フリーレン一行が、あの奇妙な魔族を連れて大陸魔法協会を去ってから数時間後。
オイサーストの空は白み始め、夜明けの冷たい風が荒野を吹き抜けていた。
協会のバルコニーから、彼らが消えた北の街道を静かに見下ろしている大魔法使いゼーリエの背中に、一級魔法使いのレルネンが恭しく声をかけた。
「ゼーリエ様。……よろしかったのですか」
「何がだ」
「あの魔族のことです。フリーレン様が監視についたとはいえ、我々の技術体系にまで干渉したイレギュラー。本来であれば、ここで確実に塵にしておくのが魔法協会の総意であったはずですが」
レルネンの問いに、ゼーリエは夜明けの空から視線を外さず、ふっと鼻で笑った。
「レルネン。お前には、奴がただの魔族に見えていたか」
「……と、仰いますと?」
「私はあいつを地下牢に繋いだ日、あいつの脳を直接探り、記憶の深淵を見た。……ひどく奇妙で、魔法の欠片もない、鉄とコンクリートで出来た無味乾燥な世界の記憶をな」
レルネンは僅かに目を見開いた。
「驚くべきことに、奴の言う『異世界から来た』という戯言は事実だった。魔族の肉体という器に、あの泥臭い人間の労働者の魂が、何かの拍子に迷い込んだだけだ。本質的には、奴は人間と何も変わらん」
「なんと……。では、なぜあのような非道な扱いを? 左角を切り落とし、地下最下層に幽閉し、死の恐怖で脅しながら技術を搾取し続けるなど……。相手が中身の人間だと知っていたのなら、あまりにも残酷な仕打ちではありませんか」
ゼーリエはくるりと振り返り、レルネンを冷徹な黄金の瞳で見据えた。
「この世界の理(ことわり)を教え込んだまでだ」
「理……」
「あの能天気な魂で、魔族の体を持ったままこの世界を歩いてみろ。いずれ、名誉を求める三流魔法使いか、身内を殺された戦士に見つかり、有無を言わさず討伐されて終わりだ。多少警戒はしてたようだが、それにしても、奴はあまりにも、この世界の『種族の断絶』に対する危機感が足りていなかった」
ゼーリエの言葉に、レルネンは息を呑んだ。
大魔法使いは、あの男から技術を搾取するためだけに幽閉したのではない。外に出れば即座に殺される「魔族という肉体の呪い」から、彼を物理的に保護していたのだ。協会本部の地下最下層という、世界で最も安全な檻の中で。
「奴は運がいい。この世界で一番最初に奴を見つけ、生け捕りにしたのが私だったのだからな。私が角を折り、絶望を与えなければ、奴はいつか不用意に人間に近づき、無惨に殺されていただろうよ」
「……ですが、それならば。真実を告げ、協会で正式に保護するという道もあったはずです」
レルネンのもっともな疑問に、ゼーリエはひどくつまらなそうに、しかしどこか優しさを孕んだ声で答えた。
「『魔族に優しい魔法使い』などがいる、という『ふざけた幻想』を持たせないためだ。……判るだろう、レルネン。人間と魔族は決して相容れない。奴は、その姿で生きる限り、常に人間から恐れられ、石を投げられる覚悟を持たねばならん。私が最大の『理不尽な恐怖』として君臨することで、奴は一生、気を抜かずに、生き延びる術を考えることが出来るだろうよ」
―――そして、あのお人好しのエルフになら、その手綱を任せてもいい。
ゼーリエはそう言わんばかりに、再び北の空へと視線を向けた。
「――ゼーリエ様は、本当に不器用なお方だ」
「何か言ったか、レルネン」
「いえ。……夜明けの風が冷え込んできました。中へ戻りましょう、と」
■
「うおおおおーっ!? 嬢ちゃん!? 無事だったのか!?」
商業都市の裏通り。荷馬車の前で荷下ろしをしていた行商人のバーンズさんは、私の顔を見るなり、積荷を放り出して素っ頓狂な声を上げた。
ゼーリエに与えられた『幻影魔法の指輪』のおかげで、今の私は欠損した左角が完全に隠蔽され、魔族特有の淀んだ魔力も消えている。バーンズさんの目には、以前と変わらない――いや、地下牢での徹夜作業がたたって少しだけ目の下にクマを作った、「普通の小柄な人間の少女」として映っているはずだ。
「お久しぶりです、バーンズさん。色々と事情があって、今はこんな感じで……その、出張労働みたいなことになってまして」
「いや事情が複雑すぎるだろ!」
目を白黒させるバーンズさんの声を聞きつけ、裏通りの奥から大家のお爺さんと、跳ね猪亭の女将・マルタさんが慌てて飛び出してきた。
「おやまぁ! 店主ちゃんじゃないか! 生きてたんだねぇ!」
「大家さん、マルタさん……」
見慣れた裏通りの景色。埃っぽくて、色んな匂いが混ざり合った、私の「異世界スローライフ」の原点。懐かしさに鼻の奥がツンとしていると、私の背後に立っていた白いトーガのエルフ――フリーレンが、ひょっこりと顔を出した。
「この子はね、今度から私たちの旅に同行することになったんだ。すごく優秀な職人さんだから、私が魔法協会から特別に引き抜かせてもらったんだよ」
「へぇ! あの協会の一級魔法使い様たちが血相変えて持っていくほどの腕だ、そりゃあ伝説のエルフの魔法使い様も放っておかないわな!」
バーンズさんは一人で勝手に納得したように膝を叩き、豪快に笑った。
ゼーリエが張ってくれた「国家転覆レベルの危険物」というカバーストーリーは、フリーレンという大物魔法使いが介入したことで、彼らの中で「すげぇ腕のいい職人の嬢ちゃんが、偉い人にスカウトされた」という、とても平和なサクセスストーリーへと上書きされたようだった。
「でも、寂しくなるねぇ。あんたの作ったお鍋や小袋、今でも大活躍してるんだよ」
マルタさんが、少しだけ寂しそうに目を細める。
「……あ、あの!」
私はたまらず、一歩前に出た。
「マルタさん。私、この街を出る前に、どうしても……もう一度、マルタさんの作ったシチューが食べたくて」
マルタさんは一瞬きょとんとした後、パッと顔を輝かせた。
「なんだい、そんなことかい! 任せときな、ちょうど仕込みが終わったところだよ。あんたが残してくれたあのお鍋のおかげで、今日も熱々だからね!」
数分後。跳ね猪亭の使い込まれた木製テーブルには、湯気を立てる山盛りのシチューが並べられていた。私と、フリーレン、フェルン、シュタルクの四人でテーブルを囲む。
「いただき、ます」
木のスプーンで、とろとろに煮込まれた肉と野菜を掬い、口に運ぶ。
―――熱い。そして、涙が出るほど美味しい。
それは、高級なレストランの味でも、魔法で精製された味でもない。汗水流して働く街の人々のための、塩気と旨味がたっぷり詰まった「労働者のための味」だった。
「……うまい」
ボロボロと涙をこぼしながらシチューを頬張る私を見て、フェルンがそっとハンカチを差し出してくれた。
「ゆっくり食べてください。時間はたっぷりありますから」
「そうそう。これから北側諸国を歩くんだから、しっかり体力つけとかなきゃな」
シュタルクが笑いながら自分のパンをかじる。
「うん。美味しいね。店主さんの作ったお鍋が、いい仕事してる」
フリーレンも、目を細めてシチューを味わっていた。
前世では、常に納期と仕事に追われ、深夜に一人で冷たいコンビニ弁当ばかりを食べていた。
転生してからは、魔族として生き残るために必死で、心を休めて食事をしたことなんて一度もなかった。
でも今は、違う。
私の隣には、私の作った「無駄」を肯定してくれた魔法使いがいて。目の前には、私の作った「便利さ」で温かさを保ったシチューがある。
(……悪くないな。年中無休の、異世界出張労働も)
私は涙をゴシゴシと袖で拭い、前世からずっと変わらない、でも今までで一番自然で嘘のない「最高の笑顔」を浮かべた。
「マルタさん、おかわり! 大盛りでお願いします!」
「はいよ! たっぷりお食べ!」
冷たい地下牢獄から抜け出した、一人の社畜と魔法使いたちの新しい旅が、この温かい食卓から、今、始まるのだった。