九条零の不本意なる呪術回想録   作:あいあい

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初任務

 東京高専での生活が始まった。俺のスローライフという名の幻想は、朝日と共に無残に打ち砕かれた。

 

(……眠い。ここ最近睡眠が浅すぎる。というかこの前のあれは何なんだよ。五条に拉致され、夏油に重すぎる執着を植え付け、挙句の果てに「お前の身体を他人に明け渡すな」なんて、どこの独占欲の強いヒロインだよ俺は!)

 

 九条零は、鏡の前で自分の顔を見つめた。

 

 相変わらずの絶世の冷徹美。三白眼は鋭く、表情筋は死に絶え、内面のパニックなど微塵も感じさせない。だが、その背中は冷汗でぐっしょりと濡れていた。

 

「おっはよー、零! 今日は初任務だぜ。準備はいい?」

 

 部屋のドアを蹴破る勢いで入ってきたのは、白い髪の厄災、五条悟だ。その後ろには、昨日よりも幾分か表情が明るい──というか、どこか憑き物が落ちたような不気味な清々しさを纏った夏油傑が立っていた。

 

(……夏油くん、その目は何? 「私を救ってくれる救世主を見る目」はやめて。俺はただの、口の悪い一般人なんだよ!!)

 

「……五月蝿い。朝からその安っぽい呪力を撒き散らすな。不愉快だ」

 

(あああああ! 安っぽいってまた言った! 五条悟に対して! でも夏油くんが「ふふっ、相変わらずだね」みたいな顔で微笑んでるのがもっと怖い!!)

 

 

 

 俺たちが連行されたのは、奥多摩の山中にひっそりと佇む廃液処理場だった。

 

 不気味な静寂と、鼻を突く化学薬品の腐敗臭。そして、そこには確実に 一級に近い呪霊の気配が漂っていた。

 

「今回は零の実力を見せてもらうために、俺らは手を出さない。……っていう夜蛾のオッサンの命令」

 

 五条が、ニヤニヤしながら帳の外に腰を下ろす。夏油も、慈愛に満ちた(ように見える)瞳で俺を見送った。

 

「無理はしなくていいよ、九条くん。危なくなったらすぐに助けるから」

 

(助けて! 今すぐ助けて! 門を潜る前から足が震えてるんだよ!!)

 

 九条は内心で絶叫しながら、しかし足取りは悠然と、まるで王が領地を検分するかのような優雅さで処理場の中へと入っていった。

 

 処理場の深部。巨大なタンクの影から、それは現れた。

 

 無数の管が身体から突き出し、そこから黒い液体を滴らせる人型の呪霊。

 

(ヒッ、出た! 気持ち悪い! 吐きそう! なんで管がいっぱい付いてるの!?)

 

 感情知覚が捉えたのは、どす黒い虚無の色。

 

 相手に心がないのではない。あまりに巨大な飢えが、他の感情をすべて飲み込んでいるのだ。

 

 呪霊が動いた。

 

 物理的なスピードではない。管から噴射された黒い液体が空間を侵食し、俺の周囲の地面をドロドロに溶かしていく。

 

(うわあああ! 溶ける! 靴が溶ける! 逃げ場がない!!)

 

 九条はパニックになり、後退りしようとした。しかし、運悪く背後の錆びた鉄パイプに足が引っかかる。

 

「……ッ」

 

(転ぶ! 転んで死ぬ!!)

 

 俺は無様にひっくり返るのを防ぐため、反射的に身体を大きく捻り、空中に手を伸ばした。

 

 それが傍目には、液体が飛んでくる軌道をコンマ数秒単位で読み切り、重力を無視して回避した動作に見えた。

 

「……ぬるいな。その程度の『侵食』、俺の髪一筋さえ触れることは叶わん」

 

(嘘です! 今、ズボンの裾がちょっと焦げた気がする! 怖いよお!!)

 

 呪霊がさらに激昂し、全身の管から一斉に液体を弾丸のように放ってきた。

 

 全方位からの飽和攻撃。

 

(終わりだ。死んだ。神様、短い異世界生活をありがとうございました!!)

 

 俺は目を剥き、せめて直撃だけは避けようと、めちゃくちゃに右手を振り回した。

 

(あっち行けえええ!! ……と叫んだつもりが、出たのはこれだ)

 

「……断絶しろ」

 

 その瞬間。

 

 振り回した俺の右手が、たまたま壁から突き出していたメインの配管レバーに激突した。

 

 バキィッ! という破壊音と共に、配管内に溜まっていた高圧の洗浄水が、俺と呪霊の間にウォーターカーテンのように噴出した。

 

 ザァァァァァッ!! 

 

 呪霊が放った黒い液体は、高圧洗浄水によって一瞬で希釈され、無害な水となって地面に流れていく。

 

 さらに、破損した配管の破片が、洗浄水の圧力で弾丸のように飛び出し、呪霊の胸にある核を たまたま 正確に貫いた。

 

「ギャアアア……ッ!?」

 

 核を破壊された呪霊は、自身の放った液体の中に崩れ落ち、そのまま消滅した。

 

 静寂が戻る。

 

 俺は全身びしょ濡れになりながらも、震える手で髪をかき上げ、ポケットに手を突っ込んだ。

 

(実際には、心臓が口から飛び出しそうなのを抑えるためだ)

 

 外で見ていた五条と夏油が、信じられないものを見るような目で駆け寄ってくる。

 

「……零、お前、今何した? 洗浄水の圧力と、呪力の波長を完全に同調させて液体の結合を解いたのか……?」

 

 五条の六眼が、ありもしない高度な計算を俺の動きから読み取ろうとしていた。

 

「……あんな配管の破損まで計算に入れて、最小限の呪力で一級を……。九条くん、君は本当に、私たちの想像を遥かに超えているね」

 

 夏油の瞳には、もはや隠しようのない信仰に近い輝きが宿っていた。

 

(違うんだって!! 滑ってレバーに手が当たっただけなんだ!! 洗浄水が噴き出したのはただの事故なんだ!!)

 

 九条零は、内心で地面に頭を擦り付けて謝りたい衝動に駆られた。

 

 だが、外面は依然として、冷え切った処理場の中で立ち尽くす孤高の神のまま。

 

「……当然の結果だ。俺が動くほどのことでもなかったな。次があるなら、もう少し『マシな玩具』を用意しておけ」

 

(──神様、もう何も言いません。ただ、静かに豆腐が食べたいです……)

 

 高専の自室に戻った九条は、夏油から差し入れられた「手作りの温かいお茶(呪霊を食う苦痛を零に見抜かれたことで、お礼に持ってきたもの)」を、毒物を見るような目で眺めていた。

 

(……救済計画とか言ったけどさ。これ、俺が夏油に依存される側に回ってない!? 羂索より先に、俺の精神が持たないよ!!)

 

 

 

 一級呪霊をたまたま粉砕し、五条と夏油の信仰心(という名の勘違い)を極限まで高めてしまった翌日。俺は高専の医務室にあるパイプ椅子に、魂の抜けたような顔で座っていた。

 

(……もうやだ。帰りたい。昨日の処理場の爆発、今思い出しても心臓が止まりそう。なんで俺、レバーに当たっただけで、流体計算による呪力希釈とか言われてるの? 物理の成績、中の下だったよ俺!!)

 

 九条零は、内心でのたうち回りながらも、その視線は虚空を鋭く射抜いていた。

 

 そんな俺の目の前で、高専の制服を着た少女が気だるそうに煙草の煙を吐き出す。

 

「……へぇ。君が最強の二人を黙らせたっていう転校生? 噂通りの死人面だね」

 

 家入硝子。後に呪術界の貴重な回復要員となる、反転術式の使い手だ。

 

 彼女の放つ 感情の色 は、五条の蒼や夏油の黒とは違う、どこまでも冷めて乾いた 砂漠のような灰色だった。他人の生き死にを見すぎて、何事にも動じなくなった大人の冷笑。

 

(家入硝子……本物だ。まだあんまりクマはないな、やっぱり美人だ。でも怖い! その解剖医みたいな目で俺を見ないで!!)

 

「……死人面、か。お前のその澱んだ瞳よりは、マシな景色を見ているつもりだがな」

 

(ああああああ! 家入さんに対しても煽り全開かよ俺の口! 治療してもらえなくなるぞ!!)

 

 硝子は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにクスクスと肩を揺らした。

 

「あはは、面白いね君。なんでそんなに平然としてられるの? でもさ君、さっきから目線が動いてるよ」

 

(──ッ! 流石は医者! バレてる!!)

 

「……これは、高揚だ。お前のような裏方に、この戦闘の熱は理解できまい」

 

(違う! ただの不整脈レベルの恐怖なんだよ!! 熱なんてないよ、冷え性だよ俺!!)

 

 京都からの刺客

 

 その時、医務室のドアが控えめに、しかし確かな意志を持ってノックされた。

 

「失礼いたします。京都校一年、火篝美咲と申します。……九条零先生に、お取次ぎを」

 

 入ってきたのは、高専の制服をきっちりと着こなし、腰に朱塗りの刀を差した少女だった。凛とした佇まい、結い上げた黒髪。後から聞いたが、京都校の保守派に連なる名家の娘だそうだ。

 

(……誰? 原作にいないキャラだ。火篝……? 先生って呼んだ今!?)

 

 火篝美咲は、俺の姿を認めるなり、その場で深く、深く頭を下げた。

 

 彼女の放つ 感情の色 は、眩いばかりの純白の崇拝。

 

「禪院直哉様より伺っております。京都に、全ての術師の理を凌駕する孤高の天才が現れたと。……我が火篝家は、代々『視る』ことに長けた家系。先生のその、一切の無駄を削ぎ落とした呪力の揺らぎ……感服いたしました!」

 

(直哉、お前、京都で俺のことなんて触れ回ってるんだよ!! 凌駕してないよ! 滑って転んでるだけだよ!!)

 

「……直哉の飼い犬か。わざわざ東京まで、首輪を自慢しに来たのか?」

 

(止めてええええ! 彼女、めちゃくちゃ敬意を払ってくれてるのに!!)

 

 しかし、美咲は顔を上げると、その瞳を熱狂に潤ませていた。

 

「……厳しいお言葉。ですが、その飼い犬という蔑みさえ、私には福音に聞こえます! 先生、どうか私に、その世界を停滞させる瞳の極意をご教示ください!!」

 

(福音!? 駄目だ、こいつも直哉と同じで「言葉の裏を読みすぎる」タイプだ!!)

 

 宣戦布告と救済の誓い

 

「おーい、硝子。零はいる……って、誰だその女」

 

 五条と夏油が、ガヤガヤと医務室に入ってきた。

 

 夏油は、俺の隣に控える美咲を見て、微かに眉を寄せる。その瞳には、昨夜俺が刻み込んだ執着の残滓が、嫉妬のような色となって混ざり合っていた。

 

「九条くん。京都の人間とは、あまり関わらない方がいい。彼らの考え方は、君の自由な魂を縛るだけだ」

 

(夏油くん、君のその「俺だけが君を理解している」感、めちゃくちゃ怖いからね!?)

 

 俺は夏油の黒い澱 が、美咲の登場によってさらに濃くなるのを感じ取った。自然に椅子から立ち上がり、夏油の肩に(恐怖で震えるのを必死に抑えた)手を置いた。

 

「……言ったはずだ、夏油。お前の価値を決めるのはお前ではない、この俺だ。京都の羽虫が何を言おうと、お前のその『腐った内臓』を弄る権利は、俺にしかない」

 

(言い方あああああ!! 「お前の価値を決めるのは俺」って、完全に支配者の台詞じゃん! 夏油くんが「……ああ、分かっているよ、零」とか言っているのが一番のホラーだよ!!)

 

 五条が隣で「あーあ、傑が完全に零の毒に当てられてる。硝子、こいつの治療が必要なんじゃない?」とニヤニヤしている。

 

 硝子は煙草を灰皿に押し付けると、俺と夏油、そして心酔する美咲を見比べ、深いため息をついた。

 

「……やれやれ。東京高専に、とんでもない猛毒が紛れ込んだね」

 

(猛毒じゃない! 俺はただの、豆腐好きの転生者なんだよ!!)

 

 京都の崇拝者、東京の最強二人、そして冷めた視線の女医。

 

 九条零の周りには、本人の預かり知らぬところで、巨大な勘違いの渦が、羂索の影さえも飲み込もうとする勢いで形成され始めていた。

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