冬木アクターズ・ラプソディ ~観光に来た演劇バカの女子大生、うっかり龍之介を轢いてしまったので、キャスターの「ジャンヌ役」として聖杯戦争を完遂します~ 作:斉宮 柴野
閉じたはずの幕の外から、一人の来訪者がカレンへ失われた名前と新たな旅を提示します。
独自設定、原作とは異なる家族関係、Grand Orderに関する要素を含みます。
【冬木市・言峰邸】
窓の向こうで、夜闇が唐突に白く染め上げられた。
遥か上空から、幾重もの光の輪を従えた奔流が深山町へと突き刺さっている。
離れた新都からでも、その輪郭は鮮明だった。星々の瞬きは完全に呑み込まれ、高層ビルの窓硝子に純白の光帯が映り込んでいる。
数拍遅れて、窓硝子が共鳴して悲鳴を上げ、棚に並べられた食器が微かに触れ合って乾いた音を立てる。
カレンは、カーテンに指を掛けたまま、その異常事態を凝視していた。
「あれは……?」
「かなり強い魔力の奔流だね。間桐の家の方角だ」
エルキドゥも、すでに窓へと顔を向けていた。
彼は静かに瞼を閉じ、遠く離れた大地へと意識の糸を伸ばした。冬木の霊脈を伝わってくる微細な震え。大気に残留する異常な熱量。
そのどれもが、通常の聖杯戦争という枠組みに収まるものではなかった。
「高い場所から、明確な座標を決めて落としている。間桐邸だけでなく、周辺の空間そのものを巻き込んだみたいだ」
「真樹さん、大丈夫かしら?心配だわ!心配だわ!」
足音を忍ばせようと努力はしているものの、全身から立ち上る焦燥感は隠しようがない。何度目かの往復で絨毯の端に爪先を引っかけ、慌てて両腕を広げてバランスを取った。
「危ないよ、アビゲイル」
「え、ええ。ごめんなさい、エルキドゥさん。でも、あれは……あまりよくないものだと思うの」
「見れば分かるわ」
「継母は殺しても死にそうにないから大丈夫でしょう。むしろ、あの程度で死んだと報告されたら、本人から理解が足りないと説教されそうね」
継母であれば、あの光の中でも間違いなく騒ぎ立てているはずだ。
危険な状況に陥るほど機嫌が上向き、最終的には周囲の人間まで残らず巻き込んでしまう女だ。まともな悲劇のヒロインなど、絶望的に似合わない。
「桜や慎二は?」
あの兄妹に特別な情を抱いているつもりはない。顔を合わせれば慎二の虚勢を容赦なく刺し、桜の穏やかな微笑みの裏に潜む危うさを静かに観察する程度の関係性だ。
それでも、知っている人間の住処が光に呑み込まれた。
無関心を装うには、目の当たりにした破壊の規模があまりにも大きすぎる。
「確認はできない」
「光の周囲に別の術式が幾重にも重なっている。中を探ろうとすると、観測そのものが意図的にずらされるんだ。ギルなら見通せるかもしれないけれど、今は別の戦場にいる」
「貴方なら、すぐに向かえる?」
「向かうだけならね」
エルキドゥが、リビングの奥へと視線を向けた。
カレンも同じ方向を見る。
部屋の中で二人の幼子が静かな寝息を立てていた。
白野は小さな布団の中で身を丸め、両手を頬の下に挟み込んでいる。枕元には、大事そうに抱えていた紙製の人形と、不格好な冠が置かれている。
ベビーベッドの立香は、先ほどの震動にも全く目を覚ます気配がない。小さく上下する腹部には薄い毛布が掛けられ、時折、夢でも見ているのか唇だけが微かに動く。
部屋中には、エルキドゥの魔力が薄皮のように張り巡らされていた。窓を揺らす震動も、子供たちの元へ届く前に完全に中和されている。
『白野ちゃんと立香くんをお願いね。カレンもよ。あの子、平気な顔で危ないところへ行くから』
普段であれば、大げさすぎると鼻で笑って流せる。
しかし今夜ばかりは、嘲笑う気にはなれなかった。
「僕は、この家を離れられない」
「マスターと約束した。君たち三人を守る。外の戦いへ加わるために、ここを空けることはできない」
「正しい判断ね」
「だから、カレンも外へ出してあげられないよ」
「私は行くと言っていないわ」
「まだ、ね」
「継母を助けに行く気はないわ。あの人を助けるなんて、海を溺死から救うようなものでしょう」
「ええと……海は溺れないと思うわ、マスター」
「だからよ、アビー」
「あ、そういうことなのね」
腑に落ちた様子のアビゲイルが、こくりと頷く。
遠く離れた場所で、何かが決定的に終わってしまった。
音にも形にも変換できない空虚な感覚だけが、胸の内側に張り付いている。
弟妹を置いて外へ出れば、父に叱責される。
継母であれば、叱るよりも先に泣きついてくるだろう。心配した、もう離れないで、家族は全員一緒にいなければ駄目だと、こちらの返答など一切聞かずに抱き締めてくるに決まっている。
ひどく面倒な女だ。
ひどく面倒な家族だった。
カレンも、その狂騒の中にいる。
笑えるほどに歪な関係性なのに、不思議なほど居心地は悪くない。
むしろ――温かすぎるのだ。
その温もりに触れるたび、胸のどこかで僅かな摩擦が生じる。
ここは自分の帰るべき家。
あの神父は自分の父。
騒がしい聖女は自分の継母。
眠っている幼子たちは自分の弟妹。
どれも事実として理解している。彼らを大切に思う感情にも、一切の嘘はない。
なのに、ふとした瞬間に、鏡の向こう側から『別の自分』に監視されているような錯覚に陥る。
家族に囲まれて平穏に暮らす言峰カレンという存在を、そんな幸福な人生など欠片も知らない誰かが、冷ややかに眺めている。
その誰かも自分自身であるはずなのに、手を伸ばしても決して触れ合うことはない。
父の隣に立つとき。
継母に抱きしめられたとき。
名を呼ばれるたび、自身がわずかに違う座標へ返事をしているような違和感。
誰にも話したことはない。
アビゲイルを除いては。
「私が行けば、二人を置いていくことになる」
「お父様に叱られるわね」
「良いんじゃない?」
女の声だった。
アビゲイルの声ではない。
その声は、リビングの中心から静かに響いた。
「あの男なら、むしろ『よくやった』と言うかもしれないわよ?」
エルキドゥの姿が掻き消えた。
次の瞬間には、カレンと子供たちを背後に庇うように立ち塞がっている。
その背後の空間からは、無数の黄金の鎖が展開されている。すべての切っ先が、敵?へと向けられていた。
「君、いつからいたのかな?」
視線の先、一人の女が立っていた。
夜の室内に完全に溶け込むような暗い色彩の衣服。精緻に整った顔立ち。年齢はまったく読み取れない。外見は若々しいのに、その瞳だけは人の一生を遥かに超越した膨大な時間を内包している。
玄関の扉も、窓も閉ざされたままだ。
張り巡らされた結界にも、乱れた痕跡すら見当たらない。
最初からそこに配置されていたアンティーク家具のように、女は不気味なほど馴染んでいた。
「『あれは……?』くらいからかしら」
「気づかなかった?人形さん」
黄金の鎖の一本が、女の頬へ向けて射出された。
しかし、肌へ触れる寸前で、その動きがピタリと停止した。
女が回避したわけではない。
鎖の側が、目標を見失っているのだ。
目の前に確かな実体はある。声も聞こえる。床に落ちる影すら存在している。それなのに、鎖は対象を『拘束すべき存在』として認識できていない。
「その呼び方は否定しないよ。僕は神々の手で作られた。でも、今の君が何なのかは分からない」
「分からないものを撃つと?」
「僕に気づかれずに入り込んだ相手だからね。君の事情を尊重する理由は、まだ一つもない」
「ここで動けば‥‥。試してみるかい?」
「やめなさい」
カレンは、エルキドゥの肩越しに女を射抜くように見た。
制止は、一人だけへ向けられたものではない。
「立香が起きるわ。白野も、明日は学校があるの」
「マスター……」
アビゲイルの声に、震えはなかった。
先ほどまで落ち着きなく歩き回っていた少女と同一人物とは思えないほど、静謐な顔つきをしている。
彼女はこの女を知っている。
少なくとも、何がこの空間に侵入してきたのかを、正確に理解していた。
「アビー。説明してくれる?」
「私も、すべてを知っているわけではないの」
「貴女、幕はもう?」
「下りたわ」
女の短い返答に、アビゲイルは痛ましげに目を伏せる。
「そう……」
「でも、世界はまだ、何も許していない」
カレンの指先に、思わず力が入る。
「何を言っているの?」
「言葉どおりよ」
「意味が分からないと言っているの。幕とは何?何が終わって、世界は誰を許していないの?」
女は、底知れぬ愉悦を浮かべてカレンを観察していた。
見られている。
「なら、分かりやすく言い換えましょうか」
「このままなら、この世界は終わる」
「……ずいぶん簡単に言うのね」
カレンの声色に、動揺の響きはない。
「マスター」
アビゲイルの小さな手が、カレンの空いている手へそっと重なる。
「刻が来たわ」
「貴女まで何を言い出すの?」
「選ばなければいけない。あるいは……戦わなければいけないのよ」
「私は、選んだつもりだったわ」
カレンは、アビゲイルの青い瞳を見下ろした。
「この家にいる。貴女の鍵は開かない。それで幕は閉じたのでしょう?」
「ええ」
アビゲイルは否定しなかった。
「マスターがここで幸福で、後悔しないなら、扉を開く必要はない。私が言ったことは今も変わらないわ」
「なら――」
「閉じた幕の外から、世界の方が壊れ始めたの」
「マスターの幸福が嘘になったのではないわ。選び直さなければならないのでもない。ただ、この家も、眠っている二人も、真樹さんも、綺礼さんも……幕の向こうに残しておけなくなった」
「知っていたの?」
「いつ来るかは知らなかったわ。誰が来るのかも。でも、あの光が落ちたとき、分かったの。閉じていたはずのものが、閉じたままではいられなくなったって」
カレンは、得体の知れない女へと視線を戻す。
「貴女の名前は?」
「もう一度、聞きたいの?」
以前にも邂逅している。
人気のない夜道で呼び止められ、自身の起源を問われた。
あの時も、自分の存在の輪郭を内側から冷たい指先でなぞられるような、気味の悪い感覚を味わった。
「マリス・カルデアス」
◇◇
マリスの足先が、張り巡らされた鎖の隙間を静かに侵犯する。
「どうして私なの?」
「世界を救いたいなら、継母に頼めばいいでしょう。あの人は頼まれなくても全員を救おうとして、一度は人類悪にまでなった女よ。貴女と気が合うのではなくて?」
「合わないわ」
「彼女はこの世界を愛しすぎている。愛して、共感して、すべてを自分の舞台へ取り込もうとした。今は手放すことも覚えたけれど、世界の中で生きることを選んでいる」
「それの何が悪いの?」
「悪いとは言っていない。今回の旅には向かないだけ」
「お父様は?」
「彼も順応しているわ。悪である自分に正義という役を与え、その矛盾ごと生きている。あの男はもう、自分の苦痛を疑わない」
「アビーは?」
「扉は、旅人にはなれないわ」
カレンの隣で、アビゲイルの指先が握り込まれた。
否定の言葉は、紡がれない。
「この世界は行き止まりではない」
「起こり得たものを切り捨て、続く資格がないと判断される世界ではない。ここには未来がある。少なくとも、未来を選ぶ余地は残されている」
「先ほどは終わると言ったでしょう」
「終わる可能性と、最初から終わっていることは違うわ。大切な違いよ。救えるものと、存在を許されていないものは同じではない」
マリスの指先が、自身の胸元へと添えられる。
「この世界には、一つだけ認められていない者がいる」
カレンの思考が、不快な引っ掛かりを覚える。
「それを認めさせる旅へ、貴女を誘いに来た」
「貴女が認められていないの?」
「今、その答えを与えても意味はないわ。貴女自身が見て、選び、辿り着かなければ、世界への証明にはならない」
「都合がいいのね」
「ええ。私は自分の目的のために貴女を必要としている。善意だけでここへ来たふりをするつもりはないわ」
『カレンちゃん。お姉ちゃんだからって我慢しなくていいのよ。何かあったら、お母さんに――』
母という称号を強要されるたび、頑なに継母という楔で弾き返してきた。
パーソナルスペースを土足で踏み荒らす女への牽制であり、同時に、本当の母親ではないという事実を保護するための防壁。
彼女は代替品ではない。
カレンの母は、別にいる。
顔も声も曖昧になりかけた人。
そのかすかな記憶の残滓すらも現在の幸福で塗り潰してしまえば、自身の起源そのものが世界から抹消されてしまうような恐怖があった。
「なぜ、私ならできると思うの?」
「貴女はまだ、この世界に順応していないから」
痛みはない。
防御機構をすり抜け、長年ひた隠しにしてきた深淵へと到達している。
「何を――」
「絶えず違和感を持ちながら過ごしている」
「父に愛されること。母ではない女から、娘として愛されること。弟と妹がいること。毎朝、誰かの声で目を覚まし、帰れば明かりがついていること」
「黙りなさい」
「嫌ではない。むしろ大切に思っている。失いたくない。それなのに、ときどき考える。これは本当に自分の人生なのか、と」
「黙れ」
無数の黄金の鎖が、威嚇の音を立てて波打つ。
今度こそエルキドゥは、建物の基礎から周囲の大地一帯へと魔力回路を結合させている。個人の座標が特定できないのであれば、空間そのものを隔離して圧壊させる判断だ。
「それ以上、カレンの内側へ触れるな」
「僕にも君の言葉は分からない。何を知っているのか、どこまで見ているのかもね。でも、本人の許しなく傷へ名前を付ける行為が、救いではないことくらいは分かる」
「傷ではないわ」
カレンは、自身を庇うエルキドゥの背中を見つめる。
「この女の言うとおりよ」
「カレン?」
「腹が立つほど正確だわ」
自らの声でその事実を肯定した瞬間、世界のピントが狂ったように周囲の景色が退色していく。
食卓。
ソファ。
白野の工作。
立香のベビーベッド。
日常を構成していたピースの数々が、安っぽい舞台美術のように変質していく。
「全部、私のものよ」
それは侵入者への反論か、それとも崩れかける自己への暗示か。
「お父様も、継母も、この二人も。私の家族で、私の生活よ。違和感があるからといって、貴女に偽物と呼ばせるつもりはないわ」
「偽物なら捨てられる。でも、貴女は捨てられない。大切だからこそ、その違和を見ないふりをしてきた」
マリスはまた一歩、前へ出た。
「この世界を憎んでいない。だから飲まれない。愛しているのに馴染みきれない。だから、外から見ても手放さずにいられる」
「それで、私を選んだ?」
「そう」
殺意の網目の直前で、マリスの足取りが停止する。
カレンとの距離は、まだ数歩分残されている。
「私を拒み、自分の方法で世界を救ってもいい。家族へすべてを話し、彼らに任せてもいい。この部屋から一歩も出ず、終わりまで二人の手を握っていてもいい」
◇◇
「……貴女は、私が誰だと言うの?」
「カレン」
家族から、嫌というほど繰り返し呼ばれてきた名。
そのはずなのに、今の彼女の鼓膜には、異質な呪文のように響いた。
「――カレン・オルテンシア」
オルテンシア。
知らない文字列。
知らない呼称。
それなのに、遺伝子レベルで肉体がその名を知覚している。
「なに……?」
酸素が、肺へ届かない。
視界の端で、アビゲイルが必死の形相で何かを訴えかけている。エルキドゥもこちらを振り返っている。だが、その声は分厚い水底から響いてくるように遠く、意味を持つ言語として脳で処理できない。
網膜の裏側に、白い布の残像が焼き付く。
修道服。
自身の肩を重く覆い、肉体を戒めるように包み込む感触。
次いでフラッシュバックするのは、無数の傷痕。
皮膚に深く刻み込まれた、凄惨な痛み。歩みを進めるたびに骨がきしむ幻痛。ただ呼吸を繰り返すだけで、命が擦り減っていく絶望感。
知らない。
そんな記憶など、自分の中には存在しない。
カレンは、震える自身の両腕を見下ろした。
傷痕など、どこにもない。
家族と生活を共にし、幼い弟妹を抱き上げ、食卓で迷惑な継母と口論を繰り広げてきた、年相応の少女の手だ。
けれど、肌の上に、白い袖に覆われた痛々しい別人の腕が一瞬だけノイズのように重なり合った。
荒涼とした土地。
人の気配が絶えた教会。
窓辺に飾られた紫陽花。
誰一人として呼びに来ることのない、孤独な部屋。
父の広い背中。
決して、自分を振り返ろうとはしなかった男。
知っている。
違う。
知らない。
それでも、すべてが自身の魂の深淵から止めどなく溢れ出してくる。
「そんなの……知らない」
「私は言峰カレンよ」
「ええ」
「お父様の娘で、あの人の――」
継娘。
その単語が、喉に閊えて出てこない。
「白野と立香の姉よ」
「ええ」
「それ以外の名前なんてない」
「それも貴女よ。否定する必要はないわ」
「では、今のは何?」
「貴女が失った名」
「私は失っていない!」
マリスの声のトーンも、一段階低く落とされる。
「名は一つでなければならないと、誰が決めたの?」
綺礼は知っていたのだろうか。
真樹も。
自分が毎夜ベッドの中で抱え込んできた、自己の存在に対する空虚な違和感を。二人はすべてを把握しながら、口を閉ざしていたのだろうか。
疑念が芽生えた途端、それに反発するように別の記憶が蘇る。
高熱にうなされた夜、父は言葉を交わすこともなく、ただ一晩中ベッドの傍らに座り続けていた。
継母は自分のことのように狼狽し、何度も冷たいタオルを取り替え続けた。もう大丈夫だと突き放しても額に手を当て、翌朝の仕事を平然と休んだ。
あの不器用な二人が、カレンという存在を別人に作り替えるという目的のためだけに、心温まる家族劇を演じ続けているとは到底思えない。
少なくとも、彼らから向けられる今の愛情に偽りはない。
では、誰が切り離したのか。
なぜ、当事者である自分だけが蚊帳の外に置かれているのか。
「マリス・カルデアス。それは人の姿で呼ばれるための名」
無数の光点の軌道が幾重にも交差し、青く輝く球体の輪郭を構築していく。
大陸の形もない。海洋の青さもない。
ただ、人類の歴史と営みを記録する膨大な情報光だけが、球体の表面に浮かび上がっている。
「私の在り方を言葉にするなら――人理詐称天球」
「偽物の歴史を作るということ?」
「偽物かどうかを決めるのは、残った側よ」
「答えになっていないわ」
「なら、旅の中で確かめなさい。正しい人理とは何か。残るべき世界を誰が決めるのか。認められなかったものは、存在しなかったことになるのか」
青い天球の表面で、幾つもの光が明滅し、そして完全に消滅した。
一つ。
また一つ。
都市、国家、ひとつの時代。
具体的な事象は読み取れない。それでも、その光が失われるたびに、途方もない数の人々の命と営みが抹消されているという事実だけが、脳に直接流れ込んでくる。
青い天球の表面に、不吉な亀裂が走る。
同時に、カレンの右手に刻まれた令呪が熱を持った。
焼け付くような痛みが、腕を伝って神経を駆け上がる。
「マスター!」
アビゲイルの姿が、異形のそれへと変異しかける。
背後に鍵穴を模した不気味な光が展開し、金色の瞳の最奥に、狂気を孕んだ別の宇宙が覗く。
「開いては駄目」
カレンは、痛みを堪えながらアビゲイルの小さな手を強く握り締めた。
「でも……!」
「まだよ。貴女の扉を、この女への返事代わりに使わせない」
アビゲイルは悔しげに唇を噛む。
やがて背後の異空間の光が薄れ、元の年相応の少女の姿へと収束していく。
「……分かったわ、マスター」
「良い主従ね」
「貴女に褒められる筋合いはない」
マリスが、儀式の宣告のように一語ずつ紡ぐ。
「失われたものを探し、歪められた歴史を越え、七つの聖杯へ辿り着く。人が続く資格を、人の手で証明する探索」
青い天球の周囲の空間に、七つの眩い光が灯される。
「その名を、聖杯探索――グランド・オーダーと呼ぶ」
「選びなさい」
マリスが、ゆっくりと右手を差し出した。
「世界とともに滅ぶか」
天球の亀裂が、さらに深く、大きく広がっていく。
「世界存続のため、聖杯探索の旅へ出るか」
「我が継嗣」
人理詐称天球を名乗る女の周囲で、星々の光が祝福するように循環する。
「カレン・オルテンシア」
知らない名。
残酷に切り捨てられた名。
『言峰カレン』という現在の輪郭と、未だ同化しきれない異物の名。
「我が娘よ」
カレン・オルテンシア。
世界がまだ認めていないものを強引に認めさせるため、人理を巡る聖杯探索へと向かう者の名。
明確な答えは、まだ出せない。
けれど、後戻りのできない選択の刻は、すでに始まっていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は、言峰カレンが「カレン・オルテンシア」という失われた名と向き合う回となりました。
現在の家族も幸福も偽物ではありません。それでも、失われたものを失われたままにしてよいのか。
カレンがどのような答えを選ぶのか、今後も見届けていただければ嬉しいです。