海沿いの道を、旅人が進んでいた。
旅人はモトラド(注、二輪車。空を飛ばないものだけを指す)に乗っていた。
「ねえキノ、次の国が見えるよ」
モトラドのエルメスにそう声を掛けられて、旅人のキノは頷いてから少しだけ速度を落とした。丘の上の街道から見える青い海面が、午後の日差しを受けて光っている。
その海を背にして、白い城壁の国があった。エルメスが言った。
「きれいな国だね」
言われたキノは、ハンドルを握る手の力を少し緩めた。
エルメスは続けて言った。
「城壁が低いね」
「うん」
「無防備っていうか、あんまり気にしてない感じだね」
「そうだね」
二人は舗装された道をまっすぐに進み、やがて入国ゲートに着いた。
門番は一人だけだった。武器は腰に下げた小さなナイフだけで、パースエイダー(注、銃器。この場合は拳銃)の類は持っていなかった。門番はキノの腰のパースエイダーと、背中に背負ったもう一丁を見て少しだけ目を丸くしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「旅人さんですか。ようこそ。入国の目的は?」
「旅をしています。三日間、滞在させてもらえますか」
「ええ、もちろん。歓迎しますよ」
入国手続きは簡素なものだった。
書類に名前と滞在日数を書き込むだけで、荷物の検査もない。パースエイダーの携帯についても、門番は何も尋ねなかった。
城壁の内側に入ると、石畳の道が続いていた。通りに面した家々は白壁に赤い屋根で統一されていて、花壇には色とりどりの花が植えられている。すれ違う人々は皆穏やかな表情をしていて、キノに気がつくと軽く手を振ったり、会釈をしたりした。
「感じのいい国だね」
キノはゆっくりとエルメスを走らせながら、通りを眺めていた。
しばらく進むと、一人の女性がキノの前に歩み出てきた。三十代くらいだろうか。きちんとした身なりで、胸元に何かの紋章が入ったバッジをつけている。
「旅人さんですね? 私、この国の案内人をしております。よろしければ国をご案内しますが、いかがですか?」
「お願いします」
キノはエルメスを降りて、エルメスを押しながら女性と並んで歩き始めた。
案内人の女性はまず中央広場に連れていってくれた。広場の真ん中には大きな噴水があり、その中央に何かの生き物を象った石像が立っていた。長い首に大きな体、四本の脚とひれのような尾を持つ奇妙な姿だった。
「なんだろうね、これ。デンデラ竜かな?」
「……首長竜?」
「そう、それ」
エルメスとキノが見上げていると、石像について女性が説明し始めた。
「これは『守護獣』様の像です」
「……守護獣?」
キノが訊ねると、女性は誇らしげに答えた。
「ええ。私たちの国を守ってくださっている、大切な存在です。この国の海に棲んでいらっしゃるんですよ」
女性はそう言って、海の方角に目を向けた。広場から続く大通りの先に、きらきらと光る海が覗いていた。
「守護獣様は遥か昔からこの海にいらっしゃって、この国を脅かすものが現れると海から出てきて追い払ってくださるんです。ですから、」
と、ここで女性は言葉を区切った。そして力を込めて答える。
「この国には軍隊がありません」
「軍隊がないの?」
エルメスの問いに、女性は胸を張った。
「はい。必要がないんです。守護獣様がいらっしゃいますから。私たちは平和を愛する国です。他の国のように武器や兵隊に頼る必要がないということが、私たちの一番の誇りなんですよ」
女性はにこにこと笑いながら、広場の周りを歩き始めた。建物の壁にも、あちこちに守護獣を描いた絵やレリーフが見られた。店の看板に守護獣の意匠が使われていたり、子供たちが守護獣を模したソフビ人形で遊んでいたりもした。
女性は嬉しそうに言った。
「みんな、守護獣様が大好きなんです。この辺りの海のどこかに、守護獣様はいらっしゃいます。ときどき漁師さんが遠くにお姿を見ることがあるそうですよ」
「実際に見たことがある人がいるんですか?」
キノが訊ねると、女性は「もちろんですとも!」と頷いた。
「10年前に、攻めてきた敵の艦隊を一夜にして沈めてくださったという記録が残っています。それ以来、どの国もこの国を攻めようとはしません。守護獣様の力を知っていますから……ところで、」
と、女性は声のトーンを少し変えた。
「旅人さんは、この先の隣の国からいらしたんですか?」
「いえ。反対側の方から」
女性からの質問にキノが首を振って答えると、女性はどこかほっとした様子で息をついた。
「ああ、そうですか……それならいいのですが」
「……なにかあるんですか?」
キノの疑問に、女性は眉をひそめた。
「隣の国は……どう言えばいいのかしら……ちょっと困った国なんです」
「困った国?」
「ええ、軍隊を持っているんです。しかもかなり大がかりな。信じられます? この時代に、まだ軍事力に頼っているなんて!」
女性は心底呆れたというように肩をすくめて首を振った。
「まったく、野蛮で遅れた国ですわ。私たちは守護獣様のおかげで、そんな野蛮な戦争に頼らずに済んでいるの。隣の国みたいに、血なまぐさい争いなんて必要ないんです」
「…………。」
キノは黙って海を見ていた。青い水面は穏やかで、守護獣の影はどこにも見えなかった。
しばらくしてから女性に振り返って、キノは言った。
「次はどこに案内してくださいますか」
「ええ、もちろん。この国の自慢はまだまだたくさんありますよ……」
女性は再び満面の笑みを浮かべて歩き始めた。キノとエルメスはその後ろを、ゆっくりとついていった。
案内人の女性は、次に港を見せてくれるという。
「この国の魚介料理は絶品なんですよ。旅人さんにもぜひ召し上がっていただきたくて」
「料理……」
キノの歩みが、ほんの少しだけ速くなった。
「おいしいんですか?」
「ええ、もちろん。新鮮なお魚を使った煮込み料理が名物で、パンにつけて食べるんですけれど……」
「行きましょう」
キノが即答した。案内人の女性は少し驚いた顔をしたが、嬉しそうに笑った。
「まあ、ぜひぜひ! 港の近くにおいしいお店があるんです!」
女性が港へ続く坂道を指さして、こちらですよ、と言いかけたときだった。
「……たのむ、私の話を聞いてくれ!」
そんな怒鳴り声が聞こえたかと思うと、横道から一人の男が飛び出してきた。
白髪交じりの髪は乱れ、服は薄汚れていた。目は血走っていて、息を荒くしている。年齢は五十代くらいだろうか。痩せ衰えた体つきに不釣り合いなほどの必死さで、男はキノたちの前に立ちはだかった。
案内人の女性が「きゃっ」と短い悲鳴を上げて、キノの後ろに隠れた。通りを歩いていた人々が足を止め、こちらを見ている。
キノは腰のパースエイダーに手を伸ばしかけたが、すぐにやめた。男は武器を持っていなかった。手に握っているのは、数枚の紙束だけだ。
男はキノを見た。見た、というより、縋りつくような目でキノを捉えた。
「あんた、旅人だろう。外の人間だろう」
「はい」
男の声は震えていた。怒りなのか、あるいは疲弊しきった末なのか、キノには分からなかったがとりあえず返事を返すと、男は話を始めた。
「なら、聞いてくれ。この国の人間は誰も聞いてくれないんだ!」
「何をですか?」
静かに訊ねるキノに、男は必死の形相で名乗った。
「私は海洋生物の学者だ。三十年、この海を研究してきた。守護獣の……あの生き物の生態を、誰よりも調べてきた。そしてわかったんだ」
「なにを?」
「守護獣が、休眠期に入ろうとしている」
「休眠期?」
エルメスの言葉に、男は「ああ、そうだ」と応えた。
「あの生き物には周期がある。活動期と休眠期だ。20年前は年5回だった出現が、一昨年前から年1回しかなかったんだ」
続いて男は、手に持った紙束を突き出した。紙束にはびっしりと数字やグラフが書き込まれていた。
「文献を調べれば分かる、守護獣の休眠は過去にも何度かあったことだ。だが、この国の人間はそんな記録には興味がないんだ。守護獣様は永遠に私たちを守ってくださる、そう信じ込んでいる」
男は唇を噛んだ。
「私は一年前から警告してきた。論文を書いた。大学に報告書を出した。議会にも陳情した。だが……」
「誰も聞かなかった?」
エルメスの言葉に、男は頷いた。
「最初は笑われた。次は無視された。そのうち、不安を煽る危険人物だと言われるようになった。大学も追い出された。研究室も取り上げられた」
男の声が大きくなった。
「このまま守護獣が眠りについたら、この国は丸裸になるんだ! 軍隊もない、城壁も低い、武器もろくにない。もし隣国が、いや、どこの国でもいい、敵から攻めこまれたら我が国は何もできない。何一つ出来ないんだ!……」
男がさらに一歩キノたちに詰め寄ろうとしたそのとき、横から数人の男たちが駆けつけてきた。制服を着ている。警察だろう、とキノは思った。
「またあんたか!」
「やめなさい、旅人さんに迷惑でしょう!」
警察官たちは手慣れた様子で男を取り囲んだ。取り押さえられながらも、男は必死にもがいていた。
「聞いてくれ、データを見てくれ! 海水温の変化、守護獣の出現頻度の推移、すべて記録がある! あと数年で、いや、もっと早いかもしれないんだ!」
紙束が地面に散らばった。グラフの描かれた紙が、潮風に煽られて一枚、キノの足元まで滑ってきた。
キノはそれを拾い上げて、しばらく眺めた。折れ線グラフだった。横軸に年、縦軸に数値。右肩下がりの線が、ここ数年で急激に落ち込んでいる。
「旅人さん、頼む!」
男は警察官に両腕を掴まれながら、なお叫んだ。
「どうか旅人さんからも、この国の人間に説明してやってくれ! 守護獣の守りは永遠じゃない、この国の平和は絶対じゃないんだ……!」
男の声は遠ざかっていった。通りの角を曲がって、やがて聞こえなくなった。
しばらくの沈黙があった。散らばった紙を、風が一枚ずつ運んでいく。通りの人々は、何事もなかったかのように歩き始めていた。
「……申し訳ありません、旅人さん」
案内人の女性が、キノの横に戻ってきた。表情はすでに落ち着いている。申し訳なさそうではあったが、深刻さはなかった。
「驚かせてしまいましたね。あの人は元々は立派な学者さんだったんですけれど、少しおかしくなってしまって。守護獣様がいなくなるだとか、国が滅びるだとか、変なことを言い回っているんです」
「変なこと、ですか」
キノの言葉に、女性は答えた。
「ええ。だって、守護獣様はずっとこの海にいらっしゃるんですよ? 何百年も前から。それが急に眠ってしまうなんて、ねえ……それに、」
女性は海の方を見て、にこやかに笑った。
「仮に――本当に仮にですけれど――守護獣様がしばらくお休みになったとして。だからって、この国に攻め込む国なんてありませんわ。だって、私たちはこんなにも平和を愛しているんですもの。わざわざ攻めてくる理由なんてないでしょう?」
それに、と女性は言った。
「これまでだって攻め込まれなかったじゃありませんか。守護獣様がいらっしゃることは関係なく、この国はずっと平和だったんです。これからもきっとそうですわ」
女性はすっかり安心した顔で、再び歩き始めた。
「さあ、港に行きましょう。嫌なものを見せてしまいましたから、おいしいものでも食べて忘れてくださいな」
女性が進んでゆく後ろで、キノは足元の紙をもう一度見た。
それから海を見た。やはり守護獣の姿は見えなかった。
三日後の朝、キノは国を出た。
門番は見送りに出てきて、「また来てくださいね」と手を振った。案内人の女性も来ていて、「土産に」と干し魚を包んでくれた。
「魚介の煮込み、おいしかったでしょう?」
「はい、とても」
キノが素直に答えると、女性は微笑みながら言った。
「守護獣様のおかげで海が豊かなんですよ。きっと守護獣様は、おいしいお魚が採れるようにしてくださっているんです」
「そうですね」
国を出た後、キノはエルメスのエンジンをかけ、白い城壁が小さくなるまで走った。道は海沿いに続いていて、左手に青い海、右手に低い草地が広がっている。潮の匂いが風に乗って流れてきた。
エルメスが言った。
「いい国だったね」
「うん。ごはんがおいしかった」
「感想、それだけ?」
「それだけ」
海沿いの道をしばらく走った頃、前方の空に薄く砂埃が上がっているのが見えた。
前方からやってくる気配で、キノはエルメスの速度を落とした。風に乗って、規則的な重い音が届いてくる。それが大勢の軍靴と車輪の音だと気がついた頃、道の向こうから隊列の先頭が見えてきた。
「軍隊の行軍だね」
エルメスの言うとおり、長い隊列だった。歩兵が縦列で歩き、その間を装甲車が何台も連なっている。荷馬車には木箱が山積みにされていて、さらに黒い布がかけられていた。載せているのは弾薬か、あるいは糧食か。兵士たちの数はざっと見ただけで数百はいるように見えた。
キノはエルメスを道の端に寄せて停め、隊列をやり過ごそうとした。
「止まれ!」
声がしたかと思うと、隊列の中から一頭の馬が駆けてきた。
馬に乗って現れたのは、立派な軍服に身を包んだ壮年の男だった。肩章と胸の勲章が日差しを受けて光っている。
指揮官の男はキノの前で馬を止め、上から見下ろした。
「旅人か。どこから来た」
「あちらの方から」
キノは来た方角を親指で示した。指揮官が訊ねる。
「あの国から来たのか」
「三日間、滞在していました」
キノの答えに、指揮官の目が細くなった。
「あの国は旅の人間にも愛想よくしていたか」
「はい。歓迎していただきました」
「そうか。愛想のいい国だ。旅人に干し魚でも持たせたか?」
「…………。」
キノが答えないでいると、指揮官は「やはりそうか」と忌々しげに言った。
「あの国の人間はいつもそうだ。よそ者には親切で、にこにこしていて、『私たちは平和を愛しています』と言う」
指揮官はしばらくキノを眺めた。それから、ふっと鼻で小さく笑った。
「ちょうどいい。あの国に滞在していたのなら、内情を少しは知っているだろう。教えてもらいたいことがある」
「お答えできることでしたら」
キノの言葉を受けて、指揮官は馬から降りた。背が高い。キノは見上げる形になった。
指揮官は言った。
「我々は隣国の軍だ。これから、あの国に向かう」
「向かう、というのは」
「攻め込むのだ。あの国は、怪獣を操っている危険な国だからな」
「危険な国?」
キノが聞き返すと、指揮官は静かに、しかし確信を持って答えた。
「ああ。あの国の人間は怪獣を『守護獣』と呼んで崇めているそうだが、近隣の我々から見れば巨大な生物兵器を飼っているようなものだ。10年前には我が国の艦隊を全滅させたこともある。あの国の連中は自分たちのことを平和主義だと思っているらしいが、あんな恐ろしい怪獣を操っておいてどこが平和主義なものか」
「…………。」
キノは答えなかった。指揮官は海の方を一瞬見てから、ゆっくり続けた。
「我が国の国民は長い間、あの怪獣の脅威に怯えてきた。いつあれがこちらに向かってくるか分からない。奴らの『守護獣』が、我が国に牙を剥かないという保証がどこにある?」
指揮官は腰に手を当て、整然と進む兵士たちの隊列を誇らしげに眺めた。
「だが、心配は要らん。我が軍は精強だ。練度も装備も、この一帯では随一と自負している。たとえ相手が巨大な怪獣であっても、近代兵器を用いれば勝機はある。脅威を排除し、この地域全体の安全と平和を確保する。それが我が軍の任務だ。ところで旅人よ」
と、指揮官はキノに訊ねた。
「あの国に軍隊はあったか?」
「いいえ」
「城壁の高さはどうだったか?」
「低かったです」
「うむ、そうか」
指揮官は満足そうに頷いた。
「では、邪魔をしたな。君はこのまま先に進むといい」
「ありがとうございます」
キノが頭を下げると、指揮官は馬に跨がりながら答えた。
「この辺りは間もなく戦場になる。巻き込まれたくなければ、急いだ方がいい」
指揮官が隊列に戻ったあとも、隊列は続いていた。
キノはエルメスを道の脇に停めたまま、兵士たちが通り過ぎるのを待った。海側の道の端で、波の音と軍靴の音が交互に聞こえた。
兵士たちの顔が、すぐ近くを通り過ぎていく。若い顔が多かった。
「ねえ、兵隊さんたち」
エルメスが、近くを歩いていた何人かの兵士に声をかけた。
兵士たちは驚いた顔をしたが、すぐに物珍しそうな顔になった。喋るモトラドを見るのは初めてなのだろう。指揮官はもう隊列の先頭で、こちらは見えていない。
「これから戦争しに行くの?」
エルメスに訊かれて、一人の若い兵士が苦笑した。
「……まあ、そうだな」
「あんまり嬉しそうじゃないね」
エルメスの言葉に、もう一人の兵士が小声で答えた。
「嬉しいわけないだろ。好きで戦争する奴がどこにいる」
「じゃあ、なんで行くの?」
エルメスの問いに、兵士たちは顔を見合わせた。
最初の兵士が、肩をすくめた。
「皆が怖がってるんだよ。あの怪獣が怖いって、みんな言ってる。政治家も、国民も、テレビでも新聞でも、毎日のように『あの怪獣がいる限り安心して暮らせない』って言っている」
別の兵士が言った。
「俺たちだって戦争は嫌さ。でも、国民が戦うように望んでいるんだから、仕方ないだろ」
「そうさ、仕方ないさ……」
「おい、無駄口を叩いてないで歩け!」
後ろから怒鳴り声が飛んできて、兵士たちは慌てて歩調を速めた。最後に一人が振り返って、キノとエルメスに小さく手を振った。
隊列が通り過ぎるまで、しばらくかかった。最後の荷馬車が道の曲がり角を過ぎて見えなくなると、あたりは急に静かになった。踏み荒らされた道と、波の音だけが残った。
「……行っちゃったね」
しばらくしてから、キノはエルメスのエンジンをかけた。
「行こう」
「どっちに?」
「前に」
海沿いの道は続いていた。
右手の草地が次第に広がり、道は海岸線に沿って緩やかに曲がっている。午後の日差しが海面に反射して、無数の光の粒が揺れていた。風は穏やかで、エルメスのエンジン音と波の音だけが聞こえた。
キノが黙ってエルメスを走らせていると、不意にエルメスが言った。
「ねえ、キノ!」
「なに」
「海の方、音がするよ!」
「音?」
キノはちらりと海を見て、エルメスのブレーキをかけて停めた。
海を見ると、海面が盛り上がっていた。最初はゆるやかな波のように見えたが、それは波ではなかった。水が持ち上がり、白い飛沫が上がり、海の中から“何か”が現れた。
長い首だった。
海面から伸びた首は、そのまま空へ向かってどこまでも伸びていくように見えた。水が滝のように流れ落ち、濡れた表皮が太陽の光を鈍く反射する。
やがて、胴体が現れた。広場の石像が子供の玩具に見えるような、とてつもない巨体が海から身を起こしていく。四本の脚が海面を掻き、ひれのような尾が水面を叩くと、大きなうねりが岸に向かって押し寄せてきた。
波が道まで届き、その飛沫でキノのブーツが濡れた。
首長竜に似た怪獣は、その長い長い首をゆっくりともたげた。
ぶおおん、と低い音が聞こえた。怪獣の鳴き声なのか、呼吸なのか分からない。ただ空気そのものが振動するような重い音が、キノの腹の底に響いた。
キノは動かなかった。パースエイダーに手をかけることも、エルメスのエンジンをかけることもせず、ただ黙って怪獣を見つめていた。
怪獣はキノの方を見ないまま、その巨大な頭がゆっくりと向きを変える。
キノが来た方角……白い城壁の、あの国の方へ。
ぶおおん。再び唸りを挙げながら、怪獣は海の中を進み始めた。脚が海底を踏むたびに水面が大きく揺れ、波が何度も岸を洗った。
怪獣の巨体が少しずつ、しかし確実に遠ざかっていく。あの国に向かっているようだった。
怪獣の後ろ姿が小さくなって見えなくなった頃、エルメスが言った。
「……あれが『守護獣』かな?」
「そうみたいだね」
「『休眠期に入る』ってあの学者さんは言ってたけど、全然眠そうじゃなかったね」
「そうだね」
『守護獣』が進んだ後の海面には、大きなうねりが残っていた。それが岸にぶつかっては引き、ぶつかっては引いた。普段は穏やかそうな海岸の岩場に、白い波が激しく砕けている。
エルメスが呟いた。
「戦争が起きるのかな。平和を愛するあの国で」
キノが答えた。
「さあ。どうだろう」
それからキノは怪獣が向かっていったのとは反対に――あの国から、軍隊から、そしてなによりあの『守護獣』から遠ざかる方向に、エルメスを走らせた。
背中の方で、海がまた鳴った。