20XX年、クレタ島。
小さな島だった。
地中海の青い水に囲まれた、岩と太陽の島。オリーブの樹が斜面に並び、白い壁の家々が丘にへばりついている。空港から港町までバスに揺られ、窓の外に広がる海を見た。
深い青。底が見えないくらい深い。
白い髪の少女はバスの窓に額をつけて、その青を見つめていた。
クノッソス宮殿の跡地を歩いた。赤い柱が復元されている。三千五百年前の迷宮。ミノタウロスが棲んだと伝えられる場所。あの巨人は——ここに縁のある英雄に倒された。迷宮に入り、怪物を殺し、糸を辿って帰還した英雄。
その英雄が後に狂気に陥り、十二の功業を課せられたことを、白い髪の少女は知っている。
宮殿跡の石段に座って、パンとチーズの昼食を取った。リュックサックから水筒を出して飲んだ。地中海の風が、白い髪を揺らした。
小さな島。しかし歴史は深い。この石の一つ一つに、神話の時代の記憶が眠っている。
巨人の足跡を辿る旅の、最初の一歩。
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イタリア。
クレタからフェリーに乗った。一晩の船旅。甲板で夜の地中海を見た。星が多かった。冬木では見えない数の星が、水平線まで散らばっている。
船が揺れるたびに、体の中の——種が、微かに脈動した。もう何年も前に植えられた種。消えゆく王が最後に残したもの。魔力の自律生成は安定している。体調は良い。旅に出られるくらいには。
イタリアの港町に降り立った。ナポリ。雑然として、騒がしくて、活気がある。バイクが歩道を走り、洗濯物が窓から垂れ、路地の奥からピザの匂いがする。
ナポリからローマへ。ローマからフィレンツェへ。列車の窓からトスカーナの丘陵が見えた。緑と茶色の畑が交互に続く。糸杉が点在する。絵葉書のような風景だが——絵葉書よりずっと広い。
コロッセオに立った。
巨大な円形闘技場。二千年前、ここで剣闘士たちが戦い、猛獣と闘い、血を流した。十二の功業の英雄も——おそらくこの時代を知っている。ギリシャの英雄がローマに伝わり、ヘルクレスと名を変え、力の象徴として崇められた。
石段に座って、ジェラートを食べた。ピスタチオ味。甘い。
甘いもの、は——好きだ。いつからだろう。バグラヴァを初めて食べた日からかもしれない。あの甘さは忘れられない。泣きそうになるほど甘かった。
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フランス。
パリ。
寒かった。二月のパリは冬木と同じくらい寒い。コートの襟を立て、マフラーを巻き、白い息を吐きながらセーヌ川沿いを歩いた。
昼食は、路地裏の小さなビストロに入った。席に着くと、隣のテーブルにおじいさんが座っていた。白髪で、鼻が大きくて、目尻に深い皺がある。ワインのグラスを傾けながら、新聞を読んでいた。
オニオングラタンスープを頼んだ。
運ばれてきた器は——熱かった。焦げたチーズが器の縁にこびりついて、その下からスープの湯気が立ち上っている。スプーンで崩すと、とろとろに煮込まれた玉ねぎが現れた。甘い。飴色になるまで炒めた玉ねぎの甘さ。チーズの塩気。パンがスープを吸って柔らかくなっている。
おいしい。
体の芯が温まった。冬の寒さが、スープ一杯で溶けていく。
「美しいお嬢さん」
隣のテーブルのおじいさんが声をかけてきた。フランス語。フランス語は——わかる。アインツベルンの教育に含まれていた。
「旅行かい?」
「ええ」
「一人で? お若いのに大胆だ。もうルーブルには行ったかい?」
「まだです。明日行こうかと」
「そうかい。なら月曜は避けなさい、休館日だから。それとね、モナ・リザの前は混むから朝一番に行くんだよ。開館と同時に入って、まっすぐ行けば人が少ない」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。いい旅をね、お嬢さん」
おじいさんはワインを飲み干し、新聞を畳んで立ち去った。会計を済ませるとき、ウェイターが言った。
「あのムッシュー、毎日来てるんですよ。毎日同じ席で同じワインを飲んで、若い旅行者に話しかけるんです」
赤い目が瞬いた。
「寂しいんですか」
「さあ。でも楽しそうですよ、いつも」
ルーブルには火曜日に行った。おじいさんの助言どおり、朝一番に。モナ・リザの前は——それでも人がいた。だが見られた。小さな絵だった。思ったより、ずっと小さかった。
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イスタンブール。
西洋と中東の境界。
空港から市街に出たとき、空気が変わったのを感じた。パリともローマとも違う。乾いていて、甘くて、どこか懐かしい匂いがする。スパイスの匂い。焼いたパンの匂い。そして——祈りの声。
アザーンが聞こえた。尖塔から流れる呼びかけ。夕暮れの空に響いている。
スルタンアフメト・モスクに入った。靴を脱ぎ、スカーフを借りて頭に巻いた。中は——広かった。天井が高い。青いタイルが壁面を覆い、ステンドグラスから光が差し込んでいる。
西洋の教会とも、日本の寺院とも違う。西洋と東洋が混ざり合った空間。キリスト教の大聖堂だった建物がモスクになり、モスクの横にバザールがあり、バザールの先にヨーロッパ風のカフェがある。
全部が混ざっている。境界がない。あるいは——境界そのものが、この街の本質なのかもしれない。
ボスポラス海峡のクルーズ船に乗った。
甲板に立って、海峡を見た。右がヨーロッパ。左がアジア。二つの大陸の間を、船が滑るように進んでいく。海は青くて、風が冷たくて、カモメが船の周りを旋回していた。
あの王は——この海峡を知っていただろうか。十二世紀のスルタンは、ここを通ったことがあるだろうか。おそらくない。あの人の領土はもっと南だった。エジプト、シリア、イラクの一部。でも——この海峡の東側に広がる土地は、あの人が守ろうとした世界の一部だった。
船が港に戻る頃、日が沈みかけていた。海峡の水面が、オレンジ色に染まっていた。
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イラン。シリア。
巨人の足跡から、王の足跡へ。
テヘランからダマスカスへ。バスと列車を乗り継いで。国境を越えるたびに風景が変わった。イランの高原、シリアの砂漠、そして——ダマスカスの古い街並み。
ダマスカス。世界最古の都市の一つ。
あの王はここを拠点にした。ここからエルサレムを奪い返し、ここで軍を率い、ここで病に倒れ、ここで死んだ。
ウマイヤド・モスクの傍を歩いた。その近くに——サラディン廟がある。あの王の墓。入れるかどうかわからなかったが、入れた。
小さな廟だった。質素だった。征服者の墓としては驚くほど質素で、華美さがない。木製の棺。格子越しに見える内部。ドームの天井。静かだった。
白い髪の少女は——しばらく、そこに立っていた。
何も言わなかった。何も思わなかった。ただ立っていた。
帰り際、路上の花売りからジャスミンを一輪買って、廟の門の傍に置いた。誰かが踏むかもしれない。風で飛ぶかもしれない。でもいい。置きたかった。
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エジプト。
カイロ。
次はエジプトだった。サラディン城塞を外から眺めた。
城塞は開いていた。チケットを買い、石段を上り、城壁の内側に入った。
広かった。
中庭があり、モスクがあり、回廊があった。石造りの壁が日差しを受けて黄金色に輝いている。望楼に上がると——カイロの街が一望できた。ナイル川の蛇行。市街の雑踏。砂漠の地平線。
こんなものを守ろうって言うんじゃ、頭使うわよね。この広さを。この街を。この国を。
城塞の石壁に手を触れた。警備員の目を盗んで。八百年の石は熱くて、固くて——生きていた。この壁の中で、あの人が書類を読み、命令を出し、茶を飲んだ。
別の場所にも行った。
マイモニデスのシナゴーグ。ユダヤ教の祈りの場。カイロの旧市街にひっそりと建っている。観光客はほとんどいなかった。あの王の侍医——ユダヤ人の大学者が祈りを捧げた場所に由来する建物。
質素だった。ダマスカスの廟と同じように。飾り気がなく、小さく、古い。壁は白く塗られ、窓からの光だけが室内を照らしている。
だが——不思議な力を感じた。
魔力ではない。魔術的な気配は何もない。ただの古い建物だ。それなのに——ここに立っていると、何かに見守られているような感覚がある。八百年前、ここでユダヤ人の医師が祈り、イスラムの王に仕え、宗教の壁を越えて人を癒した。その記憶が——壁に染みついているのかもしれない。
白い髪の少女は目を閉じた。祈る宗教を持たない。アインツベルンの教えに祈りはなかった。でも——目を閉じて、静かに、立っていた。
シナゴーグを出ると、通りで声がした。
「One dollar! One dollar!」
行商の男が駆け寄ってきた。手に革製のブレスレットを何本もぶら下げて。
「No thank you」
「Very cheap! One dollar!」
「いらないよ」
日本語が出た。行商は首を傾げたが、笑って去っていった。
通りを歩いていると——カフェの前で、音が聞こえた。
弦楽器の音。ウードだろうか。それとも別の何か。乾いた、温かい音色。リズムを刻む太鼓。そして——歌声。アラビア語の歌。意味はわからない。でも旋律が体に入ってきた。
白い髪の少女は立ち止まった。
カフェの中で、三人の男が演奏していた。一人がウードを弾き、一人が太鼓を叩き、一人が歌っている。客は五、六人。みんな茶を飲みながら聴いている。
少女はカフェに入った。席に座り、茶を頼んだ。砂糖を二杯入れた。
演奏が一曲終わった。拍手。少女も手を叩いた。ウード弾きが少女を見て、にっと笑った。白い髪が珍しかったのだろう。
もう一曲。もう一曲。
三曲聴いて、いくらか紙幣を演奏者の前の瓶に入れた。ウード弾きが手を胸に当てて頭を下げた。感謝の仕草。
カフェを出るとき、砂糖二杯の茶の甘さが、口に残っていた。
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リビア。
砂漠の都市。レプティス・マグナ。
ローマ帝国の植民都市の遺跡。だがそれよりも古い歴史がある。フェニキア人の痕跡。地中海を渡り、交易路を拓き、文字を発明した海洋民族。ギリシャよりも前に、ここに都市を築いた人々。
巨人の英雄は——ヘスペリデスの園を求めてこのあたりを通ったと伝えられている。十二の功業の一つ。黄金の林檎を取りに、世界の果てまで旅をした。
遺跡の円形劇場に座った。石の客席が半円形に並んでいる。舞台は砂に埋もれかけている。二千年前、ここで演劇が上演された。観客が笑い、拍手し、帰路についた。
「どこから来たんだい?」
声がした。振り返ると、遺跡の管理人らしき男が立っていた。日に焼けた顔。人懐っこい笑み。
「日本から」
「日本! 遠いところからよく来たねえ! 一人?」
「一人」
「一人で! すごいな! うちの娘も旅が好きでね、去年トルコに行ったんだよ。写真見るかい?」
「見る」
管理人はスマートフォンを取り出し、娘のトルコ旅行の写真を十五枚見せた。ボスポラス海峡の写真があった。少女がつい先日見た景色と同じだった。
「きれいだね」
「だろう? 今度は日本に行きたいって言ってるんだ。桜がきれいなんだろう?」
桜。
その言葉に、一瞬だけ——胸の奥が動いた。
「きれいだよ。春に来るといい」
管理人は握手を求めてきた。手を握ると、力強くて、温かかった。
「いい旅をね! また来てくれ!」
リビアでは、どこに行っても人が話しかけてきた。市場で迷えば道を教えてくれ、カフェに入れば茶を奢ってくれ、写真を撮れば一緒に写ろうと言ってきた。
楽しかった。
人が好きだ、と白い髪の少女は思った。城の塔で毛布にくるまっていた頃には、想像もしなかったことだ。
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ポルトガル。
ユーラシア大陸の西の果て。ロカ岬。
風が強かった。大西洋の風。ヨーロッパのどの風とも違う。塩辛くて、激しくて、大陸の終わりを告げる風。
岬の先端に立った。足元は断崖。その下に大西洋が広がっている。水平線の向こうには何もない。アメリカ大陸があるはずだが、見えない。ただ——青い水が、どこまでも続いている。
白い髪が風に舞った。目を細めた。赤い瞳に、夕日の光が差し込んだ。
クレタ島から始まった旅。イタリア、フランス、イスタンブール、イラン、シリア、エジプト、リビア。巨人の足跡と、王の足跡。二つの道を辿って、大陸の西の端まで来た。
ここに立って——何を思うだろう。
巨人なら、黙って海を見つめるだろう。何も言わず、何も語らず。固くて冷たい手で、岬の岩を掴んで立つだろう。
王なら——風の匂いを嗅ぐだろう。この風がどこから来て、どこへ行くのか。この海の向こうに何があるのか。砂漠の民には海は遠い。だからこそ——この広さに、目を細めるだろう。
どちらの感想も、白い髪の少女のものではなかった。
少女の感想は——。
「寒い」
それだけだった。
コートの前を合わせて、岬を後にした。
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ロンドン。ヒースロー空港。
到着ゲートを出ると、人の波があった。迎えの家族。タクシーの運転手。観光客。ビジネスマン。みんなが誰かを探している。
白い髪の少女も——探した。
見つけた。
到着ロビーの柱の傍に、三人の姿が見えた。
赤い髪の青年。背が伸びていた。日本を出た頃より少し日に焼けている。手にはコンビニの袋。中身はおそらく——おにぎりか何か。この人はいつでも食べ物を持っている。
黒い髪の女性。髪が少し伸びて、後ろで一つに纏めている。眼鏡はかけていない。表情は変わらない。切れ長の目。理知的な顔。でも——口元が少しだけ緩んでいる。
紫色の髪の女性。少し痩せた。でも顔色はいい。左手首に——小さな黄色い石のブレスレット。あの石。八百年前の城塞の欠片。
三人が同時にこちらを見た。
「どうだった?」
赤い髪の青年が聞いた。
白い髪の少女はリュックサックを背負い直した。クレタ島の塩。ローマのジェラートの記憶。パリのおじいさん。イスタンブールの海峡。ダマスカスの廟。カイロの城塞。マイモニデスの祈りの場。砂糖二杯の茶。リビアの管理人の握手。ロカ岬の風。
全部を詰め込んだリュックサックは——軽かった。
「いい旅だったわ」
紫色の髪の女性が一歩前に出た。少女の顔を覗き込んだ。
「体調は大丈夫そうですね」
白い髪の少女は——半眼になった。
「会うたびにそれね。もう何年経ってると思ってるの。今さらどうってことないわよ」
紫色の髪の女性は微笑んだ。あの頃より——少しだけ、笑うのが上手になっていた。
黒い髪の女性が腕を組んだ。
「ロンドンにようこそ」
白い髪の少女は三人を見た。
赤い髪。黒い髪。紫の髪。三人とも——大人になっていた。背が伸びて、顔つきが変わって、声が少し低くなって。でも目は変わらない。あの冬の夜、石段に四人で座ったときと同じ目。
「ありがとね」
四人は到着ロビーを歩き出した。
ロンドンの空は曇っていた。灰色の雲が低く垂れ込めている。でも——雨は降っていなかった。
四人の足音が、空港のタイルに響いていた。
これにて完結です。
最後までお付き合いいただき、
ありがとうございました。