25
地面は明け方まで降り続いた雨によってまだ少しぬかるんでいた。
ときおり吹きつける風が水たまりにいくつものさざなみをつくる。空気は吐く息が白くなりそうなほど冷え切り、遠くに見える山々の稜線が昨日までよりもくっきりしているように感じられた。あちら側は晴れているらしい。雪化粧をはじめた山の淡い白さと、宇宙の色を透かしたような深く濃い青空のコントラストが美しかった。
山々から視線をはずして頭上を仰ぎ見れば、こちらは依然として薄墨色の分厚い雲が居座っていた。
わずかにある雲の切れ間から零れる光は眩しいというには力強さが足りなかったが、ハジメはその穏やかな陽射しに知らず目を細めていた。
「う~~。今日は一段と寒いね」
「室井さん!」
後ろから聞こえてきた声に振り返れば、右手にトランクケースを持った室井が玄関から出てくるところだった。彼女は泥跳ねを厭うような慎重な足取りで比較的乾いた場所を選びながら歩を進める。
上手にぬかるみを避けてハジメの隣にやって来た室井は、先ほどまでハジメがしていたように空を見上げて小さくその口元を綻ばせた。
「でも、雨が上がってくれてよかった。――あれ? 金田一さん、荷物は?」
「えっと、あたし、残ってオッサン……剣持警部の手伝いしなきゃならなくて」
「ええっ!? 一緒に帰れないの!?」
室井はこちらの言葉に驚きの声をあげ、次いで別れを惜しむように項垂れる。
「もうちょっと一緒にいられると思ったのに、ここでお別れなんて残念だな……。まっ! 君はこの事件を解決した名探偵さんだから仕方ないよね」
室井たち四人は、予定通り今日の昼過ぎに飛行機で北海道をたつことになっていた。番組で用意したミニバンとステーションワゴンはどちらも犯行に利用された可能性があるため、空港までの移動には北海道警が手配した覆面パトカーを使うらしい。
事件には関わりのない私物だけを持って彼女たちはもうすぐ帰路につく。
たしかに日常へと戻れば、今回のように自分と室井の人生が交差することはないだろう。そのことに室井は本当に残念そうな顔をしているが、ハジメにはそんな彼女を前に気の利いた別れのあいさつは思い浮かばなかった。
ここは「写真集買いますね」なんておどけた言葉をかけて笑いとるか。
そんなハジメを押しとどめたのは、アイドル歌手が夢だったと語ったときの痛みを堪えるような彼女の姿だった。
一瞬、かけるべき言葉を見失い、その場に沈黙が流れた。
室井は言葉を探すかように、あるいは話すかどうか迷っているかのように、どこか芝居染みた仕草で辺りを見回した。少し憂いを帯びたその横顔にしばし目を奪われる。ハジメは彼女の雰囲気から真剣なものを読み取り、そのままかすかに開いた唇からつむがれるであろう言葉を待った。
「私ね、ホントはこの仕事が終わったら……グラドル、辞めようと思ってたんだよね」
ぽつりと落とされたのは聞き逃してしまいそうほどの小さな小さなつぶやき。
室井は車に荷物を運び込む青木と久瀬をどこかぼんやりと見つめている。その視線がこちらを向くことはなかったが、話し出したことで勢いづいたのか、室井は幾分はっきりした口調で言葉を続けた。
「地上波で放送されるって言っても、どうせ深夜のマイナー番組だし。私の出番なんてあってないようなものだし、ってね。……テレビに出たら、どこかで諦めがつくような気がしてたの。もうグラドルとしての先は見えてる。ここが私の限界で、夢は夢のまま終わるんだって……そう、考えてた」
「辞めちゃうんですか……?」
「――ううん。辞めないよ」
「え?」
「なんかさ、とことん頑張ってみてもいいかなって思えたの。小さい頃に夢見たアイドル歌手は無理でも、誰かを笑顔にする……そんなグラドルを目指してみるのも悪くないでしょ?」
視線をハジメに戻し、二ッと笑うその顔には自信と決意が滲んでいた。昨日ハジメの部屋を訪れたときに見せた強がりな笑顔とは違う。いまの彼女からは目にした者をハッと惹きつける魅力が感じられた。
室井にも事件を通してなにか思うところがあったのだろう。
彼女は犯人でも被害者でもなかったけれど、この背氷村で起きた一連の事件は、きっと関わった全員になんらかの影響を与えている。その結果が「これからの努力」であるのなら、すでに室井は自分なりに事件を消化できたのかもしれない。
たくましいな、と思う。
美雪もそうなのだが、どうも女性というのは男にはない“強さ”を持っている気がする。ハジメとていまは女性側にいるはずだが、自分がその強さを手に入れられているとは到底思えない。
だから、口にしたその言葉には背中を押すような気持ちを込めた。
「――応援してます」
「うん。応援してて。とりあえず、君の“推し”になれるまでは頑張るつもりだから!」
「へ……えっ!?」
「ライバルは速水玲香かぁ。強敵だな~。相手はいまをときめくトップアイドルだもんね。我ながら前途多難かも」
「え、いや、室井さん!?」
「そうそう、私、ファンからは“アーヤ”って呼ばれてるの。でも、年下の女の子から呼ばれるなら“愛彩さん”のほうがうれしいかも」
「愛彩、さん……?」
「うん! ――あ、もう行かなきゃ。じゃあ、元気でね!!」
荷物を運ぼうかと言いながらこちらに来ようとする久瀬を身振りで制止して、室井はとびっきりの笑顔と、じつにあっさりした別れの言葉を残して去っていった。
水たまりを避ける足取りは慎重だがどこか軽やかだ。
振り返ることのない背中を見送りながら、ハジメはドキドキと早鐘を打つ心臓を必死で宥めた。あれで人気が「ほどほど止まり」なのは絶対になにかの間違いだろう。知ってはいたがアイドルってすごい。
(ええ~? ファンとかいくらでもなるんですけどぉ)
むしろ、ハジメはとっくに室井のファンである。
まずは帰ったらダッシュで彼女の写真集を買いに行こうと決意を胸に、ハジメが口元をゆるめて締まりのない笑顔を浮かべていると、その肩をポンッと誰かに叩かれた。
「お見送りか、金田一ちゃん? 部屋におらんかったから探してもうたわ」
「芝さん……。探したって、なんかあたしに用事でもありました?」
芝とは昨日の夜に談話室で別れたきりだった。
芳野が北海道警に連行されたあと、残された面々は再び個別に事情聴取を受けることになり、深夜にまで及んだそれに疲れて寝坊したハジメは、朝食の席でも芝とは顔を合わせていない。彼と少し話をしたと言っていた青木からは落ち着いた様子だったと聞いているけれど……。
そっと窺った顔は、そのわずかな目の充血さえなければ、普段となにも変わらないように見えた。
――無理に芳野の罪を暴くべきではなかったのではないか。
ふと、そんな疑問が頭をかすめる。
芳野には水島以外の人間に自分の犯行をなすりつける気はなかった。きっと水島が高所恐怖症である事実を伝えれば、彼は自ら犯人だと名乗り出ただろう。そのほうが芝は傷つかずにすんだのかもしれない。
(……いや、俺だったら、そんなの納得できない)
誰かから教えられる“事実”ではなく、本人の口から“真実”を聞きたい。
どれだけ苦しくとも。どれだけ無力感に打ちのめされたとしても。真実の中にしか、本当の救いはないとハジメは信じている。
「――お礼をな、言うとかなあかんなって」
「お礼……?」
「そや、お礼。君がああいうふうに芳野君の罪を暴いてくれんかったら……ひょっとしたら、ボクはもう二度と芳野君には会えへんかったんちゃうかなって思てんねん。……誰かに、たとえそれが憎い仇やったとしても、罪を押しつけて平気な顔できる人ちゃうからなー、彼。だから……ホンマに、ありがとう」
礼の言葉と下げられた頭に胸が詰まった。
「し、芝さん! やめてくださいよ! あたしはそんな……」
「いや、ごめんな。こんな言われても逆に気ぃ遣うよな。でもまあ、これはボクと芳野君からの感謝の気持ちや思て受け取ったって」
「……芳野さんも?」
「そう。芳野君もや。彼もきっと君に感謝しとるわ。二十年来の親友が言うんやから間違いない」
たぶん、芳野は誰よりも芝に感謝していると思う。
芳野は自分のことを「復讐のためだけに生きてきた」と言っていたが、妻も娘も亡くした彼をこの世に踏み止まらせていたのは芝だったのではないだろうか。談話室でのふたりの最後のやりとりを目にして、ハジメは芳野がすべてを捨てて復讐を選んだわけではないのだと感じた。
彼は自分の周りの人をとても大切にしていた。
もちろん、それは生来の芳野の気質でもあったのだろうけれど。それでもきっと、そばで彼を支えていた“世話焼きな友人”の力だって大きかったはずだ。
「それにな。芳野君にはああ答えたけど、事前に相談されとったら……ボクは、彼に手ぇ貸しとった気ぃするわ」
「あたしは……芳野さんは、芝さんに止めてほしかったと思いますよ」
「はは。そうかもしらんな……。まあ、ほんなら、いまのはここだけのオフレコちゅーことにしといて。どっちにしろ、優秀な探偵さんがおるから完全犯罪は難しかったやろしな。あっ、そういう意味でも恩人か?」
笑いかけてくる顔は普段通りのもので、ハジメはほっとわずかに入っていた肩の力を抜く。やはり芝には張り詰めたような重い雰囲気は似合わない。
彼とはそのまま「達者でな」「芝さんも」と短いあいさつを交わして別れた。
室井とは違い、泥跳ねなど気にならないらしい芝は大きな水たまりも避けることなくズンズンと進んでいく。彼が車に乗り込むと、覆面パトカーはゆっくりと発進した。
ハジメはひとり、彼らを乗せた車が見えなくなるまでその場から動かなかった。
26
金田一一の周りには謎と死が満ちている。
それはこの二回目の人生であっても変わらない。当の本人は決して喜ばないだろう、そんな名探偵の資質とでも言うべき特性を高遠は好ましく思っている。思ってはいるのだが……。
(少しそばを離れた隙に殺人事件に巻き込まれるのはやめてもらえませんかね)
文字通り飛んで帰ってきた身としては文句の一つも言いたくなる。
高遠とて四六時中彼女のそばにいるつもりなど毛頭ないが、地獄の傀儡師としてもう芸術犯罪を手がけることができない以上、華麗に謎を解き明かす己の平行線をせめて一番近くで鑑賞したい。もちろん事件のなかには稚拙でつまらないものも多々あるが、ハジメという主役がいるだけでそんなものにも見るべき価値が生まれるのだ。
北海道背氷村。
連続殺人事件の舞台となったその場所は、高遠が到着したときにはすでに警察の撤収作業が一部始まっていた。乗ってきたレンタカーを適当なところに止め、さも関係者然とした顔で忙しなく行き交う制服警官たちの間を通り抜ける。
目的の人物は、中身が潰れるのも構わず地面に置いたボストンバッグの上に腰を下ろして、谷川を、あるいはその向こうにある山々をぼんやりと眺めていた。
相変わらず、事件を解決した探偵とは思えない浮かない顔つきをしている。正面からその瞳をのぞき込めば、きっと悲しみに陰っているのだろう。そこが彼女の素晴らしいところではあるが、いつまでも有象無象に心を痛めていられては少々面白くない。
ハジメの意識を自分に向けさせるためにあえて足音を立てて近づく。
高遠の影がその爪先にかかりそうになったあたりで、彼女が顔を動かしこちらを見た。互いの視線がかちりと音がしそうな勢いで合い、まんまるに見開かれた大きな瞳にはしっかりと高遠が映っていた。
ハジメはボストンバッグの上から半ば転げるように立ち上がり、人目もはばからない大声で叫んだ。
「おまっ、なんでここに!?」
ビシッと自分を指差す少女の表情を堪能しつつ、高遠はにこやかに用意しておいた建前を口にした。
「君のお迎えに来たんですよ。学校もありますし、警察から解放されたらすぐに帰りたいでしょう?」
「そりゃ、まあ……。って、ちげーよ!! なんであんたが、俺がここにいることを知ってんのかって聞いてんだよ!!」
「ここで殺人事件が発生したこと自体は昨日の夕方にはニュースで流れていましたよ」
「――へぇ。で? そのニュースではご丁寧に俺がここにいるってことまで放送してたのかよ?」
「まさか。いくら日本のマスコミでも、未成年の君相手にそこまで報道規制を無視した振る舞いはしませんよ」
「だろうな! じゃあ、あんたがここに来た理由はなんだよ!? 理屈が合わねぇだろーが!」
「理屈は合っていますよ。僕はニュースを見て、君がいる場所で殺人事件が起きていることを知ったんですから」
「やっぱ、あんた、俺にGPSかなんか仕込んで……」
ハジメはそこまで言ってからハッとした様子で口をつぐんだ。
かすかに顔を引き攣らせ、恐る恐る自分の首の後ろへと手を回す。GPSをそんなところに仕込まれているかもしれないと危惧する人生とは、じつに気苦労が多そうである。
「ペットのマイクロチップじゃないんですから。それに、長期的な位置情報を得るために人体にGPSを仕込むのは現実的ではありませんよ。技術的にも少々難しいですし、安全面も無視はできませんからね」
「それよりもまずは俺の人権を無視すんな! プライバシーの侵害だ!!」
「しかし、たしかに埋め込み式は魅力的ですね。君が所持品や衣服を剥ぎ取られた身元不明死体になっていても回収できる。焼死はさすがに厳しいですが」
「想像が不穏!!」
よい具合に話が逸れた。
ギャーギャーと「人権」だの「プライバシー」だのと騒ぐハジメは、その言葉ほどには自分の置かれている状況に危機感を抱いてはいない。高遠がいうことではないが、彼女はもう少し自分の身辺に気を配るべきだ。
「つーか、そうそうにそんな危ない目に遭うわけないだろ」
「……その言葉にまったく説得力がないのも一種の才能ですね」
「そんなことねぇよ。俺はただの善良な一般市民……くしゅんっ!!」
盛大なくしゃみで言葉を途切れさせたハジメは、コートの類を持ってきていないらしく、この時期に屋外で過ごすにはずいぶんな軽装だった。昼に近づき徐々に気温が上がっているとはいえ、今日はとくに一段と冷える。天気予報ではどの局もこぞって北海道に本格的な冬の到来を伝えていた。
寒さに身を震わせる子どもは当然のように高遠へ防寒着を要求してきたが、高遠とてかろうじてチェスターコートを着ているだけで、自分用のマフラーも手袋も持ち合わせがない。
昨日までマジックショーのため滞在していたイギリスはここよりも気温が高かったので、このくらいの格好でちょうどよかったのだ。さすがの高遠も、同行しない相手の防寒着を持ち歩くほど酔狂ではない。
「なあ、コート貸してくんない?」
「名探偵の孫が白昼堂々と追い剝ぎですか?」
「だって
高遠も寒さを感じないわけではないのだが。
外にいる理由を聞けば、事件現場となった屋敷の中はあらかた撤収作業がすみ、追い出されてしまったらしい。このあと北海道警での正式な調書の作成に協力するため、寒空の下で同行予定の警官を待っているのだという。
仕方ないなと、高遠は少女の名を呼び、コートの前を開けて「こちらへどうぞ」と笑う。ハジメはそんな高遠の姿に心底嫌そうな顔をしつつ、渋々といった様子でこちらに背を預けてきた。……いいのか、それで。
ハジメの行動に呆れる気持ちはあるが、自分から提案したこともあって、高遠は大人しく彼女の身体を包み込むようにコートの前を閉じた。ボタンを留めてしまうと身長差のせいでハジメの顔がコートに埋まるため、彼女を抱きしめるように両手を回したこの体勢は、傍目にはカップルにしか見えないだろう。
外気にさらされていた身体は冷え切っている。
なんとなく、高遠はハジメへと回した腕の力を強めた。
「あんま暖かくない」
「私はむしろ君のせいで冷えましたよ」
それでも体温のある生き物が身を寄せ合っていれば、いくらかは暖かくなる。ハジメもそう思ったのか、悪態をつきながらも彼女が高遠のコートから出ていく様子はなかった。
わざとらしくこちらに体重をかけてくる相手と少しずつ同じ温度になっていく。彼女の重みに自分の中のなにかが満たされるのを感じる。そして、それを素直に受け入れている自分がいる。
不思議と、事件の話をする気が失せていた。
(まあ、この体勢だと顔も見れないですしね)
聞き出すのはべつにいまでなくてもいい。
一回目とは違う形で起きた雪夜叉による連続殺人事件。高遠はすでに事件の概要は知っている。ハジメがここを訪れていた理由もおおよそ見当がつく。どうせなら彼女の悲しみと後悔に歪む顔を見ながら話が聞きたかった。
黙ったまま相手の頭頂部を見るともなしに見つめていると、ふいに少女の身体に緊張が走ったのがわかった。
ハジメの視線の先に目を向ければ、明智健悟が屋敷から出てくるところだった。
「金田一さん、お待たせしま……高遠君?」
「お久しぶりですね、明智さん」
「なぜ、君がここに……?」
「この子が事件に巻き込まれたと聞いて心配で」
明智の目が高遠とハジメを何度も往復する。
ハジメがいまどんな顔をしているのかは知らないが、明智のほうは明らかにふたりの関係を測りかねているのが、彼の表情と態度から如実に伝わってくる。ただ、この状況から明智が導き出すであろう結論は多くない。
「母にはまだ彼女のことは伝えていないので、どうかご内密に」
あえて誤解させるような言い回しをすれば、案の定明智はそれ以上深く尋ねることはせずに小さくうなずき、もうすぐ出発するとだけ伝えて、待たせているらしい車のほうへ歩き出した。
明智の背中が充分離れたのを見て、ハジメはコートの中から抜け出すと、くるりとこちらを振り返った。
「あんた、いつの間に明智さんと知り合ってたんだよ!?」
わずかに潜められた声は明智の耳に入ることを気にしてのものだろう。
高遠は脱いだコートを少女に手渡しながら、「少し前に母親から紹介されたんですよ」と端的に答えた。
「……聞いてねぇぞ」
「奇遇ですね。僕も伝えた覚えがありません」
とはいえ、いずれハジメと明智を引き合わせるつもりはあった。
それがこのような形になったのは高遠としても完全に予想外である。聞けば、明智は剣持と一緒に東京からある事件を追って背氷村まで来たという。いつまでも一回目の明智健悟が彼女の中に居座っているのは好ましくないと思っていたが、正直こんなふうにまるで運命のような再会をされるのはとても癪に障る。こんなことになるのなら、もっと早くに会わせればよかった。
「彼が自分のことを思い出さなくてショックでした?」
もそもそと高遠のコートに袖を通していたハジメはその言葉に顔を上げる。
こちらを見た彼女は一瞬なんともいえない顔をしてから、どこか呆れを含ませた声で「さぁな」と答え、高遠に背を向けて歩き出した。ハジメの態度に腑に落ちないものを感じつつ、高遠はそのあとを追いかける。
高遠が少女の隣に並んだとき、ふたりの間にふわり、ふわりと白いものが落ちてきた。
「――雪?」
ハジメの声に空を見上げれば、灰色の雲からいくつもの白い雪が舞い落ちてくるのが目に入った。――冬が来たのだ。
この様子ではすぐさま積もるようなことはないだろうが、しかし、そう時間を置かずにこの地は雪に覆われるはずだ。そして、吹き荒れる吹雪によってすべての交通が遮断される。
だが、この背氷村に雪夜叉が出ることはもう二度とない――。