鉄仮面の中のタキシード仮面 ~断罪者カロッゾ・ロナは、なぜか月の騎士の幻を見る~ 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0116年。
サイド3宙域に移って1年が経った頃、俺は、技術者としての思考と、人間としての心を、決定的に分断する出来事に直面した。
妻ナディア・ロナとの決裂だ。
俺が人類の情動というバグの危険性を語っても、ナディアは理解しなかった。
「カロッゾ。感情は、間違いを起こすこともあるけれど、正しさに導くことだってあるのよ」
やがて彼女は、俺のもとを去った。
裏切りそのものよりも、俺を深く傷つけたのは、情動のままに決断したという、その非論理性だった。
俺は、研究室の机に突っ伏し、十数時間も微動だにしなかった。
心臓の奥に針を押し込まれたような、説明不能の痛み。
「……情動のノイズか」
その夜、俺は再び自分を失った。
気づけば俺は、内側の展望回廊のガラスの前に立っていた。
ガラスに映る俺の姿は、漆黒のマントを翻し、白い仮面をつけた、タキシード姿だった ── そう見えた。
俺の口が、俺の意志とは別に動いた。
「痛むだろう、カロッゾ・ロナ。だが、その痛みこそが、君がまだ人間である証だ。それを切り捨てれば、君は二度と誰も守れなくなる」
「守る、守る、と俺は繰り返す」
俺は、鏡像の自分に吐き捨てた。
「守るために磨いた技術が、ナディアを引き止められたか。情動は無力だ。むしろ有害だ。だからこそ、俺はそれを排除する」
ガラスの中の仮面の男 ── もう1人の俺は、ゆっくりと1輪の赤い薔薇を取り出し、俺の足元へ投げた。
実際には、俺自身がコートの内から薔薇を取り出して床に落とした、その動作の記憶だけが後に残った。
「ならば問おう。君はいま、なぜ泣いている」
俺は頬に手をやった。
乾いていた。
涙などない。
だが、俺の内側で、確かに何かが決壊しかけていた。
「黙れ」
俺は、机上の黒薔薇を握り潰した。
棘が掌を裂き、赤い血が滲む。
「愛や、過去といった情動は、予測不能なノイズだ。
ベラは ── 娘は、私の理想を体現する選ばれた者となる。
感情に支配されない、冷徹な支配者だ」
ガラスの中のもう1人の俺は、悲しげに目を伏せた。
それは、鏡に映った俺自身が目を伏せたということだった。
「その子まで巻き込むのか。……ならば、私は必ず、その子を人の心の側へ取り戻す」
それもまた、俺自身の声だった。
俺は、俺自身と争っていたのだ。
この日から、俺は纏うコートの内側に、いつも1輪の黒薔薇を忍ばせるようになった。
誰かに贈るためではない。
断罪を下すその刹那、それを握り潰すことで、俺自身に判決を刻みつけるための、たった1つの私的な儀式だった。
そしてそれは同時に、俺の中に居座る幻 ── 赤い薔薇を掲げる仮面の男への、俺なりの回答でもあった。
研究ノートには、初めて「情動の断罪」という言葉が刻まれる。
まだ、このときの俺は知らなかった。
人間の情動というバグが、後に俺自身のシステムを崩壊させる、最も致命的な逆流となることを。