冬木アクターズ・ラプソディ ~観光に来た演劇バカの女子大生、うっかり龍之介を轢いてしまったので、キャスターの「ジャンヌ役」として聖杯戦争を完遂します~ 作:斉宮 柴野
「いやはや……アーサー王に会えるなんて。本当に聖杯戦争に参加してよかった!」
獅子心王リチャードが、熱を帯びた声音で身を乗り出す。その鼻先がアルトリアの端正な輪郭に触れんばかりに肉薄していた。視界を埋め尽くすほどの至近距離。彼自身の内側に渦巻く純粋な敬愛と感動の発露に違いないが、端から見れば距離感を盛大に見誤っているとしか思えない。西日に照らされた金髪同士の対峙は視覚的こそ荘厳だが、押し寄せる熱量が尋常ではなかった。
「いや、ほんとにすごいな……。伝説って実在するんだな……」
陶酔しきったリチャードの瞳が潤んでいる。聖杯に喚ばれた彼自身もまた、後世に語り継がれる伝説の一端を担う存在である。自身が歴史の教科書を彩る偉人であるという客観的事実を、この男は都合のよい脳の引き出しの奥底へ押し込んでいるらしかった。
「そこまで喜んでくれるのはいいんだけどさ。リチャード、アルトリアからはちょっと離れてくれないか」
「ええ……近いです」
アルトリアもまた、わずかに背を反らしていた。鋼の如き無表情の裏側に、明白な拒絶の意志が透けて見える。これ以上の接近は許容できないという王の無言の宣告であったが、興奮の坩堝にあるリチャードの網膜には届かない。
「アーサー王よ……俺は今、猛烈に感動している」
「それはもう二百回ほど聞いています」
「この感情をどう言葉にすればいいのか、自分でも分からない。ただ、ひたすら尊い」
「それも百回以上は聞きました」
「いや、今のは前の尊いとは違う。今のはもっとこう、愛に近い」
「私にはシロウがいるのでだめです」
「私の身体は、すでに売約済みですから」
士郎は慌てて咳払いをした。
「いや、その言い方は語弊があるだろ、アルトリア」
「どこにですか?私は誠実に事実を伝えただけですが」
「その事実の伝え方ってものがあるんだよ!」
「王が言葉を濁してどうするのです」
「いや王以前の問題だろ!」
◇
「なんと淫らな……。やはり私の妹は、ろくでもない王ですね」
腕を組んだモルガンの口元には、嗜虐的な笑みが浮かんでいる。
軽蔑を装いながらも、その視線は妹の痴態を貪るように楽しんでいた。隠しきれない愉悦が、彼女の冷たい美貌を歪ませている。
「えー。でもアルトリアちゃん、乙女で可愛いんだけどなあ」
「可愛い、などと」
「彼女は生前、三十年は生きています。ここでさらに十年過ごしているなら四十。もはや立派なババアです」
「なっ……!」
アルトリアの端正な眉が、屈辱に震えた。永遠の若さを誇る外見と、積み重ねてきた果てしない時間の狭間で、彼女の誇りは静かに軋みを上げる。
「くっ……たとえおばさんと言われようとも、私にはシロウさえいれば……!」
すがるように士郎の腕を力強く抱き込むアルトリア。その指先の白さが、彼女の内に渦巻く焦燥を雄弁に物語っていた。
「うん……ああ……アルトリアは……その……」
「シロウ!!」
「いや、待て。今のはフォローしようとしたんだ」
「今の間は何ですか」
「言葉を選んでたんだよ!」
「つまり即答できない程度には思うところがあったのですね」
「なんでそうなる!」
歴史の重みなど微塵も感じさせない当事者たちの振る舞いに、もはや誰も軌道修正を図ろうとはしない。
事態の混迷を心地よさそうに眺めていたイリヤが、両足を揺らしながら無邪気に爆弾を投下した。
「シロウはモテモテだもんねー」
「茶化さないでくれ、イリヤ」
「でもいいじゃない。選べるって幸せなことよ?」
「選ぶとかそういう話になってないだろ」
「なってるわよ」
美遊が、純粋な疑問符を浮かべて首を傾げる。
「そういえばイリヤはいいの?弟に恋してないの?」
「え?」
士郎の頬が痙攣し、クロエが息を呑む。アルトリアは生真面目な顔つきで恋の駆け引きを学習しようとしているが、参照すべき手本を根本的に見誤っていた。
イリヤは堂々と胸を反らせる。
「私は慎二君一筋だもん!」
「年下好みではあるのよね」
クロエがこめかみを押さえる。
「年下っていうか、あの人は……なんていうか……」
適切な語彙を求めて、美遊の視線が宙を彷徨った。
「小物界の大物?」
「そう!それ!」
イリヤは我が意を得たりとばかりに弾んだ。
「慎二君って、すごくいいのよ?自信満々で小さいの。器がちっちゃいくせに、自分では大きいと思ってるの。そのアンバランスさが最高なの」
「褒めてるのか貶してるのか、まったく分からないな……」
「だってね、『ふん!こんな美人な女子大生とデートできる僕は、やっぱりエリートだよな!』って、ちゃんと言ってくれるんだよ?」
「それ褒められてるのか……?」
「褒められてるでしょ。あの小物っぷり込みで、ちゃんと私を特別扱いしてるんだから」
「うわあ……」
クロエの表情が、深い疲労に沈む。
「イリヤって、趣味がすごい方向に曲がってるわよね」
「失礼ね。恋ってそういうものでしょ」
「違うと思う」
士郎は頭を抱え込む。この狂気的な恋情が成就した暁には、あの間桐慎二が義兄として家系図に名を連ねることになる。想像するだけで胃壁が焼け焦げるような絶望の未来図だ。
「今のうちに練習しとけば?義兄さん、って」
「やめろ」
「義兄さん、お茶どうぞ、とか」
「やめろって」
「義兄さん、イリヤ姉さんを泣かせたら殺します、とか」
「余計に嫌だ」
「でも桜が家族になるんじゃない?」
「それはまだ理解できる」
「つまり慎二だけが嫌なのね」
「当たり前だろ」
士郎の悲痛な魂の叫びに、その場にいた全員が奇妙な連帯感を抱いた。
だが、その共感の輪を、モルガンの冷徹な合理性が一刀両断する。
「婚姻による家の結びつきは大切です。シロウは凛とやらと結婚するのがよいでしょう」
「は?」
士郎の思考が停止する。
「これで遠坂、間桐、衛宮の線が安定します。御三家の連携も強化される。感情より先に構造を整えるべきです」
「急に魔術師みたいなこと言い出したな!?」
「私は魔術師なのです」
「そこだけはすごく姉妹なんだよな……」
クロエのつぶやきに、アルトリアの眉間が険しく歪む。
「私はそのような発想でシロウを扱っていません」
「ですが売約済みと言ったのは貴女でしょう」
「それは……その……」
「ふふ。所有権を主張しておいて、今さら綺麗事ですか」
「モルガン!!」
またしても勃発した王族の血で血を洗う姉妹喧嘩。聖杯戦争という死線を前にして、この邸宅を支配しているのは恋愛と政略が入り乱れる箱庭の遊戯である。
果てしない脱線に終止符を打つべく、美遊が小さく咳払いをした。
「……で、聖杯戦争はどうするの?」
その静かな問いかけが、ようやく道場に本来の重みをもたらした。
モルガンの顔から嘲りの色が消え、冷徹な魔女の貌が戻る。
「そうです。マスターはかなりのんきに構えているようですが、そもそも戦うべき敵はいるのですか?」
「そこなんだよな。俺の方にも、聖杯から本来与えられるはずの現代知識が、ほとんど流れてきてない」
「土地勘は断片的だし、現代機械についても妙に知識が薄い。だが現界には問題がない」
「大聖杯に魔力がないって話は本当らしいな」
士郎の推測に、アルトリアが静かに同意を示す。
「ですが召喚自体は成立している。これは明らかに異常です」
「現界に影響はないの?」
美遊の問いに、リチャードは自身の内なる魔力回路を探るように目を伏せた。
「いや、士郎からの魔力だけで今のところは十分だ。聖杯の知識付与の機能は壊れていても、現界を固定する基盤自体は働いているように感じる」
「雑ねえ、そのシステム」
クロエが呆れたように肩をすくめる。
「壊れてるのに必要なところだけ動いてるって、一番質の悪い家電みたい」
「聖杯を家電扱いするな」
都合の良い機能だけが停止し、最低限の動作音だけを響かせる機械への苛立ちは痛いほど理解できる。
「しかし、マスターの大半は貴方たちの身内なのでしょう?戦争というより、親戚の集まりでは」
「そこが怖いんだよ」
「顔見知りばっかりだからこそ、余計に読めない。誰がどこまで本気なのかも分からないし」
イリヤが細い指を折り曲げていく。
「私、桜、士郎、カレン、凛。それに時計塔から一人。あと正体不明が一人、だっけ」
「そう」
「つまり、ほぼ身内。しかも濃い」
「濃いですね」
美遊が低く呟く。
「……あとは、時計塔から来た『マリスビリー』の出方と、正体不明の最後の一人か」
マリスビリー・アニムスフィア。ロンドンの魔術世界を肌で知る士郎にとって、その名が孕む闇の深さは想像に難くない。
アルトリアの声に、王としての威厳が宿る。
「シロウ。その男は、そこまで危険なのですか」
「分からない。でも、わざわざ時計塔から冬木に来る時点で、ろくな目的じゃない」
「よし!ならば敵が何であれ、まずは体勢を整えるべきだ!シロウ、夕食は何だ!」
「今その流れで飯の話になるか!?」
「戦には補給が必要だろう!」
「理屈は正しいけど空気を読め!」
アルトリアの視線が、かすかに柔らかさを帯びる。
「……その点だけは同意します」
「おお!アーサー王!」
「ただし、近づきすぎるのは却下です」
「ですよね!」
◇◇
街灯が落とす青白い影を踏みしめて歩くのは、言峰カレンと、彼女のサーヴァントであるフォーリナー、アビゲイル。
何も起きないこと自体が不吉に思えるほど、夜気は不気味に澄み切っていた。
「夜の散歩なんて、素敵だわ!」
アビゲイルが弾んだ声で夜の闇を蹴立てる。金色の髪に結ばれたリボンが、冷たい風に躍っていた。
「でも、少し悪い子だわ!」
「聖杯戦争は夜行うもの。であれば、夜を出歩くのは正当な活動です」
カレンの返答は、どこまでも平坦で抑揚がない。
「それに、憎き継母は家に置いてきました。私たちは今、夜を駆ける蝶のように自由です」
「夜の蝶……!」
「それって、なんだか綺麗」
「場合によっては綺麗では済みませんが」
「え?そうなの?」
「蝶は蝶でも、いろいろあります」
「蛾とか?」
「蝶は蛾の一種よ」
「そ、そうなんだ……!」
的外れな感嘆を漏らすアビゲイルに、カレンの口元がわずかに緩む。かみ合わない歯車が、なぜか美しく噛み合って回っているような、特異な共鳴が二人を包んでいた。
「マスター。あなたのお母様は、本当に面白い人ですね」
「継母です」
「でも、嫌いではないのでしょう?」
カレンの足取りが、一瞬だけ止まる。
「……うるさいですね」
その沈黙と拒絶こそが、何よりの肯定であった。アビゲイルは花がほころぶように微笑む。
「私、あなたのおうち、好きだわ。にぎやかで」
「にぎやかすぎます」
「でも、あったかい」
「……だから困るのです」
カレンの双眸に、複雑な光が明滅する。彼女の魂にとって、あの邸宅が放つ熱量はあまりにも眩しすぎた。愛おしいと感じてしまう自分自身を持て余しているのだ。
静寂の海を渡る二人の耳に、突如として異音が滑り込んだ。
前方、街灯の光が届かない深い闇の底から。
コツ、コツ、という靴音。
迷いも焦燥も存在しない、時計の針のように冷酷で正確な歩み。己の存在を知らしめる劇的な瞬間を完璧に計算し尽くした、傲慢な響きであった。
アビゲイルの表情から、少女の無邪気さが消失する。彼女は音もなく滑るようにカレンの盾となった。
「マスター。下がって」
「ええ」
カレンもまた、冷徹な状況判断に従い後退する。網膜に映る前に、肌が警告を発していた。一般人ではない。
薄闇を切り裂き、一人の女が街灯のスポットライトの下へ歩み出た。
闇夜に溶けるような長い髪。人工物のように整いすぎた造作。その一挙手一投足に、一切の無駄がない。華美な装飾はないにもかかわらず、その存在感は周囲の空間を圧倒していた。舞台で演じる役者ではなく、舞台そのものを支配し、買い叩く興行主の威圧感。
「――いい夜ですね」
女の唇から、滑らかな毒のような声が零れ落ちた。
カレンの秀麗な眉が、微かに動く。極めて凡庸な挨拶。だが、その背後に潜む得体の知れない親念が、冬木の冷たい夜に不協和音を響かせていた。
「そうね。なんだか、無性に麻婆豆腐が食べたくなるわ」
常人であれば理解を絶する返答。だが、女は薄氷のような微笑を浮かべた。
「なるほど……。貴女の舌は、そういうものでしたね」
アビゲイルの周囲の空間が、目に見えない圧力で歪む。カレンの瞳から、一切の温度が奪われた。
素性も知れぬ相手が、己の極端な嗜好を熟知している。情報を収集したという次元ではない。すべてを俯瞰し、手のひらの上で弄んでいるかのようなおぞましい優位性。
アビゲイルが、虚空を睨みつけるように一歩踏み出す。
「あなた、誰?」
女の視線がアビゲイルへと向かう。そこに警戒の色はない。ただ、ショーケースに並んだ珍しい昆虫を品定めするような、純粋な観察眼のみが存在した。
「アビゲイル・ウィリアムズ。フォーリナーですか……」
真名が、冷たい夜風に乗って無造作に曝露される。
「っ……」
アビゲイルが息を呑み、防御の姿勢を取る。カレンは氷の彫像のように動かないが、その内側では無数の思考が駆け巡っていた。真名の看破。サーヴァントクラスの特定。只の魔術師ではない。この狂った聖杯戦争の深淵を覗き込んでいる、特異点のひとつ。
「よくご存知ね」
「あなたは、誰?」
女の細められた瞳の奥で、昏い光が揺らめいた。嘲笑しているのか、あるいは哀れんでいるのか。感情の底が全く見通せない。
「名乗るほどの者でもありませんが」
「そう言う人ほど、だいたい大物」
皮肉の応酬にも、女の態度は揺るがない。
夜風が女の髪を撫で、街灯の光がその横顔に鋭い陰影を刻む。永遠を生きる者のような超然とした静けさ。若々しい肉体を持ちながら、その魂には数多の星々の死を見届けたような重力があった。
「ふふふふ……私はマリス」
「マリス・カルデアス」
その言葉が落ちた瞬間、世界から一切の音が消え失せた。
カレンの知識に、その名は存在しない。だが、魂の奥底で警鐘が鳴り響いていた。この女こそが、冬木を覆う異常事態の震源地に最も近い存在であると。
アビゲイルが、呪文のようにその名を反芻する。
「マリス……カルデアス……」
「そう。覚えておいて」
マリスと名乗った女は、慈悲深く微笑む。
「今夜は、挨拶だけにしておきましょう。敵になるか、味方になるか。それはまだ、脚本の外側にあります」
「脚本、ね」
カレンの唇が、冷笑を形作る。
「そういう言い方をするあたり、あなたもあの系統の人間なのかしら」
「あの系統?」
「世界を舞台に見立てる、面倒な人種よ」
マリスは気を悪くした風もなく、むしろ心地よさそうにその言葉を受け止めた。
「少し違います。私は舞台を愛してはいない。結果さえあればいい」
「なお悪いわね」
カレンの断罪は、どこまでも容赦がない。
「うん。私は、そういう人、あんまり好きじゃないかも」
「それは残念」
言葉とは裏腹に、マリスの顔に遺憾の色は一切ない。拒絶も嫌悪も、彼女にとっては興味の外に過ぎないのだ。
「あなたたちも、ずいぶん面白い組み合わせですね。神父の娘と、異端の少女」
「褒めても何も出ませんよ」
「褒めていません。観察です」
交わされる言葉は静謐を保っていた。しかし、水面下では致死の刃が幾重にも交錯している。
マリスは最後に、カレンとアビゲイルをじっと見つめた。
「では、また」
「また会う前提なのね」
「会いますよ」
「自信満々」
「ええ」
マリスは踵を返す。追撃を許さない絶妙な間合いを保ちながら、彼女の姿は冬木の深い闇の中へと、幻影のように溶けていった。
ありがとうございました。
今回はコメディと不穏の温度差が大きい回でしたが、その落差ごと冬木らしいと思って書いていました。