鉄仮面の中のタキシード仮面 ~断罪者カロッゾ・ロナは、なぜか月の騎士の幻を見る~ 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0112年。
月面都市グラナダの空は、いつも通り、技術の進歩を嘲笑うかのように無関心な色をしていた。
俺 ── カロッゾ・ロナは、その空を見上げるたびに、理由もなく胸の奥が軋むのを感じていた。
頭の隅に、白い仮面と漆黒のタキシードを纏った男の姿が、ふと浮かぶ。
誰の記憶でもない。
俺が見たこともない、19世紀の舞踏会めいた装いの幻。
ただの疲労だ、と俺は片づけた。
この10年、情動を殺すことに費やしてきた脳が、時折こぼす処理落ちのノイズにすぎない。
アナハイム・エレクトロニクスの主任技術者室で、俺は分厚い決裁書類の山を前に、冷たいコーヒーを啜った。
壁際の花瓶には、1輪の黒い薔薇が活けられている。
誰が置いたものかは分からない ── いや、監視記録によれば、それを活けたのは俺自身だった。
記憶にない時間に。
俺は、自分がなぜそんなことをしたのか、説明できなかった。
「技術は、感情から解放されるべきだ」
それが、俺が到達した、唯一にして絶対的な真理だ。
アナハイムは、その巨大な質量と歴史的遺産の上に胡坐をかいていた。
グリプス戦役や第一次ネオ・ジオン抗争で名を馳せた、大型で高コストなモビルスーツたち。
それらが未だに主力として君臨し続ける技術的停滞こそが、俺が断罪すべき最初の敵だった。
俺はサナリィ(S.N.R.I.)のフォーミュラ計画への技術的支援を密かに進め、小型化・高性能化の技術を新しい器へ注ぎ込もうとしていた。
妻ナディア・ロナはそれを自爆行為だと言って眉をひそめたが、俺は答えなかった。
答えれば、俺の中の何かが崩れる気がしたからだ。
その夜のことだった。
グラナダの深夜、無人の技術者居住区を歩いていた俺は、ふと歩みを止めた。
磨き抜かれた隔壁が、鏡のように俺の姿を映していた。
だが、そこに立っていたのは、白衣の技術者ではなかった。
黒いシルクハット、白い仮面、漆黒のタキシードに純白のマント ── あの幻の男の姿を、俺自身が纏っていた。
いや、そう見えただけだ。
瞬きをすれば、そこにいるのは疲れ切った1人の技術者にすぎない。
だが、その一瞬、俺の口が、俺の意志を離れて動いた。
頭蓋の内側で、俺自身の声が別人のように響いた。
「アナハイムの技術者、カロッゾ・ロナ。君は、技術とは誰かを守るためにこそ磨かれるものだということを、忘れている。断罪のためではない」
俺は隔壁に手をついた。
冷たいガラスの向こうに、もう1人の俺がいた。
「……誰だ、貴様は。俺の、何だ」
鏡像は答えず、指先で赤い薔薇を回す仕草をした ── かのように見えた。
次の瞬間、俺の手の中にあったのは、自室から無意識に持ち出したらしい、あの黒薔薇だった。
これが、後に俺が幾度となく心の中で相まみえることになる、あの仮面の男との最初の遭遇だった。
俺は、それが自分の精神の亀裂であることを、まだ認めたくなかった。
「守る、だと。くだらん。情動というノイズの化身め」
俺は黒薔薇を握りしめた。
だが、その時の俺はまだ知らなかった。
この一輪の黒薔薇が、いつか自分自身の喉元に突きつけられる刃になることを。
そして、俺の脳が生み出したこの仮面の幻こそが、俺の全計画の前に立ちはだかる最大の変数となることを。