冬木アクターズ・ラプソディ ~観光に来た演劇バカの女子大生、うっかり龍之介を轢いてしまったので、キャスターの「ジャンヌ役」として聖杯戦争を完遂します~ 作:斉宮 柴野
よろしくお願いします。
大劇場の幕は下りない。静寂が支配したのは、ほんの瞬きほどの間に過ぎなかった。
沈黙を破るべき「次の台詞」を待つ役者が、まだそこに立っているのだから。
舞台の最奥。ひしめくフィルムの触手を禍々しくまとった本体が、粘りつくような視線をこちらへ向ける。
その双眸に宿る赤は、先ほどよりも一層の冴えを見せていた。
ジルが消滅し、あろうことかギルガメッシュ王が腹を貫かれるという凄惨な状況にあってもなお、己こそが最後に立つ唯一の存在であると、微塵の疑いもなく信じ切っている強者の眼差し。
「やれやれ……。結局はこうなるんだね。避けては通れないわね。ビーストⅤ、私の愛しの怨敵」
自分で自分を『怨敵』と称するあたり、相変わらず底知れぬ自己評価の高さだ。
だが、それ自体は否定しきれない。事実として、この盤面において私が一番の障害となっているのだから。予定調和の脚本を無残に引き裂く異端の役者など、あいつからすればこれ以上なく鬱陶しい存在に違いない。
「へえ、自己肯定感が高い私らしいわねえ」
「では本当に始めましょうか。戯曲『冬木アクターズ・ラプソディ』の最終幕を」
綺礼さんが、血に濡れた法衣の裾を無造作に払う。
その所作はひどく静謐で、凪いだ水面のように落ち着き払っていた。それなのに、彼を中心に周囲の空気だけが鋭く張り詰めていく。
この人は、こういう極限の状況においてのみ、特異な落ち着きを見せる。己の中で絶対の覚悟が完了した瞬間にだけ現れる、息を呑むほどに純粋で、ひどく美しい静けさ。
「なるほど……。舞台監督自らがラスボスとして舞台に立つとはな」
「裏方としてはらしくないものだ。三流の駄作の匂いがするな」
怒っている。明確な殺意がそこにある。それでもなお、湧き上がる激情を隠しきれないまま、わざわざ芝居がかった声色を作ってみせる。
「えへへ。宇宙は書割、登場人物は皆、端役。全ては単なる舞台の演目に過ぎないわ。アハハ……なに、私だって例外ではないということよ」
「さてさて……最後に残るは如何なるデウス・エクス・マキナか。最後に待つは、いかなるデウス・エクス・マキナか」
「いつまで自分の独壇場のつもり?」
「もう演出家が一人で回せる段階なんて、とうの昔に過ぎてるでしょう」
「ああ。私たちは、この舞台の『主演』だ」
綺礼さんが、静かに、だが確かな足取りで一歩だけ前へ出る。
「主演は、舞台そのものを牽引する力がある者が務めるのだ。その権限において、台本の書き直しを要求する」
「無駄よ」
「舞台の外もまた舞台、脚本の外もまた脚本。貴方たちは、私が設定したこのハッピーエンドの枠組みから逃れることは絶対にできないわ」
「逃れる……?」
「バカ言っちゃいけないわ」
「その全ての枠組みで、我々の『役』も『脚本』もすでに予約済みだ」
静寂を切り裂くような、短い一拍。
「――【夫婦】と、【正義の味方】でな!」
最終決戦の極限状態だというのに。
そのたった二文字の響きに、私の呼吸が完全に止まりかけた。
「…………!!」
「綺礼さん…………。私のこと……もらってくれるの?」
だが、こんな場面で無意味な虚勢を張ったところで何になるだろう。今の私は間違いなく、その決定的な台詞を欲しがっている一人の女の顔をしているはずだ。ならば、その渇望を隠さず、真っ直ぐに問うしかない。
「ああ……。もちろんだ」
この人は、本当にこういう瞬間だけは一切の迷いを見せない。生き方は破綻していて、価値観は歪みきっていて、正義の味方の解釈も根本から狂っているのに、私に関わる部分だけはひどく真っ直ぐで、純粋だ。ずるい、とさえ思う。
胸の最奥に、確かな熱が灯る。
ずっと空っぽの器だと思い込んでいた場所に、何かが決定的に収まった感覚。
魂なんていうあやふやな概念を、これまでの私は信じたことがなかった。けれど、今この瞬間だけは、それが間違いなく存在すると断言できる。
私の内側が、これほどまでに激しく、やかましく脈打っているのだから。
「綺礼さん……!」
「私の呼吸に、合わせて?」
「勿論だ」
「妻の歩幅に合わせるのも、夫の務めだろう」
効いている。決定的に効いている。高度な演算能力や絶対的な権能などかなぐり捨て、ただの嫉妬と猛烈な動揺で思考を焼き切らせている顔だ。
「来なさい! 我が怨敵!!」
「最も陳腐で、最も愛しいデウス・エクス・マキナよ!!」
「はあっ!!」
咆哮で応じながら、私は模倣した星の聖剣を上段から振り下ろす。
「約束された……勝利の剣!!!」
黄金の奔流が空間を焼き切り、舞台を真っ二つに裂く。
だが、本体はまだ笑っていた。心底気に食わない、絶対的な余裕を孕んだ笑み。
「だから、通じないって言ってるでしょ!! ――『全て遠き理想郷』!!」
アヴァロン。
本物ではないにせよ、概念の絶対防壁として再構築されたそれはひどく厄介だ。私の持つ模倣の刃だけでは、真正面から貫くことはできない。
けれど、焦りはない。
私は、私の背後で舞台を支える彼らを信じ切っているから。
「真樹!!!」
アルトリアちゃんの凛烈な声が飛ぶ。
「真樹殿!!!!」
ランスロットさんの重厚な声が重なる。
直後、切嗣さんと桜の声が、時を同じくして戦場を駆け抜けた。
「――令呪をもって命ず!!真樹に力を!!」
鮮烈な赤い光が弾け飛ぶ。
熱い。荒削りで、一切の容赦がなくて、けれど心の底から信じる相手にすべてを託す時に放たれる、ひどく澄んだ魔力。
その奔流に呼応するように、アルトリアちゃんの聖剣と、ランスロットさんの魔剣が、虚空からこちらへと飛来した。
この特異点は劇場だ。役柄も、手にする小道具も、概念として自由に譲渡できる。
ならば、主演女優の窮地に最高の小道具が手渡されるのは、必然の演出というもの。
「最高のパス、確かに受け取ったわ!!」
右手にエクスカリバーの黄金。左手にアロンダイトの白銀。
ずしりとした重みが腕に沈むが、不思議なほどに掌へ馴染んでいく。この狂った舞台における『主演』という権限が、到底扱いきれないはずの借り物の宝具を、私の魂の延長として完璧にチューニングしてくれていた。
「『縛鎖全断・過重湖光』!!」
まずは左の魔剣を振るう。
炸裂した純白の湖光が、絶対防壁の表面に致命的な亀裂を走らせる。
「からの――『二刀流』ッ!!!!」
全身のバネを使い、二振りを十字に振り抜く。
黄金と白光が交錯し、アヴァロンの防壁を真正面から粉砕した。
鼓膜を打ったのは、ガラス細工が砕け散るような、ひどく乾いた破砕音だった。
「なっ!?私の盾が……!」
「主演の執念の前に、舞台装置の都合が勝てると思わないことね!」
防壁が崩れ去ったその刹那、綺礼さんが猟犬のように地を蹴ろうとする。
その背を後押しするように、ケイネス先生の鋭い声が飛んだ。
「フン、休む暇など与えんぞ!令呪をもって命ず!!ディルムッドよ、言峰綺礼に『破魔の紅薔薇』を真名解放したまま渡せ!!」
先生の腕で、残された令呪が燃え上がる。
ディルムッドさんが一瞬だけ驚きに目を見開いたが、熟練の騎士は一切の躊躇なく、真紅の槍を綺礼さんへと差し出した。
「心得た!!」
さらに、ウェイバーくんが半泣きの声を張り上げる。
「僕もだ!令呪をもって命ず!!ライダー!神馬ブケファラスを言峰に貸してやれ!!」
「ワハハ!いい度胸だ坊主!!」
「いでよ!!我が代わりの騎士を運べ!!我が愛馬よ!!!」
轟く雷鳴と共に、巨大な神馬が舞台へ顕現する。
劇場に馬が乱入するなど正気の沙汰ではないが、もはや誰もそんな瑣末なツッコミは入れない。
当然の権利であるかのようにその背へ飛び乗る綺礼さんの姿も、不思議と絵になっていた。
「行くぞ」
「はああああああっ!!!!」
雷光をまとった、凄まじい速度の突進。
その手に握られているのはゲイ・ジャルグ。いかなる魔力防御をも無に帰す、破魔の真紅。
防壁を失った無防備な本体へ向け、圧倒的な速度と、破魔の概念と、純粋な人間の殺意だけを煮詰めた代行者が真っ直ぐに牙を剥く。
「ぐあああっ!! 小賢しい真似を……!!」
綺礼さんの瞬きすら許さぬ連撃が、本体の周囲で蠢くフィルムの触手を次々と刈り取っていく。
ひどくあの人らしい、残酷なまでに洗練された暴力。
「これで終わりじゃありません」
時臣さんの、凛と透き通る声が響いた。
「令呪よ!!乖離剣を、再び王の御手に!!」
時臣さんの令呪が眩い光と共に消失する。
ギルガメッシュ王が、裂けた腹部を押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。
「フン、待たせたな」
口の端からおびただしい血を流しながらも、その声の張りだけは相変わらず傲岸不遜そのものだった。
「受け取れ!!!真樹!!我が至宝、使いこなしてみせよ!!」
叫びと共に、エアが無造作に宙を舞う。
思わず目を疑った。星を割るほどの至宝を、そんなボールでも投げるかのように放り投げるだろうか。王様という生き物は、究極の譲渡すらも己の流儀でやり通すらしい。ひどく乱暴で、途方もなく豪快なやり方で。
空中へ躍り出て、放物線を描くその柄をがっちりと掴み取った。
「これが……星を割る鍵……!!」
重い。だが、先ほどの二振りと同じだ。この舞台の主演として名指しされた以上、私にはこれを受け取る資格がある。
ならば、一切の遠慮はしない。
「いくわよ!!天地乖離す!!開闢の星!!!」
限界まで魔力を注ぎ込み、エアを起動する。
本来なら到底扱えない規格外の宝具が、舞台の意志と同調して激しく咆哮を上げる。
いや、これは単なる借り物ではない。この劇場において役を与えられた小道具は、使用者の存在感に完全に比例してその威力を引き出す。
これこそが、絶対的な主演の特権。
吹き荒れる真紅の暴風。
空間そのものを削り取り、本体を覆い隠していた最後のビーストの装甲を、根こそぎ剥ぎ取っていく。
概念の防壁も、蠢く触手も、その禍々しい輪郭すらも、暴風の前に無力な紙切れのように散っていく。
「この!!!!!役者風情が、調子に乗るなあああ!!」
本体が絶叫する。
その声に、もはやかつての余裕は微塵も残っていない。
「展開せよ!!対人理宝具!!!『開演・人類救済大終曲(グランド・カーテンコール)』!!!!」
肌を粟立たせるような、最悪の気配が膨張する。
舞台全体が、自爆の臨界点へと達しようとしていた。
特異点そのものを巻き添えにし、すべてを等しく『終演』という名の無へ帰すつもりの底なしの自暴自棄。
だがその瞬間、最後まで温存されていた絶対の切り札が切られた。
「――令呪をもって、アサシンに命ずる!!」
綺礼さんの、令呪。
残されたその一画が、血のような赤黒い光を放って燃え尽きる。
「私たちを、あの演出家の眼の前まで、最速で運べ!!!」
「はっ!!!直ちに!!!」
影が、幾重にも裂ける。
無数のアサシンたちが一斉に虚空から這い出る。床、崩れ落ちる柱、空中の瓦礫、客席の残骸。あらゆる空間を埋め尽くすように顕現し、己の身体そのものを、私たちが踏み込むための『足場』として差し出した。
それは狂気のカタパルト。人力の、いや、彼らの命を代償にした絶対の架け橋。
己が消滅することを前提に、ただ私たち二人を最奥へと送り届けるための、一直線の道が組み上がる。
「真樹!」
桜ちゃんの声だ。激しい消耗のせいか、少し掠れている。虚数の影を極限まで広げ続けている彼女の横顔は、見ていられないほどに青白い。
「絶対に、負けないでください。お姉さんを止められるのは、今のあなたしかいません」
「当然よ」
私は強く頷き返す。
「妹に舞台の後始末まで押しつけるほど、ダメな姉じゃないもの」
「自覚があるなら、普段から少しはまともにしてください」
桜ちゃんは厳しい言葉を口にしながらも、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
ああ、この子は本当に強くなった。かつての私なら、その眩しいほどの強さを前に、喜びよりも先に嫉妬を覚えていたかもしれない。けれど今は違う。ただひたすらに、誇らしく、頼もしい。
「真樹!」
今度はアルトリアちゃんだ。
「聖剣は貴女に預けます!あれは王の剣です!どうか、最後まで誇りを失わずに!!」
「ええ。預かったからには、ちゃんと綺麗に使うわ」
軽口を叩くように肩をすくめる。
「あとで返す時に、変な手脂ついてるとか文句言わないでよね」
「言いません!」
極限状態でも真面目すぎる彼女が、私はたまらなく好きだった。
「ですが……少しだけ、不安です」
「なにが?」
「貴女は勢いで妙なことを言い出すので……最後の最後で、無駄に気取った決め台詞を優先しないか、それだけが非常に不安です」
「ひどい!」
「事実です!」
周囲を見渡せば、誰もが深く同意している顔つきだった。やめてほしい。主演女優だって、それくらい空気は読む。読む、はずだ。
「真樹殿」
ランスロットさんの声は深く、落ち着き払っていて、いかなる時も騎士としての芯がブレない。
「我が魔剣に、迷いなくご命令を。今この場において、私はあなたの舞台装置であることを誇りに思います」
「舞台装置って、自分で言うとすごい字面ね」
「ですが、事実でしょう」
「ええ。最高の大道具で、最高の共演者よ」
左手のアロンダイトを天に向けて掲げる。
「貴方の剣、ちゃんと最前列で輝かせるから」
ディルムッドさんが、綺礼さんに槍を預けたまま、こちらへ静かな視線を送る。
「どうか勝利を」
短い一言。
だが、その短さの中に全ての願いが込められている。彼ら騎士という存在は、多くを語らない代わりに、最も核心を突く言葉だけを絶対に外さない。
「真樹君」
時臣さんの、冷静な声が響く。
おびただしい血を失っているはずなのに、背筋を伸ばしたその立ち姿は依然として美しいままだ。
「エアは、正しく握りなさい。あれは単なる火力兵器ではありません。空間そのものへの干渉装置です。力任せに振るえば、自分の足場まで消し飛びます」
「はいはい、了解よ時臣マネージャー」
「あと、呼吸が浅い。肩が上がっています。目線も少し泳いでいます」
「そこまで見てるの!?」
「当然です。主演女優のコンディション管理も、裏方の仕事です」
大真面目な顔で言い切られ、私は苦笑するしかなかった。
「……ありがと。ちゃんとやるわ」
ケイネス先生は、露骨に顔をしかめて不満げに鼻を鳴らした。
「まったく、ここまで来ると、もはや何が正道なのか分からんな」
「でも先生、最後まで残ってくれるんでしょう?」
「当然だ。私があのような不快な劇場に名前だけ載せられて終われるものか」
先生は残された魔力を振り絞り、月髄霊液を薄く、広範囲に展開する。
「よいか、私は魔力不足だが、演算能力だけはまだ死んでおらん。貴様らが突っ込む軌道、ビーストが反撃に使うであろう魔力流、そしてこの舞台の崩落予測。その程度ならまだ計算してやれる。つまり、死ぬな。私の緻密な計算が無駄になる」
「先生、それ普通に応援よ」
「違う。合理的な指示だ」
「はいはい」
イスカンダルさんが、腹の底から愉快そうに笑い声を上げる。
「良いではないか!こうして全員が、己の持ち場を持って最後の幕へ挑む!これぞ戦だ!これぞ劇だ!いやはや、余はこの混沌がたまらなく好きだぞ!!」
「だから無理して喋るなって!」
ウェイバーくんが、足元から半泣きで叫び返す。
「声にハリがあるほど、こっちは不安になるんだからな!?」
「ワハハ!ならば安心するがよい坊主!余は今、最高に気分が良い!!」
「それが一番怖いんだよ!!」
ギルガメッシュ王が、腹の致命傷を押さえたまま忌々しげに吐き捨てた。
「くだらん雑談は終わったか」
「王様、傷口から血を流しながらその態度やめなさいよ。こっちが心配になるから」
「誰が貴様に心配を頼んだ」
「いや、見たら普通に心配するでしょ」
「不要だ。王は倒れても王だ。雑種が気を揉むな」
強がりを口にしながらも、その息遣いは明らかな限界を告げている。王様という生き物は、本当に意地を張ることにかけては天才的だ。
だが、その瞳の光だけは決して死んでいない。最後の結末を見届けるまで、絶対に舞台から降りるつもりはない、強烈な意志を宿した目。
「行け、真樹」
エルキドゥさんの、透き通るような声が静かに届く。
彼の身体は限界を迎え、崩れ落ちる鎖へと還りかけているというのに、その響きは不思議なほどに柔らかかった。
「君が最後にどんな嘘を本物へ変えるのか、ちゃんと見ているよ」
「嘘って言い方、ひどくない?」
「でも君、そういうの好きだろう?」
「……好きだけど」
「なら堂々とやればいい」
それだけを残し、彼は美しく微笑んだ。
神が創り出した最強の兵器が、最後に一人の役者へ贈るエールとして、これ以上贅沢なものはない。
皆の思いが、言葉が、確かな重みとなって私の背中を強く押し出してくれる。
ここまで来れば、もう私一人の孤独な舞台ではない。最初からそうだったのかもしれないが、今だけはそれがはっきりと理解できる。私が胸を張って『主演』でいられるのは、彼らが命がけでこの舞台を支え、盤石にしてくれているからだ。
誰かに支えられていると認めてしまえば、その人が傷ついた時、私に耐え難い責任が生まれてしまうから。
でも、今は違う。
責任ごと、すべてを抱え込む。失敗するのなら、その無様な失敗すらもこの舞台の上で晒し出す。誰かの犠牲の上に成り立つ綺麗な結末だけをつまみ食いするような真似は、もう二度としない。
本体も、その私の変化を敏感に察知している。
だからこそ、その顔を憎悪に歪ませる。
「本当に、忌々しい」
本体の声が、地の底を這うように低く沈んだ。
「私が一番欲しかった位置に、アンタが立つのね」
「欲しかったなら、安全圏から降りてくればよかったじゃない」
「降りたら、傷つくでしょう」
「ええ。容赦なく傷つくわ」
「なら、やっぱり私は正しい」
「違うわね」
「傷つく可能性から逃げるために、全部の結末を固定した時点で、アンタはもう役者じゃないのよ」
「だったら、アンタはなに」
「決まってるでしょ」
不敵に笑い返す。
「傷つくと分かってる舞台に、嬉々として飛び込むバカな主演女優よ」
本体が、そこで初めて露骨に苦痛の表情を浮かべた。
「……本当に嫌い、その言い方」
「知ってる」
足元の床がさらに激しい音を立てて砕け散る。
客席の上段が崩落し、豪奢な照明器具の残骸が雨のように降り注ぐ。もう猶予はない。特異点そのものが、この空間で衝突し合う膨大な魔力総量に耐えきれず、限界を迎えている。
「真樹」
「なに?」
「今さらだが、確認しておく」
「うん」
「この一撃の先に、お前が残る保証はない」
「知ってる」
「それでも、悔いはないか」
私は、ほんの少しだけ考える。
残りたい。本音を言えば、泣き叫びたいほどに生きて、残りたい。もっと生きて、もっとこの人の隣で笑っていたい。普通のデートだってしてみたいし、激辛の麻婆豆腐に文句を言いながら付き合いたいし、婚前交渉についての説教だって、一度くらいなら真面目に聞いてあげてもいい。
でも、それでも。
「悔いは、あるわよ」
真っ直ぐに答える。
「だって欲張りだもの。でも、悔いがあるのと、ここで止まるのは別問題」
「そうか」
「ええ。だから貴方も、そこで変に覚悟が決まりきったような顔をしないで」
「どういう意味だ」
「私が消える前提で、悲劇的に綺麗に締めるの、禁止ってこと」
彼の黒い瞳を真っ直ぐに射抜く。
「夫なら、最後まで悪あがきしてよ」
綺礼さんの瞳の奥底が、ほんの少しだけ、確かに揺さぶられた。
「……承知した」
「よろしい」
前方で、本体の放つ魔力が臨界点を超えて再圧縮される。
今度こそ、正真正銘の最後の一幕だ。
アサシンたちが、崩壊する空間に次々と己の影を差し出していく。
もはや限界を超えているはずなのに、誰一人として苦痛の声を上げない。ただ、私たちが
踏み出す次の一歩のためだけに、無言のまま己の存在を消費し続ける。
感情の一切を表に出さず、ただ必要な瞬間にだけ、芸術的なまでに完璧な仕事を見せる。だから私は彼らが嫌いになれない。きっと本体も、心の底ではそこを認めているはずだ。
「真樹」
綺礼さんがもう一度、私の名前を呼んだ。
「うん」
「恐れるな」
「いや、恐いわよ」
飾らずに本音をこぼす。
「恐くないとか言ったら嘘になる。だって、私まだ十九だし。大人ぶってるけど、割と普通に死ぬの嫌だし」
「だろうな」
「でもね」
私は、吹き荒れる魔力の暴風の先を真っ直ぐに見据える。
「それでも行くって決めた時点で、もう半分勝ってるのよ。舞台って、そういうものでしょ」
「……なるほど」
「なによ、その分かったような顔」
「お前の理屈を、少しだけ理解した」
「少しだけ?」
「全部理解すると、こちらまで役者に転職してしまいそうだ」
「それはそれですごく見たいけど、今日は代行者で我慢して」
「欲張りだな」
「主役だもの」
家族というのは厄介なものだ。互いの一番嫌な部分を知り尽くしていて、一番見られたくない弱さも把握されている。けれど、最後の最後で迷う背中を理不尽なまでに強く押し出してくるのも、だいたい家族なのだ。
だからこそ、ここで無様にこけるわけにはいかない。
「お姉さん」
桜ちゃんの声が、今度はひどく柔らかく、優しく響いた。
「帰ってきてください」
短い。一切の余計な飾りを削ぎ落とした、純粋な願い。だからこそ、一番深く突き刺さる。
「……できるだけ努力するわ」
「努力目標じゃなくて、義務です」
「厳しいなあ」
その一言に、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
ああ、そうか。私はまだ、この子にとっての『お姉さん』なのだ。分体だとか、英霊だとか、プリテンダーだとか、そんなややこしい設定や因縁をすべて飛び越えて、そこだけは奇跡のように形を保っている。
ならば、やはり自分が消えることを前提にした悲劇的な幕引きなど許されない。這いつくばってでも、ちゃんと帰る努力をしなければ。
本体が、そのやり取りを見て忌々しげに唇を噛み破った。
「……そうやって」
怒りと悲しみの入り混じった声が震える。
「そうやって、簡単に『帰る場所』を口にするの、反則よ」
「簡単じゃないわ」
「帰る場所なんて、最初から用意されてるものじゃない。自分で壊したり、誰かに理不尽に奪われたり、いらないって投げ捨てたりして、それでも最後に意地汚く残ったものだけが、そう呼べるのよ」
「そんなの、綺麗事」
「ええ。だからこそ、この大舞台の上で叫ぶのにちょうどいいでしょ」
時間切れだ。
ならば、あとは本当に、持てる全てを懸けた最後の一撃のみ。
私は旗の柄を、痛いほどに強く握りしめる。
クリスタルの縁が軋む音が鳴る。私自身の霊基も、とうに限界を超えて悲鳴を上げている。
主演の特権は魅力的だが、便利な権利ほど後から来る反動も絶望的に大きい。今この場に顕現している全ての小道具が、終演後に莫大な請求書を突きつけてきそうな嫌な予感がする。
けれど、後払いならいくらでも構わない。今はまだ、舞台の真っただ中なのだ。精算の心配など、すべてが終わった後で十分だ。
「さあ」
「本当に、終わらせましょうか」
「ええ。終わらせましょう。私のために用意した最高の劇場を、自分自身の手で焼き落とすなんて……どこまでも馬鹿馬鹿しくて、どこまでも私らしい終幕だもの」
「そうね」
「だったら最後くらい、ちゃんと主役らしく華麗に散りなさい」
「アンタもね」
「私は散るとはまだ決めてないわよ」
「……そういうとこ、本当に腹立つ」
罵倒を口にしながらも、その声の響きは、不思議なほど優しく笑っていた。
ああ、やはりアンタも私自身だ。最後の最後に、そんな晴れやかな顔をするのね。
「いくぞ…………!!」
「ええ!!」
私と綺礼さんは、全くの同時に床を蹴り飛ばした。
アサシンたちの肩、腕、影、黒鍵。目に映るあらゆるものを足場にして飛ぶ。蹴り込むたびに、彼らが一人、また一人と霧散していくのが視界の端に映る。ひどく乱暴で、冒涜的で、けれど涙が出るほどに美しい進行。
業火と暴風が吹き荒れる絶望のど真ん中を、一直線に駆け抜ける。
今この崩壊する舞台において、最短距離だけを見据えて走れるのは、世界中で私たち二人だけだ。
隣に、綺礼さんがいる。
荒々しい呼吸の熱が伝わってくる。地を蹴る足音のリズムが、痛いほどに同調している。肩の高さが、踏み込むタイミングが、寸分の狂いもなく一致する。私が少しでも速度を上げれば、彼は完璧にそれへ合わせてくる。先ほど彼が口にした通り、本当に、妻の歩幅に狂いなく合わせてくる。
その事実が、どうしようもなく、胸が痛くなるほどに嬉しい。
(ああ、綺礼さん)
消滅するかもしれない。今の私は英霊という名のかりそめの幻に過ぎないし、大元である本体を倒した時、この現界がどうなるのかなんて私にも分からない。
けれど、そんな不確かな未来よりも、今この瞬間、自分自身の魂が間違いなく「ここ」にあるという確信が、私を限りなく強くしていた。
――私はずっと、自分という存在には『魂』など欠落しているのだと思い込んでいた。
ただの空っぽの器。他人の皮を被り、表面を取り繕うことはできても、決して揺るがない自分自身の核など存在しないのだと。だからこそ私は、演じる側であることを恐れ、役を与えるだけの演出家という安全圏へ逃げ込んだのだ。
だが、違う。
今の私は、決して空っぽなどではない。
(今、私の魂は……確かにここにある。私の中に、あるの)
だって私は、誰かに見つけてもらえたから。
狂った世界の中で、愛してもらえたから。
空っぽだと思い込んでいた器の奥底へ向けて、確かな熱量で名前を呼んでもらえたから。
これを魂と呼ばずして、いったい何を魂と呼ぶというのか。
暴走する魔力の中心で、本体がこちらを見据えている。
距離が、一気に縮まる。
彼女もまた、私だけを見ている。崩壊する世界でもなく、観客でもなく、自らが描いた脚本でもなく、たった一人の私だけを見ている。
この最後の最後になって、ようやく、私たちは誤魔化しなく真正面から向き合えたのだ。
(だから私は――)
私は、風を切って隣を走る綺礼さんの横顔へ視線を向ける。
汗と血と煤で酷く汚れていても、前を見据えるその鋭い眼差しだけは一切のブレがない。
私のマスターであり、私の恋人であり、私の夫。
全部ひっくるめて、呆れるほど面倒くさくて、けれどこの世で最高の男。
(この最高の舞台の幕を、絶対に私の手で引いてみせる!)
私たちの速度が、さらに限界を超えて跳ね上がる。
架け橋となった最後のアサシンの足場を、力強く蹴り飛ばす。
もう次はない。次にあるのは、本体の胸の懐だけ。
「ねえ、綺礼さん」
「なんだ、真樹」
「私、絶対に目を逸らさないわ」
「ああ」
「貴方も逸らさないで」
「無論だ」
「じゃあ――いくわよ」
本体の放つ絶望的な魔力が、極限まで膨れ上がる。
私の構える旗と、綺礼さんの握る黒鍵が、全く同じ高さで高く振り上げられる。
崩壊の運命に満ちた舞台の中央で、私たちの二つの鼓動が完全に一つに重なり合った。
万感の思いを込めて、私は全てを終わらせる最後の一撃を振りかぶった。
お読みいただきありがとうございました。
総力戦の熱さと、真樹と綺礼の関係の決着を両立させたくて書いた回でした。
夫婦宣言まわりや、最後の突撃前の空気がどう見えたか、ぜひ聞かせてください。