結果的には、そう思われても仕方ないと思ってる」
声は静かだった。
けれど、膝の上に置かれた小さな手は、きつく握られている。
よく見れば、その脚もかすかに震えていた。
「もみじや、あさひ、みよちゃん……みんなと一緒にいた時間は、本当に楽しかったんだ。ずっと家に閉じこもってたオレにとって、あの時間は……本当に救いだった」
思い出すように、ほんのわずかに口元が緩む。
けれど、その表情はすぐに消えた。
「だから……余計に言えなかったんだ。勝手な言い分だってことは分かってる。でも、本当のことを知ったら、もう今までみたいにはいられなくなるって……」
もみじは何も返せなかった。
分からないことだらけだった。
それでも。
今、目の前で怯えているこの子を見ていると、さっきまで胸の中に渦巻いていた戸惑いや混乱とは別の感情が、少しずつ浮かんでくる。
「……でも」
もみじが小さく声を出した。
まひろの肩がわずかに揺れる。
「まひろちゃんは……まひろちゃんなんだよね?」
まひろが目を見開いた。
「いまの姿とか、本当は大人だったとか……まだ全然分かんないけど」
もみじは困ったように眉を寄せた。
「でも、一緒に学校に通ったのも、遊んだのも、みんなで笑い合ったのも……まひろちゃんだったんだよね?」
「……うん」
「私が知ってるまひろちゃんは……人見知りで、ゲーム好きで、朝が弱くて、ちょっとだけ、ぐうたらで……」
もみじは、ひとつずつ思い出すように続ける。
「最初の頃なんて、変なところで無防備で隙だらけで、男子がいるのに平気で着替えようとしたりして……」
「う……」
「褒められるとすぐ調子に乗るし、いいところ見せようとして失敗することもよくあるし」
まひろが気まずそうに目を逸らす。
「なのに男子には妙に人気があって。なんか、男子が喜ぶことが自然に分かってるみたいで……」
そこで、もみじは少しだけ頬を膨らませた。
「正直、それはちょっと面白くなかったけど」
「え…」
「でも、とっても優しくて。臆病なくせに、誰かが困ってると放っておけなくて……いざってときは、誰かのために一生懸命になれる」
もみじはまっすぐにまひろを見つめ、やわらかく微笑む。
「そういうところも全部ひっくるめて……私の知ってる、まひろちゃんなんだよね?」
「う……うん。一部よく分かんなかったけど……ずっと、もみじと一緒にいたのは、間違いなくこのオレだよ」
もみじは少しだけ考えるように黙った。
「……そっか」
そのまま、まひろをまっすぐ見つめる。
もみじの表情が、少しだけ緩んだ。
「じゃあ、私はもう、それでいいよ」
「……え?」
もみじは少し困ったように笑った。
「だって、一緒にいたことも、楽しかったことも……ぜんぶ本当のことでしょう?」
「私にとっても、ちゃんと全部、本当の……大好きなまひろちゃんと過ごした、大切な時間だったよ」
「もみじ……」
まひろの目に、みるみる涙が溜まっていく。
「ありがとう……そんなふうに思ってくれて、本当に……」
まひろが、もみじの方へ一歩踏み出しかけた。
けれど、すぐに足が止まる。唇をきゅっと結び、こみ上げるものを堪えるように俯いた。
そんなまひろを見て、もみじの方が先に動いた。
「まひろちゃん!」
駆け寄って、その小さな身体をぎゅっと抱きしめる。
「わっ……」
今のまひろの身体は、もみじよりずっと小さい。
抱きしめられると、すっぽりと腕の中に収まってしまう。
「も、もみじ……」
「会えてよかった……」
もみじの声が震える。
「ずっと心配してたんだよ」
「また会えて……ほんとによかった……!よかったよぉ……!」
最後の方はもう言葉にならなかった。
もみじはまひろを抱きしめたまま、堪えきれず声を上げて泣いた。
「……うん」
まひろも頬を伝う涙を拭おうともせず、縋るようにもみじの背中へ腕を回した。
「ごめんねぇ……心配かけて」
「ううん、もういいよ」
もみじは涙で濡れた目を細め、 嬉しそうに笑う。
「それより、まひろちゃんにまた会えて、うれしいんだ。ほんとに、うれしいよ」
まひろは返事をしようとした。
けれど、声にならなかった。
それまで必死に堪えていた感情が、一気にあふれ出した。
「……っ、もみじぃ……」
もみじの背中に回した小さな手に、ぎゅっと力がこもる。
胸元に額を押しつけたまま、とうとう嗚咽まで抑えきれなくなった。
まひろもつられるように声を上げ、しがみついたまま泣き出した。
その光景を、かえでは呆然と見つめていた。
(――うちの妹、ちょっと器が大きすぎない?)
本気で、そう思った。
自分だって、まひろのことは大切に思ってきたし、もう一人妹が増えたようなつもりで接してきた。
この数か月、本気で心配もしていた。
だからこそ、簡単に飲み込めような話ではなかった。
自分たちは何も知らないまま、ずっとまひろを同年代の女の子だと思って接してきたのに、本当はみはりのお兄さんで、成人した男性だった。
そして、そのことをみはりはずっと黙っていた。
裏切られた――という言葉が正しいのかどうかさえ、正直まだ分からない。
それでも、抱きしめ合って泣いている二人を見ていると、今までの全部が嘘だったとも思えなかった。
ふと、かえではみはりを見る。
みはりは、抱き合う二人をじっと見つめていた。
その目に浮かんでいるのが、どんな感情なのか、今のかえでには読み取れない。
(……やっぱり、聞かなきゃいけないことは山ほどありそうだ。)
かえでは小さく息を吐いた。