一
はじめに、においがあった。
青い。とにかく青い。草のにおいとはそういうものだと、のちに言葉を持った頭で整理することになるが、そのとき彼にとってのすべては、まだ言葉の手が届かないところにあった。
脚が四本。それが自分だということは知っていた。理解ではなく、感覚として。踏みしめると土がやわらかく沈んで、押し返してくる。その押し返しの気持ちよさが、脚を動かすことの理由だった。
母馬の腹はあたたかかった。寄りかかると、大きく、ゆっくりと上下する。息をしている。生きている。そのぬくもりが自分のなかにも流れていて、彼はしばらくそこにいた。
風が来た。
鼻に触れる空気が変わって、遠くの丘の向こうから何かが運ばれてくる気がした。何が、とは言えない。ただ、鼻孔が大きく開いて、体が少しだけ空の方へ向いた。
それが、最初の記憶だった。
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春が過ぎて夏になるころには、脚が言うことを聞くようになっていた。
牧場の柵の向こうに世界が広がっていることも分かってきた。人間がいて、声があって、においがあった。金属と土と、時々まじる甘いもの。
木村茂は毎朝来た。
ごつごつした手で背中を撫でていく。痛くはない。むしろ、慣れると待ってしまう自分がいた。人間の指というのは不思議なもので、ちょうどかゆいところを探し当ててくる。
「大きくなったな」
低い声。意味は分からない。でも、声の中にある何かは分かった。悪いものではない、ということ。
母馬はその男が来るたびに耳を傾けた。警戒ではなく、聴こうとする動きだった。母は見極める力を持っていた。だから彼も、その男を受け入れた。
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二
ある朝、若い人間が二人、柵にもたれて話していた。
いつもの朝だった。草のにおい。空の色がまだ薄い時間。母馬は少し離れたところで草を食んでいて、彼は特にすることもなく、ただそこに立っていた。
「ブライトがいなくなって、もう二年か」
片方が言った。
彼は耳を動かした。
なぜかは分からない。その音の並びが、他の音と違った。脚の裏から何かが来るような、体の芯が揺れるような感覚があって、彼は動くのをやめた。
「早かったよなあ。まだ若いのに」
「木村さんも、今でも悔しそうじゃないですか」
「そりゃそうだよ……」少し間があった。「あの仔が走って、血が繋がってくれればいいんだがな」
視線が自分に向いた。気配で分かった。
「ブライトのラストクロップか、ってなると、やっぱり木村さんも肩入れするよなあ」
「しょうがないよ。俺もそうだもん」
声が続いていた。
でも彼の意識はもう、声を聞いていなかった。
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洪水だった。
それ以外の言い方ができない。
映像ではなかった。映像よりもっと直接的な何かが、どこかから流れ込んできた。感情の塊、というのが近いかもしれない。それはいくつもの重なりを持っていて、一つひとつを取り出せるものではなかった。
でも確かに、あった。
芝生の上。歓声。白い帽子をかぶった騎手が馬の上で腕を上げている。群衆の中で、自分は震えていた。前世の自分が震えていた。
メジロライアン。
なぜかその名前が来た。灰色の馬体。掲示板に表示される馬番。手に汗をかきながら見ていた、若い日の自分。
そしてブライト。
鹿毛の馬体。天皇賞の直線。末脚が炸裂する瞬間の、あの感触。テレビの前で拳を握っていた。こんなに強い馬がいる。こんなに美しい血がある。ライアンからブライトへ、この流れが続いていくのだと思っていた。
続いてほしかった。
ずっと、続いてほしかった。
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次に来たのは朝の記憶だった。
朝刊を広げたときのこと。スポーツ新聞の、隅の方に載っていた。大きな扱いではなかった。でも見た瞬間に、目が止まった。
言葉が出なかった。ただ紙面を見ていた。何度も同じ文字を読んだ。何度読んでも意味が変わらなかった。
その朝のことを、前世の自分はずっと持ち続けていた。
生きているうちに抱えて、それを抱えたまま死んで、そして今ここにいる。
癒えていた、と思っていた。年月が経てば傷は薄れると思っていた。でも薄れていただけで、消えてはいなかった。その証拠に、今、もう一度開いている。
また、この痛さの中にいる。
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三
木村茂が来たのは、彼がまだその場に立ち尽くしていたときだった。
「どうした、こいつ」
若い方のスタッフが言う。
「突っ立ってますよ。さっきから動かなくて」
木村はしばらく柵の外から見ていた。
五十を過ぎた男の目は、長い年月の積み重ねでできている。馬の機嫌、馬の体調、馬の迷い、それが何に起因するかをだいたい見分けられるようになっていた。でも今目の前にあるものは、そのどれとも違った。
体は健康だ。脚も問題ない。ただ、どこかを見ている。
柵の上に腕を乗せて、木村は言った。
「何見てんだ」
返事はない。当たり前だ、馬が返事をするわけがない。でも彼が言うのをやめられなかったのは、なんとなく、通じているような気がしたからだった。
「親父の話、聞こえてたか」
目が動いた。
木村の方を向いた。
ただの偶然だ、と彼は自分に言った。馬が音に反応しただけだ。でもその目の中にあるものを見たとき、彼の胸の奥で何かが締まった。
悲しそうだった。
仔馬の目が、悲しそうだった。
「……そうか」
木村はそれだけ言って、ゆっくりと手を伸ばした。太い指が、額に触れた。
撫でながら、木村は黙っていた。何も言わなかった。ただ撫でていた。
若いスタッフが不思議そうに見ていたが、木村は気にしなかった。
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四
その日の夕方、太陽が丘の向こうに沈んでいった。
空が橙になって、それから赤くなって、少しずつ暗くなっていく。母馬はとっくに厩舎に戻っていたが、彼はまだ外に出たままでいた。
(俺は)
思考が、ある。
それが一番不思議なことだった。言語があって、概念があって、記憶がある。それが今、この体の中にある。四本脚の、まだ頼りない体の中に。
(俺は、ブライトの子どもだ)
自分の前脚を見た。
小さかった。まだ細くて、まだ頼りない。でも確かに地面を踏んでいた。大地を踏んで、ここに立っていた。
前世でファンとして見ていたものの続きが、今ここにある。
その事実が何を意味するのか、まだ整理できていなかった。使命感とか、誓いとか、そういう大きな言葉はまだどこにもなかった。
あるのはただ、痛みだった。
ブライトを失った痛みが、もう一度、ここで蘇っていた。
ライアンから積み上げた年月ごと失った、あの感覚。これ以上は続かないと思ったあの朝の感覚。それが今、どこにも逃げ場のないこの体の中で、静かに燃えていた。
(……ブライト)
声は出なかった。出るはずがなかった。
でも夕暮れの空に向かって、彼は思った。
父親に向かって、思った。
夜がゆっくりと降りてきた。
牧場に風が吹いて、草が揺れた。彼は動かなかった。ただそこに立って、暗くなっていく空を見上げていた。
まだ何も分からなかった。
この体で何ができるのか、何をすべきなのか、それはまだ遠いところにあった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
俺は、ブライトの子どもだ。
それだけが、今のすべてだった。
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*(第二話へ続く)*