鉄仮面の中のタキシード仮面 ~断罪者カロッゾ・ロナは、なぜか月の騎士の幻を見る~ 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0120年。
F90の全ミッションデータが出揃い、小型モビルスーツの有効性が連邦でも否定できなくなりつつある頃、俺はロナ家が掌握する宙域外の秘密ステーションへ向かった。
目的はただ1つ。
サナリィの主任開発者、モニカ・アノー博士との非公式接触だ。
そして、その傍らに立つ若き試験パイロット、デフ・スタリオンの存在を確認するためでもあった。
巨大な無重力ドックに、F90の残骸が静かに浮かんでいた。装甲は焼け焦げ、フレームは飴のように歪んでいる。だが、その歪みの一つ一つが、極限の機動と、それに応えた機体の限界を物語っていた。俺は、その残骸を、一個の技術的死体として観察した。死体は、生前の主人よりも雄弁だ。
「アノー博士。貴君らのF90は見事だ。統計上、旧世代機の追随を許さん機動データを叩き出している。だが──」
俺は言葉を切り、残骸の中枢部、焼け残ったコンピュータ・ユニットへと視線を移した。
「バイオコンピュータ。人間の情動というノイズを演算に組み込むなど、狂気の沙汰だ。貴君は、賽子の目に機体の命運を託しているにすぎん」
モニカ・アノーは、静かに俺を見返した。その瞳には、技術者特有の、事実にしか屈しない頑なさがあった。
「情動を、ノイズと呼ぶのね。ロナ主任」
「事実だ」
「では聞くけれど」彼女は残骸のユニットに手を触れた。
「そのノイズが、なぜ理論値を超える出力を叩き出したのか、あなたの純粋な論理は説明できて?」
俺は答えなかった。答えは持っていた。だが、それを口にすることは、俺自身の思想の根幹に、ひび割れを認めることに等しかった。
デフが一歩前に出た。まだ二十歳そこそこの、青い顔だ。だが、その目だけは、実戦をくぐった者の光を宿していた。
「……それが、俺たちを救ったんだ」
若いパイロットの声は、抑えようとして抑えきれない熱を帯びていた。
「あの時、機体が応えてくれた。俺が、仲間を守りたいと思った、その一瞬に。人間の意思を信じることが、なぜ悪い」
俺は冷徹に答える。
「悪ではない。だが、それは技術ではない。統計で担保できぬ非線形の毒だ。今日、君を救った同じ機構が、明日、君の判断を裏切らんと誰が保証する。感情は、常に同じ答えを返さない。それが、感情の本質だからだ」
デフが唇を噛んだ。反論の言葉を探し、しかし俺の論理の隙を見つけられずにいる。俺は、その若さを、憐れとすら感じなかった。ただ、修正すべきバグの、典型的な発露として記録しただけだった。
その時だった。
ドックの照明が、一瞬明滅した。
古い電源系の、ただの不調にすぎない。だが、その刹那。
非常灯の赤い光の中、無重力の壁面パネルが鏡となって、俺の姿を歪めて映した。
マントを広げ、F90の残骸の上に立つ、タキシード姿の俺 ── の幻。
それは俺の網膜だけが捉えた妄想だった。この10年、幾度となく俺の前に現れ続けた、あの仮面の男。だが今宵の男は、いつになく静かで、そして──満ち足りて見えた。まるで、探し求めていた誰かに、ようやく巡り会えたかのように。
幻の俺が、赤い薔薇を1輪、デフへと投げる。
「守るための技術を、毒と呼ぶか、カロッゾ・ロナ」
幻の声は、俺自身の声でありながら、俺の知らない優しさを湛えていた。
「若きパイロットよ。君の信じる道は正しい。誰かを守りたいと願うその心こそが、技術に魂を宿らせる。それを恐れる男が、いまここに一人いる。だが、恐れるということは──それが、本物である証だ」
だがデフには、薔薇など見えていない。
彼が目にしたのは、俺 ──
1人の男が、コートの内から黒薔薇を取り出し、床に叩きつけた光景だけだった。
無重力のドックで、黒い花は落ちもせず、俺の足元に静かに漂った。モニカが、わずかに眉を寄せる。この男は何をしているのか、と。技術者としての彼女の目には、俺の奇行は、一個の解析不能なデータとして映ったに違いない。
俺の中では、赤い薔薇と黒い薔薇が投げ交わされていた。
俺の外では、1人の技術者が黒薔薇を落としただけだった。
史実は、何も変わらない。
ただ俺の中でだけ、2人の俺が争っていた。守れと囁く幻と、断てと命じる現実。同じ顔をした、2人の俺が。
「また貴様か」
俺は、誰にも聞こえない声で、俺自身の幻に呟いた。
「なぜ、今日に限って、そんな顔をする。まるで、この若造の中に、貴様の探し物でも見つけたかのように」
幻の俺が告げた。その口元に、俺は初めて、微笑のようなものを見た。
「いずれ現れるシーブック・アノー ── その青年の守りたいという想いが、君の断罪を止める。私は、そう予感している。この若きパイロットの瞳の奥に、私はその予兆を見た。守りたいと願う心は、血よりも濃く、時を超えて受け継がれるものらしい」
「戯言を」
俺は吐き捨てた。だが、その言葉に、いつもの確信の重さはなかった。
「守りたいという想いが、俺の論理を止める、だと。ならば試すがいい。俺は、その想いごと断罪する。何度でも、貴様が現れるたびに」
幻は、もう答えなかった。ただ、投げた赤い薔薇が、無重力の宙をゆっくりと回転しながら、デフの方へと流れていく──俺の網膜の中だけで。現実のデフは、何も知らず、ただ怪訝そうに、床の黒薔薇を見つめていた。
俺は踵を返し、コートの裾を大きく翻した。
「話は済んだ、アノー博士。貴君らの技術は、いずれ俺が断罪する対象のリストに加えておく。感情を演算に組み込んだ、その罪ごとに」
モニカは何も言わなかった。ただ、去りゆく俺の背に、静かな、しかし揺るがぬ声を投げた。
「ロナ主任。あなたが一番、そのバイオコンピュータに乗るべき人なのかもしれないわね。──あなたほど、何かを守りたがっている人を、私は知らないもの」
俺は足を止めなかった。止められなかった、と言うべきか。
指先に挟んでいた黒薔薇が、1片、また1片と、無重力の中を音もなく漂い落ちていく。
その花弁の一枚が、非常灯の赤い光を浴びて、一瞬だけ、赤く染まって見えた。
俺は、それを見なかったことにした。