闇の中を男が走っていた。
遥か彼方にある光目掛けて、脇目も振らずに駆けていく。
「待ってくれ! 置いていかないでくれ!」
光求める男――
「ヒィ…ヒィ…」
聖闘士として厳しい訓練を積んだにもかかわらず、既に体力は限界だ。汗だくになりながら重たい手足を振り回す姿は美しさとは程遠い。その姿はまるで命にしがみつく亡者のようで、醜く無様で哀れだった。
自分なりに努力してきたつもりだ。同期達に負けないよう人一倍この聖闘士という使命に殉じてきた。しかし待っていた結果は華々しいものではなかった。
一向に開花せぬ属性の力。引退していく仲間。女神に認められて遥か高みへと昇りついた友。己を飛び越えていく後輩。
あらゆるものが市の自尊心を傷つけていく。
自分を諦観させる声は何度聞いただろう。それでも諦め切れなかったのは仲間達のおかげだ。聖闘士になるべく選ばれた100人の孤児。その中で生還できたのはたった10人。その一人に市はいた。
対抗心は無かったのかと言われれば嘘になる。しかし、自分達の中には互いを思いやる友情があった。いがみ合う事はあれど殺し合うような関係にはならないだろうと。父の愛も母の愛も知らぬ自分達にとって、友情だけが心の拠り所だったのだから。
「みんな…待ってくれよぅ」
仲間の一歩が大きすぎて速すぎて、市は着いていくのがやっとだ。少しでも気を抜けばあっという間に引き離されてしまう。1人取り残されないようにと必死に藻掻き続ける。
「うあっ!?」
しかし、無残な事に心より体が限界に達したようだ。足がもつれた市は転倒する。倒れ伏した拍子で頬を伝う涙が地に零れた。そのまま蹲って絶望する市。
惨めだった。何者にもなれない自分が情けなくて、悔しくて、大嫌いだった。
このまま闇に飲まれようと自棄になる市を暖かな何かが阻む。それは先程から追いかけていた光だった。
『どうした市。早く来いよ』
光の中から黄金の翼を持つ青年が声を掛ける。その目は市が再び立ち上がる事を確信しているようだった。全幅の信頼がこちらをどれほど傷つけるか知りもしないで。
「やめるざんす。俺は…もう駄目なんだ。お前みたいに輝けない。邪武みたいに一般人になる事も、檄達みたいに教師になる事もできない。これ以上、夢を見させないでくれよぅ」
嗚咽が止まらない。善意の暴力がここまで理不尽とは思わなかった。これなら神と戦った方が何倍もマシだ。
進むのも地獄。立ち止まるのも地獄。
いっそのこと、過去に戻って最初から悪人として生きていればこの苦痛から逃れられるかもしれない。悪魔の囁きに身を任せようとする市だが、今度は星矢とは違う冷たいものが浴びせられる。
「ぶはっ!? はっ、ここは?」
「ようやく起きましたか。それでは訓練を再開いたしましょう」
急に視界が明るくなり、気が付いた市を出迎えたのは水筒を手にしたリタだった。周囲を見渡すと自分のいる場所がパライストラの修練所だと悟る。
(そうだ。俺はこいつの訓練に付き合わされて…)
気持ちのいい一発をもらって気絶していたのだ。思い出したら怒りの炎が湧いてくる。
「ちょっと待てぃ! こっちは今まで気を失ってたざんすよ! ノーカン、ノーカン!!」
「お黙りなさい。本来なら1分のところをサービスして3分待ってさしあげたのですから贅沢言わないでくださいませ。それに気絶が嫌なら市先輩ももっと抵抗すれば良いのですわ」
そう言いつつリタが距離を空ける。すると同時に市の脳内で警報が鳴り響く。
また
回避は間に合わない。すかさずそう判断した市は防御態勢に入った。
今から繰り出されるのは先代
「ユニコーンギャロップ!!」
リタが放つ飛び込み連続蹴り。それは正に天翔ける流星群のごとし。邪武が現役の頃は散々辛酸を舐めさせられた技だ。
「さっきは疲れもあって喰らっちまったが…そこ!!」
市は蹴りの1つを見切ってリタの足首を掴む。仮面で表情は分からないが、さぞ驚いていることだろう。そのまま元来た道へ彼女を放り投げた。
「ぐうっ!?」
「甘いざんす! お前のギャロップは邪武の動きをただなぞっただけ。それじゃあいつまで経っても二番煎じ! 一生追い付く事も、追い越す事もできないざんす!!」
サイコメトリーで聖衣の記憶を読み取り、持ち主の動きを模倣する。実演したリタのアイディアとセンスには感心するが、所詮は模倣。同じ技でも使い手が違えば体格、筋力、速度、小宇宙と様々な面で差が出るのは必然だった。
「痛た…。やはり地力の底上げが必要ですわね。試験に間に合うと良いんですけど」
「ふん、他人の技を簡単に真似されちゃあ堪んないぜ。こういうのはひたすら忍耐ざんす」
「望むところですわ。私の聖闘士人生はまだ始まったばかり。地道に楽しんでいきます」
楽しむ。その言葉にチクリと胸が痛んだのは気のせいではないだろう。何時からだろう。自分が楽しめなくなったのは。後輩の成長を素直に喜べなくなったのは。
自分と同じ、属性の力だけ持たない後輩。
今でこそ非凡な才を見せているが入学当初はごく普通の少女だった。そんな彼女が僅か数年で自分に匹敵する実力を身に着けている事実に戦慄する。
こいつにだけは負けたくない。
(絶対絶対絶対絶っ~~~~対に負けないざんす!!)
◇
リタと市が訓練している姿を遠目に見つめる人物がいた。
かつて星矢、市と共に戦った元聖闘士にして今ではパライストラ教員の檄だ。戦友の生き生きとした様子を暖かな眼差しで見つめている。
「ご友人の様子が気になりますか? ふむ、訓練相手がリタさんとは意外な組み合わせですね」
思いのほか見入ってしまっていたようで、いつの間にか同僚のゲオルゲスが側に立っていた。彼も修練所の様子が気になるようで視線を外さない。
「意外…まぁそうですな。市のあんな表情は久しぶりに見た」
怪訝な表情のゲオルゲスに構わず、檄は話を続ける。
「市は愛嬌のある男だ。年長者とは思えない陽気な言動にはよく助けられたと若い連中が言っていたよ。いつ死ぬかも分からない身だ。ひよっ子の緊張を解すのにあいつほど適した奴を俺は知らない。あれも一種の才能なのかもしれませんな」
「ですが、聖闘士としては未だ二流止まり。これも事実です」
ゲオルゲスの厳しい評価に檄は嫌な顔せずに頷く。
「ああ、だからこそ今回は期待できますよ。年長者の意地もあって優秀な後輩にコツを聞く事もできず、見栄を張るところがありましたからな。だが、今はあの子がいる」
生徒会長という生徒のトップにして自分と同じく属性が使えない少女。これには市も気合いが入らざるを得ないだろう。
「ライバルが現れたという事ですか?」
「正確には同じ目線で語り合える者ができたってところですかな。つまり友達だ。あいつは否定するかもしれんが」
次々戦場から消える同期の姿に何を感じていたのか分からぬ檄ではない。そして自分より遥かに年下の中で暮らしていく生活は、耐えがたい孤独と屈辱を味わっていただろう。檄も気に懸けてはいたのだが、強くは出れなかった。あまり出しゃばればそれこそ市は孤立していただろう。それだけ教師と生徒の溝は深い。
何よりそれは市のプライドを傷つける行為だ。
だからこそ檄は待った。戦友が再び立ち上がるのを、救ってくれる誰かを待った。そしてそれは二つ同時に訪れた。
「聖闘士の力の源は小宇宙。そして小宇宙は心で燃やすものだ」
「心にわだかまりがあれば戦えない、という事ですか。なるほど」
修練所で大人げなく騒ぎ立てる市とそれを軽くあしらうリタ。2人の様子を微笑ましく思いながら、檄とゲオルゲスは静かに見守るのだった。