異世界から帰ってきて一週間が経った。
魔王を倒した。世界を救った。姫に泣かれながら見送られた。光に包まれて気づいたら渋谷のスクランブル交差点に立っていた。こっちでは三日しか経っていなかったらしい。つまり俺は金曜の夜に消えて月曜の朝に帰ってきた。出席日数的にはノーダメージだった。
ダメージがあったのは別のところだった。
「おはよう、今日寒くない?」
クラスメイトの田中が話しかけてきた。ただその声が、俺の脳内ではこう聞こえる。
『善き朝を。本日は気温が低いと感じぬか?』
田中はニット帽を被ったごく普通の男子高校生であって、中世の騎士ではない。なのに俺の耳にはそう届く。
異世界で手に入れた翻訳スキル「万物翻訳(ユニバーサル・ワード)」。あらゆる言語を自動で翻訳してくれる便利なスキルだった。向こうにいた頃は。
問題は、こいつに「翻訳しなくていい」という概念がないことだった。
日本語を聞く。スキルが起動する。日本語が異世界共通語に変換される。異世界共通語が日本語に再翻訳される。最終的に出力されるのは日本語だ。日本語なのだ。だが、なんというか、違う。ずっと違う。脳の奥がむずむずする。
「やべー、数学の宿題やってねえ」と田中が言う。
俺の脳内では『危機的状況だ。数の学問に関する課題を遂行していない』になる。
うるさい。
「見してくんない?」
『閲覧の許可を乞う』
お前は申請書を出しているのか。
「サンキュー、まじ助かる」
『感謝を。真に救済された』
大げさなんだよ。宿題を写しただけだろ。
鑑定スキルでは田中のステータスがちゃんと見える。HP、MP、筋力、全部数値化されて見えるが、まあ一般人なのでどれも一桁だ。これは別に困らない。危機察知も正常に動いている。この教室に危険はない。当然だ。日本の高校だ。
翻訳だけがバグっている。翻訳だけが俺の日常を地味に壊している。
一時間目、現代文。先生が教科書を開けと言った。
『書物の第七十二頁を展開せよ』
二時間目、英語。先生がリスニングの音源を流した。英語が異世界共通語になり、そこから日本語になって届いた。もはや何語の授業を受けているのかわからない。しかも翻訳精度が高すぎて全部意味がわかってしまうので、英語の勉強として成立しない。中間テストのリスニングは満点が確定している。嬉しくない。
三時間目、体育。サッカーをやった。
「パス!」
『球を我に委ねよ!』
「ナイスシュート!」
『見事なる一撃であった!』
「おい審判ちゃんと見ろよ!」
『裁定者よ、汝の眼は節穴か!』
校庭でやっているのはサッカーだが、俺の耳に聞こえているのは古代ローマの剣闘士の試合だ。
昼休み、購買でパンを買った。
「いらっしゃいませ」
『我が店に足を踏み入れし者よ、歓迎する』
コッペパンを買うだけでクエスト開始みたいな空気を出すな。
「百五十円です」
『対価は銅貨……百五十の通貨単位を要求する』
途中で単位の変換に失敗しているのが聞こえた。こいつ、日本円という概念を知らないな。
放課後、幼馴染の佐藤が話しかけてきた。佐藤は俺が三日間消えていたことに気づいていた唯一の人間で、俺が「ちょっと異世界に行ってた」と正直に言ったら「へー」で済ませた豪胆な女だ。
「今日カラオケ行かない?」
『本日、歌唱の館に赴かぬか?』
歌唱の館。間違ってはいない。間違ってはいないのだが。
「行く」と答えた。自分の発言は翻訳されない。自分の言葉だけがまともなので、世界で自分だけが正気で周りが全員おかしい、みたいな感覚に陥る。実際はおかしいのは俺の耳のほうだ。
カラオケに着いた。
「何歌う?」と佐藤が聞く。
『何を詠唱する?』
やめろ。歌を詠唱と訳すな。魔法みたいになるだろ。
佐藤が最初に歌った。最新のJ-POPだった。
ここで致命的な問題が発覚した。
歌詞も翻訳される。
「会いたくて会いたくて震える」が、俺の耳には『汝を渇望し、渇望し、我が身は震撼する』と届いた。
壮大すぎる。ラブソングが叙事詩になっている。
佐藤は楽しそうに歌っている。画面には普通の日本語歌詞が流れている。でも俺の耳に届くのは異世界語経由で再構築されたバージョンだ。
次の曲、アニソンだった。
「勇気の翼広げて飛び立とう」
『勇敢なる翼を展開し、天へと離陸せよ』
飛行機の安全説明みたいになった。
俺も一曲歌った。自分の声は翻訳されないのでまともに聞こえる。だが佐藤が合いの手を入れるとそこだけ翻訳される。
「フー!」
『歓声!』
わざわざ翻訳しなくていいやつまで翻訳するな。
帰り道、佐藤が缶ジュースを奢ってくれた。
「はい、お疲れ」
『受け取るがよい。汝の疲労を労う』
「ありがと」と俺は言った。普通に言えた。自分の言葉だけが普通だ。
「ねえ、その翻訳のやつってさ」と佐藤が言った。
『問う。その翻訳の機構であるが』
「私の言葉も変な感じに聞こえてんの?」
『我の発話もまた、奇妙に変質して届いているのか?』
「めちゃくちゃ変な感じに聞こえてる」
佐藤は少し考えて、
「ウケる」
と言った。
『腹部に衝撃を受ける』
受けねえよ。
明日も学校だ。明日もこの翻訳は続く。異世界では世界を救う力だったものが、日本では地味に生活の質を下げるだけの呪いになっている。
誰かこのスキル、買い取ってくれないかな。