本戦開始まで、あと二時間ほど。
俺は立川のマンションへ向かうため、歩いていた。十二月の夕方の空気は冷たく、吐く息がうっすら白い。本戦は午後八時開始。それまでに立川の部屋でダイブの準備を整える必要があった。
商店街へ続く細い道に出たところで——
「皆月くん」
声をかけられた。
足を止めて振り向くと、見覚えのある少年が立っていた。線の細い体。柔らかそうな前髪。穏やかそうな顔立ち。
新川恭二。詩乃の友人で、彼女の元クラスメイト。俺が編入する前に学校を辞めて、現在は予備校に通っているらしい。GGOでもリアルでも何度か、顔を合わせたことがある人物。
「よう、新川か。久しぶりだな」
俺は短く返した。
恭二は、にこやかに笑っていた。
「久しぶり。あれ、どこに行くの? これからBoBなのに……」
「ちょっと野暮用でな。BoBの最中は、俺の保護者のとこからダイブしてんだよ」
「保護者のところ?」
「ああ。昨日の予選からな」
「……へぇー。ちなみにその人の家って?」
「ちょっと離れたとこ。それがどうした?」
「あ、いや」
恭二の笑みが、ほんの一瞬だけ硬くなった。
「ううん。気にしないで」
——残念だな。
そう聞こえたか、聞こえなかったか分からないくらいの呟きが、恭二の口から漏れたような気がした。
何かを取り繕うように、恭二は笑った。
「じゃあ、頑張ってね、皆月くん」
俺はこの際、ここしばらく感じていたことを、聞いてみることにした。
「なあ、新川」
「何?」
「お前さぁ、なんで俺のこと嫌いなの?」
その瞬間。
恭二の表情が、崩れた。
笑顔の仮面が、ぱりぱりと音を立てるみたいに、剥がれていく。下から出てきたのは——憎悪、と呼ぶべき何かだった。
「……気づいてたんだ」
恭二の声が、低くなった。
「まあ、なんとなく。敏感なんだよ、そういうのには」
俺は淡々と続けた。
「俺、お前になんかしたか? 会った回数なんざ、片手で足りるくらいだろ。なのに、その目だ。理由が分からねぇ」
恭二は、俺を見ていた。
その目には、もう、優しい友人の影はなかった。底の方に、ぐつぐつと煮えるような何かがあった。嫉妬。羨望。それらが煮詰まって変質した、もっと重い何か。
「……君にだけは」
恭二が、絞り出すように言った。
「君にだけは、絶対に言いたくないな」
「あ?」
「僕とは違う——『強い』君には」
その言葉を残して、恭二は歩き出した。
俺の脇を通り抜けていく。すれ違いざま、恭二はもう俺の顔を見なかった。
「じゃあね、皆月くん。精々、頑張って」
去っていく背中。
俺は、その背中をしばらく見つめていた。
「……」
『強い』、か。
朝田にも言われたな、とふと思う。
俺は、確かに強いのかもしれない。肉体的にも、精神的にも。相手がプロでなければ戦闘で負けることは無いだろうし、並大抵のことで折れる精神も持ち合わせていない。それを、確かに『強さ』と呼ぶのかもしれない。
でも——
(こんなもの、俺は欲しく無かったよ)
これは、あらゆるものと引き換えに身に着けてしまったものだから。
両親も、友も、子供らしい日常も、夜にぐっすり眠れる安らぎも、全部、引き換えに払って——その対価として、手に入ってしまったものだ。
俺自身が欲した強さじゃない。生き残るために、無理やり身体に染み込ませた強さ。きっと、本来は手に入れる必要の無かったもの。
「……帰るか」
俺は、立川のマンションに向かって、再び歩き出した。
新川恭二の、狂気の一部を見なかったことにしながら。
◇
ここからシノン視点。
第三回BoB本戦の開始、一時間ほど前。
総督府地下一階の酒場エリアの一角のテーブルに、私とキリトはいた。たまたまエントリー時間が被ったので、そのまま流れで本戦の説明をすることになった。
「本戦は、三十人による完全サバイバル戦よ」
私は待機エリアの巨大なマップ表示を指しながら説明していた。
「全員が広大なフィールドに散らばってスタート。最後の一人になるまで戦う。十五分ごとに全員の位置がスキャンされて、マップに表示される。隠れ続けることはできないってわけ」
「なるほど。隠れてやり過ごすのは無理か」
「そういうこと。位置がバレるから、結局はどこかで戦うしかない」
あらかた説明を終えて、私は気になっていたことを質問してみる。
「ねえ、あなたとアルバって、どういう知り合いなのよ?」
それにキリトが苦い顔をする。
「うーん……。どう言えばいいのかなぁ……。この大会に出ることになって、リアルの知り合いの紹介で会って、って感じかな?」
言葉を選びながら、何かを隠しながら答えるキリト。
「ふぅん……」
「シノンは?アルバとはどうやって知り合ったんだ?」
その問いに、私は少しだけ考える。奇跡のような偶然が重なって生まれた関係。あんな偶然まで、説明する必要は無いだろう。端的な事のみを答えた。
「……学校のクラスメイトよ」
「クラスメイト?」
「ええ。たまたま、お互いGGOをやってる事がわかって……まあ、そこからなんだかんだ、よく一緒にいるわね」
キリトは、その言葉と私の顔を見て、少しだけ口の端を上げた。
「へぇー。それで——告白はシノンから?」
「……は?」
私は、この男は何を言っているのだと、ぽかんとした。
キリトが、あれ?といった感じで首を傾げる。その動作がアバターの容姿も相まってやけに可愛らしい。
「え?だって、付き合ってるんだろ?二人は」
その言葉に、私の顔が一瞬で熱を持ったのが分かった。きっと周りから見たら、真っ赤だろう。
「な……な……」
「違うのか?」
「ち……違うわよ!アイツとはそんな関係じゃない!」
慌てて否定する私を見て、キリトはからかうように言った。
「でも、シノンは——好きなんだろ?」
「なぁ……っ!?」
「いや、昨日から見てた感じ、そうなんだろうなーって」
先程よりも顔に熱を持ったのが分かる。反論の言葉が、一切出てこない。
「リアルの彼も、ちょっと怖いけどいい人だしな。好きになるのも不思議じゃないよな……」
それ以上は、恥ずかしくて聞いていられなかった。私はソファから身を乗り出すと、人差し指でキリトの胸を、トン、と一度押した。
「……アンタ……アイツには、絶対に言わないでよ……?」
声に、本気の念押しが籠もっていた。
それに、やや驚きながらキリトが、面白そうに笑って答えた。
「勿論。そんな野暮なマネはしないさ」
その言葉を言うキリトの顔を、私はじっと見た。……まあ多分、本当だろう。嘘をつくようなやつには、見えない。私は観念して、ソファに座り直した。
少しの沈黙で気持ちを落ち着かせたあと、私は小さな声でキリトに聞いた。
「……私って、そんなに分かりやすい?」
私は、自分が彼に対して抱いている感情を、ずっと誰にも見せていないつもりだった。学校でも、GGOでも。それを、出会ってまだ二日目のこの黒髪の美少女風の少年に、あっさり見抜かれた。
「まあ、それなりに」
キリトが、笑いながら答えた。
その言葉に、私はまた、恥ずかしくなった。両手で、頬を軽く押さえる。そんなに、分かりやすいのか。でも……。
多分、暁本人だけは、まだ気づいていない。気づいていないのか、気づかないフリをしているのか。たぶん前者だ。あの男は、こういうことには、絶望的に鈍い。
(……まあ、それでもいいけど)
私は、心の中でそう思った。
今すぐ、どうこうしたいわけじゃない。
ただ——この先も、彼の隣にいたい。それだけは、確かだった。
先程、恭二の告白を断った時に、自分の口から初めて出てきた「好き」という言葉。あれを口にして以来、自分の中で、この感情に名前がついた気がしていた。名前がつくと、ごまかせなくなる。だから、見抜かれるのも、もう仕方ないのかもしれない。
そこへ——
「何の話だよ?」
背後から、声がした。
「んひゃぁ!」
私は今まで上げたことのないような、飛び上がるような声を上げた。そして、その聞き慣れた声の主の方を振り向いた。
「うわ、びっくりした。急に変な声出すなよシノン」
立っていたのは、アルバだった。いつの間にか、ログインしていたらしい。
「ア、アンタが急に話しかけるからでしょ!」
「えぇ〜、理不尽」
「うるさい!」
フン!と、そっぽを向く。
「何の話だったんだよ」
何がなんだか分かっていないアルバが、横のキリトに聞く。
キリトは、首を振った。
それから、呆れたような顔で、アルバに言った。
「俺が言えたことじゃ無いかもしれないけど、アルバってかなりニブいんだな」
「あぁ?」
横目で見る彼の顔は、本当に困惑していて。そんな彼を見て、私は可笑しくなって、ふっと吹き出してしまった。
「……何だよお前ら」
困惑したままのアルバが、私とキリトの顔を交互に見比べる。それがまた可笑しくて、私は笑い続けた。
◇
しばらく落ち着いた後、アルバが私の隣に座って、質問をしてくる。
「そうだ、シノン。お前、前回のBoBの出場者の情報集めてたよな?」
その言葉に、私は頷く。
「ええ。それがどうしたの?」
そう返答すると、アルバはウインドウを開き、この大会の名簿を見せてくる。
「こん中で初出場のやつ、何人いる?」
その質問の意図が分からなかった。そんな事を聞いて何になるのか。
「……はあ? そんな事聞いてどうするのよ?」
私がそう返すと、正面に座るキリトが口を開く。
「シノン、俺からも頼む。教えてくれないか?」
二人の真剣な顔。何かがある、と私は察した。
「……別に構わないけど」
私は名簿を覗き込んだ。
「えっと……、もうBoBも三回目だから、ほとんどの人は顔見知りかな。まったく初めてっていうのは……噂の狼さんと、どっかの光剣使いのネカマを除くと、四人ね」
「俺はネカマじゃないからな」
「その見た目じゃ説得力皆無だからなお前。で、誰だ?」
「ん……《銃士X》と《ペイルライダー》、それに……これは《スティーブン》かな。それと……」
もう一つ、アルファベットの名前をなぞる。
「《soldato》……。そるだと?かな」
私がそう口にすると、アルバの動きが、止まった。
ほんの一瞬。
普段の彼なら、見逃すような短い硬直。でも、ずっと隣で観察してきた私には、はっきり分かった。何かが、彼の中で引っかかった。
「……《ソルダート》だな」
アルバが、訂正してくる。声に、いつもより少しだけ重みがある。
「イタリア語で、軍人や軍隊を表す言葉だ」
それに、キリトと私が「へぇー」と感嘆の声を上げる。そして、私はいつかの非常階段での会話を思い出した。
「そういえば、あなたの名前もイタリア語だったもんね」
「まあな」
——アルバの目が、ほんの一瞬、遠くを見た気がした。
彼の目が時折こんな表情をする時、そこには彼の過去の誰かがいるのだろう、と私は感じていた。
アルバがキリトの方を向き、聞く。
「聞き覚えあるやつは?」
その質問にキリトは、無言で首を振る。
「そうか……」
二人の顔を、私は交互に見る。何がなんだか分からない私はアルバに聞く。
「ちょっと、いい加減説明してよね。この人達が何なのよ?」
そう聞くと、アルバは私の方を見て、何かを考えている様子だった。何かを葛藤している様子。
だが、口を開いたのはアルバではなく、キリトだった。
「昔、同じVRMMOをやってたやつかもしれないんだ。その名前のどれかが、きっとそいつだ」
それに、私は思い出したように質問する。
「……そういえば、一回戦の後、様子が変だったわね。仲違いした友達だったの?」
キリトがふるふると首を振る。
「いや違う。俺と奴は敵だった。本気で殺し合いをした、敵なんだ」
——殺し合い。
その言葉に、私の体が、ぴくりと反応した。
過去に、人を撃ち殺した。母を守るために。あの郵便局で、私が撃った弾丸によって、強盗の体が崩れた瞬間。——あの感触は、今でも私の手の中に残っている。
殺し合いという言葉が、軽い意味で使われるはずがないことを、私は誰よりも知っていた。
「俺は、ソイツの名前を思い出せない。思い出さなきゃいけないのに……」
「殺し合いって……そんな大げさな……」
そう言って、隣に座るアルバの顔を見る。
だが、その顔を見て、私は驚いた。
あまりにも、真剣だった。
その表情に怯んでいると、キリトが続ける。
「互いの命を懸けた、本当の殺し合いだ」
キリトの声は、震えていなかった。むしろ、覚悟を持って、紡がれていた。
「奴は……奴の属した集団は、絶対に許されないことをしたんだ。和解は有り得なかった。剣で決着をつけるしかなかった。それ自体を後悔してはいない。でも……俺は、負うべき責任から眼を逸らし続けてきた。自分の行いの意味を考えようともせず、無理矢理に忘れて、今日まで来てしまった……」
「だから、もう逃げることは許されない。今度こそ、正面から向き合わなきゃいけないんだ」
——命を懸けた、本当の殺し合い。
そんなもの、冗談だと思った。
だがキリトの表情は、冗談を言っているふうには見えなかった。だって、その顔には見覚えがあったから。
過去に囚われた、詩乃の表情そのものだったから。
私が何も言えないでいると、アルバがゆっくりと喋りだした。
「——『その銃の弾丸が、現実世界のプレイヤーを殺すとしたら、その引き金を君は引けるか』」
その言葉に、キリトが息を呑んだのが分かった。
アルバが、キリトをまっすぐ見据えながら言う。
「あの時、俺は『引ける』と言った。それは変わらねぇよ。だが——お前があの質問を、俺じゃなくて、自分自身に対しても投げてたんだろうなってのは、今になって思う」
「……」
「『あの世界』で、随分と重たいもんを背負っちまったんだな。お前は」
それにキリトが、哀しげな微笑を浮かべながら答える。
「……そうかもしれないな」
そう呟いた後、キリトはこちらを向き、謝罪してきた。
「すまない。変なことを言った。要は昔の因縁があるっていうだけの話なんだ」
それに、私は思わず呟いてしまっていた。
今までの二人の会話から推測できたこと。ゲームの中での、本当の命を懸けた殺し合い。……彼は、きっと。
「キリト……あなたはもしかして、《あのゲーム》の中に……」
その言葉にキリトの目が少し見開かれ、肩がピクリと跳ねた。その仕草に、私は私の推測が間違っていないことを確信した。
《ソードアート・オンライン》。
一昨年から去年にかけて、一万人もの意識をゲーム世界に閉じ込め、そのうち実に四千人の命を奪ったかの呪われたタイトル。
そこまで喋って、私は口を閉ざす。そして、キリトに謝罪する。
「……ごめん。訊いちゃいけないことだったね」
「いや……いいんだ」
ふと、アルバが口を開いた。
「……そろそろ移動しようぜ」
そう言って立ち上がるアルバ。それに無言のまま、私とキリトは続いた。そして、エレベーターで地下に降りる。
その中で、私は考えていたことを喋る。
「……あなた達二人に、何か事情があるのは分かったわ」
私の方を、二人が向く。構わず私は続ける。
「きっと、私には話すつもりもないことも分かってる。だから、私から、あなた達に言えることは一つだけ」
一つ間を置いて続ける。
「——全力で、戦いましょう。それだけよ」
私のその言葉に、二人は頷いた。
アルバに、今日の夕方の事を確認する。
「アルバ、約束覚えてるわよね?」
「……ああ。もちろん」
「そ。それならいいの。絶対にあなたを倒して見せるから、覚悟しなさい」
ビッと、アルバを指差して、なるべく不敵な笑みを浮かべながら言う。アルバはパチパチと瞬きしたあと、ニッと笑って返してきた。
「楽しみにさせてもらうわ。俺の初デスを奪い取ってみろよ?」
「上等!」
◇
待機エリアの一角にて。
二つの影があった。
人気のない通路の奥。普段はプレイヤーが立ち寄らない場所。そこに、フードを目深に被った男と、灰色のマントを羽織った男が、立っていた。
「……で?計画は多少変更か?」
フードの男が、低い声で聞いた。少しだけ、訛りのある日本語。
灰色のマントの男は、頷いた。
「……《白狼》は、殺せない。それ以外の、奴らを、狙う」
抑揚のない、しゃがれた声。あの予選の後、キリトに声をかけた赤眼の男のものだった。
「残念だな。メインを逃しちまうとは」
フードの男が肩をすくめた。
「アンタは、《白狼》の、足止めだ。あの女を、狙うのに、奴は、邪魔だ」
「いいだろう。契約分の仕事はしよう」
フードの男が踵を返した。
灰色のマントの男も、その場を去ろうとして——ふと、足を止めた。
そして、誰にともなく、呟いた。
「……さて。あの時の日本人のガキが生きていたとは驚きだ」
声の低さに、わずかに笑みが混じった。
「思いがけない所で会うものだな。キョウ」
その名前を口にした瞬間、男のフードの下で、口の端が——歪んだ。
それは、再会を喜ぶ笑みではなかった。獲物を見つけた、狩人の笑みだった。
そして、その笑みを浮かべたまま待機エリアの奥に、姿を消した。
第三回BoB本戦開始まで、あと——三十分。
最後の男はアリシゼーション編まで見据えた展開を予定して、ここで登場させてみました。結構無理矢理かもしれませんが、なんとか書ききろうと思います。