つい先日、父が亡くなった。
穏やかで、物静かな人だった。
「同性のあなたのほうが整理しやすいかもしれないから」と母から頼まれ、父の書斎に一人で入った。
鍵付きの引き出しを開けると、所々塗装の剥げたクッキー缶が出てきた。子供の頃、台所の棚に置かれているのを見たことのある柄だったが、甘い匂いはもう残っていない。
蓋を開くと、フレームに入った古い写真と宛名の無い手紙がいくつも。
いくつか手に取り開いてみたが、結びはどれも同じだった。
中身を母に見せる。
心当たりがあるのか、母は「そう」とだけ答えて手紙を読み始める。
「まったく、最後まで受け入れられなかったのかしらね……」
「母さんはこの人のことを知ってるの」
そういって手紙と一緒に入っていた写真を見せる。
「ええ、何度かお会いしたことがあるわ――」
「――亡くなったの。若いころに、交通事故でね」
母は手紙から目を離さずに言った。声はいつも通りなのに、どこか遠くに置いてきたような響きだった。
「私との結婚が決まったころ言われたの、『気持ちに整理をつけるために手紙を書く。だから見つけても何も言わないでくれ』って。それっきり何も言ってこなかったから、私も野暮なことは言わなかった。まさかこんなに溜め込んでるとは思いもしなかったけれど」
「父さんの……友達?」
母は少し考えて、首を横に振った。
「友達、という言い方は便利だけれど……傍から見て、二人はそういう関係だったわ。きっと事故が無ければ、隣にいるのはこの方だったでしょうね」
窓の外で乾いた風が鳴る。
母は黙ってしまった。
一瞬、誰の隣なのかわからなかった。父は物静かだったが、無口ではなかった。叱られた記憶も、抱きしめられた記憶もちゃんとある。運動会には必ず来てくれていたし、幼いころ熱を出せば一晩中起きて看病してくれたこともあった。
「処分する?」
母がぽつりと言う。
「まだ、いい」
母は「そう」とだけ言った。
その夜、最後の手紙を読む。日付は、僕が生まれた年だった。
――今日、子どもが生まれました。
あなたに似たら困るな、と少し思いました。
でもきっと、あなたのようによく笑う子になるでしょう。
そして最後は、同じ言葉。
――あなたのことを、忘れられた日はありません。
父の書斎は片付いた。けれど、父の中にあった、僕の知らない若い日の時間が、今さら胸に居座ってしまった。廊下の向こうで、母が食器を洗う音がする。
その静けさが、今は少しだけ重い。