冬木アクターズ・ラプソディ ~観光に来た演劇バカの女子大生、うっかり龍之介を轢いてしまったので、キャスターの「ジャンヌ役」として聖杯戦争を完遂します~ 作:斉宮 柴野
桜とドラコーがゴルゴーンと対峙する中、聖杯戦争そのものを覆す規格外の力が冬木へ降り注ぎます。
独自設定、重い展開、残酷な描写を含みますので、ご注意ください。
【間桐邸】
「はい!!」
桜の鋭い呼応とともに、庭一面を純白の影が駆け抜ける。
光の当たる場所に落ちる、底の見えない空白の奔流。何も映さず、明確な輪郭を持たないまま、空間そのものを嚥下しようとする虚数の波だ。
白い虚数が、庭の中央にそびえ立つ女怪へと殺到する。
相手の質量は圧倒的だった。人間の女性を怪物の縮尺へと引き伸ばし、下半身に蛇と獣の要素を無造作に接合したような異形。目元を覆う布の奥から漏れ出す重圧だけで、並の魔術師であれば呼吸すら忘れて膝を屈する。
「石となれ……」
呪詛のような低い声が這う。
次の瞬間、白い虚数の先端から灰色の硬質な色合いが伝播していく。
形を持たないはずの影が、強引に物質へと変換されていく。波打っていた虚数は次々と石の塊へ変わり、自らの重みに耐えきれず土塊へと崩れ落ちた。地面が震え、粉塵が舞う。桜の放った純白の攻撃は、あっけなく瓦礫の山へと変貌した。
「石化の魔眼……!」
ドラコーが牙を剥く。
豪奢な衣装の裾から獣の尾がうねり、その先端へと赤黒い炎が収束していく。
「余の前で、随分と好き勝手してくれるではないか!」
尾が薙ぎ払われ、炎を纏った衝撃波が脇腹を捉える。大地を抉り取るほどの破壊力。だが、女怪の身体はわずかに揺らぐだけで、その強固な鱗には目立った傷一つ刻まれていない。
ドラコーの瞳に驚愕の色が混じる。
「硬いな、貴様!」
「獣風情が……」
その背中で蠢く長い髪が、一斉に鎌首をもたげる。髪ではない。その一本一本が大樹ほどの太さを持つ蛇だ。数を数えることすら放棄したくなるほどの群れなのだ。
無数の顎が開き、濃密な魔力が凝縮される。
「サクラ、伏せろ!」
ドラコーの警告より早く、光線の雨が庭へと降り注ぐ。
桜は虚数の壁を展開し、ドラコーは炎の膜を広げる。白い影と赤い火が幾筋もの光を弾き飛ばすが、圧倒的に手数が足りない。一本を防げば三本が死角を突き、三本を焼き払えば上空からさらに十本が降り注ぐ。一個体が有する火力としては、あまりにも理不尽だ。
「うおおおおお!!気持ち悪いぞ!余にその蛇どもの顔を向けるな!」
「そこですか、気にするのは!」
「見た目も重要だ!あれだけの蛇に一斉に見られたら、獣でも少しくらい鳥肌が立つ!」
「鱗なのに?」
「言葉の綾だ!」
ドラコーは炎の爪を振るい、真正面から光線を切り裂いていく。威勢こそいいが、その足取りは徐々に後退を余儀なくされていた。
桜の心臓の奥底で、聞き慣れた老人の声が低く唸りを上げる。
『まずいの。これでは、ワシの蟲も迂闊に出せんわい』
「お祖父様。今のところ、蟲を出しても全部石になりますね」
『だから言うておる。ワシとて好き好んで石像の蟲を庭へ並べたいわけではない』
「少し見てみたい気もしますけど」
『趣味の悪いことを言うでない。お主、昔より性格が悪くなっておらぬか?』
「お祖父様にだけは言われたくありません」
心臓に寄生する厄介な蟲であり、必要な時にだけ助言を寄越す相談役。複雑な関係性ではあるが、一方的な支配からはすでに脱却している。
「お祖父様、魔力をもう少し回してください。あれを止めます」
『よかろう。じゃが慎重に使え。あの魔眼はただの石化ではない』
「分かっています」
心の中のやり取りと並行し、桜は両腕を広げる。虚数の影が地中へと潜り込み、足元から一気に噴出する。
怪物の圧倒的な質量が、わずかに宙に浮き上がった。
「今です、ドラコー!」
「言われずとも!」
ドラコーが跳躍する。
炎の尾が弧を描き、女怪の顎を下から激しく打ち上げた。
初めて、その姿勢が明確に崩れた。
「見たか!獣を無視するからだ!」
「小さい割に、よく吠える……」
蛇髪が、怒りに任せて横薙ぎに振るわれる。
一本だけでも大木に匹敵する質量が、束になって襲いかかってくる。ドラコーは炎を噴射して相殺を試みるが、物理的な質量差に押し切られた。
「ぬおっ!?」
小さな体が、鞠のように庭の端へと吹き飛ばされる。
桜が虚数をクッションに変えてそれを受け止める。白い影の上に転がったドラコーが、屈辱で顔を朱に染めた。
「サクラ!今のを見たか!?」
「見ています。とても綺麗に飛びました」
「感想が違う!」
「怪我は?」
「ない!だが余の尊厳が傷ついた!」
極限の死闘の中にあっても、間桐陣営の空気は騒がしい。だが、言葉を交わす余裕があるうちは、まだ致命的な破綻には至っていない証拠でもあった。
「やはり、メドゥーサ……いえ、ゴルゴーンの怪物ですか」
「御名答だ。人間にしては少しは目が利く」
「その名を知りながら、なお立つか」
「立たないと、家を壊されますから」
『すでに半分ほど壊れておるぞ』
「……あとで直します」
『誰が?』
「兄さんとランスロットさんにお願いして」
どこかにいる慎二が聞けば全力で否定するだろうが、不在の者に反論権はない。
「獣の幼虫よ。そして人間。お前たちは此度の被告の中でも、深い大罪を内包する存在だ。大人しく石となるがいい」
「被告?」
桜の眉がわずかに動く。
「誰が私たちを裁くんですか?」
「答える必要はない」
「では、裁かれる理由もありませんね」
「罪があるから裁かれる。それだけだ」
桜の声は柔らかい。だが、周囲を取り巻く影の密度が限界まで高まっていく。
「余を裁く?笑わせるな。獣とは、人類が自ら生み、恐れ、そして愛するものだ。貴様らの勝手な法廷に座るつもりはない」
「ならば、ここで潰す」
ゴルゴーンの魔眼が、呪いのごとき輝きを放つ。
庭の木々が、砕けた石灯籠が、土が、端から灰色へと変色していく。無機物や生命体だけではない。空間に漂う魔力そのものすら硬直し、細かな灰色の粒子となって降り注ぐ。
「お祖父様、これ以上出力を上げられますか?」
『上げられる。じゃが、お主の方が危うい』
「何がです?」
『とぼけるでない。さっきから、お主の底で黒いものが笑っておる』
桜は答えない。
その沈黙の間にも、ゴルゴーンの蛇髪が増殖していく。庭全体が、巨大な捕食者の口腔内に閉じ込められたような圧迫感。
ドラコーが炎を束ねながら、桜を横目で一瞥する。
「サクラ。無理をするな。貴様の中にいるものは、余よりずっと飢えている」
「分かっています」
「分かっている顔ではない」
「獣は獣に敏い」
桜の唇から、小さく息が漏れる。
恐怖でもない。絶望でもない。
「……少し、イライラしてきました」
ゴルゴーンの動きが、僅かに停滞する。
「何?」
「私、我慢しているんですよ」
桜の足元から、これまでの純白とは異質の色彩が滲み出す。
黒。
泥のように濁り、周囲の光を貪り食い、形を成す前から空間を汚染していく魔力。白い虚数が桜の習得した技術だとすれば、この黒は桜の根源にあるどす黒い衝動そのものだ。
ドラコーの表情から、明確な余裕が消失する。
臓硯も口を噤む。
桜は、うっとりとした笑みを浮かべた。
「先輩がいて、姉さんがいて、兄さんがいて。お父様も戻ってきて、衛宮の家も賑やかで。少し変な人ばかりですけど、今の世界は面白いんです」
「だから何だ」
「だから、ずっと我慢しています」
黒い泥が、庭を埋め尽くすように拡散していく。
石化した虚数の残骸に触れると、それを酸のように溶かして嚥下し、さらに質量を増していく。ゴルゴーンの魔眼が黒を石へ変えようと抗うが、石化した端から内側から腐り落ちていく。
「本当は、もっと好きにしたいんです。嫌いなものは全部沈めて、欲しいものだけ残して、誰にも邪魔されない場所を作れたら、とても楽でしょうね」
その声は、狂気を孕んでいるとは思えないほど穏やかだった。
穏やかすぎるからこそ、恐ろしい。
「でも、我慢しています。先輩が、そういう私を好きになるか分からないから」
「先輩と結婚して、子供を作って、朝ごはんを作って、帰ってくるのを待って、時々姉さんと喧嘩して。そういう普通のことをしたいんです」
黒い泥の浸食が加速する。
「だから、我慢……」
桜の瞳から、僅かに焦点が外れる。
「あは……でも、好き勝手している人を見ると、少し羨ましいですね。自分の欲しいもののために、何も気にせず全部壊せるなんて」
「サクラ」
ドラコーの呼びかけに対する反応が、明らかに一拍遅れた。
「ダメ。我慢しないと。戻れなくなる。戻れなくなったら、先輩と子供が作れなくなる」
ゴルゴーンの顔に、初めて明確な警戒の色が浮かぶ。
目の前の少女は人間の形をしている。だが、その内側で蠢くものは人間の枠組みを完全に逸脱している。
「やはり、貴様は危険だ」
無数の蛇髪が、一斉に桜へと殺意を向ける。
「ここで息の根を絶つ!」
「余を忘れるなと言っただろう、蛇女!」
ドラコーが桜の盾となるように躍り出る。
「退け、幼獣!」
「誰が幼獣だ!」
ドラコーの体が後方へ押し込まれる。だが、退かない。小さな両足が地面に深く食い込み、炎の壁がさらに分厚く膨れ上がる。
桜はその小さな背中を見つめながら、黒い影を無数に枝分かれさせる。
「いただき――」
桜の展開した黒い魔力が、見えない力で一斉に地面へと圧し潰された。
途方もない質量。上空から、世界そのものを重石として落とされたような、理不尽な圧。
「え?」
桜が顔を上げる。
「上……?」
ドラコーも炎の出力を落とし、天を仰ぐ。
「なんだ、この熱は……?」
夜空が、異常な明るさに包まれていた。
星明かりではない。
月光でもない。
冬木の街の人工灯でもない。
あまりにも途方もない熱と光の集合体が、遥か上空で輪郭を結び始めていた。
『桜!これはまずい!影へ潜れ!』
臓硯の声から、すべての余裕が剥げ落ちていた。
「やっています!」
桜は虚数の門を開こうとする。
だが、開かない。
開こうとする空間そのものが、上空から降り注ぐ異常な熱量によって完全に固定されている。逃げ道となるはずの虚数空間すらも、巨大な光に暴かれ、身を隠す場所などどこにもない。
ドラコーが牙を剥き出しにする。
「ふざけるな……余を上から見下ろすな!」
ゴルゴーンもまた、無数の蛇髪を天へと広げる。
「これは……魔術王……!」
◇◇
遥か上空。
冬木の夜を眼下に見下ろす成層圏に、魔術王ソロモンが浮遊している。
地上の死闘など、彼の視座からは微小な光の瞬きに過ぎない。だが、誰がどこで何を企てているか、その全容を彼は冷徹に把握している。
虚空から、マリスビリーの無機質な声が響く。
『気づかれたようだね』
「ああ」
ソロモンの返答は、どこまでも平坦だ。
「でも、もう遅いよ」
『小聖杯の器となり得る個体が巻き込まれる可能性は?』
「ある」
『構わないのかい』
「君が構わないならね」
僅かな沈黙。マリスビリーの声に躊躇はない。
『計画を妨げる不確定要素は、早い段階で削っておくべきだ。器が必要なら、別の方法を探す』
「そうか」
ソロモンが両腕を広げる。
そこに怒りはない。
憎悪すら存在しない。
夜空に、巨大な魔法陣が展開される。
一つではない。幾重にも複雑に重なり合う光の輪が、冬木の空を完全に覆い尽くす。街から見上げれば、全天の星々が一斉に並び替わったかのような幻覚を覚えるだろう。
光の帯が形成される。
数を数えることなど無意味だ。一本一本が致死量の魔力を内包し、それが百万単位で束ねられ、焦点を結んでいく。
桜は両手を強く重ね合わせ、白と黒の虚数を同時に展開する。
「お祖父様、全部ください!」
『持っていけ!後のことは知らん!』
心臓から、臓硯の魔力が暴力的な勢いで流れ込む。
桜の影が、間桐邸の敷地全体をドーム状に包み込もうとする。
ドラコーが、その上から灼熱の炎の膜を重ねた。
「余の前で、余のものを焼かせるものか!」
「いつ私がドラコーちゃんのものになったんです?」
「今はそういう細かい話をするな!」
ゴルゴーンもすべての蛇髪を広げ、石化の魔眼の出力を臨界点まで引き上げる。
「光そのものを石へ変えてやる!」
「できるんですか?」
「黙れ!やるしかないだろう!」
先刻まで最大の脅威であった怪物の言葉が、今この瞬間、最も真理を突いていた。
「第三宝具展開」
声は成層圏から地上へは届かない。
だが、世界そのものがその宣告を震えながら受信する。
「誕生の時きたれり、其は全てを修めるもの」
全天の光帯が、一点へと極限収束していく。
冬木の夜空が、真昼の太陽よりも眩く白濁した。
「さぁ、燃え尽きるんだ」
「『誕生の時きたれり、其は全てを修めるもの(アルス・アルマデル・サロモニス)』」
光が、落ちた。
速い、という物理的な表現では追いつかない。
視覚がそれを捉えた時には、すでに破壊はそこに存在している。
桜の影のドームに、極光が接触する。
白い虚数はコンマ数秒だけ抵抗を見せ、次の瞬間には蒸発した。黒い泥も一瞬で沸騰し、断末魔のような音を立てて空間から消え去る。
「そんな――」
桜の顔から、すべての血の気が引く。
ドラコーの炎が、抗うように膨れ上がる。
「おのれえええええ!魔術王!!」
灼熱の炎すらも、絶対的な光の濁流に嚥下される。
ゴルゴーンの魔眼が、最後の抵抗として空を睨みつける。幾筋もの光帯が一瞬だけ灰色へと変色するが、後続の莫大な熱量がそれを跡形もなく押し流した。
「この、私が……!」
怪物の輪郭が、白光の渦へと溶け落ちていく。
臓硯が心臓の奥底で、引き裂かれるような警鐘を鳴らす。
『桜!影へ潜れ!何でもよい、逃げ道を作れ!』
「作ってます!作れないんです!」
視界が、圧倒的な白に塗り潰されていく。
最期の瞬間に脳裏をよぎったのは、焦がれ続けた青年の顔だった。
「センパ――」
声は、音になる前に蒸発した。
すべてが同時に光の中へ消失する。
間桐邸が呑み込まれる。
門が消え去る。
庭が蒸発する。
屋敷の形が崩壊する。
地下の蟲蔵ごと、空間が抉り取られる。
◇◇
「なっ……!」
凛とアーチャーは、間桐邸へと急行している最中だった。
その眼前の夜空から、世界を穿つような巨大な光の柱が突き刺さったのだ。
柱というよりも、天と地を繋ぐ巨大な光の断層。白く、太く、中心部は視神経を焼き切るほどに明るい。
「嘘……」
アーチャーの足も完全に止まる。
宝具という既存の枠組みに押し込めるには、あまりにも規格外すぎた。
「凛、止まれ!」
「桜が!」
「今近づけば、君まで焼かれる!」
アーチャーが、前に出ようとする凛の腕を強く掴む。
凛はそれを振り払おうとする。
「離して!桜がいるのよ!」
「分かっている!だが、今飛び込んでも何もできない!」
「何もできなくても行くの!」
光の断層は、無慈悲に大地を削り取り続けている。
数秒なのか、永遠にも似た時間なのか。強烈すぎる光と熱の奔流の中で、人間の時間感覚は完全に麻痺していた。
やがて、光の奔流が徐々に細退していく。
全天を覆っていた魔法陣の残滓が霧散し、冬木に夜の闇が戻ってくる。
だが、空に星々の瞬きはない。
舞い上がった膨大な土砂と蒸気が天蓋を塞ぎ、鼻腔を焼くような焦げた臭気が覆い尽くしていた。
アーチャーの腕を乱暴に振りほどく。
「行くわよ」
「凛」
「今度は止めないで」
泣いてはいない。涙を流すという感情の段階にすら、今の彼女は到達できていない。
アーチャーは反論を呑み込み、凛の身体を抱き上げた。
「最速で行く」
「最初からそうしなさい!」
怒りを孕んだ声が、微かに震えている。
アーチャーが大地を蹴る。
屋根を飛び越え、道路を駆け抜け、強烈な熱源の残滓が燻る方向へと一直線に跳躍する。
近づくにつれ、景色の異常性が露わになっていく。
街路樹は熱波で炭化し、周囲の建物の窓は悉く吹き飛び、アスファルトはドロドロに溶解している。間桐邸周辺に張られていたはずの一般人よけの結界など、痕跡すら残されていない。
「桜の気配は?」
凛の問いに、アーチャーは口を閉ざす。
「ねえ、あるんでしょう?」
「……分からない」
「分からないって何よ」
「魔力の残滓が大きすぎる。何も読めない」
◇
「……ここ、よね」
アーチャーは沈黙で肯定する。
座標は間違っていない。だが、凛の記憶にある間桐邸と結びつく要素が、世界から欠落している。
「門、あったわよね」
凛の声が、ひどく掠れている。
「ええ」
「庭も。あの趣味の悪い植木も」
「凛」
「地下に工房があって。桜の部屋があって。ランスロットの待機場所もあって」
事実を羅列すればするほど、目の前の虚無との乖離が心を抉る。
「桜」
返答はない。
「ドラコー!」
「ランスロットは慎二と一緒だから、ここにはいない。そうよね。だから、桜だけ……桜と、あの子と……」
凛は、必死に状況のピースを繋ぎ合わせようと足掻く。
だが、思考を構築するための材料が一切存在しない。
燃え残った衣服の切れ端もない。
砕けた家具の破片もない。
血痕すら、一滴も残されていない。
『何も存在しない』という事実が、何よりも凛の精神を追い詰めていく。
「アーチャー。探して」
「探している」
「もっとちゃんと!」
「やっている!」
「地下へ降りる道があったはずよ。穴のどこかに残ってるかもしれない。虚数で逃げたかもしれない。桜なら、そういうことができるでしょう?」
「可能性はある」
「なら探しなさい!」
「だが今は地盤が不安定だ。飛び込めば――」
「そんなのどうでもいい!」
凛の悲痛な声が、熱を帯びた穴の底へと吸い込まれていく。
当然、応えはない。
「どうでもよくない。君まで消えるのは許さない」
「でも桜が!」
「桜を見つけるために、君が必要だ!」
凛の表情が、ついに決壊した。
「さ……」
声が形を成さない。
喉の奥が痙攣し、呼吸の仕方を忘れたように詰まる。
それでも、名前を呼ばなければならない。
呼べば、いつものように控えめな返事が返ってくるかもしれない。
そんな奇跡など起こり得ないと理解していても、魂がそう叫ばずにはいられなかった。
「桜……」
返事はない。
凛は、底の見えない暗黒の穴へ向かって、ありったけの感情を叩きつけた。
「桜ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
そこにあるのは、圧倒的な熱を放つ底なしのクレーターと、星の光すら見えない黒く濁った天蓋だけだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は、これまで続いていた騒がしい日常が大きく崩れる回となりました。
桜たちがどうなったのか、そしてこの出来事が凛や士郎たちに何をもたらすのか、今後も見届けていただければ幸いです。